超短編小説

潜る妻。


潜る妻


 妻が潜り始めたのは、一週間程前からでした。いや、それは私が初めて目にしたというだけで、本当はもっと以前から、妻は潜っていたのかも知れません。
 その日、私は夜に予定されていた接待がキャンセルとなり、急遽帰宅することになった旨妻にメールを入れましたが、いつもなら直ぐにあるはずの返信がなく少し胸騒ぎを覚えていました。
 家に着くと、妻のパンプスもあり、台所からカレーのいい匂いがしていましたので、夕食の支度で気付いていないのだと思い、そのまま鞄を置いてシャワーを浴びました。何せ記録的な猛暑、駅から五分も歩けば汗だくでしたので、妻の様子を見るより一刻も早く冷たいシャワーを浴びたかったのです。
 浴室から出ると、妻の姿は台所にはありませんでした。居間や和室、トイレにも見当たらないので娘の勉強でも見ているのかと子供部屋にも行ってみましたが、娘は「知らない」と顔も上げず怒ったように言いながら、ゲームに熱中していました。パンプスはやはり帰宅した時と同じように玄関に並んでいます。私はパンツ一枚で自分の部屋やベランダまで見て回りましたが、妻はどこにもいませんでした。
 日頃は顔を合わせれば喧嘩ばかりの妻ですが、鍋は火にかかったままですし、トマトも切りかけの状態で、その場に妻がいないことはとても不自然でした。
 と、私はキッチンマットの奥の「可燃用ごみ箱」がある辺りに、何か突き出した棒状のものがあることに気付きました。最初、それは牛蒡のようにも見えましたが目を凝らして良く見ると、立派な「シュノーケル」でした。床から十センチ程先端が突き出し、時々ぷしゅっと水を噴き出しながら、フローリングの部分を選ぶようにゆっくり潜行していました。肉眼で見えるのはシュノーケルだけで、その床との境目から下の部分については何も見えませんでした。ただ、見慣れた平板な台所の床があるだけでした。
 やがてシュノーケルは私の足元を掠めて、ダイニングのテーブルの足元を通過し、和室にある妻の三面鏡の前で、すっと音もなく床下に消えていきました。
 その時、私は確信しました。潜っていたのは妻だと。既に二十年も一緒に同じ屋根の下で暮らしている訳ですから、感覚で分かるのです。脳が直感すると言いますか、理解する前に感じているのです。
 その証拠に、シュノーケルが消えた後、台所には妻がいて、トマトの輪切りを再開していましたから。
「ただいま」と私は何事もなかったかのように言いました。
「おかえりなさい。もうちょっと待ってて」
 妻も何事もなかったように、あっさり受け流しました。髪の毛が、汗なのか潜ったせいなのか、酷く濡れていました。でもその表情と言い方には、どことなく面倒で迷惑な感じが滲み出ていました。
 それからというもの、妻は私とつまらぬことで口論になったり、娘のテストの結果が良くなかったり、パートタイムでストレスが溜まったりする度に、シュノーケルを咥えて自宅で潜るようになりました。
 妻の声が聞こえなくなったり、気配がなくなったりした時は、大抵家のどこかをシュノーケリングしていました。
 もっとも、家事を放棄されたり、家出されたりするよりはましなので、私もそういう時は、妻が気分良く潜っていられるよう、新聞を片づけたり、洗濯物を畳んで箪笥にしまったり、なるべく障害物を取り除くよう努めました。
 そうこうしている内、やがて妻は一日の大半を潜って過ごすようになりました。必要最低限の用事を済ますと、それ以外の時間は床下シュノーケリングを満喫していました。
 真夜中にも、むくっと起き出して、夢遊病者のようにふらふらキッチンに向かうと、どぷん、という音と共に地面に消えていきました。潜る瞬間を見たことはありませんが、どうやらキッチンの一角に、そのダイビングスポットがあるようです。
 真夜中の暗闇の中を、シュノーケルの先端だけが音もなく移動している様は奇妙な光景ですが、それも慣れてしまえば何という事のない日常風景です。
 娘? 娘は妻にもシュノーケルにも全く興味なんてありませんから。彼女が興味あるのはタピオカのドリンクとゲームだけですから。
 それにしても、一体、床下にはどんな世界が広がっているのでしょう。これは妻にしか分かりません。私が潜りたくても潜る術を知らないのですから。
 一度妻に聞いてみようと思ったことがあるのですが、それは決して聞いてはいけない秘密のような気がして、ついためらってしまいます。勝手に相手の携帯メールを覗き見るような。タブーといいますか秘密と言いますか。もっとも術を知ったところで、恐らく私にはシュノーケリングは無理かと思います。昔から水泳は大の苦手なんです。
 そして一昨日、ついに妻が自宅からいなくなりました。

 明け方、トイレ付近を潜っていたところまでは確認していましたが、その後私が再び目覚めた頃には、もう妻はいませんでした。「もっと充実した素潜りライフを」と思いこっそりクローゼットに隠しておいたゴーグルとフィンも、一緒になくなっていました。
 これには参りました。潜ることはあっても、自宅から外に出ていくことはありませんでしたから。今妻にいなくなられては困るのです。いくらあんな娘でも、母を失うにはまだ小さ過ぎます。そもそもなぜ妻が「潜る」ことになったのか、その理由について私はもっと深く考えてみるべきでした。潜ることを黙認し、詮索しないことを是とし、ひいてはその環境さえ整えようとばかりに目が向いていました。
 それは恐らく間違っていたのでしょう。妻は好きで潜っているのではない。「潜らざるをえない」から、やむを得ず「潜っていた」のだと。
 ちゃんと妻と話がしてみたい。意地を張らず、駆け引きをせず、正直に気持ちを伝えたい。少しでも妻に近付こうと、私は新しい自分用のシュノーケルを一つ買いました。そしてキッチンのどこかにあるはずの秘密の隠し穴を探しているのですが、これが中々見つかりません。
 妻じゃなければ無理なのかもしれない。でも私は諦めずに何度もダストボックスをひっくり返してみたり、米櫃の裏を探してみたり、冷蔵庫の中に入ってみたりといろんなことを試してみています。そうしている間に、妻がひょっこりまた戻ってきてくれるのではないかと期待して。
 皆さんの方でも、もし地面からにょっきりと突き出した、先端の赤いシュノーケルを町で見つけたら、至急私までご連絡ください。それは私の妻ですから。(了)


2014-06-06 | 超短編小説2 Comments » 

コメント2件

 ONE | 2014.06.27 10:53

有り得ないコトだけど、出来たらいいな…なんて。 妻と言う立場上、遣りたくても出来ないコトは多々…。 でも、それを言ったら家族を支える御主人にだって、諦めたり我慢したりしなきゃならないコトは多い筈で。 身勝手な奥さん!早くご主人の優しさに気づいて、戻ってきたら?と伝えたいですね。

 高橋熱 | 2014.07.14 5:26

oneさん、コメントありがとうございます。こちらもお返事遅くなってしまい失礼しました。自分だけが我慢しているわけじゃないと理屈では分かってはいるものの…。でもやっぱり、夫婦ですから、甘えたくもなるんですよね。
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