どこか遠い場所

 少年は自棄になっていた。酒に酔ったのは単なるきっかけに過ぎなかった。職を探しても、今時中卒では採用してもらえるところなど皆無だった。家にいたところで、男女の醜い諍いを聞くだけだった。これまでの人生丸ごと寄ってたかって、今の自分を否定していた。このまま都会を離れて、どこか知らない土地にでも行ってしまいたい気分だった。

「北海道」
 少年は行き先を聞かれると、そう答えていた。
「北海道?」
 初老の運転手はもう一度聞き返した。
「そう、北海道」
 少年を見て、運転手はすぐにぴんときた。お金を持っていないことは明白であった。仮に持っていたとしても、何らかのトラブルに巻き込まれているのは必至だった。
「早く出発しろよ。殺すぞ」
 運転手の肩越しにナイフをチラつかせて、少年は言った。それは少年にも予期しない行動だった。しかしもう後戻りはできなかった。警察沙汰になっても構わなかった。むしろ、それを望んでさえいた。娑婆を離れた方が、人生をやり直せる気がした。
「北海道じゃなくてもいいから、とにかく、どこか遠いところに連れて行けよ」
 脅しには動じることなく、バックミラー越しに少年を見つめながら、運転手はしばらく黙っていた。見た目はとても可愛らしい少年なのに。運転手は少年には気付かないくらいの小さな溜め息をついた。
「本当にどこでもいいのかな」
「いい」
「わかったよ。わかったから、それは仕舞って」
 少年は素直にナイフを仕舞った。最初から本気ではない。とにかく、早くこの場から逃げ出したかっただけだった。
 車は中央高速に入り、東に向かっていた。行き先に関して、少年は既に興味を失っていた。運転手も、ただ黙って車を走らせた。ガソリンはさっき補充したばかりだったので充分だった。
 少年は、遅番のシフトで最初に乗せた客だった。まさかナイフを突きつけられるとは思いもよらなかったが、いつそんなことがあってもおかしくないと思っていたし、「どこか遠いところ」という少年の一言は、運転手にある決意を促すのに充分だった。

 丸一時間近く、二人は黙っていた。少年は小刻みに揺れる車窓から、遠くのビルの明かりを死んだような目で眺めていた。頭がくらくらして、今すぐ眠りについてもおかしくなかった。
 道路は空いていた。運転手は今までにないくらい慎重にハンドルを握っていた。まるでどこかの一流企業の社長を載せているかのように。自分の目指すべき進路だけを正確に見定めて、真っ白な心でアクセルを踏んだ。
「息子によく似てる」
 運転手は久しぶりに口を開いた。少年は閉じかけていた目を再び開けて、座席シートの後ろにある「自己紹介」を眺めていた。出身は「新潟県」。趣味は「読書」。つまらない男だ、と少年は思った。
「鼻筋から顎のラインにかけてが」
 別に運転手の話など興味はなかったが、それ以上話が展開されないことを願って、「だから何」とだけ少年は呟いた。
「オートバイ事故。対向車線にはみ出したところ、運悪く大型トラックに突っ込まれて。交通事故は無残な死に方だよ。幸い、苦しまずに一瞬にしてあの世に逝けたことが何よりの救い」
 ぐちゃぐちゃに大破したオートバイ。大型トラックの車輪に絡まった自身の姿を少年は想像した。少なくとも、ナイフを腹に一突きするよりは無残な最期だ、と思った。
「人間死ぬ時は、誰かを巻き添えにしたり、誰かに手間をかけさせてはいけない。それは最低の礼儀。だから君もナイフで人を刺したり、自分を刺したりしてはダメだよ。誰かが血を洗う手間を増やすわけだから」
 運転手は淡々と車を走らせた。少年は何も答えなかった。さっきまでの苛立ちが、潮が引くように醒めてきているのが分かった。それは運転手の喋り方がそうさせているのか、アルコール自体が抜けてきているのかは分からなかった。東京から離れていくのがただ単に嬉しいのかもしれなかった。タクシーは首都高を抜けて、既に関越自動車道に入っていた。
「何があったかは知らないが、自棄になっちゃ駄目だよ。まだ若いんだから。飴でも舐めるかい」
 運転手は釣銭箱の側に並べてある飴玉を一つ、少年に渡した。少年は言われるままに外装を外して、丸いピンク色の飴玉を口に放り込んだ。甘くてちょっと酸っぱい飴だった。遠い昔に知っているような味だった。
 運転手も同じように一つ口に入れて音を立ててしゃぶった。運転手にとっても、この飴は小さい頃から舐めている思い出の飴だった。
 もう腹は決めていた。明日からどうなるかなんて知る由もなかった。しかし今日という日を逃してしまったら、今までと同じような日々が延々と繰り返されるだけなのは分かっていた。これまでの何十年もそうであったように。
「眠ってしまっても構わないからね。着いたら起こしてあげるから」
 他のどこにいるよりも、タクシーというものがこれほど居心地のいい場所だったなんて。革調のシートがしっかりと自身の体躯を支え、空調が入っていることを全く感じさせない快適な空間だった。
 そして、運転手の言葉。話し方。ナイフを突き立てて息まいたさっきの自分の行動が、とても恥ずかしく馬鹿馬鹿しく思えた。
 少年は更に深く、シートに体を埋めた。眠る直前に、これほど静かな気持ちになれたのは久しぶりだった。次第に少なくなっていく街の灯が、少年を眠りにいざなった。

 外は少し明るくなり始めていた。
 少年は目を開けた。ずいぶん長く眠っていた気がした。運転手は相変わらず同じ姿勢で車を走らせていた。しかし車は既に高速道路ではなく、一般道を走っていた。ビルよりも、田畑や一軒家が目に付いた。
 やがて運転手は県道からはずれ狭い路地を進むと、小さなローカル線の駅前で車を止めた。ロータリーと呼べるほどの広さもなく、向こうまで簡単に見通せる木造の古い駅舎と自販機があるだけの駅だった。
「着いたよ」と運転手は言って、エンジンを切り、車を降りた。少年も一緒に降りた。朝のひんやりした空気が、二人の頬を撫でた。少年の頭はまだぼんやりしていた。ここが一体どこなのか、駅名を見ても見当もつかなかったが、とにかく東京からはずっと遠い田舎に来たのだな、ということは周りの雰囲気で分かった。
「君が望んでいた遠いところだよ。私の生まれたところ」
 運転手は上着を脱いで、運転席のシートに放り投げた。もうこれ以上、客を乗せて運転するつもりはなかった。最後の客が、自分の生まれた場所まで連れて来てくれたことを、むしろ感謝さえしていた。果たして、客と呼べるかどうかは疑問だが。

「ここには農家がたくさんあって、どこも若い力を必要としている。もしよかったら力を貸してくれないか。東京では君は必要のない人間だったかもしれないが、ここでは若い人はとても貴重な存在なんだ」
 少年は運転手の話を聞きながら、財布にいくら入っていたかを思い出した。札と呼べるものはすでになかった気がした。
 農業。全く未知の領域だが、「貴重」という言葉が、少年の耳の奥にしばらく残っていた。
「困ったことがあったらいつでも連絡しておいで」と言って、運転手は小さな紙に電話番号だけ書いて少年に渡した。
「これをもって、四十年間の運転手生活、終わり。母が病で倒れてね。丁度良かったんだ。ありがとう。君には感謝してる。ちなみに、この街ではナイフはリンゴの皮むき以外必要ない。それじゃあ。もちろん、料金なんていらないよ」
 そう言って、運転手はくるりと少年に背を向けて、タクシーを残したまま小さな街の中に消えた。タクシーのドアが開いたままだったので、少年は軽く手で押して閉めた。ばたん、と安っぽい音がした。もう一度ドアを開けて、残りの飴玉をポケットに詰めた。更に金庫を開けてみると、お金が剥き出しのまま残っていた。ざっと計算して、五万円くらいあった。少年はお札も一緒にポケットに突っ込むと、運転手とは逆の方向に向けて歩き始めた。
 歩きながら、これからの行く末について考えた。いくつかの商店を過ぎた後、途端に景色が開けて、緑の絨毯が広がった。街に凹凸はなく、押し並べて平坦だった。
 朝の空気はとても美味かった。「空気が美味い」という感覚を、初めて知った気がした。すぐ側に見える青い山の方から生臭い草の匂いがした。東京の街では経験することのない匂いだった。ここでなら本当に生きていけるかもしれない、と少年は思った。
 ポケットに手を入れた。運転手から手渡された、電話番号の書かれた紙きれをどうしても見つけることができなかった。どこかに落としてしまったかもしれないな。しかし、今更元来た道を戻って探すほどの気力は残っていなかった。
 少年は飴玉を一つ、口に放り込んだ。
 飴玉はさっき食べた時よりも一層、甘酸っぱく感じた。(了)

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