日常的なこと

時間が「膨大」にあれば小説を沢山書ける?

高橋熱です。
めっきり秋ですね。

このまま直ぐに冬になってしまうのでしょうか。
寒くなると、朝布団から抜け出すのに難儀し、うだうだしてる間に、自由な作業時間が直ぐに過ぎてしまいます。
書く時間の確保がただでさえ難しいというのに。

■「書けない時間」「書かない時間」

締め切りがある仕事とは違いますから、一日二日書けなかったところで、誰からも「お咎め」はありませんが、それがあまりにも長期に渡ってくると、とても不安に感じてしまいます。しばらく何も書かないでいると、言葉も忘れていくし、感覚も鈍ります。
「小説なんて、もう二度と書けないのではないか」と、本当に思う時があります。

アイデアは塩に漬かり、頭のどこかの引き出しに仕舞われて(ゴミ箱に捨てられて、かもしれない)、いずれ仕舞った場所も捨てた事実も忘れてしまって。更に、若い頃のように創作意欲が旺盛で、寝てる時間も惜しんでがんがん原稿に向かっていくようなモチベーションも気力体力もなく、ただただ、自信喪失の状態に陥っていきます。

ぼうっとする犬
久しぶりに、真っ白な原稿を広げた所で、「さて、何を書こう」と、丸々二時間何も書けないまま、魂の抜けた廃人のように、ただしみったれた天井を見上げるだけになったりして、「俺は一体何をやってるんだろう」と、自己嫌悪する為に早起きしてるような、みじめな気持ちになったりします。

とはいえ、自己嫌悪ばかりもしてられないので、書く時間を確保できない点については、こう解釈するようにしています。
「今は小説を書くことよりも、未来の小説の実となるシーズ(種)を徹底的に集めている時期なのだ」と。「いつか書く(書かれる)だろう」小説の厚みと深さを必ずや増すものだと信じて。

■時間が有り余っていた学生時代。だからといって……

これまで、学生や独身のサラリーマンの人達を、とても羨ましく思う時期がありました。仕事で付き合っている人の中にも、不動産経営をしている人や株で一財を築いている人など、明らかに「昼間の時間をもてあましている」と思われる人も沢山知っています。

そういう人を見ると、実に時間の使い方が「もったいないなあ」と思います。時間を売ってくれ、と本気で思います。株の動向を毎日追っかけているとか、政府やマスコミの批判話に明け暮れていたりとか。まあ、時間をどう使おうが自由だし、人それぞれの価値観ですから、僕がどうこう言う話ではないのですが。

眠い目と鉄の様な体躯を無理矢理鞭打って覚醒させ、早朝ちまちま筆を進めている僕からみたら、自分の裁量でどうにでもなる時間を持っている、ということが何と羨ましいことか。

しかし、そういう時も、僕は自戒を含めて、こう思うようにしています。

「限られた時間を有効に使うことが出来ない人間に、膨大に有り余る時間など使いこなせるはずがない」

僕が小説を書き始めたのは大学生の頃です。同時はバブル経済の真っ只中、「何でも潰しが利くだろう」ということと、受験が3教科だけで済む私立の文系に進んだ僕は、創始者の銅像も欠伸する程、時間は有り余っていました。大学にはほぼ毎日通っていましたが、それは麻雀のメンツと飲み相手を探す為に、でした。

その頃、暇な時間を、全て小説を書くことに費やしていたか、と問われると全く「否」でした。当時はただ何となく、「将来は小説書いて食べていけたらいいなあ」くらいの、いや、自分としては、当時なりにかなり真剣に思っていたのかもしれませんが、「そんなにがつがつ書かなくても、自分にはそこそこ素質があるから、文学賞に応募し続けてさえいれば、いずれは」なんて、若さ故の自信過剰、厚顔無恥の極みでした。危機感も何もあったものじゃありません。飲食店のバイトで稼いだお金は皆洋服やCDやデートに使ってしまい、酒も浴びる程飲みました。

短編小説ラブドールズライフ
そんな合間に、小説を書いていたので、今のように「早朝2時間は執筆に充てる」というような生活リズムを作ることもなく、書きたくなった時にだけ書く、という行き当たりばったりの執筆姿勢でした。(ラブドールズ・ライフという小説の原型はその頃書いたものです。学生時代ですから、テーマも作風も、今と全然違っていることにお気づきになるかと思います)

■「小説」は、製造工場では量産できない無形資産

今は、執筆時間を「早朝2時間(朝4時~6時)」と決めています。
学生時代よりは、時間も時間帯も限定されてしまっていますが、「この時間しか書けないのだから」と強く意識して、却って昔より集中できている気もします。

確かに、ふんだんに時間を使えるのは理想かもしれない。でももし仮に今の自分に、神様のお慈悲により、膨大な時間が与えられたとしたら、本当に執筆が捗るのか、いい小説を沢山書けるようになるのか、と考えると、実は正直自信がないのです。

もし、今それだけの時間があったら、別のことに費やしてしまう気がします。本を読んだり、コンサートを見たり、美術館にも行きたいし、ジムで汗を流してもみたいし、夜は気ままに行きつけの飲み屋で酒を飲んだり、ひょっとしたら不埒な「恋」を求めてしまうかもしれない。

仮に時間があったところで、結局執筆に充てる時間は今と大して変わらないのかもしれません。「いつでも書ける」という環境が「いつもは書けない」理由と言い訳を色々とこしらえて、むしろ今より書くスピードが緩慢になり、内容も悪い方向へ向かってしまう可能性すら、これまでの僕の性格なら、ありえない話ではないと。

小説製造工場
「小説を書く」とか「言葉を紡ぐ」という作業は、工場の生産設備のように、1時間10個作れる設備だから、10時間稼働させたら100個できるよ、みたいな単純なものではない気がします。
集中力と持続力の掛け合わせであったり、体調管理であったり、意欲やメンタルの有り様であったり、心身を取り巻く様々なファクターが混然となって、結果としての一つの作品に昇華される無形資産なんだと思います。

なので、「膨大な時間が欲しい」だなんて欲は言いいません。
あと、もう一時間、いや30分でもいい。
心身両方に付いた「贅肉」を落とす時間が、ちょっと欲しいだけ。


 

なぜ「小説を読まなくなってしまった」のか、について想うこと。

高橋熱です。こん○○は。
今回は、「小説を読まなくなったこと」についての話です。
といっても、これまでの僕の読書遍歴を紹介するということではなく、どうしてあれほど好きだった小説を読まなくなってしまった(読めなくなってしまった?)のかについての考察です。

読書する人
事実、20代の後半あたりから、恐ろしく小説を読まなくなってしまいました。
もちろん、時間が有り余っていた学生時代と比較して、仕事や育児は元より、親族や地域とのお付き合いなどで「読書にあてられる時間が極端に少なくなった」と言えば確かにそうなんだろうけど、どうもそれだけじゃないような気がします。
時間がなくても、「必要とする」ものには、何とか時間を作ってでもするものですよね?
僕自身、毎朝4時に起きて、小説を書くように。

では、「小説を読む」ということが、突然必要ではなくなってしまったということなのでしょうか。

確かに、若い頃に比べて「読書欲」そのものが冷めてしまったかもしれません。
無性に、あの人の書いた小説(というより、文章?)が読みたいとか、読んでいないと身が持たないとか、寝食忘れて朝方まで読みふける、なんていう経験は学生時代以来なくなってしまいました。(「活字中毒」という言葉がある通り、あの頃は本当に本を貪るように(小説だけではなく評論や学術も含めて)、片時も手放すことなく何らかの本を抱いて寝ていましたから)

欲望自体が収縮してしまったというなら、それはそれで仕方のないことだけれども、まがりなりに「小説」に携わって生きていこう、と考えている人間がそれでいいのだろうかと不安になったりもします。先達の作家が書く「作品」そのものが教科書であり、自身の小説に深みを与え、バリエーションとインスピレーションを加える一番の近道になると思っています。

しかし欲望の収縮となると、それは所謂「加齢現象」として、自身の力ではどうにも抗えないタイプのものなのかどうか。「知識欲」の減退のようなものが誰にでもあることなのか、あるいは僕の個人的な問題なのか、読書欲を満たす対象物そのものがないのか、はたまた別な理由に起因するのか。

漠然と「読書」といっても、実に幅広い。
新聞を読むことは、一般的に「読書」とは言いませんよね。であれば現在、読書は殆どしていません。もう少し解釈を広げて、「文字をじっくり読む機会」と捉えると、新聞を読むことと、仕事で取引先や営業先のホームページを眺めることくらいです。
あるいは、仕事上どうしても必要な法務関連の書籍や、それを読まないと「仕事に支障を来たす可能性のある」ビジネス書を流し読みする程度です。

今回は、読書、とりわけ「小説」を読むことがめっきり少なくなってしまった、という原因を自分なりに考えてみたいと思います。

■「小説を読まなくなった」理由

理由1 一人の時間が圧倒的に減った。

かつて、自分が一番読書をしていた頃を思い返してみると、まとまった読書時間が確保出来ていたのは、学生時代、都心部まで1時間余り揺られていた「通学電車」の中か、布団の中でした。布団に入ってからは、最低1~2時間は読んでましたから、一日の中で、3時間~4時間は、読書のために割りあてが可能な時間でした。

卒業して社会で働き始め、結婚して子供ができてからは、そうした時間がいきなりなくなりました。市内の会社なので電車で本を読んでる余裕はないし、家の中で、個人的に過ごせる時間はほとんどなくなりました。

多忙なサラリーマン
もちろん、結婚して子供が出来ても、しっかり日中に「個人的時間」を確保している諸氏もいるかと思いますが、それは僕からすると、とても羨ましい。家内は、「家族が皆一緒にいるのに、何故会話もせず、個室にこもるのか。そういうライフスタイルは経験してこなかったし、ありえない」という主義を持っています。僕が早朝、皆寝静まっている時間帯しか小説を書かない(書けない)のはそのためです。

我が家のライフスタイルの基本的ポリシーは妻が決定しています。これについて書き始めると、1冊の本が書けてしまいますので、今回は省略しますが、つまり日中家族がいる中では、中々一人にはなれないということです。

また、夜の布団の中といっても、大抵晩酌をしてしまうし、横になると直ぐに瞼が閉じてきてしまって、とても読書できる状態ではありません。読書できる時間があるとすれば、早朝の、まさに今このブログを書いているこの瞬間しかないという感じです。でも、一人になれるこの早朝の自由な時間だけは、小説を書く為に使いたいし、ということで、まずは物理的にも読書用時間の確保がしづらくなったということはあります。

理由2 どうしても「読みたい」と思える本がない。

まずは、実際にその本が「面白い」かどうかは、読んでみないと分かりません。もちろんです。でも、まずはアイキャッチといいますか、とにかく新聞広告てもインターネットでもSNSの誰かのお勧めでも、「その本、読んでみたい。読書時間はそんなにないけれど、何とかやりくりしてでも、その本だけは是が非でも読んでみたい!」と思えるような本に、中々出くわしません。

当たり前ですが、本もスーパーの野菜や洋服と同じように、市場を流通する「商品」です。その本を買うか買わないかを決めるのは、あくまでも消費者であり、値段と中身との相談によります。

もっとも、電子書籍ですと、無料で読めるようなものや月額いくら払うと「読み放題」といったプランも今は登場していますが、自身の限られた時間の一部を、別の、労働生産性を上げたり対価を得る為の行為ではなく「読書」にあてることを考えると、実費としてのお金は払っていなくとも「有料である」という考え方もできなくはないと思います。

そんな読書体験も、例えば、新聞広告のキャッチコピーに「これを読まないと人生損をする」くらいの刺激的なメッセージが多く並んでいます。「今世紀最大の傑作」とか「100年に一人の逸材」とか。あるいは著名な先輩作家や有名タレントに推奨させたり、絶賛させたり。

で、結局、「あなたがそこまでいうなら」と手にしてみる訳ですが、そうした扇情的なメッセージには悉く裏切られることになります。もちろん、全く面白くなかった、ということはありませんが、「そこまで言う程のものではなかったかな」と思うことの方が圧倒的に多いというのが印象です。多かれ少なかれ、失望し、がっかりする訳です。

何度かそういう経験をすると、もう新聞の広告欄はあてにしないようになるし、キャッチコピーも信用できなくなります。ただでさえ厳しい出版社の実情を考えると、1冊でも多くの売り上げを上げたい、という広告戦略としてみれば、当然といえば当然のことですが。

では、僕は何を信用しているのか。信用すれば良いのか。
間違いないのは、自分が経験したことです。「良かった」と思った過去の記憶です。これは間違いない「事実」です。

恐らく、もし今僕が小説を読む時間をたっぷり確保出来て、それなりに「読書欲」のようなものが維持されているとしたならば、今まで読んでどきどき、わくわくした本を、書棚の中から引っ張り出して、もう一度、じっくり読み返してみたいと思う筈です。大半の本のディテールをほぼ忘れてしまっていますから、どれを手にしても、それなりに新鮮な気持ちで読める筈です。

書棚
従って、「読みたいと思える本がない」という理由は、「これまで読んだことのない本の中で」という限定であって、過去に読んだことのある本ならいつでも読み返してみたい願望はあります。なので、これは「本を読まなくなった」直接的な原因ではないのかもしれませんが、いずれにしても「読んだことのない」本が、他の何をさしおいてでも、僕を読書に向かわせる程の魅力を感じないということです。

理由3 読書以外に、もっと興味のあることがある(興味のあることができた)。

かつて、あれ程の中毒症状を呈していたにも関わらず、すっかり影を潜めてしまったものが、実は読書以外にももう一つあります。「音楽を聴くこと」です。

この行為も、大学時代までほとんど生活の一部、血肉の一部になっていたロッククラシック音楽が、今の生活の中では見事に失われています。「三度の飯より好き」であり、「日々音楽を聴いていなければ、僕は人生を全うできない」と確信していた時期もありましたが、三度の飯を食べないと生きていけませんし、生活に音楽がなくても、今こうしてちゃんと生きています。
最早、音楽は自分のライフスタイルにとって、必要不可欠なものではなくなってしまった、という訳です。

読書と同じくらいの時間、いやそれ以上に莫大な時間を費やして聞いてきた音楽。こんなにあっさり生活から姿を消してしまうのは自分でも驚きでしたし、それはそれで何だか寂しい気もします。

もちろん、自然に流れて来る音楽のメロディが懐かしいとか、心地良いと思うことはあります。娘の弾くピアノの生音に癒されることだってあります。ただ、能動的に音楽を聴こうとすることがなくなりました。音楽については、またいつかちゃんと考えてみたいなと思っています。

では、読書以上に音楽以上に、一体今の僕は何に趣味があるのか、と問われたら、実はどう答えてよいのか、返事に悩みます。もちろん「小説を書くこと」は趣味と言えば趣味ですが、小説はきちんと仕事にしていきたいと考えていることなので、趣味に講じる姿勢とは少し異なります。

「小説を書くこと」に関連性があるとは思いますが、もし、「何に興味があるのか」という問いにしいて答えるとすれば、「人という存在そのものに興味がある」と言えるかもしれません。

人との関わりであったり。人との付き合いであったり。
今の職場での付き合いや仕事上の営業、接客行為も含めて。もちろん、SNSでの出会いもそうかもしれない。
今まで知らなかった人と出会い、会話をし、知らなかったことを知り、喜び合ったり、悲しみ合ったり、傷つけ合ったり、慰め合ったり、時には、愛し合ったり。関わる人によって生活が変わり、見方が変わり、影響を受けたり、与えたり。

良く考えてみれば、これはまるで、小説を読む醍醐味そのものではないでしょうか。
人との出会いは、本との出会いに良く似ているような気がします。

大学を出て社会人となり、それまでの自分の身の回りの人とは比較にならないくらいの、夥しい数の人と出会い、付き合い、離れていくという行為を繰り返す中で、僕が「小説」によって得ていたことと同等の、いやそれ以上の経験が、今の生活の中でなされているのかもしれません。

まとめ

つらつら書いてきましたが、書けば書く程、実は本当は、めちゃくちゃ「読書したい」のではないかと思ってきました。もう一度、あの中毒にはまりたい、それこそ、家族そっちのけ、仕事そっちのけで、朝から晩まで、読書三昧な生活を送ってみたい、そんな願望が心の奥にはあるのではないかと。

ただ、それは現実的には出来ない訳で、かといって中途半端な距離感を保ちながら「小説を読む」というスタンスが、どうにも気持ち悪く、そこまで割り切れたり器用でもないので、無意識的に、読書にせよ音楽にせよ、遠ざけてしまっているのかもしれません。

いずれにしても、「小説を読むこと」そのものの愉しみは、充分理解しているつもりです。40代で老後の生活をイメージするのはどうかと思いますが、今はできなくても、年を取ったら、またゆっくり、じっくり、書斎のソファで寛ぎながら、書棚の奥深くに眠り込んだ先人の小説一つ一つに目を通してみたいと思っています。


2016-10-06 | 日常的なこと | No Comments » 

 

小説のアイデア記録法

高橋です。
前回のブログテーマ「アイデア発想法」では、突然天から降りてきた「印象的なシーン」から、小説のイメージを膨らませる、という話をしました。

そのイメージで頭が一杯になって、小説を書き終えるまでずっとそのことに拘り続けられればいいのですが、気分屋で気まぐれで浮気症の僕としては、書いている最中にも別のイメージ(次作候補になりうる小説アイデア)に囚われたり、日常の中でアイデアの卵のようなものに出くわすことも多々あります。

■スマホの「メモ帳」アプリにただひたすら

そんな時、とても面白そうな閃きや次回作の候補になりそうなアイデアについては、何らかの形で残しておきたいと思います。一編書き終えた後、コンスタントに次作に進めるよう、印象的なイメージのネタはいくつあっても足りることはありません。

よく「お笑い芸人」は「ネタ帳」と呼ばれる「アイデアノート」を使っている人が多いと聞きます。
僕も以前は、B6サイズの小さな帳面を、いつも鞄や枕元にペンと一緒に置いておき、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく小説の捕えどころのないアイデアのシーズを、思いつくままにメモしていた頃がありました。

ただ、ノートだと、スーツの内ポケットには入らないし、思いついた瞬間ささっと書き留めたいのに、いちいち鞄を開けてノートを取り出すという行為が、時と場所によっては酷く億劫になってしまい、あまり頻繁に活用することはありませんでした。

その後はノートに替わって、ガラケー、今ではスマホがその役割を担っています。殆ど身から遠ざけることなく携帯している訳なので、歩いている時とか満員の通勤電車の中でさえ、ひらめいたアイデアの断片をぱぱっと記録することができます。
具体的には、スマホの「メモ帳」アプリを使っています。デフォルトで入っているものでもいいですし、使い勝手のいいものを、アプリのフリーマーケットからダウンロードしてきてもいいと思います。

メモ帳アプリ

思いついたら、「新規」で追加し、その象徴的な「キーワード」だけを書き留めていきます。
僕は短編小説しか書きませんから、キーワードだけで大よそ用は足ります。登場人物も少ないので、「キャラクター相関図」なんてものも不要です。物語のフローや章の連関も見える化しなくて何ら問題ありません。何せ、超短編やポケットノベルですから、フラッシュアイデアが命、一番印象深いシーン、オチや山場がイメージできるキーワードさえちゃんと記録できていれば、それでオーケーです。

なので、僕の「メモ帳」のフォルダには、ファイル数ばかりが矢鱈多くて、どれもキーワードが一つ~五つ程度、並んでいるだけです。一つだけ、というのも結構あります。

ちなみに、最近の「メモ帳」を上から順に見てみると、こんな感じです。

●手足があるのに、ないという感覚
●何でもバランスをとる、ということ
●双子 駅のホーム 兄弟 激やせ 激太り
●祭り お金 浮浪者 取り合い
●人工知能 結婚相手 マッチング

自分以外の人が見たら、何だこれ、という感じですよね(笑)
多分、個人のイメージの断片って、第三者が見たら、大よそ意味不明なものなんでしょうが、こんな言葉の羅列ばかりが、時系列でどんどん溜まっていくことになります。

■過去のアイデアには縛られずに~アイデアは「鮮度」が大事~

最近のものはまだ印象に強く残っているのでいいのですが、昔のものだと大変です。後になって、「え? 何、これ」とどうしても思い出せなくなってしまうものが出てきます。

まがりなりに一瞬でも、自分の意識から湧き上がってきたものである筈ですから、そのうちいつか、また「ぱっ」と思い浮かぶだろう、と思って消さないでいる訳ですが、これがもう3年以上も「何だったっけ」となっていて、しかし消せずにいるキーワードがあったりもします。

例えば、
●ディズニーランドの経済学
●マンホールおばさん

経済学者じゃあるまいし、今更自分が真面目にオリエンタルランドの経営分析をするわけではない筈ですから、何か小説のアイデアの種があった筈なのですが、全く思い出せず。このようなタイトルの経済本を読んだことがありますので、そこからのインスピレーションなのかもしれませんが。

「マンホールおばさん」も、もう意味不明です。
マンホールおばさん…
マンホールおばさん…
ううむ。自分が発想したくせに、全く思い出せませんし、話が膨らみません。

マンホールおばさん

でも、メモしている時は、間違いなく「これはいい」「面白くなるぞ」と思っていたのは事実ですから、全く記憶の域外に排除してしまうのはもったいないよなあと思いつつ、早3年の月日が過ぎてしまいました。こんなことなら、もう少し細かく詳しくメモしておけばよかった、と今更になって後悔しきりです。

とはいえ、小説のアイデアにも「鮮度」というものがある気がします。
「夢」と一緒で、「印象深いイメージ」を想起した直後が、一番生々しくリアルな筈です。

従って、最近は、あまり「過去のネタメモ」に執着しないようにしています。無理に妄想を押し進めて、結果気乗りのしないプロットを追いかけていくよりも、今一番旬にひらめいたアイデアで書き始めた方が、良いものが書ける気がします。
これは経験則として、そう思います。

過去のネタについては、一度意識の奥深くに沈めて、また「語られたがる」時が自然発生的に来ることを、半分忘れてしまったら、それはそれでも構わない、という大きな心持ちで待つことにします。

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短編小説のアイデア発想法


 

短編小説のアイデア発想法

高橋です。
いよいよ秋到来、読書するにも小説書くにも、いい季節になりました。

たまに、「どうしてそんなに次々とアイデアが浮かぶの?」と言われる時があります。
次々に書いているように見えますか?

確かに短編小説ですので、長編小説を書いている方のペースから見たら、更新頻度、といいますか、新しい小説を公開する頻度は当然早くなりますので、「アイデアが次々に浮かんでいる」(ように見える)のかもしれません。

ひらめきアイデア

■小説アイデアはいつ「ひらめく」?

現在、60を超える数の小説を公開していますから、確かに小説のアイデアは「60超」はあります。更新頻度も、ブログではなく、集中して小説ばかりを書いている時期であれば、1~2週間に1編はアップしていましたから、そう見えるのかもしれません。

けれど、小説のアイデアを考えるというのは、いくら短編小説とはいえ、実はそんなに簡単なものではありません。
アイデアが湯水の如く浮かんでいて、1編校了したら、直ぐに次の作品を間断なく書き始められたら、それはそれは理想的なのでしょうが、もちろん、そういうタイプの方もいるのでしょうか、僕には「湯水の如く」浮かぶような現象は今のところ起きていません(笑)。

なので、アイデアが困るくらい止めどなく溢れ出してきて、書く方が追いついていかない、なんていう人の話を聞くと羨ましくてしょうがない。僕にもそんな時期がいつか来るのでしょうか。

小説のアイデアって、他の作家の皆さんは、どうやって閃いているのでしょうか。
さあ、書くぞ、とパソコンに向かってコーヒー飲みながら考えますか?
あるいは、お風呂とか、トイレとか、はたまた入眠前にぼんやり浮かんでくるのを待ちますか?
夢のお告げがあるとか、実話をベースに発想していくとか、まあこれは千差万別、書き手それぞれの着想の仕方があるのではないかと思います。

僕の場合、それはある日ある時、突然やってきます。
と言っても、ありがちな、お風呂場とかトイレとか寝る時とか、脳がリラックスしているような時は、意外にありません。

むしろ、仕事のメールを打っている時とか、通勤時の混雑する駅のホームとか、妻と諍いをしている時とか、テレビに向かって不平不満を呟いている時とか、何か社会や人や世間と相まみえている時の方が多い気がします。

その時、目にしている光景とは全く関係のない(関係のないように見える)、ある「とても印象的な場面」が、ふっと頭の中に浮かぶのです。それは正に瞬間的な出来事です。どうして今、そのタイミングで、そんな場面が想起されるのか。何の脈略もないように見えます。否、無意識の中では、連関しているのかもしれませんが、僕自身には何の自覚もありませんし、想像もつきません。

例えば、母親が赤ん坊におっぱいをあげているところにやっかいな電話がかかってきたりとか(『夫も私も、いない家』)
例えば、楽しみに買ってきたレタスをあけたら青虫が蠢いていたとか(『青虫』)
例えば、真夜中、狂ったように布団を叩く音が聞こえて来るとか(『例えば、満月の夜の奇妙な行為』)

おっぱい授乳

全く不意打ちのように、そんなイメージがふっと頭に印象付けられる。
それは、映像として強烈なインパクト(快不快に関わらず)のあるものもあれば、それほどでもない場合もあります。
母親が赤ん坊におっぱいをあげているところに電話がかかってくる、なんていうことは特に日常的な事ですし、何の特徴もありません。

ただ、どういう訳か、やたらそのシーンばかりが、頭に焼きつくように、いつまでもずっと腰を据えています。
印象としての一つの光景が、大よそ一両日、食事をしていても、風呂に入っていても、仕事中ちょっと息を抜いた時にも思い出されてきて、何かを主張してくるのです。

その時、物事が少しだけ、動き始めます。
印象的な光景の前後に、別のスライドが一枚、差し込まれてくる感じです。スライドが二枚あると、めくることができます。パラパラ漫画のように。一枚では動きませんが、二枚になるとそこに「差分」が生まれ、「動き」が出る。
そんな感じに話が動き始めると、あとはもうそのスライドが、動きに合わせて自然に増量していきます。

印象的なシーンがまずあって、しばらくの間頭を支配し、そこを起点に、ストーリーが語られ始める。
僕はそれに相応しい言葉を忠実に選び出し、スライドを埋めていく。

違う例え方をすると、僕は機長となって、大よその着地点を予想し、最短距離で到着する為の航路を見定め、正確に操縦桿を握ります。時には、突風が吹いたり、燃料が漏れていたり、乗客トラブルが起きることもあって、違ったルートを選択したり、場合によっては、着陸予定の空港自体を変更することだってあるかもしれない。

しかし、それでもいいのです。それは、機長として僕の取りうる事の出来た、最善のリスク回避であった訳ですから。

■「印象深いイメージ」に耳を傾けてみる

アイデアの発想法から書き進め方まで踏み込んでしまいましたが、つまり、僕の場合、まずは頭に残った「印象深いシーン」が、小説を書き始める、またプロットを組み立てたり、物語を動かしていく全ての原動力になっています。

もっとも、若い頃は、「自分の書きたいことをしっかり書いてやろう」と意気込んでばかりいました。
冒頭から締め括りまでのシナリオをしっかりと組み立て、こういう主義主張の物語を、こういう文体、こういう展開で書いていこうと事前に決めたり、あるいは文章も、所謂「文学的」なスタイルやテクニックばかりを気にして書いていた時期もありました。

しかし最近ではそういう書き方を一切止めて、先のような、突然浮かぶ「印象的なシーン」は、きっと僕に何かを「書かれたがっている」、何かを「訴えようとしている」、だからこそ、いつまでも僕の頭に澱のように残っているのだ、と。
そして、僕はそのシーンに「静かに耳を傾けてみよう」というスタンスで書くようにしています。

その感覚、もちろん小説は僕が書いている筈なのですが、まるで僕の小説ではないかのような感覚になる時があります。
そのアイデアは、僕としてはあまり気乗りしないけれど、どうしても「仕上げなければならない義務がある」というような。
この声を見える化する人間は、僕以外にはいないのだ、出来ないのだ、という使命感のような。
何かの見えざる力で「書かされている」といったような。

実のところ、それは一体、誰の物語なのでしょうね。


 

いきなり読者を虜にする「小説の書き出し」とは?

高橋です。こん○○は。

さて、WEBで小説を公開し始めてから既に9年近くの歳月が流れ、その間に、素人でも簡便にWEB更新のできる仕組みが普及したり、Kindle(キンドル)や楽天koboをはじめとする電子書籍を自費出版できるプラットフォームに多くのライターが参加したりして、「自著を一般の方に読んでもらう」ということが昔より易しい時代になりました。

また、言い方を変えれば、易しくなったが故に、「より多くの方に読んでもらう」には、却って難しくなったように思います。

■「書き出し」の重要性~いかに人目に留めてもらうか

星の数ほどある小説サイトや電子書籍にあって、いかに自著に関心を持ってもらうか、を考える時、WEB小説の書き始め、あるいはサンプルで開いたpdfや電子書籍の「書き出しの一文」がいかに大切であるかは、実際自分も他人の小説を読もうと思った時に重視しているのは明らかです。

おおよそ冒頭の1ページを読んでみれば、その人がどんな文体の小説を書くのか、雰囲気の様なものは感じとることができるからです。

書き出しの一行
名の売れた作家やお気に入りの小説家、または誰かの薦めがあって、その本を選ぶ場合には、小説の書き出しがどんな一文であろうと、その作家の本を買うことが目的でしょうから問題ないと思いますが、名もない素人の物書きにとっては、特別な固定ファンを除いたら、検索してたまたまサイトを覗いたとか、アマゾンの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」に流れていたからとか、読者との出会いなんて「ひょんなことで出会う」ことの方が圧倒的に多いはずです。

そうした時、まず自著に興味や関心を持ってもらうにはどうしたら良いのかと考えると、まず、サイトや表紙デザインなどのいわゆる「ビジュアル」で目を引くことは重要だと思います。特に、電子書籍のリストに並べられるのは表紙の画像ですし、漫画やラノベはこの表紙でいかに関心を惹けるかが勝負になる気がします。

素人が書いた小説でも、表紙だけ見ると、まるで「書店で一般流通している本」と何ら遜色ないクオリティのものが結構あります。まるでプロの装丁家の方に依頼したのかと思うくらい。きっと、文学系のサイトや電子書籍でも、これからは装丁の巧拙が、「書き出しの一文」に匹敵するくらい重要なファクターになってくることは間違いないと思います。

電子書籍ではなくWEBに公開された小説であれば、まずはいきなり小説の冒頭が目に飛び込んでくることになります。この段階で、その話に入り込めるか否か、大抵勝負がつきます。

WEB小説は、星の数ほどある訳で、何も興味のないものを、国語の教科書や試験問題のように、無理に読む必要は(読まされる必要も)ない訳です。従って、ちらっと冒頭を流し読みしただけで、気に入らなければ、あっという間に他のサイトに飛んでいってしまいます。作者としたら、「いやいや、これから物語は面白くなってくるのだから、もう少し読んでよ」と言いたくもなりますが、そうはいきません。自分だって、人の小説を読む時は、同じような行動をとってますからね。

ということで、小説のモチーフやストーリーはもちろん重要ですが、いきなり読者を惹きつける、その世界に引きずり込ませる冒頭の書き出しというのは、WEB小説を書かれている人とっては、より神経を使うべきところだと思います。

■プロが書く「書き出しの一文」の例

・「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。」(カフカ/『変身』)

有名な一節です。話は、ごくごく小説にありがちな「ある朝」ですっと始まった感じですが、それが異常な状況な訳です。目が覚めたら、巨大な毒虫になっていると。「グレゴール・ザムザ」などという名前も、濁音が多く、毒虫のイメージとどこか連関している感じで奇妙な気配が満載です。

「一体どうしてそうなってしまったのだろう」「これは夢の話なのだろうか、現実なのだろうか」「気がかりな夢が何だか気がかりだ」と、この一行で読者は色々なことを妄想し始めます。とにかく、まずは次を読み進めてみよう、という事になる訳です。掴みはオーケー、という奴ですよね。

・「死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。」(太宰治/『葉』)

これも、僕が好きな書き出しの一つです。いきなり「自殺」を予兆しています。「お年玉」として真冬に夏の着物を贈る、というのもどういう意図があるのでしょうか。まあ、いきなり自殺を仄めかすのは古臭い文学臭があり、ずるい印象もありますが、よそからもらった着物が「夏に着る着物」だった、ということで、自殺は「夏」まで延期されています。

ん? そんな程度で延期してしまうくらいの覚悟だったのか、と。いくじなしなのか、気取っているのか、どうも良く分かりませんが、しかし、そうか、今直ぐ死なないなら、どうなれば死ぬのかちょっと見極めてやろうか、お前の自殺に付き合ってやるよ、と先を読んでみたくなります。

・「盲人が私のうちに泊まりに来ることになった。私の妻の昔からの友だちである。」(レイモンド・カーヴァー/『大聖堂』)

これはアメリカの短編小説家、カーヴァーの一小説から。この2行のセンテンスで、僕はやられてしまいます。
まずは、「盲人」が泊まりに来る、という段階で、どんな一騒動や困難が待ち受けているのかを予感させます。身近に目の不自由な人がいない場合は、その状況に想いを巡らすことはかなり難しいです。

さらにそれが、妻の昔からの友人だということです。この主人公の夫は、それを知っていたのでしょうか。妻とはどんな関係なのでしょうか。盲人の友達との関係が続いている、というのはどういうことなのでしょうか。読み手は勝手に妄想してしまいます。ただ、何気なく、とてもそっけなく書いている様ですが、実にいろんな想像を掻き立てられる訳です。

以上、思いつきで3つほど紹介させていただきましたが、いかに読者を冒頭で惹きこませるか、のコツは少し感じてもらえるのではないでしょうか。

ポイントは「?」。
冒頭を読んだだけでは、その意味や状況がうまく飲み込めない。なぜそうなのか、どうしてそうなってしまったのか、これからどうなるのか、と読み手の想像と妄想を掻き立て、そして一般的な先入観や常識をいかに裏切ることができるか、ということではないでしょうか。

現代ホラー作家の権威、スティーブン・キング氏も、「書き出しだけを考えるのに数カ月かける時がある」と何かで読んだことがあります。実際にそこまでかけるかどうかは別にして、しかしその重要さはとても良く認識されています。胸ぐらを掴むように、著者の世界に引きずり込んでいく書き出しの一文。重要ですね。

大量の本

■最初から「クライマックス」?

もう一つ、読者に小説を読み進めていく手法として、最近の公募対策本や執筆指南のセオリーでは、「前半部分」の重要性を強調しているものが多くあります。それは、「書き出しの一文」だけではなく、いきなりクライマックスに近いインパクトを最初の一章目にもってくるという構成を推奨しています。

もっとも、有名な新人向けの文学賞などでは、1千~2千の小説がエントリーされますから、まずはいかに下読みさんにページをめくって貰うかを考えると、「最後まで堪能して初めてこのコース料理の素晴らしさを実感し満たされる筈です」では駄目な訳で、とにかくいきなり自信のあるメイン料理を持ってきて、先に「空腹感」を満たしてあげる必要があります。

これは数多くの小説に短期間で目を通さなければならない、選考システム上の理屈から、そうなってしまうことは充分理解できるところです。

しかし、どうなんでしょうか。あまりそこにばかり意識が囚われすぎると、結果その小説全体が尻すぼみで終わってしまい、読後の印象として「悪く」感じてしまうことの方が多い気がしますし、全ての小説がそのスタイルを目指すとなると、かえって様式の「画一化」が進む懸念もあります。文学新人賞を受賞した小説が皆そうだとは思いませんが、前段の濃さに比べて、中盤から後半にかけてがいまいち盛り上がりにかける小説が多い印象を受けます。皆さんはどうですか?

小説には、凡そ「起承転結」があり、クライマックスに至るまでのプロセスの方が、僕自身は最終的には重要だと考えています。
「書き出し」から、いきなり小説の肝を持ってきて畳みかけてしまうのは、山登りに例えれば、最初からいきなりゴンドラに乗せて、苦労することなく山頂の眺めを見せるようなものなのかもしれません。

苦しみばかりを読み手に与える書き方は良くないと思いますが、いきなり「いい景色ばかりを見せたがる」のは、本来の登山で汗をかき、その苦難の末に見る「景色の素晴らしさ」を味わう愉しみを、最初から奪ってしまうことと表裏なのではないか。

「いい小説」と言われるものには、その頂上を目指すためのわくわく、どきどきするような「道標」が、きちんと記されている気がします。「書き出しの一文」と「道標」双方を充分意識した上で、これからも執筆していきたいと思います。


 

「再読」したくなる、小説の書き方。

高橋です。
秋雨が長く続いていて、このままだと、秋がなくて冬に突入する勢いです。
天気とは関係ないですが、このところ少し小説はお休みして、ブログばかり書いてる感じです。
ブログは同じ「書く作業」でも、小説と違って緊張感や気張ることがないので、気分転換するのに丁度いいのです。
今回は、「再読してもらえる小説」について、書きたいと思います。

■何度も読み返したくなる小説

読書する女性

「読み返す度に印象が変わる。だから、また読みたくなる」

最近、拙著「愛玉」という超短編小説に、こんな感想をいただきました。
正に作家冥利に尽きると言いますか、とても嬉しい感想でした。

一度読んだら本棚の裏側へ(あるいはブックオフ?)とかではなく、本棚でも直ぐに取り出せる場所とか机の脇とか、今の時代だと「電子書籍」やWEBをPCやスマホの「お気に入り」に入れて、時々、思い返すように、その物語を再び紐解く。

その読後の色彩は、以前感じたものとは微妙に違っていて、新たな色を発見したり、逆に不快な色がやけに強調されて目に飛び込んでくることがあるかもしれないけれど、でも、どうも気になって、捨てることも本棚リストから「削除」することも出来ず、またある日ふっと思い出したように、ページをめくるような、そんな小説。

小説家であれば、誰しもそんな小説を書いてみたい、と思うのではないでしょうか。

いわゆる「推理小説」のように、「犯人探し」をしたり、そのトリックや種明かしの妙を味わうことに主眼を置くような小説は、余程のことがない限り、「再読する」ということはないのではと思います(もう一度遡って、伏線を辿ったり、確認したりすることはあっても)。もちろん、地の文章を読ませたり、トリックよりも人間関係や、そこに至るまでの生き様に主眼を置いているような小説であればその限りではないですが。

同様に、ショートショートのような、オチで楽しませるものも、その類かと思います。別に、「再読されないから駄目」とか「再読されるから優れている」という優劣を言いたいのではありません。小説といってもとても幅広く、いろいろな書き方があり、テーマがあり、愉しませ方があり、読み手側も、そうした小説の性格を事前に理解しているからこそ、安心して楽しめる訳です。あくまでも僕が書いて行きたい小説として「再読してもらえるような小説が書けたらいいな」という嗜好の話ということです。

■言葉を「投げ置く」レイモンド・カーヴァー

大学生の頃に出会って以来20年以上経った今でも、僕が折に触れ無性に再読したくなる作家として、レイモンド・カーヴァーというアメリカの短編作家がいます。村上春樹氏の翻訳本が沢山出ているので、彼の著作が好きな人は名前を知っているかと思います。

レイモンドカーヴァーの本
一度でも彼の著作を読んだことのある方、「読み易いけれど、何か余白の多い作家だなあ」と感じませんでしたか?
ここで言う「余白」とは、行間、気配、間の取り方、会話、地の文、全てにおいて「あまり説明(描写)していない部分」が、意識的にしろ無意識的にしろ、至るところに散りばめられているということです。

こうした文体は、この作家が元来「詩人」であるということに由来しているのかもしれませんが、主人公のささいな仕草だとか、会話の断片をぽんと投げ置いて、読み手側に「想像する余地」をふんだんに与えるという戦術に見事成功している小説家なんじゃないかなと(もちろん、僕も見事にその術法に嵌まってしまっている訳ですが)

小説のニュアンスを文章で説明するのは少し難しいのですが、そうした文体の性格上、初めて読んだ人には、もしかしたら、いわゆる従来の「おもてなし」精神にのっとった仔細な風景描写、心理描写に重きを置く日本の小説とは違って、かなり不親切な、「ぶっきらぼう」な印象を受けるかもしれません。

また、カーヴァーは短編小説が主ですから、ストーリー展開の妙や、意外性を全面に打ち出しているタイプでもありませんので、1編読み終えた後、「ん? 今のは何だったんだ?」という感想を抱くかもしれません。

■小説を「書き過ぎない」ということ

しかし、これはあくまでも私見ですが、この作家の妙味はそこではなく、その余白部分を、いかに読み手である我々読者が埋めていくか、想像を広げていけるのか、ということに委ねている(あるいは、上手く利用している)ところだと思います。即ち、そこに「再読」の愉しみがあり、読む度に印象が変わる、という現象が生まれて来るのかなと。

これは正に詩を読む際の世界観じゃないでしょうか。
詩って、一度さっと流し読みしただけでは、多分「何これ」で終わってしまうんです。いや待てよ、まずこの一行目の意味は何だろう、そして繋いでいるこの接続詞が何故その言葉なのだろう、改行が何故このセンテンスで行われているのだろう、不自然ではないか、いやそこにどんな意図が籠められているのだろうなどと、とにかく、詩を読む時は、何度も何度も作者の書こうとしている、見つめている世界に寄り添っていかないと、こちらの想像力をフル活動させないと、字面だけでその意味を捉えるというスタンスでは正確に理解できません。

カーヴァーの短編小説には、その詩人としての言葉の使い方や配置の仕方が、芸術的なまでに首尾よく並べられていて、知らず知らずのうちに、作者の目線と同化している自身に気付くのです。

カーヴァーの話ばかりになってしまいましたが、つまり何が言いたいのかと言うと、再読を可能にしうる小説の肝というのは、「書き過ぎないこと」なのではないかということです。

作者は、おせっかいな説明を加えない。描写し過ぎない。饒舌にならない。読み手が自由に想像を膨らませられる「余白」は、残しておく。その塩梅、間合いについて、僕自身、これからも勉強していかなければならないと思ってますが、最近何となくですが、どうもそのヒントは、男女間の愛のコミュニケーションの取り方にあるのではないか、と密かに感じているところです。

【「レイモンド・カーヴァー」に関する過去記事】
レイモンド・カーヴァーの衝撃。
カーヴァー『僕が電話をかけている場所』再々々…読。
村上春樹氏の名訳で読むカーヴァー。

 


 

小説を「テーマ別」に分類してみました。

高橋熱サイトトップページ

こんにちは。高橋です。
すでにトップページを見ていただいた方はお気づきになったかと思いますが、告知の通り、サイト内にある60超の小説群を、「長さ」だけではなく、「テーマ別」でも探してもらえるように、下記のようなカテゴリーに分けてみました。

一つの小説が、複数のテーマを内包する場合は、それぞれに分類してあります。
テーマも、この分類の仕方でいいのかどうか少し自信のないところもありますが、一般的に誰が見ても分かり易いものということで、まずは9つ選んで当てはめてあります。もっと細かくしようと思えば、いくらでも細かくはできます。

これで、少しはミスマッチを解消できると思っています。
今後とも、よろしくお願いします。


幻想小説/世にも奇妙な物語  
夫婦小説・家族小説 
浮気小説・不倫小説/婚外恋愛 
恋愛小説・青春小説 
現代小説/文芸・文学 
ホラー小説・サスペンス小説 
コメディ小説 
女性が主人公の小説 
企業PR小説 


【関連記事】
小説をテーマ別に分類してみたくなりました。


2016-09-23 | 日常的なこと | No Comments » 

 

電子書籍の短編集を全て無料化しました【Kindle/楽天kobo】

こんにちは。高橋です。
世間は3連休のようですが、僕も3連休です。

■電子書籍、全て無料にしました

これまで、AmazonのKindle(キンドル)と楽天koboで販売しておりました電子書籍での短編集ですが、本サイトでも、小説は全て無料公開していることもあり、また電子書籍の方も、少しでも多くの方に読んで頂けたらということで、当面の間「無料」とすることにしました。

【電子書籍サイト】
Amazon (Kindle版)

キンドル自著紹介
▲自著紹介ページ(Kindle)

WEBページで小説を読もうとすると、どうしてもその特性上「横書き」となってしまいます。このサイトでももちろんそうです。通常の紙の書籍は「縦書き」ですから、慣れないと、読みづらかったり、目が疲れたり、読んだ気がしなかったり、集中できなかったり、想像を膨らませづらかったり、します。電子書籍であれば、基本、リアル本と同じ仕様になりますので、紙と電子の差こそあれ、WEBほどはストレスなく読めると思います。(もっとも、短編小説は短時間で読み終えることができますから、自分の小説に関しては、差異はあまりないのかもしれませんが)

今では、Kindle(キンドル)や楽天kobo(コボ)という、いわゆる「電子書籍専用タブレット」を持っていなくても、スマホやPCでも読めますので、「どうしても縦書きの仕様で読みたい」という方は、是非試してみてはいかがでしょう。
(下記【関連記事】にその方法を載せておきます)

■電子書籍の良さを多くの方に

無料にした理由はいくつかあるのですが、一番大きい理由は、やはり自著を少しでも多くの方に読んでもらいたい、との思いに尽きます。これまでも数々の電子書籍サイトで「有料販売」「無料販売」「無料キャンペーン」「販促活動(google アドワーズ)」等の試行錯誤を繰り返してきましたが、「自著を一番多く読んでもらう」という結果を出す手法は、「電子書籍サイトでの常時無料化」でした。

ちなみに、今回アマゾンで試行された「定額読み放題」の8月実績を見ましたが、自身の予想を上回るような、「有料販売を継続していくべきだ」という強い動機付けになるような材料は、正直ありませんでした。たかだか1ヵ月の試用期間の結果を見ただけで結論付けるのは早いかもしれませんが、どこの電子書籍サイトにおいても、出版点数がプロアマ含め日増しに増えていく昨今、最近では執筆時間の確保もままならない中では、「セルフパブリシティ」そのものの限界を感じるところもあり、もう、それならいっそ、全部無料にして、電子書籍界隈のすそ野を広げることにささやかでも貢献する、ということの方が良いのではないか、と。そして何より、自著を読んで頂ける方に、その心地良い「読み方」の選択肢を広げる、という大きな目的に徹していった方が、結果、自分も満足を得られるのではないかと考えました。

電子書籍は、それぞれの販売サイトから、無料であれ有料であれ「電子書籍」を「購入する」という形で、自分の電子書籍リーダーやパソコンにダウンロードするところから始まりますが、実際のところ、ダウンロード数が伸びたとしても、実際に「どこまで読まれているか?」という事実は不明です。ダウンロード数しか著者には分かりませんので、それっきり読まれない可能性もあります。しかし、無料化すると、有料販売時の数とは桁が変わってきます。そもそもダウンロードしてもらわなければ読まれる可能性すらない訳ですからね。

過去にも無料化したり、また有料販売に戻したり、そしてまた無料にしたりと、こらえ性のない、節操のない感じに見えてしまうかもしれませんが、その時その時、時局や環境変化に応じて、自分なりに一生懸命考え、選択している結論ではありますので、温かい目で見守って頂ければ幸いです。

【関連記事】
スマホでKindleストアの電子書籍を読む方法
パソコン(Windows)でKindleの電子書籍を読む方法


2016-09-19 | 日常的なこと | No Comments » 

 

小説をテーマ別に分類してみたくなりました。

高橋です。
すっかり秋な気配ですが、久しく太陽を見ていない感じがします。
日光消毒しないと、何だか身体がカビてきそうで嫌ですね。
それはともかく。

■小説の「長さ」による分類だけでは…

「PandoraNovels」内の小説が、短編、ポケットノベル全て合わせると、60を超えました。20代の頃からしこしこ書き続け、気が付いたらそんな数になってました。

「短編小説」しか書いてこなかった、ということ考えると、正直20年もあればもっと沢山書けたのではないか、という気もしますが、もちろん小説ばかり書いて生きてきた訳ではなく、その間には結婚して子供を育てたり、会社や組織でいい経験も嫌な経験もしたり、悲喜こもごも、それなりの人生経験を積みながら、毎日を送ってきました。小説そっちのけで、休みなく狂ったように仕事した時期もあったし、半年くらい全く小説を書かなかった(書けなかった)時期もあったりしたので、まあ、そんなこんなで、60もの小説を書いてこられたのは、幸せだったのかなと。

もちろん、全ての小説をサイトに公開している訳ではありません。書き損じた小説や途中で断念したもの、また一応完成はさせたものの、自身で納得していないものはPCのフォルダに仕舞い込んだままです。何度もリライトしている小説もあり、今サイトに掲載している小説の初期~中間バージョンのものも沢山あります。

内容の良し悪しはともかく、それでも60超の小説が並べているとなると、さて、この小説群を、どうやって皆さんに読んでもらえるようにしようか、ということを考えます。今は、自分で勝手に決めた小説(短編、超短編、ポケットノベルの3つ)のサイズ(長さ)別分類だけです。これだけでいいのだろうか、と。

現在のサイトにリニューアルしてから、もうじき4年が経過する訳ですが、それ以前、niftyとの回線契約の付録として、無料で割り当てられた容量の中で作った初代ホームページでは、「恋愛小説」とか「浮気小説」など、内容別に分類してしました。

高橋熱旧サイト
以前のサイト。懐かしい。ワードプレスではなくhtmlでちまちまと。
今見ると、レトロ感満載ですね(笑)

■小説を「棚分け」する

他の一般的な小説投稿サイトの分類だと、あらゆるジャンルの投稿者がいるので、まずは小説の大雑把な内容(「恋愛」「ファンタジー」「ホラー」「コメディ」「現代文学」など)で分類し、あとは長さ(「長編」「短編」)や読んだ印象(「どきどき」「切ない」「ほのぼの」「シリアス」など)でカテゴライズされています。小説を投稿する際には、それぞれその属性が選択できるようになっていて、そのカテゴリで検索すると、それぞれで検索に引っかかります。(「ネット小説ランキング」「アルファポリス」など)

ただ、いつもこうしたサイトに登録する際に悩んでしまうのは、「恋愛要素が多いSF的文学」とか「コメディタッチの青春小説」だったり、いくつもの要素が混在していて、一つのテーマでは括れないもの、「夫婦」や「家族」がメインテーマでもカテゴリにはなかったりと、しっくり分類できる項目がなく、結局、ほとんど全ての小説が「現代小説」なり「現代文学」の中に押し込める結果となってしまっています。

なので、自サイトで分類する時にも同様に、どんな項目がいいのかと考え始めると、これが結構難しく、どうしたものやら。「文章の長さ(読了時間)」での分類は、確かに分かり易いとは思うのですが、これだけだと「読んでみないと、内容が分からない」「楽しい小説を読もうと思ったのに、読んでみたら怖い小説だった」ということもある訳で、せっかくサイトを訪ねてきていただいた方に少し不親切なんじゃないかな、と思うようになりました。

普段使う「掃除用品」と「高級食材」を一つの棚に混在させて売るようなスーパーなんてありませんよね? もっとも、自分は有料販売してる訳ではありませんが、いくら無料とはいえ、貴重な余暇の時間を少しでも拝借する訳ですから、最低限「日用品」と「食料品」くらいの棚分けは必要かなと。少なくとも、旧サイトでは「恋愛」「家族」「夫婦」「浮気(不倫)」「空想」「シリアス」「コメディ」「短編」の8カテゴリには分類し、それなりのアクセスをいただいていたので、そろそろしなくちゃな、と思った次第です。

「短編」という分類は、小説の内容というより「尺の長さ」という別軸の分類なので、これはバツ。また「シリアス」という表現も、少し分かり辛いので、もう少し違った表現を検討した方がいいかもしれません。ただ、大よそ、自身の思いつくざっくりした分類としては、やはりそのレベルの分類が一番分かり易いのかな、と思っていますが、読んで頂く方の目線ではいかがなものでしょう。どんなカテゴライズが、一番小説を探し易くなるでしょうか。

「夫婦をテーマにした小説を読んでみたいな」とか、「浮気ものがいいな」とか、そういうモチベーションで探されるのでしょうか。また、何度もサイトを訪れて頂いている方と、「初めて」このサイトを訪ねていただいた方とでは、また違ったりもするのかもしれないですし。どちらを強く意識するかによって、また表現も変わるかもしれない。

初めての方には、一応「おすすめ小説」として、自己紹介的にリンクをいくつか貼ってはいます。もちろん、実際に読んでいただければ、高橋熱という書き手は「どんなテーマの小説を、どんな感じに、どんな印象で書いているのか」ということは、何となく分かってもらえると思いますが、初見の方には作品を読まずとも、高橋熱の作風を何となく伝えられるといいな、と思っています。

もちろん、プロフィールで自己紹介はしていますが、それだけじゃ良く分かりませんよね? 
音楽の世界だと、一目瞭然ならぬ「一“聴”了然」、それがクラシックなのか、ロックなのか、演歌なのか、すぐ感覚的に理解いただけるのですが、小説となると、ちょっと冒頭を読んだだけでは、実際の読後の印象、作者が「書きたがっていること」「方向性」を伝えるのは難しく、しかもオチやら、展開やら、登場人物やらでカテゴライズする(「BL」「ラノベ」「ショートショート」など)こともあったりしますから、そんな時に、分類項目を眺めていれば、何となくでも「ああ、そういうテリトリーのものをそんな長さで書いているんだな」くらいは分かってもらえるかもしれないと。読者が求めている小説との「ミスマッチ」も事前にある程度防げるのかもしれません。

ということで、まずは、近日中に自分なりのやり方で分類してみたいと思います。
他にもっといい分類方法がありましたら、是非ご教示くださいませ。


2016-09-17 | 日常的なこと | No Comments »