超短編小説

バレンタイン騒動

 

2849063
 家が不穏な空気に包まれていることは、帰宅して直ぐに直感した。娘の出迎えもなく、労いの声さえ奥から聞こえてこなかった。こういう時は大抵二人で風呂に入っていることが多いのだが、バスルームの引き戸は開いており電気も消えていたので、その可能性は否定された。
 自室に鞄を置き、コートとマフラーをハンガーに掛けてから、私は洗面所でうがいをした。これだけ生活音を出しているのだから、私の帰宅には気付いている筈だろうが、ここまで反応がないとなると、想像はより悪い方向に向かわざるを得なかった。
「もう何時だと思ってるの。そんなの今から無理に決まってるじゃない」
「できるもん。みんな同じじゃつまらないもん」
「いい加減にしなさい」
 洗面所とキッチンを繋ぐ扉の隙間から、腕を腰に当てて娘を見下ろす妻の姿が見えた。娘は髪を束ねて後ろで縛り、花柄のエプロンをしていた。妻の半分程の身長しかなかった。褒められる時は同じ目線まで下りてくれるから良いが、叱責される時は大抵上を見上げることになった。娘の大好きなアニメのエンディングソングが、リビングから小さく聴こえていた。
「買い出しから準備から自分じゃ何一つできない癖に注文ばかりなのよ、あなたは。一体誰の為のバレンタイン? わたしじゃないのよ? 一人でできないなら、最初から手作りなんて言わないで」
 語気はいつも以上に強かった。妻の目は娘の顔を厳しく捉えていた。背中越しに、娘が目を潤ませて委縮しているのが手に取るように想像できた。
「あなたは言えば何でも叶うと思ってる。自分の思ったことは全て形になると。ねえ、その為に、あなたの為に、わたしがどれだけ犠牲になってるか分かってる? ピンクのデコペンを買う為に、何軒のお店を梯子したのかなんて、あなたには関係ないことなのよ。言いたいことを言うだけ言って、何もしないあなたの為に、わたしがどれだけ苦労して時間を費やしてきたのかなんて、あなたは何も、何も」
 腕まくりをしたままの妻の唇は震えていた。妻自身が泣きそうだった。私は二人の応酬を前に、どう行動して良いのか分からなかった。自室に戻る事も着替える事も、二人から目を逸らす事も。
 毎年こうなることが分かっていながら、何故事前に対処できないのだろう。一体同じことを何年繰り返しているのか。いや、年を追う毎に状況は悪くなっている気がした。娘の交友関係が増えるにつれて、学年が上がるにつれて、チョコの種類も数量も手間暇も、以前とは比べ物にならない程増えていた。
 もちろん、買い出しは娘一人では無理だった。文句は言いながらも、最後は可愛い娘の為だから、と材料集めから作業の手伝いまで、バレンタインデーの数日前から妻は時間を割いた。
 そして、本番前日のチョコレート製作。お互い文句を言い合いながらもこれまでどうにか乗り切ってきたが、今回の妻の憤り方には、例年以上にただならぬ気配を感じた。これほどまで娘に不満をぶつける妻を、怒りをあらわにする妻を、私は見たことがなかった。
「もう、やるなら勝手にやりなさい。焼き菓子でもマカロンでも、何でも好きなようにやったらいいわ。その代わり、全部一人でやりなさい」
「できるもん。一人でできるもん」
「できる訳ないじゃない。どうしてそんないい加減なことが言えるの? オーブンは何度に設定して、どのダイヤル回せばいいのか分かってるの? バター五十グラムって、何を使ってどうやって計るの?」
「分かってるもん。本に書いてあるもん。バターはね、バターは」
「分かってる訳ないじゃない。出来る訳ないじゃない。やったこともないのに。結局、最後は、ママ教えてってなるのよ。そうなるのは、もう分かり切ってることなのよ。調子のいいことばかり言って、できないってなればいつも最後はそう。あなたはいつだってそうよ。わたしは召使いじゃないのよ? 言えばいつもその通りに動いてくれるなんて思ったら大間違いよ」
 その後、妻はしばらく口を閉ざした。顔は上気し、目の下には隈ができているように見えた。遂に娘はがくんと頭を垂れ、肩を落とした。ここまで言われたら、これまでの娘ならとっくに座り込んで泣きじゃくっている筈だが、今日だけは必死に堪えていた。
 キッチン台には、ハート形にくり抜かれたチョコレートが、トレイの上に均等に並べられていた。これで完成なのか、まだ飾り付けがあるのか、それは二人にしか分からなかった。
 随分、時が流れた気がした。三十秒。一分。二分。しばらくして、娘の鼻を啜る音が聞こえ、肩が小刻みに揺れた。フローリングの上に、娘の涙がぽつり、ぽつりと落ちた。妻も今は娘から視線を逸らし、三角コーナーの辺りを虚ろな表情で見つめていた。息をしている音も、唾液を呑み込む音も、何一つ聞こえなかった。目を開けているのに、眠っているようだった。もしかしたら、目を開けたまま本当に眠ってしまったのかもしれなかった。
 楽しいはずのバレンタインデーなのに。いつから、好きな男の子にチョコを渡して告白する行事ではなくなってしまったのだろう。これ以上、二人だけの問題にしてはいけない気がした。娘が耐えられないだろうと思った。
「ただいま」と私は引き戸を一杯に開けて、娘の背後から二人に近付いた。
「どうしたの」と私はあたかも今帰って来たばかりのように妻に聞いた。妻も娘も、その問いには何も答えなかった。どういう状況かは見れば分かるだろう、空気を読めと言わんばかりの緊張の糸が、私を含めた三人の間で均衡していた。
「もういい。後は勝手にやって。今後一切手伝わないから」と言って、妻は汚れた計量カップをシンクに放り、エプロンを外して和室の鏡台に座った。それからブラシで髪を梳き、髪留めで留めた。娘はその間も立ち尽くしたまま、同じ姿勢で涙を流し続けた。
 私と全く視線を合わせず、黙ったままメイクを始めた頃には、さすがにこのままではまずいと思い、妻と向き合う覚悟を決め、気持ちを切り替えた。
「もううんざり。綾にもあなたにも」
 十年分の溜息をつくように、妻は言った。とばっちりを受けるのは想定していたので、私は少しも驚かなかった。そうした言葉をいちいち気にしていたのは、三十代までだった。それ以降は受け流すことを覚えた。そうしないと、身も心ももたないと思った。私自身、妻をうんざりさせる要素は満載だった。
「一緒にいる時間が少ないことは、申し訳なく思ってる」と私は言った。「特に今月は」
「そんなことは分かってるわよ。仕事が忙しいなんてことは。だからせめて一緒にいる時ぐらいはって思うのが普通じゃない? なのにあなたはメールしたり電話したり。仕事かどうかなんて、わたしには分からない。あなたはこれっぽっちも家族のことなんて考えてくれない。わたし、何か間違ったこと言ってる?」
 妻にそう言われて、私はぐっと言葉を飲み込んだ。言いたいことは山ほどあった。自分だって休みの日まで仕事などしたくはなかった。でも仕方ないのだ。そうしなければ、休日明けはもっと悲惨なことが待ち受けていて、更に家族に迷惑を掛けてしまうことになる。なるべく家族のことを考えたいと思っている。しかし、いつもそこには仕事という真っ黒な雨雲が、当然の顔をして覆いかぶさってくるのだ。
 私は何も言えなかった。それが更に妻を苛立たせることになるのが分かっていてさえ。
「誰もわたしのことなんて考えてくれない。心配もしてくれない。わたしだけが、皆の心配ばかりしてる。何か馬鹿みたい。わたしばっかり馬鹿みたいじゃない。馬鹿にしてるのよ、わたしのこと」
「馬鹿になんてする訳ないだろう。どうしてそんな風に思うんだよ」
 我慢できず、私は妻にそう言った。
「誰もそんなこと思ってないよ。俺も綾も。結局、お前がいなければ何一つ出来やしない。助かってる。本当だよ。馬鹿になんてする理由がないよ。どうしてそんな風に考えるのか分からないよ」
「わたしは何の貢献もしていない。仕事もしてないから収入もない。だから、せめて家のことくらいちゃんとやろうって。お弁当も洗濯も掃除も。あなたはもっと手を抜いていいなんて言うけれど、そんなことできない。それしか、わたしの存在する価値がないから」
「価値なんてそんな。家を任せられることがどれだけ助かっているか、俺も綾も。綾だって、そんなこと言う訳ない。お前に頼らなければ何もできないのは分かってるし、当たり前なことだよ。ただ、まだ小学生だから、そういう感謝の気持ちが大人のように上手く表現できないだけだよ。なあ、そんな風に悪い方に考えるのは止めようよ」
 しかし、妻は口紅を塗る手を止めなかった。鏡の中の視界には、私も娘もいなかった。もっと違う何かを妻は見ているようだった。今の妻には何も言っても無駄かもしれなかった。
「どこに行くの?」
「あたしがどこに行こうと、何の関心もないくせに」
 妻はそう言ってダウンコートを羽織ると、ハンドバッグと車のキーを手に持ち、ブーツを履いた。後を付いて回る私の存在など、全く眼中にないようだった。
 そして一度もこちらを振り返ることなく、ばたんと玄関扉を閉めた。瞬間的に吹き込んできた外気は、さっきまで自分が晒されてきた外気とは比べ物にならないほど冷たく感じた。心臓が激しく高鳴っていた。血液が一気に体を巡り、一時的に体温も上昇しているのだろう。体が熱くなればなる程、周りの温度に敏感になるのも当然だ。
 妻が家を飛び出すことは、これが初めてではなかった。時々癇癪を起したように、発作を起こすように、妻は家を飛び出した。そして数時間経つと、何もなかったように帰って来る。もちろん微笑みはないが、全く救いのない顔でもなかった。飛び出して行った先で何をしているのかは分からなかった。私も敢えて聞かなかった。ただ少なくとも車で何処かに行っている、ということは間違いなかった。
 気になってキッチンに戻ると、娘はもういなかった。子供部屋の机に伏して啜り泣いていた。
 綾、と私は肩に手を置いて声を掛けたが、娘は首を左右に振り、私との会話を態度で拒否した。机に埋め込まれたデジタル時計には、午後九時三二分と表示されていた。キッチンのトレイに載っているチョコレートはまだ仕掛りで、これから一つ一つ包装しなくてはならないのだろう。しかもさっきの話では、まだ追加を作らないと、恐らく皆には行き渡らない。最強のパートナーもいなくなってしまったことを考えると、完成は何時になるのだろう。
「あといくつ必要なの?」と私は聞いた。娘は何も答えなかった。「あそこに出てるチョコはあれで完成なの?」と聞くと、娘はこくりと、小さく頷いた。
「あといくつ作るの? 五個? 十個? 二十個?」
「…個」
「ん? なあに?」
「八個」
 口元まで耳を近付けてようやく聞こえるかどうかのか細い声で、娘はやっと喋った。
「出来てるのを買ってきてはいけないの? どうしても手作りじゃないと駄目なの?」
「みんな手作りだもん」
 みぞおち辺りに差し込むような痛みを感じた。それはごろごろしたしこりのようだった。ランニングをしている時に襲われる、あの脇腹の痛みに似ていた。
 私は娘の背中をぽんぽんと二回叩き部屋を出た。キッチンで胃薬の錠剤を口に入れ、水道水を一杯飲んだ。今日は付き合いでビールと焼酎を飲んでいた筈だが、今ではどこに入ったのか分からないくらい覚めていた。
 チョコの側に、小さなビニール袋の束と、口を止める金色の針金が置いてあった。アイパッドには、手作りチョコの作成手順が写真入りで細かく説明されていた。缶ビールを一本開けて、そのまま飲んだ。それからボールに残っていたチョコの余りをへらで掬い取って舐めた。甘過ぎず、苦過ぎず、程良い甘さのチョコクリームだった。
 シンクもキッチン台も、洗い物の山だった。根本的に何かが間違っている、と思った。本来こうした行事は楽しむべきものである筈だった。どうして毎年のように、親子が喧嘩したり、外に飛び出していくことになるのだろうか。
 私は行事の演出そのものに問題がある気がした。「日本の家庭を崩壊させること」がプロジェクトの目標である筈はなかった。メーカーの経営戦略に、そのような目標が設定される訳ないし、もし結果がそうであるとすれば、もう一度、プロモーションを見直すべきだ。私が酔っているからではない。本気だった。この行事のために親子の絆が損なわれている家庭があるということを、メーカーの担当者にはきちんと伝えておく必要があった。
 私はチョコレートの箱に書かれていたフリーダイヤルに電話をかけた。お客様センターの営業時間は終了しました、またお掛け直し下さい、ということだった。大手のやることなんて大抵そうだ。こちらが本気で話がしたいと思った時は、合理的に逃げるのだ。
 憤りとわだかまりは、私にもう一本ビールの栓を開けさせた。三五〇ミリというサイズがどれだけ少ない量なのか改めて知った。妻はどこに行ったのだろう。いずれ帰ってくると分かっていても、やはり不安だった。年を経れば経る程、いつか帰ってこなくなるかもしれない、という思いが増していた。
 一つ、包んでみることにした。針金の長さも丁度良く、意外にも綺麗にできた。一つ、もう一つ、私は無心になってビニールにチョコレートを載せ、包む、巻く、並べる、という工程を繰り返した。その隙間を埋めるように、時々缶ビールを飲んだ。
 数とすると、いくつ仕上げたのだろう。三十? 五十? 大よそそのくらいのチョコレートを包むと、私はトレイをダイニングテーブルに移動し、山のようになったシンクの汚れ物の山を、洗剤をたっぷりつけたスポンジで一つずつ洗い、食器乾燥機に並べた。
 洗剤の泡がはねてネクタイに付いた。そういえばスーツのまま、まだ着替えてなかった。仕事から帰るなり、騒動に巻き込まれたのだ。一時終息していたやる瀬無い怒りが、また湧き上がっていた。明日九時を過ぎたら、絶対に文句言ってやる、と私は決意した。

 翌日、目覚めた場所は、リビングのソファだった。テーブルにはまだ飲みかけの焼酎グラスが置いてあった。体には毛布が掛けられていた。あれから風呂に入り、食卓で乾き物をつまみにビールを飲んでいる辺りまでは記憶にあった。それからどうしてソファで眠っていたのか分からなかった。
 キッチンでは妻が朝支度をしていた。昨日と同じエプロンをして。娘はドライヤーをかけていた。時刻は六時半を回っている。いつも通りの、我が家の日常風景。
 私だけ休日と言う訳ではなく、そろそろ起き上がらなければならなかった。ダイニングテーブルの上には、昨日私が包んだチョコが更に大きな小袋にまとめられ、いくつかのセットに分けられていた。それとは別に、砕いたピスタチオが真ん中にあしらわれた焼き菓子が、トレイの上でラッピングされるのを待っていた。
 ドライヤーを終えると、娘は妻の側で何か話し掛けた。妻もそれに普通の顔で応じた。少なくとも私にはそう見えた。笑い声も聞こえた。あれほど激しく言い合っていた昨晩のことなど、まるで嘘のように。お互い根負けしたのかもしれないが、いずれにしても、普段の日と全く変わらない朝だった。
「おはよう」
 妻は箸を並べながら、ソファからようやく半身を起こした私に声を掛けた。
「あれから、どこに行ってたの?」と私は聞いていた。
「買い物」と妻はぶっきらぼうに答えた。
「薄力粉、切らしちゃったから。焼き菓子、粉ないと作れないでしょ?」
 あの勢いで家を飛び出した人間が、買い物に行くとは誰も考えない。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「いや、もう少し自分が手伝えたら、綾ともあんな喧嘩しないでに済むのかと」
「手伝ってくれたじゃない。包んでくれたんでしょ?」
「パパ、ありがとう」
 娘がやってきて、ビニールに入れたチョコレートを私に自慢するように見せた。笑顔なところを見ると、昨夜の禍根は引き摺ってはいないようだった。瞼が腫れているのは仕方なかった。
「焼き菓子、あれから作ったの?」
「だからあるんじゃない」
 その質問には明らかに論理的破綻があるかのような顔をして、妻は答えた。
「ほとんど眠ってないんじゃない?」
「二時間は寝たかな」
「全くバレンタインデーって奴は、迷惑な行事だね」
「そんなことないわよ。案外、楽しいものよ。ただ、私の段取りが悪いだけ。それより早く支度しないと。これからラッピングしなくちゃ」
 妻が帰って来てからこの焼き菓子を作ったということも驚きだったし、昨夜と今朝の豹変ぶりも驚きだった。一晩でどうしてこうも変われるものかと。以前から感情の起伏が激しかったとはいえ、子供ができてからは一層拍車がかかっていた。それに振り回される私も娘も、正直参っていた。壊れるならいっそのこと完璧に壊れて欲しかった。次の日、まるで何事もなかったかのように元に戻っている、というのがむしろやっかいだった。そのからくりは、何年一緒に住んでいても理解できないところだった。恐らく、生涯に渡って理解できないだろう。
「はい、パパ、バレンタイン」
 娘が妻の後ろから恥ずかしそうに、小さな紙袋に入った包みを私にくれた。
「夜に渡すんじゃなかったの?」と妻は娘に小声で言った。
「遅くなったら、渡せないもん」
 不意を突かれて躊躇している私に、妻は早くもらってあげて、というような目配せをした。
「ありがとう、綾」
「パパのが一番、入れ物、豪華なんだから」
 沢山の洋菓子の絵が書かれた袋を開けると、中から糸のような紙のクッションに包み込まれるように、手作りチョコレートが所狭しと並んでいた。昨日私が包むのを手伝ったチョコ、妻があの後、材料を買い出しに行ってから作った焼き菓子、それからお初にお目にかかるトリュフの形をしたもの。
「一番時間かかったの、そのトリュフだよ。パパ好きでしょ?」
 まるで全て自分で作ったかのような自慢気な表情で、娘は指差した。
「ママと喧嘩してまで作ったチョコなんだから、それは美味しいだろうね」
「嫌な言い方」と妻は顔をしかめた。「冗談、冗談」と私はその場を取り繕うのに必死だった。
「今夜、コーヒーと一緒にゆっくりいただくね。ありがとう」
 私は娘の頭を軽く撫でた。娘はとても満足そうだった。こんな小さいのに、娘もほとんど寝ていないはずなのに、全くタフな親子だった。手を掛けず、売っているものを買って楽をして済まそうとする私の発想とは大違いだった。

 手提げ袋一杯になった手作りチョコを携えた娘を見届けた後、私も出勤時間になった。
「今年もあの人からもらえるのかしらね、ゴディバ」と妻は玄関先で皮肉っぽく言った。義理チョコだと言っているのに、妻には通用しなかった。あれほどの物を義理で渡す女なんている訳がない、という口ぶりだった。
「かえってお返ししなくちゃならないから迷惑だよ。義理チョコなんて、うまくメーカーにはめられたもんだよね」
 メーカー、と言って私は思い出した。午前九時を過ぎたら、抗議の電話をすると決めたのだった。しかし今は昨日ほどのテンションではないし、妻もこうして戻ってきた訳だし、外部のコールセンターのアルバイトにどれだけ文句言ったところで、私がただのクレーマー扱いにされマニュアル通り処理されるだけなのだと思うと、途端に気が萎えた。そんなこと、どうでもいい気がした。メーカーの思惑だとか営利主義というより、自身や家族としてどうなのか、ということの方が大事に思えた。昨夜からの一件で、私は疲れていた。これ以上、バレンタインデーについて考えるのはうんざりだった。
「行ってくるね」と私は言った。
「これ、お願い」と妻は一杯に詰まったごみ袋を私の足元に置いた。私は頷いて、鞄と一緒に手に持ち、妻に目配せしてから家を出た。光の加減のせいか、妻の額の皺と目の隈ばかりがやけに強調されていた。
 縛り方が甘かったのか、放り投げたことがまずかったのか、袋から中身が少し零れてしまった。飛び出したビニールを仕舞う時、私は同じようなラベルの貼られたものが沢山あることに気付いた。ラベルには「焼き菓子(クッキー)」と書かれ、原材料や賞味期限などの文言が並んでいた。良く見ると、かなりの数が押し込まれているようだった。これはあのピスタチオの焼き菓子じゃないか、私は直ぐにぴんときた。材料にも「ピスタチオ」は明記されていた。
 今度はきちんと縛って、もう一度、奥の方に袋を置いた。それからコートの裾を直し、鞄の下を手でぱんぱん払い、手袋をはめた。
 妻はあれから焼き菓子を作った、と言った。そう、間違いなくそう言ったのだ。どうして嘘を付く必要があるのだろう。
 私はまだ上手く働いていない頭をないなりに動かした。しかし、ない頭では、いくら考えてみてもその解は見つけられなかった。嘘は嘘として、未解決のまま宙に浮いていた。妻の考えていることは良く分からなかった。妻からしたら、きっと私の考えていることも良く分からないのだろうな、と思った。
 メールの着信音が、ズボンのポケットから鳴った。誰からのメールか薄々検討はついていた。家を出て駅に向かう途中を、いつも狙い撃ちされた。今日はバレンタインデーだから、もしかしたら起きたてでメールがあるかと思ったが、さすがにそれはなかった。
 今夜、会える? 渡したい物があるから。
 彼女とはもう終わりにしたかった。既にこちらからは連絡を取ることはなかった。一ヶ月ぶりくらいのメールだった。バレンタインデーがなければ、恐らく来ていないはずのメールだった。
 危うく、前から来る歩行者とぶつかりそうになったので、私はスマホをコートのポケットに仕舞った。空は厚い灰色の雲に覆われていた。今にも雨が降りそうだったが、折りたたみ傘は忘れていた。革靴の紐が解けていたのでしゃがんで結び直した。汚い革靴だった。もう随分磨いていなかった。しかし、ぴかぴかに磨き上げたところで、日常の輝きも増すとは思えなかった。
 私は再びスマホを取り出して、メールの返信ボタンを押した。多分、七時過ぎには仕事が終わると思う、と打ち込んだ。
 今日何の下着を履いて来たのか気にもならない程の、惰性だった。自身の意志がどこまで薄弱で最低なのか、この際窮めてやろうと思った。どうかしているのは自覚していた。妻はどうか知らないが、自覚しているだけ、まだ妻よりは正常だと思った。やがて、自覚すらできなくなる時が来るのだろう。じわじわ脳を蝕む認知症のように。
 バレンタインデーなんてあってもなくてもどうでもいいや、と私は思った。(了)


2015-03-23 | 超短編小説No Comments » 
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