超短編小説

ボンレスの疾走

ボンレスの疾走
 彼女は同級生の子と比べて、人一倍太っていた。小学生にして、いわゆる肥満体質だった。色白な上に細かい血管がひび割れのように顔中に広がっていた。また着ているものが体の小さな姉からのお下がりだったので常に一サイズ小さめであり、余計に目立った。そのことで、クラスでは男子のみならず、女子からも馬鹿にされることがあった。
 ある日、メッシュに編み込まれたストッキングを学校に履いて来た時、男子の誰かが「ハムみたい」と言ってからかった。それ以来、彼女のあだ名は「ボンレス」になった。
 インターネットでその意味を知った時、彼女は正直ショックだったが、親を怨むことはなかった。なぜなら、親は両方とも痩せていた。太っているのは、自分が食事をコントロールできないからなのだ。食べても食べても満腹感が感じられない。寂しくなると、体の底から「欲しい、欲しい」とたくさんの声が聞こえ、自分を脅迫してくるのだ。
 でもそれを家族の誰にも話すことはできなかった。両親も姉も、彼女が「太り過ぎている」ことを半ば放置していた。小言を言ったり強制的に食べ物を取り上げるなど干渉することもなかった。皆それぞれに忙しく、とても彼女の肥満に付き合っている余裕などなかった。
 そんな彼女にも、クラスで唯一、何かにつけ庇ってくれる男の子がいた。「のび太」というあだ名の付いたその男子は、いつもボンレスの側にいて、クラスメイトからの嫌がらせや誹謗中傷を共に受け止めた。
 そのことで、のび太自身が苛められることもあった。彼自身も度の強いメガネを掛けていることでからかわれることがあったので、ボンレスの気持ちがよく分かった。
 しかし見た目と違って、のび太は脚が速くてすばしこく、運動は何でもこなした。加えて頭が良く、学年でもナンバースリーに入るほどのレベルだったので、一部の嫉妬深い男子を除いては、皆一目置いていた。
 何故彼が自分のようなデブで不細工で可愛気のない人間を相手にするのかが理解できなかったが、いつも声をかけてもらえたり、気が付くと側に居てくれるのび太の優しさに触れると、そんな理由などどうでもよく、気持ちがすっと晴れやかになるのだった。
 もっと自分が痩せていたら、もっと普通の女の子だったら、私と一緒にいることで苛められることもないのに、と思ったりもした。のび太から痩せるように頼まれたら、ひょっとしたら、頑張れるかもしれない、食べる量を減らすことができるかもしれない、と思った。それは紛れもなく「恋」に近い感覚だった。小学5年生、落ち葉も凍る冬のことだった。
 バレンタインデーの当日、ボンレスはどうにかして日頃の感謝をのび太に伝えたかった。大好きなミルクチョコレートに小さなメッセージカードを添えて鞄に忍ばせた。
 バレンタインと言っても、学校内でのやりとりは禁止だったが、放課後に渡せるチャンスがあるかどうかも分からないし、帰宅してからわざわざのび太の家に行って渡す、というのはとても勇気のいることだ。それ以前に、彼の家がどこにあるのかを知らなかった。
 そこで、彼女はこっそりのび太の机の中にチョコを差し入れる作戦に出た。体育の授業でみんなが一斉に外に出払った瞬間が唯一のチャンスだった。
 一番左の列の前から三番目。ブルーのアディダスのシューズケースが目印だ。ボンレスは最後の女子が教室を出ていった後、ランドセルからピンクのリボンのかかったチョコレートを取り出してのび太の机の中に押し込んだ。
 机の中にはたくさんの教科書やノートが入っていたので、少し端にスペースを作らなくてはいけなかった。改めて椅子をひき、教科書とノートを手でぐいっと寄せた。重ねられるものは重ねるようにした。
 心臓が途轍もない勢いで鳴っていた。何度も教室の入口と出口に目を向けた。もう少し小さな箱にすべきだった、と後悔した。
 突然、足音が聞こえ、立ち上がる間もなく、一人の男がボンレス目がけて突進してきた。
「何してんの、お前」
 呆然とするボンレスの肩に手を掛けて、桧山は机の中を探った。桧山はクラスでも一番彼女にきつく当たるいじめっ子だった。
 桧山に突つかれたボンレスはその反動で後ろに転がり、壁に背中と頭を強打した。目の前に、本当に星がいくつも散った。
「学校に持ってきちゃいけねえの知ってんだろ?」
 桧山は鬼の首をとったようにチョコを天空に掲げ、ボンレスを見下した。
「返して!」
 ボンレスは腹の底から叫んだつもりだったが、ほとんどかすれて叫び声にならなかった。
「ハムのくせに」
 一度、桧山はチョコを窓から放り投げる仕草をしたが、途中で何かを思いついたようにその動作を止めた。
「ちくってやる」
 机に何度もぶつかりながら、桧山は勢いよく教室を飛び出した。右手にはボンレスがのび太に渡すはずだった真っ赤な包装紙のチョコをしっかり握りしめて。
 ボンレスは痛い背中をよそに、直ぐに立ちあがって桧山を追った。昨日から心を込めて準備したチョコだった。大切なメッセージカードも入っていた。よりによって、一番見られたくない相手に見つかったことが、悔しくて悔しくてならなかった。何としても取り返さなければ、ということで頭が一杯だった。

 階段を駆け下りていく桧山の後ろ姿はあっという間に見えなくなっていたが、ボンレスは持てる力の限りを振り絞って、桧山の後を追った。
巨体ゆえ、走ると言う行為は大の苦手だった。階段をワンフロア降りただけで、呼吸するのがたちまち苦しくなった。全身に鋼鉄の鎧、両足には鉛の玉を引きずっているのかと思うくらい体は言うことを聞かなかった。
 しかし、そんなことより彼女の頭の中には今、奪われたチョコを取り戻すことだけしかなかった。それが全てだった。チョコは自分自身そのものだった。体がばらばらに壊れてしまったとしても、何としてでも桧山に追いつくこと、ただそれだけだった。
 上履きのまま、校庭に飛びだす桧山。後を追うボンレス。一度桧山は立ち止り、後ろを振り向く。少し遅れて、ボンレスがものすごい形相で駆けてくるのが見える。あんな顔のボンレスを見るのは初めてだった。
 それに、あの真剣な走り方。腕の振り方。桧山は一瞬ひるんだ。いつもとは違う気配を感じた。しかし、男として今更引き下がるわけにはいかなかった。
間もなくチャイムが鳴るはずだった。思い思い校庭に散らばるクラスメイトの側を、先生が横切っていった。ボンレスと桧山の距離は次第に縮められていった。もう十メートルを切っていた。ぜい、ぜいというボンレスの激しい呼吸音が、桧山の耳にも届いた。
 再び、桧山はものすごい勢いで駆け出した。今度は一度も後ろ振り返らずに。そうすれば、ボンレスが諦めてくれると思ったからだ。しかし、ボンレスの疾走は衰えることなく、むしろ速くなっていると思うくらい、一心不乱に桧山目がけて突き進んだ。
 手にはもうたっぷりの汗をかいているのが自身でも分かった。ちょっとでも立ち止れば、体中からどっと汗が吹く出してくるのも分かっていた。でも桧山に追いつくまでは、と憑かれたように走った。走った。人生でこれほど真剣に、これほど夢中に何かを追いかけたことはなかった。心臓は今にも喉から飛び出してきそうだった。膝の皿は割れ、背骨がぐしゃぐしゃに押し潰されてしまいそうだった。
 諦めようかと思う瞬間もあった。どこまでいっても、桧山に追いつくことは永遠にないんじゃないかと。しかし不思議なことに、これまで感じたことのないエネルギーが体に漲っていた。走れば走るほど、振り上げた手に比例するかのように、体が少しずつ軽くなってきているのが分かった。奇妙な感覚だった。
 桧山は何度も振り返った。振り返る度に距離は再び空けられた。しかしボンレスはいつまでもどこまでも追い続けた。
 間もなく、授業が始まろうとしていた。先生は何かの号令をかけたらしく、ほとんどの生徒はその周辺にまとまりつつあった。
 すぐ諦めると思っていたボンレスの執念に、桧山の気持ちは少し萎えた。真剣になられては面白くないのだ。どこまでも追われる以上、どこまでも逃げなくてはならなかった。何のために逃げているのか、と思うと、自分がきっかけを作ったとはいえ、馬鹿らしく思えてきた。教室に帽子を取りに戻っただけなのだ。その帽子も、結局今手元にはない。のび太のために準備されたチョコなど持っていても、何の役にもたたなかった。チョコをボンレスに返せば、全て一件落着となるはずだった。しかし、それは桧山自身の「負け」を意味することだった。
 放り投げることもできず、逃げることも止められない桧山は、クラスの集団を横切って、校門へ向かった。
 次の瞬間、桧山の脚ががくんと「くの字」に折れ曲がるや、その場に激しくもんどりうって倒れた。脚を挫いたのだ。その拍子に、手にしていたチョコレートの包み箱が前方に飛んだ。

 桧山は直ぐに起き上がろうとしたが、足首に尋常ではない痛みを感じ、直ぐにその場にへたりこんだ。骨が折れたと思うくらいの激しい痛みだった。その場でうずくまり、立ち上がることができなかった。
 ついに、ボンレスは桧山に追いついた。桧山はそのまま彼女をやり過ごそうとした。前方に転がったチョコを取りに行くと思った。しかし彼女は桧山自身の体に自らの全体重を乗せて倒れ込んだ。足首を抱え込む桧山の体を、大きなボンレスの体がすっぽり覆った。
 ぜいぜい、という喘息患者のような呼吸音。燃えるような体の熱。そして、汗。全てが桧山に預けられた。ボンレスは最後の力を振り絞って、桧山の顔を自分に向けさせた。真っ白な砂埃が湿った桧山の顔をまだらに覆った。桧山の左顎には、小さい頃、犬に噛みつかれてできた小さな線傷があった。桧山の風貌がどことなく威圧的で同級生から怖がられるのも、それが一因でもあった。

 涙が溢れてきた。一度流れ始めたら、もう止まらなかった。身動きの取れない桧山の顔にボンレスの涙が零れた。砂埃が涙で黒く変色した。桧山の顔は明らかに怯えていた。女性に恐怖を覚えた初めての瞬間かもしれなかった。
 泣いている顔を見せたくなくて、ボンレスは目をぎゅっと閉じ、項垂れた。ボンレスの額が桧山の鼻頭にぶつかり、ごん、という大きな音がした。呼吸はいつまでも整うことはなかった。
 ボンレスの中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。目の前の暗さを、暗いと認識することができなかった。目の前にいるはずの桧山が一度何か大きな声を出したような気がしたが、何と言ったのか分からなかった。
 二人の周りを大勢の生徒が囲んでいた。その中には、もちろん、のび太も含まれていた。桧山の鼻から流れた血が、顔に不思議な紋様を作っていた。ボンレスと桧山以外、この顛末の事情を知っているものはいなかった。もちろんのび太でさえ、桧山の腕の先に転がっている赤い箱に自分が関与していることなど知るはずもなかった。

「もう少し太った方がいいんじゃない?」と男は言った。
「太れないのよ」と女は洗濯物を畳みながら答えた。畳んだ側から、はいはいをした息子がその山をたちまち崩した。
「ま」と言って、女は別に怒る訳でもなく、むしろ嬉しそうに再び畳んで山を積み直した。
「いや、やっぱり、太った方がいいね。うん」と男は一人で勝手に頷いてマグカップを口に当てた。
「何よ全く。太ってた時は『もっと痩せろ』って言ってみたり。痩せたら痩せたで太れっていってみたり。勝手な人」
「俺は太ってる人が好きなんだよ」
 男はいつになく照れながら言った。
 結婚し、子供が生まれたのを機に、女の体重はみるみる痩せていった。元々ダイエットをしていたが、子供が生まれてから、更に急激に脂肪が落ちていった。男の方はむしろ結婚前より俄然体重は増えた。いわゆる「幸せ太り」という奴だ。事実、幸せだった。
 テレビでは、集団で縄跳びをする体操着姿の小学生の様子が小さな音で流れていた。女はふっと手を止め、しばらくテレビを眺めていた。
「体操着って、いつの時代になっても変わらないのね」と女は独り言を言うように呟いた。
「そうだね」と男も同じく独り言のように答えた。
 子供達を見ていたら、あの日、あの時のことが、男の頭に浮かんでいた。きっと妻もそうなのだろう、と男は思った。
「ねえ、あの頃の私のあだ名、知ってる?」
「そんなこと聞くなよ」と男はばつが悪そうに目を伏せた。
「答えてよ」
「答えてって」
「早く」
「ボンレス」
 そう言われても、女はにこにこと笑っていた。
「今はどう?」
「今?」
「うん」
「今は、もちろん、ボンレスじゃないよ。ゆうりん」
「ん? 聞こえなかった。もう一回」
「ゆうりん」
「よし」
 そう言って、女は再び手作業を再開した。登山前の持ち物を全て確認し終えたアルピニストのような期待と満足げな顔で。
「何だよ」と男は言って、息子をソファに下ろして女の膝枕に頭を落とした。
「ちょっと、あなた」と女はくすぐったそうに言った。
「ここが一番気持ちいい」
「全く、この家には息子が二人」
 女は息子にするのと同じような柔らかさで、男の頬を撫でた。
今までもたくさんのことがあったし、これからもきっと、たくさんのことがあるのだろう。
 髭の剃り跡でざらっとした男の肌を撫でながら、女は思った。男は今にも寝てしまいそうな気配だった。寝てしまっても構わない、と女は思った。
 自身では味わうことのできない、自身の膝枕。
 女は男の顎の傷の少しはずれた辺りに、小さくキスをした。(了)


2014-09-17 | 超短編小説No Comments » 
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