超短編小説

浮気

浮気
「違和感、ていうのかな、その夜、あの人いつも以上に疲れた顔をしてたの。まだ起きてたんだ、なんてちょっと残念そうな感じでお弁当箱を私に手渡した時の表情は、目の下に隈ができてて、まるで視点が定まっていなかった

 雨の中傘もささずに歩いてきたかと思うくらい、髪の毛も湿っていて。生まれつきの癖毛だから、濡れると先の方からくるくる巻き上がってくるの。でもその日は朝からさらっとした気持ちのいい一日だったはず。
 着ていたもの全部洗濯機に放り投げて、あの人はシャワーを浴びた。服を脱いでる時、私のことなんて一度も見ようとはしなかった。どうしてそんなところで突っ立って見てるんだ、と怪訝そうな顔してた。 私はただ、息子が学校から泣いて帰ってきた顛末について話がしたかっただけ。最近、まともに話をする時間が全然なかったから。深夜に帰ってきては直ぐに寝てしまうし、早朝に家を出てしまうし。こうして面と向き合える時間は、短時間であってもとても貴重な時間だったから。
 でもなるほどね、不機嫌な理由が分かった。男の人は、後ろめたいことがあると、妻の顔をまともに見ることができなくなるんだね。確かについ今しがたまで浮気相手に相まみえていた下着をじろじろ見られたら、それは生きた心地はしないわよね。でもだって、まさか浮気して帰ってきたなんて思ってもみないから。
 他にもね、おかしな所はあった。飲み会だったはずなのに、お酒の匂いが全くしないとか。お酒は飲むより飲まれることの方が多い人なのに、飲み会の日はどろどろになって帰って来るはずなのに、その日はお酒の香りも煙草の香りも全くしなくて。
 シャワーの流れる音を外で聞きながら、私はワイシャツをこっそり広げてみた。もちろん普段はそんなことしたこと一度もないけれど、凄く胸騒ぎがしたから。その日は薄いピンクストライプの入った白地のボタンダウンシャツだったけれど、案の定、肩にファンデーションのこすれたような染みがぼんやりあるのを見つけたの。くしゃくしゃ丸めて顔を埋めてみると、あの人のいつもの体臭とは違った別の匂い、うん、香水や化粧品の入り混じったような? 人より鋭い嗅覚の持ち主だなんて思ってないけれど、間違いなくそれは女の匂いだった。

 お弁当箱を洗いながら、私の意識は遠いどこかに飛んでいた。最初に感じた違和感が、少しずつ確信に変わった。水量が余りにも強過ぎて、台所が水浸しになっていることすら気がつかなかった。 水を止めて、私はあの人の部屋に向かった。水筒を出し忘れていると思ったから。ビジネスバックを開けると、水筒の下敷きになるように、レシートが一枚出てきて。「マツモトキヨシ」と書かれた明細部分に、お茶、リップクリーム、そして「オカモトスキンレス」なんて言葉が。中の小さなポケットやチャックを開けて探してみたけれど、現物を見つけることはできなかった。 でも、これは決定的な証拠。あの人とはもう何年も関係を持っていないから。今更、私たちに必要なものだとは思ってない。充電器に繋がれたスマートフォンにはロックがしてあって中を見ることはできなかった。ロックなんてどうして必要?
 これ以上、もうどこにも逃げられない。シャワーの音が止んだから、私はそのままレシートを鞄の奥に戻して、何事もなかったように部屋を出た。
 自分の旦那が浮気するなんて、本当に驚きだった。まさかだった。確かに最近スマートフォンを片時も離さないようになったとか、飲み会の帰りがいつも終電だとか、思い返してみたら、変わったことはいくつもあったけれど。
 だからといって、私はあの人の不貞を直ぐに攻めたてる気持ちにはならなかった。それは、これまでの私に対する愛情、息子に対する愛情、家事の手伝いや身体の不自由な私の両親への気遣いなど、本当に献身的にやってきてくれたから。嫌な仕事でも安い給料でも文句の一つも言わず、この十年間本当に頑張ってくれてたから。尊敬こそすれ、失望や幻滅することなんて一度もなかった。私の言うこと何でも聞いてくれるし、私が幸せを感じることが俺の幸せだから、なんて中々面と向かって言える言葉じゃないでしょ?
 そんな真面目一筋の彼を、偽善者だとか、面白みがないとか、刺激がないなんて言ったら罰が当たる。他の知り合い夫婦の悩みとか良く聞いてるけど、旦那のことを手放しで褒める人なんて本当にいない。いつも不平不満、愚痴ばかり。だから私は恵まれてるんだなって常々思ってきた。

 そんな彼がたったの一度、うん、もちろんこれが初めてだったらということだけど、浮気をしたからといって、一体誰が責められるっていうの?
 仕事をしていれば、社会に出ていれば、家庭でのほほんとしている私なんかじゃ想像もつかないストレスがあるんだと思う。全てに完璧を求めてしまうのは簡単だけど、あの人だって生身の人間、そんなにうまくいくことばかりじゃない。私じゃ解消してあげることのできない欲求不満を外に求めるのは、至って当然のことだって思う。
 私、物分かり良過ぎかな。もちろん旦那の浮気を黙って受け入れる甲斐性のある女だなんて自慢してる訳じゃないの。至って自然な感情なの。 おかしな話かもしれないけど、浮気してもらって良かったとさえ思ってる。そのまま職場でも家庭でも自分を押し殺して生きていたら、遅かれ早かれ参ってしまってたと思う。あの人は決して弱い部分を家族に見せようとしないから。壊れてしまう前に、外で発散できる場ができたことに感謝の念さえ感じてしまう。どのようなお相手なのかはこの際どうでもいい。コンドーム買うくらいだから避妊もきちんとしているみたいだし。
 結局は、私が彼の欲求を満たせてあげられていないのが原因なんだから。それは本当に申し訳ないと思ってる。いつからそうなってしまったのか考えてみたけれど、多分、あなたと出会った頃とそう離れていない気がする」

 そこまで一息に喋り終えた女の背後から、男は腕を前に回して女の背中と自身の胸を密着させた。女は男の腕を引き寄せ、日常生活の中では決して触れることのない、細くてしなやかなその指先にキスをした。 教訓。コンドームは女が買わなくちゃ駄目、その時女は心の中で固く誓っていた。(了)


2014-05-05 | 超短編小説No Comments » 
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