ムカデ

 男は晩酌をしていた。いつもの時間。いつもの食卓。
 妻と娘も同じように座り、もくもくと箸を動かしていた。
 特にこれといった会話はなく、テレビから流れてくるアイドル歌手の黄色い声だけが小さな音量で鳴っていた。
「あ」と娘は目を大きく見開いて、口に入れた箸を茶碗に置いた。「ムカデ」
 リビングの白い壁の上に、大きなムカデが一匹、天井に向かって這っていた。何節にも分かれ黒光りする胴体を器用に動かしながら、たった一度だけ家族が顔を合わせる夜の団欒中であることなど素知らぬ顔で、己が目的を達成しようとしていた。
「ねえ、パパ、気持ち悪い」
 小学生の娘は席を立ち、母親の腕にしがみついた。
 男は虫が大嫌いだった。小さな頃はそうでもなかった。カブトムシやクワガタで良く遊んだものだ。ゴキブリの死骸だって平気でティッシュで包んで捨てられた。
 しかし一定の時点を境に、昆虫を見るのも触るのも嫌になっていた。そんなものが食事をしているのと同じ空間にいる、と考えただけでもぞっとした。
「パパもやだよ」
「早く何とかしてよ」
「何とかしてって言われても」
 家族は皆黙ってムカデを見ていた。ムカデの歩行スピードは尋常じゃなく速かった。体をくねくねと動かすので、その都度、蛍光灯に反射した体がぬらりと光った。遠目で見ていても二十センチ近くはあった。
「あんなところで潰しちゃだめだよ。汁が出て壁が汚れちゃうから」
「気持ち悪いこと言わないでよ!」
 しゃべるばかりで、男の腰は中々上がらなかった。今の男に、ムカデを退治する度胸はなかった。ムカデを見れば見るほど、自分の腕に鳥肌が立ってきているのが分かった。
「ねえ、早くしてよ。こっちに来たらどうするのよ。サイドボードの裏なんて入っちゃったら、もうとれなくなっちゃう」
「そしたら、寝てる間に顔の上を」
「やめてってば」
 我ながら酷い冗談を言った、と男は思った。そんなことになるのを一番恐れているのは自分自身なはずなのに。
 行動を起こさない男を尻目に、妻は静かに椅子を下げ、ベランダから箒と塵取りを持ってきて、先週買ったばかりの四二型液晶テレビの台座を手前に移動した。
 それから塵取りをムカデの尾の方から壁にくっつけて箒でさっと払うと、ムカデははらりと難なく落ちた。妻はそのままベランダの欄干から身を乗り出して、ムカデを外に捨てた。
 マンションの四階、ここから落とせばきっと駐車場の植え込み辺りに着地する。戻ってこないという確証はないが、これでしばらくは平和な食事に戻れる。
「悪いね」と男はムカデを確保した塵取りを片付けている妻に言った。男の言葉に対して特にコメントはなかった。聞こえているのか聞こえていないのかも分からなかった。一仕事を終え、食卓に戻った妻の顔色は少し白っぽく見えた。
 男は冷蔵庫を開け、冷えたビールを一本食卓に置いた。妻と娘は何事もなかったように、再び箸を動かし始めた。妻にいくらか元気がない感じがしたが、男は構わず飲み続けた。また娘と昼間喧嘩したのだろう、というくらいにしか思わなかった。
 妻の不機嫌さは今に始まったことじゃない。いちいち気にしていると、こちらの気分まで滅入ってくる。男はそんな妻の態度をなるべく無視するように心がけた。そういう時は何を言っても、言葉尻を捕まえられて反論の雨を浴びることになるだけだった。せっかくの美味い酒も不味くなる。男の頭の中は、久しぶりの明日の休日をどう過ごすか、そのことばかりを考えていた。

 翌日、男が目覚めると、妻の姿はなかった。隣に敷いた蒲団だけが綺麗に畳まれていた。男の枕元にはボールペンで走り書きしたメモが残されていた。
「恐らく、私たちが何かの危険に晒されたとしても、あなたはきっと助けてはくれない。危険に晒されていることさえ気付かないかもしれない。あなたが大切なのは、いつも自分だけ」
 男は娘の部屋を覗いた。
 案の定、娘の姿もなかった。娘の布団はまだ少し温かかった。男は二日酔いで疼く頭を抱えた。動揺していた。思い当たるとすれば、それはこれまでの夫婦生活全てに心当たりがあった。
 男はぎゅっと目を閉じ、再び開けた。ピアノの奥の出窓の壁に黒い紐のようなものが見えた。なけなしの祈りも叶わず、その黒くぬらぬらした紐の先端は、折れ曲がるようにこれから進むべき方向に向きを変えた。(了)

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