非情ベル

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『非情ベル』

 窮屈なその部屋には、つい今しがたまで別の愛の形が営まれていた痕跡で満ちていた。汗や香水や煙草や弁当の臭いが複雑に入り混じり、一昔前のポップスが忘れていた古傷を思い出させるように鳴っていた。
 ホテルのロゴがプリントされたダブルベッドの掛け布団。ひび割れた真っ赤な合皮のラブソファ。手垢だらけのガラステーブル。カバーの壊れたテレビのリモコンに自販機型の冷蔵庫。どれをとっても、森田耀司にはただ前近代的で不衛生に見えたが、繁華街から外れた人通りのほとんどない一角に位置するこのホテルは、人目を避けるという意味ではうってつけだった。
「ラブホテルなんて久しぶり。緊張する」
 新築祝いに訪れた友人の家を見るように、シオリはトイレや浴室やアメニティグッズを点検して回った。
「最後の一つだったね。滑り込みセーフ。さすが花金。あ、今は花金なんて言わないか」
「ちょっと死語かも」と言って、シオリは風呂場で笑った。「何か古い作りね。こういう段差、今あり?」
 ソファに腰を沈め、コンビニで調達しておいた缶ビールのプルタブを引き、まずは無事に喧騒から逃れることのできた幸運を祝うように、耀司は口を付けた。
「浮気とか不倫してる人って、実際どのくらいいるんだろう」
 シオリは独り言のようにそう言って、耀司の隣に腰を落とした。「ねえ、本当はもっと若い女の子が良かったって思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。シオリとこうなること、ずっと望んでたんだから」
「また上手いこと言って。他の人にも同じこと言ってるんじゃない? 慣れてる感じするもん。私は本当は何人目の女なの?」
「慣れてなんかないよ。俺だって結婚以来初めてだってば」
 大嘘だった。つい二ヶ月前も別の女性とここに来ていた。その女とは、耀司はもう二度と会いたいとは思わなかった。外見はともかく、「させてやるのだから男は当然奉仕すべき」という高飛車な態度とブランド品で身を固めた経済的余裕がどうも鼻持ちならなかった。
 真意を探るべく、耀司とシオリはお互い顔を見合わせた。先に目線を切ったのは耀司の方だった。「半年前の写真でごめんね」という枕詞と共に送られてきた写メと比較すると、実物のシオリははるかに太目だった。顔の皺や髪型も年齢以上に老けて見えた。少なく見積もっても十年は経過していると思った。屋外の暗がりの下ではそう目立たなかったが、室内の照明を通して見れば見るほど、バーチャルで想像していたシオリ像とは急速にかけ離れていくのを耀司は自覚していた。
「本当に会えたんだね」とシオリは頬を上気させて言った。
「会えたね」と耀司は無機質に答えた。「後悔してない?」
「コウキさんこそ、愛する奥様とお子さんがいるのに」
「家族の話はよそうよ。今は現実逃避の時間なんだから」
「だって、後悔してないなんて聞くんだもん。後悔するくらいなら、最初から会わないわよ。後悔してるのは、コウキさんの方なんじゃ」
 目を閉じると頭がくらくらしたので、耀司は急いで目を開けた。どうしてもテンションが上がらない理由について耀司は考えていた。もちろん写メの印象と違っていたせいもあったが「息子が学校で怪我をした」という妻からのメールのせいかもしれなかった。
 一瞬、どこかで自分の名前を呼ばれたような気がして天を仰いだ。「どうしたの?」とシオリは言った。「ううん、気のせい」と耀司は肩を竦めた。
「奥さんのこと考えてるんでしょ?」
「まさか」
 見透かされたようでどきりとした。奥さん、という言葉が重く腑に沈んだ。
「ごめん、現実逃避だったよね」
 申し訳なさそうに、シオリは頭を垂れた。
 シオリは自称三十五歳。見た目は明らかにもっと上に見えた。小柄のシオリを、座高の高い耀司は上から見下ろす形になった。頭頂部にはかなりの白髪の束が生えているのが見えた。近くに寄れば寄るほど、シオリの粗が見えるような気がして嫌だったが、辛うじて妻よりは女の匂いを感じた。しかしその唯一と言ってもいい優位性は、一度抱いてしまえばたちまち失われてしまうことは、これまでの経験則から容易に想像がついた。
「ビール飲む?」
 空にした缶を潰してテーブルに横たえながら、耀司はシオリに今更ながら聞いた。
「私は飲めないって言ったじゃん。顔真っ赤になっちゃうから」
「もう一本飲んでもいい?」
「お酒強いんだね」
 今度は部屋の自販機から耀司はビールを一本抜いた。大嫌いなサントリーだったが、今は銘柄などどうでも良かった。今度はもっと強く酔いが回って欲しい、とあえて目を閉じてみた。少しずつ脈が上がっているのが分かった。
 手持無沙汰にスマホを手にしたが、間もなくまた同じ場所に置いた。待ち受け画面は夏に撮影したはっぴ姿の息子の写真だった。「家族第一」と思わせる妻への対策的な意味もあった。しかし今だけは他の画像に換えておくべきだったと後悔した。息子は百人中百人が「母親似だ」と答えるほど、まるで妻そのものだった。
「浮気するような女性には見えないけれど」と耀司はシオリの方を見ずに言った。問いかけというより、沈黙の隙間を埋めるために取りあえず言ってみた、という方が正しかった。
「見えないって、だから初めてだから」
 シオリの膝はぴたりと閉じられ、両手は太股の下に挟み込まれていた。シオリの身が緊張で強張っていることは、耀司にも伝わってきた。
「旦那さんには何て言ってきたの?」
「昔の友達に会って来るって。うちは自由なの。お互い干渉もしないし。無関心っていうのかな。私が何をしようと、あの人には関係ないのよ。私も気にしてないし。夜だってほとんど家にはいないから。母子家庭にはもう慣れちゃった」
 シオリの表情は明るくもなく暗くもなく、中庸だった。
「旦那も浮気してるのかな」
「知らない、そんなこと。でも、そうかもしれない。いちいちそういうこと考えるの、もう疲れた」
 シオリは耀司にも聞こえるくらいの深い溜息をつきながら、耀司のグラスを手に取り、ビールを飲んだ。
「大丈夫なの?」
「少しくらいなら」
 直ぐには飲みこまず、口にしばらく含ませながら、やがて確かめるようにごくりと飲んだ。それからまた一つ、シオリは鼻から息を抜いた。シオリとの間に、見えない膜のようなものがあるのを耀司は感じた。それは余りにも薄く爪を当てれば直ぐに破けてしまいそうなものだった。細かい泡の粕が縁にへばりついた空のグラスは、今膜の向こう側にあった。
「コウキさんが羨ましい。奥さんを愛していて、息子さんを愛していて。私もそんな人と結婚したかった。素敵な旦那さん、素敵なパパ」
「全然素敵じゃないよ。素敵な人は浮気なんてしないよ」
「まあ、そうね。でも、私よりもずっとうまくいってるように見えるのに何故?」
「何故って、そんなにうまくいってる訳じゃないよ。長年暮らしていればいろいろある」
 耀司は答えに窮した。確かに、これまでに多くの夫婦の話を聞いてきた中では、自分はずっと恵まれている。子供は順調に育っているし、夫婦にも会話はある。裕福とまでは言わないけれど経済的には共働きをせずにやっていけている。ネグレクトもないし家庭内暴力もないし心配するような病いもない。
 しかしその「順調さ」こそが、闇雲に他の女性との出会いを求め続ける原因のようにも思えた。「家族とはこうあるべき」という理想が妻は人一倍強かった。それは半ば強制的に耀司にも押し付けられた。年を取れば取るほど、妻からの期待と要求の度合いは強まっていった。その「窮屈さ」から少しでも逃れたいのかもしれなかった。
「ごめん、気がつくと家のこと聞いてるね、私。羨ましいのよ、コウキさんが」
 それからしばらく、二人は沈黙した。シオリは耀司の次の言葉を待っていたが、耀司は全く別のことを考えていた。
「どうしたの?」
 膝頭を抱えている耀司の手の甲あたりに目線を下げながら、シオリは首を傾いだ。
「ううん、どうもしないよ。これからどこにキスをしようかなって考えてた」
 その言葉に驚いたのは耀司自身だった。いくら残念な女性でも何もしないで帰ることはさすがの耀司にもできなかった。それが後々面倒臭いことになると分かっていても。少しずつ酔いが回ってきているのかもしれなかった。
「え、何言ってるの」
 シオリは恥ずかしそうに俯いた。その瞬間、わだかまりの楔がわずかに引き抜かれていくのを感じた。
 さっきまでの混沌とした匂いは、今ではほとんど気にならなくなっていた。生温かいエアコンの風がシオリの髪を経由して耀司の頬を掠めた。
 シオリは小さく息を呑んだ。それを見て、耀司も気付かれぬよう真似をした。気持ちを落ち着かせようとする余計な力が、胸の辺りの筋肉を引き締めた。
 観念。耀司の頭をよぎったのはそんな言葉だった。自業自得。次はそれだった。ここまできたら諦めるしかない。ビールを一口飲んだ。瞼を閉じ、再びぎゅっときつく閉じてゆっくり開いた。脳に酸素がいかなくなったような眩暈に似た感覚が耀司を襲った。人工的酩酊。
 やるならさっさと片付けた方がいい、思うが早いか、耀司はシオリの肩を寄せ、顔を見つめ、口を近付けた。一旦体が動き始めるともう何も考えることはなかった。シオリの逡巡と緊張が混じり合ったわずかな抵抗が耀司の指先に伝わった。
 シオリは何も言わず静かに目を閉じ、耀司に体を預けた。メールでは、キスは挨拶と同じくらい当たり前な行為だったが、今は生々しい「現実の行為」として唇が重なりあった。
「キスが大好き」とのメール通り、シオリは耀司の唇から中々離れようとしなかった。耀司もキスは嫌いではなかったが、シオリの口臭が少し気になった。
 妻とのキスは、まるで同性にキスしているのにも似た違和感を感じていた。もちろん結婚前はそうではなかった。妻を愛し、キスをすることは人生そのものだった。式を終え、数年が経ち、息子が産まれ家族が増えてからというもの、その後はまるで戦争のような日々だった。瞬く間に月日は流れ、お互いそれなりに年を重ねていった。
 しかし、その間に何かが変わった。耀司が変わったから妻も変わったのか、妻がそうだから耀司もそうなのか。鶏が先か、卵が先か。恐らくはどちらも正解であり、誤りだった。しかし少なくとも、妻とのキスに違和感を感じることはあっても、口臭を感じることだけは一度もなかった。
 いつまでもキスを求めてくるシオリから少しだけ体を離して、耀司はシオリをベッドへ導いた。シオリは一瞬不満そうな顔をしたが、諦めて耀司の誘いを受け入れた。耀司の楔は人工的酩酊によって完全に取り除かれていた。それから二人が裸になるまでには大した時間はかからなかった。元々思い描いていたシナリオを大幅に簡略する形で、耀司は無感情にシオリの体を愛撫した。

   *

 「コウキ」や「シオリ」という名前は、二人がメル友サイトで使用しているハンドルネームだった。ちょうど一月程前、耀司のメッセージにシオリが反応したことをきっかけにやりとりが始まり親交を深めていった。
 募集をする度に、耀司のメールボックスはシオリのような日常に不満を持つ既婚女性たちの飢えたメッセージで満たされた。その中からフィーリングと価値観の合いそうな女性に目星をつけては、自身の妻にはもう何年も口にしたことのない愛の言葉を交わした。そのうちの何人かとは一緒に食事をし、ベッドを共にした。
 初めての相手は所沢に住む七つ年上の女性で、彼女は既に離婚話が進んでいた。これは危険だった。危うく耀司まで離婚を迫られるところだった。家庭があまり荒み過ぎているのは浮気相手には向かないということを学習した。
 二番目は、同い年の四人の子持ちだった。会う日程がお互い中々調整できず、これも難儀をした。ちゃんと記憶しているのはそこまでだった。後に寝た女性の属性など耀司にとってはどうでもよかった。会って寝るまでが楽しみだった。バーチャルで気持ちを高め、会って想像が正しかったかを確認する、そのための逢瀬だった。従って、耀司に「二回目」はなかった。期待外れだったと暗に相手に悟らせ、やがてうやむやのうちに関係を自然消滅させることが、耀司にとっては最良のクロージングだった。
「何考えてる?」
 行為を終え、天井に目を向けたまま、耀司はシオリにそっと聞いた。それは自分に対する問いでもある気がした。
「初めての相手がコウキさんで良かったなってこと」
 シオリは耀司の胸に手を載せて、乳首を弄んだ。
「初めてって、処女みたいなこと言うんだね」
「だって私、処女だもん」
 二人目の子供ができてから五年以上もレスなのと、シオリは言った。確かにこれじゃあ、と耀司は心の中で思った。
「ねえ、くすぐったいよ」
「男の人でもここ感じるって言うじゃない?」
 臆することなく体に触れてくるシオリが、行為の後では苛立たしく疎ましかった。しかしこんな彼女にも旦那と子供がいるのだ。もし今池袋のラブホテルで、名も知らぬ男の乳首を摘まんで抱きあっているなんてことを知ったら、いくら無関心とはいえ旦那はどういう反応をするのだろう。
 シオリも家では弁当を作り、掃除をし、風呂を沸かし、アイロンをかけ、学校の父母会に参加するごく一般的な主婦なのだ。旦那の仕事は夜遅いようだが、収入は安定しているようだった。それでもこうして異性との出会いを求めたということは、彼女にも何か切実なものがあるのだろう。ただ、耀司にとってそれは、セックスをした後では既にどうでもいいことだった。
「ねえ、結婚した当時、こんな風に浮気するなんて考えた?」
「いや」と、耀司は正直に首を振った。結婚式の時も子供が生まれた時も、妻を一生愛し続けよう、と固く心に誓ったはずだった。
「私、こう見えても本当に固いの。誰でも簡単に好きになったり、会いたくなったりなんてしない。本当にコウキさんが真面目で、素敵だなって思ったから」
 真面目。大きな溜息をつきたかったがそういう訳にもいかず、義理でも礼をとシオリに顔を向けたかったが、首を横に向ける気力もなかった。
「時間は何時まで平気なの?」
 リアクションの悪い耀司を不満そうに見やりながら、シオリは聞いた。
「十一時前にはここを出たい」
「そうなんだ。私はもう少し遅くても平気なんだけどな」
「理解のある旦那さんなんだね」
「さっきも言った通り、無関心なだけなの」
 それは耀司も妻から言われている言葉だった。髪を切っても、新しい服を買っても、部屋の模様替えをしても、指に包帯を巻いていてさえあなたは気付かないのだ、と。
 再び妻の顔がありありと耀司の頭に浮かんだ。いつも帰宅時に見せる、不機嫌で憂鬱そうな。それから、息子が怪我をした様子。膝を擦り剥き、左瞼が大きく腫れてしまっている映像。さすがにこれには耀司も辟易した。
 シオリとの時間をどう早めに切り上げようか耀司は考えていた。明日は息子の学校公開の日で、一時間目の国語から一緒に妻と見学に行くことになっていた。休日とはいえ、朝からのんびり寝ているわけにはいかないのだ。
 耀司は時計を見た。入室してから一時間半が経過していた。シオリは耀司の体温を求めた。今度は乳首ではなく、耀司の太腿に手を入れた。
「コウキさん」
 耀司は体をひねり抵抗した。それは素振りではなく反射的に。しかしシオリの手で、その縒りはたちどころに戻された。シオリは自ら耀司の口に舌を絡ませた。耀司は諦め、シオリを受け入れた。口臭は更に酷くなっているようだった。旦那というより男に対する溜まりに溜まった怨念のようなものを、徐々に攻撃的になるシオリの血走った目から耀司は感じ取った。ベッドを共にしていて、ここまで嫌悪を味わう相手はこれまでいなかった。
 それからシオリはふっと体を離し、動きを止め、耀司の視線の先に自身の目を合わせた。「今度はちゃんとゴムをしてね」とシオリは言った。「お互いが不幸にならないために」
 耀司は枕元のティッシュ箱に備え付けてあるコンドームの袋を確認してから、油断をするとたちどころに萎えてしまう気持ちを叱咤するかのように、シオリの乳房に置かれた手指を半ば自棄糞に動かした。

   *

 シオリがその音に気付いたのは、二人共裸のまま一瞬の眠りに落ちていた時だった。
「ねえ、コウキさん」とシオリは耀司の剥き出しの肩を揺すった。シオリに起こされなければ、もしかしたら朝まで寝入ってしまっていたかもしれないくらい、耀司の体は二度の交わりで酷く疲弊していた。
「やばい、すっかり寝ちゃったよ。そろそろ帰る支度しなくちゃ」
 耀司は知らぬ間にがっちりと繋がれていたシオリの手をやや強引に解きながら伸びをした。この汚泥のような体のだるさ。メールしている時にはあれほど求めていたシオリのはずなのに、満足とは程遠く、自分に割り当てられた課題がまた一つ増えたような感覚だった。
「聞こえる?」とシオリは言った。マスカラの取れかけた目は真っ赤に充血し、瞼に皺がいくつも刻まれていた。ホテルに来てセックスをしてから、更に十歳は老けこんだように見えた。
「非常ベル」
 我々は一度話を切って改めて耳を澄ませた。確かにダイヤル電話の呼び鈴のような音が、どこかで切れ目なく鳴り続けている。
「何だろう」
 両腕を上に上げて伸びた姿勢のままの耀司に、シオリは不安そうに言った。
「別の建物からよね?」
 その確認は希望的観測に過ぎなかった。誰かのいたずら、すぐに止むよ、と耀司も希望的観測を受け売りした。面倒に巻き込まれることだけは勘弁だった。
「フロントに確認しておいた方がいいんじゃない?」
「誤報だと思うけどな」
 二人はしばらく沈黙してその音が消えるのを待ったが、ベルはなかなか鳴り止まなかった。「ややこしいホテルだな、全く」
 上半身を起こして、足元に丸まっているユニクロのボクサーブリーフを履いた。「でももう着替えなくちゃ」
 耀司は受話器を取り、本体に貼られたテプラの指示通り「フロント9番」を押した。「駄目だ、話し中」
 何度かけ直しても同じだった。ワイシャツに腕を通しながら、玄関ドアの覗き穴から外の様子を窺おうとしたが、そこからは観葉植物と向かいの部屋番号しか見えなかった。
「こういう時ラブホって怖いよね。本当に火事なんてなったら、どうやって避難すればいいんだろう。皆、裸だろうし」
 怖いこと言わないで、とシーツを体に巻くように抱きしめているシオリを横目に、耀司はベッドサイドに腰掛けてもう一度フロントを呼んだ。
「フロントがこんな状態じゃ話にならない」
 部屋をさっと見渡した限り、外と繋がる窓もなさそうだった。
「本当にもう帰らなくちゃ駄目なの?あとどのくらい大丈夫?」
 シオリの声はわずかに震えていた。
「あと五分くらいかな」
「五分! そんな、五分じゃ私支度できない。メイクもあるし。シャワーも浴びて行かないの? 終電もっと遅くまであるじゃない。中央線でしょ?」
「ごめん、明日も早いし、帰りの時間うちのに言ってあるんだ」
「そんな、こんな状態でさよならするなんて嫌」
「妻に疑われたら、これから会えなくなるかもしれない。そうなったら嫌でしょ?」
 その一言はシオリを黙らせるには充分だった。「眠ってしまったのはもったいなかった。謝るよ」
 全く気持ちが籠っていないのを耀司も自覚した。抱えたシーツをようやく手放し、髪の毛を根元からしっかりかきあげて、シオリはけだるそうに床に落ちているブラに腕を通した。白く柔らかな胸には、先程の愛撫によって薄く赤みのさしている部分がところどころにあった。それはキスマークではなく、力任せに揉みしだいた耀司の乱暴な指の跡だった。
 会話が途切れても、ベルはいまだに遠くで鳴り続けていた。耀司は淡々と支度を進めた。腕時計をはめ、洗面所の鏡を見ながらネクタイを締めた。上の階では呑気にシャワーを浴びている音が聞こえた。それでも鳴り続ける非常ベルは、耀司を余計に苛立たせ、帰り支度を加速させた。
 シオリは溜息をつき、天井を仰いで目を閉じた。溜息は耀司にも聞きとれたが、何も答えることはできなかった。確かに電車はまだもう少し余裕はあった。しかし、もうこの場で、シオリと一緒の空気を吸っていることが何ともいたたまれなかった。眠ってしまったのは完全に油断だった。先にホテルを出るのは気が引けたが、この訳のわからないベルと狭い部屋から一刻も早く遠ざかりたかった。
「会ったのは間違いだった? やっぱりメル友のままでいた方が良かったみたい」
 シオリはくしゃくしゃに丸まった茶色のショーツを手に握り締め、俯いたまま言った。
「そんなことないよ。これまで通りシオリとメールもしていきたいし。また時間が合えば会いたい」
「本気でそう思ってる?」
「思ってるよ」
「顔にそう書いてない」
「書いたまま電車乗れないから」
「ねえ、今まで通り、朝も昼も夜もメールくれる?」
「もちろんだよ。会ったからって何も今までと変わりはしないよ」
 そう言わないと、いつまでもこの場がやり過ごせない気がした。
「信じていいのかな」
「またメールするよ。延長した分のお金はここに置いておくから。シオリ、本当にごめん。今日は会えて嬉しかったよ」
 耀司は一万円札を二つに折ってテーブルに置いた。シオリはまだ下半身裸のままだった。髪の毛先が何箇所か跳ねていた。口紅もほとんどとれていた。ベッドで二度も愛し合った女性とは思えないくらい、全くの赤の他人のようだった。
「ねえ、本当に火事だったらどうしよう。怖いよ。一人なんて寂しい」
「帰り道もずっとメール入れるからさ、ごめんね」
「コウキさん…」
 最後に耀司はもう一度「ごめん」とだけ言い置いて、靴べらで革靴を押しこみ逃げるように部屋を飛び出した。最後にシオリから何か声を掛けられた気がしたが、はっきりとした意味のある言葉として耀司には届かなかった。
 階段を下り、フロントを横切る時、中から叫ぶような大きな声が聞こえた。一組のカップルが慌てて外に飛び出して行くのが見えた。非常ベルが先程の音量とは全く違って、とても大きな音で鳴っていた。
 ホテルを出ると、複数の人影が路地を塞ぐように建物を見上げていた。南側の窓から、黒い煙がもうもうと立ち昇っているのが見えた。炎そのものは確認できなかったが、それがただのボヤではないことは、月の光を浴びながら不気味な渦を巻くように吐き出される煙の勢いで理解できた。ベルは誤報ではなく、本当の火事を知らせるものだったのだ。
 若いスーツを着た背の高い男と一瞬目が合った。こんな場所で誰とも目を合わせたくはなかった。シオリに火事の事実を伝えるべきかどうか悩んだが、深く俯いたまま小走りに路地を抜け、大通りの人波に乗って、まずは駅に向かうことだけを考えた。それ以上後ろを振り返るのが怖かった。
 ようやくホームに辿り着いた耀司の呼吸は酷く乱れていた。発汗しているのではないかと思う程、体中に熱が籠っていた。終電三十分前の電車は酷く混み合っていた。まるで通勤ラッシュだった。何とか一本のつり革にしがみつきながら、耀司はスマホを取り出し、「シオリ」専用のシークレットフォルダを開きかけたが、少し考えた末「家族フォルダ」を開いた。
 まさか起きてはいないだろう、と思って送った「帰るメール」には、妻から直ぐに返信があった。「接待、お疲れ様」という言葉と合わせて、子供の怪我の情報が補足されていた。鉄棒に頭をぶつけて少し瘤ができた、という程度のことだった。
 わざと心配させるようなメールを送るな、と言いたかったが、妻にとってこちらが出会い系で知り合った女と浮気をしている真っ最中なんて知る由もないことであり、止むを得ないことだと諦めた。
 次にシオリあてのメールを考えた。しかし何の文面もイメージできなかった。「直ぐに逃げろ」ということを知らせればいいだけなのに。
 耀司が部屋を出てから、既に十五分近くが経過していた。今どうしているのだろう。もう部屋を出ているだろうか。それともまだ状況が分からず、化粧でもしているのだろうか。そもそもメールなんかじゃなく、電話すべきなんじゃないだろうか。彼女に火事の状況を伝えられるのは自分しかいないのだ。
 とはいえ、メールにせよ、電話にせよ、今更シオリとの接点を作ることが耀司は怖かった。個人を特定できるような本名や住所は二人共知らなかった。唯一知っているのはメアドと電話番号だけ。メアドはいつでも破棄できるフリーメール。電話も一週間前に一度しただけだ。トラブルに巻き込まれるのだけは絶対にしてはいけない。今までも完璧だったし、これからも完璧でなければならない。
 電車に乗り、同じように疲弊した名も知らぬ市井の人々に紛れているうちに、耀司はようやく落ち着きを取り戻していった。もし万が一、あのままシオリが焼け焦げて死んだとしても、なぜラブホテルにいたのか、そのきっかけを作ったのが自分だったとは絶対誰にも知られてはいけない。そう思うと、シオリとこれ以上連絡を取ること自体躊躇われた。ここまで客観的でいられる冷酷さと非情さに、耀司は我ながら怖かった。
 胸ポケットの塊りがぶるっと振動した。全く油断していたので、びくんと体が反応し全身の毛細血管が硬直した。メールはシオリからだった。

「会ったのは、間違いだった?」

 メッセージはそれだけだった。少なくとも今は無事であることは間違いなかった。一体どこからメールしているのだろう。文面からはシオリの状況が掴めなかったが、火事に一言も触れていないところが却って気味悪かった。
 耀司は反射的に返信ボタンを押してはみたものの、文頭で点滅するカーソルを眺めているだけだった。会ったことは間違いだったか否か、そのどちらを答えたとしても、きっとシオリは納得しないだろう。耀司はしばらく考えた挙句、スマホの電源を切り、ポケットに仕舞った。
 吊り革に掴まったまま、耀司は手の甲に額をつけてうつらうつら意識と無意識の境界をさまよった。車窓に細かい傷のような筋がいくつも流れていた。雨が降り始めたようだった。もう二駅の辛抱だったが、抗いがたい睡魔が耀司を包みこんだ。目を開いたり瞑ったりを何度も繰り返した。
 逃げるように立ち去る耀司を恨めしそうに見つめるシオリの顔が脳裏を覆った。シオリの眼差しは真剣だった。玄関ドアの隙間からドライアイスのように床を這う白い煙でたちまち部屋は満たされた。裸のシオリが部屋の中で逃げ惑っていた。がくん、という自らの身震いで、耀司は目を開けた。周りの何人かが、耀司の方をちらと見た。何事もなかったように、耀司は路線図を眺めた。それからは一度も、睡魔を感じることはなかった。

   *

 翌日、耀司は朝食を準備する妻の皿の音で目が覚めた。瞼が筋肉痛になるとすればきっとこんな感じだろうというやる瀬無い痛みが、まばたきをする度に目の裏に広がった。息子が耀司の目覚めに気付き、布団の上にどすんと馬乗りになりながら「パパ、起きたぁ?」と掛け布団を叩いた。
 耀司は観念し、動く度に鳴る節々の関節の音に年齢の衰えを感じながら、一月前に死んだ家畜のような体をどうにか起こした。
 妻は黙々とご飯をよそっていた。洗濯機はいつものようにがたごとと音を立てていた。「おはよう」という耀司の呼びかけに「おはよう」と妻はいつも通り答えた。その後で少しだけ、耀司の顔をじっと見た。
 真顔の妻に耀司は一瞬にして居竦められた。まともに視線を合わせるのが怖かったが、逸らすのは逆に不自然な気がしたので、顔の緊張を解しながら極力平静を装った。
「昨日はあまり飲まなかったのね」と妻は言った。
「うん、途中からかなりセーブしたから。学校行くのに、酒の匂いさせていたら他の人に失礼だから」
「ちゃんと覚えてたんだね」
「当たり前だよ」
 茶碗をお盆に載せて運ぶ妻の後を追いながら耀司は言った。妻の態度も話しぶりも全くいつも通りなので、耀司は内心ほっとした。
 スーツもワイシャツもネクタイも細かいところまでチェックしたので、抜かりはないはずだった。シオリの化粧や香水がそれほど強くなかったのは幸いだった。
 ひとまず関門突破。しかし時計替わりに流していたテレビから「池袋のホテル」という言葉が聞こえた時、耀司は箸の動きをぴたりと止めた。
「昨夜十一時過ぎ、池袋のホテルで火災があり、身元不明の男女合わせて五名が死亡し、数名が負傷した」とアナウンサーは淡々と原稿を読んでいた。視聴者からの投稿映像として、激しく燃え盛る火の手が窓ガラスを突き破り、ホテルの屋外看板にまで達している様子が映し出されていた。鎮火に当たる消防車の回りを多くの人だかりが取り囲んでいた。看板には、昨日ベッドの掛け布団で見たのと同じロゴマークが暗闇の中で光っていた。画面は既に次のニュースに切り替わっていたが、耀司は魂のない木像のようにいつまでもその場で固まっていた。
「どうしたの?」と妻は言った。
「ううん、別に」
「昨日の懇親会、池袋だったんじゃない?」
「うん。こっちは西口の店だったから」
「こんな年の瀬に火事で亡くなるなんて、何ともお気の毒様ね」
 そうだね、と言おうとしたが、耀司の口から上手く声が出てこなかった。その間に「ほら、早速左手が落ちてる」と妻は息子を叱った。食事の姿勢については他の躾以上に厳しい妻だった。耀司は言葉を飲みこんで、中途半端に箸の先に付着していた目玉焼きの黄身を舐めた。
 妻からはそれ以上その火事に関する話はなかった。しかし耀司の中では、昨日池袋駅でシオリと待ち合わせをし、燃えたホテルの一室でビールを飲み、シオリと二度体を重ね、火災報知機の音で目覚め、シオリを置いて部屋を出ていくまでの一部始終が、早送りの無声映画のように流れていた。ホテルのロゴ。エントランスの看板。身元不明の五名の男女。
 食事が終わった後で、耀司はスマホをポケットに突っ込み、トイレの鍵を閉めた。シークレットを解除する指が震えているのが解った。何度も暗証番号を押し間違えた。焦るな、と自分に言い聞かせた。
 シオリからのメールはなかった。シオリ専用のメールフォルダは、0時3分、「会ったのは、間違いだった?」の問いかけが最後だった。
 耀司は便器に腰かけ、ズボンを下ろし小便をした。小便をする時、性器にちくりとした痛みを感じた。全体が腫れたように赤く、皮膚の一部があかぎれのように裂けていた。
 酔いに任せて力み過ぎだ、と耀司は思った。シオリの匂いや感触を思い起こそうとしたが無駄だった。キスの不味さだけが未だに口の中に残っていた。
 部屋を出てフロントを通る時、まだ火の気配は感じられなかった。煙臭くもなかった。シオリの帰り支度も着実に進んでいた。火が上がっていたのは上の方の階だったはず。我々が利用したのは二階。きっとシオリは首尾よく逃げ遂せているはずだ。亡くなった人にシオリが含まれている可能性は限りなく低い、せめて耀司はそう思いたかった。
 そして、もしあのままシオリと寝過ごしていたら、ということを考えた。あまりの息苦しさに目覚めると、既に部屋の中は煙で覆われ、視界はほとんどなくなっている。扉を開けることもできず、脱出する窓もない部屋で二人裸のまま成す術なく、次第にそのまま意識は遠のいていく。現場に丸焦げになった遺体。奇跡的に焼け残った財布から身元が判明。それぞれの家族に、警察から遺体確認の連絡。
「池袋のラブホテルで、お宅のご主人(または奥さん)が亡くなりました」
 その時の家族は一体どんな気持ちで現場に向かい、顔を合わせるのだろう。それを考えると、耀司はいたたまれなくなった。
 もしも死亡した五名の中にシオリが入っているとしたら。耀司は混乱した。少なくとも、自分が直前まで彼女と一緒に居た、という事実は誰にも知られてはいけないのだ。
 シークレットフォルダに登録されていたシオリの電話番号とメールアドレスを削除した。これまでにもらった受信メールは元より、シオリの画像も送信履歴も全て消去した。ついでにメイン画面の壁紙も息子ではなくデフォルトに戻した。今更そんなことをしても何の意味もないことは分かっていた。しかし、肌身離さず持っているスマホの中に、シオリとの痕跡を残すことが怖かった。
 忘れろ、と耀司は自分に言い聞かせた。昨夜の情事は妄想なのだ。シオリなんて女はいなかったしコウキなんて男もいなかった。存在しない者同士の出会いなどありえない話だったのだ。
「ねえ、早く出てよ」と扉の取っ手をがちゃがちゃと引っ張る息子の声で耀司は我に返った。思考停止、思考停止。耀司は何度も心の中でそう唱えながら、いつもよりやや多めに消臭剤を撒いた。

   *

 数日が経過してもシオリのことを忘れることはできなかった。忘れるどころか、より大きな存在となって耀司の日常を浸食した。考えまいとする意識が、より考えざるを得ない思考を導いていた。
 職場で少し手が空くと、検索キーワードにホテルの名前を打ち込んだ。火災に関する記事は様々なメディアで報道されていたが、どれも死亡した五名の身元に繋がる情報はなかった。仮に判明していたとしても、プライバシーの観点から公表されないのかもしれないと耀司は思った。
 早まらず、最後にもう一度シオリと連絡をとってみるべきだった、と耀司は後悔した。シオリに関する情報の全てを消し去った今となっては、シオリからコンタクトがない限りもう術がなかった。
 シオリの自宅があるのは埼玉県志木市。そこで彼女は両親と同居しているはずだった。会う場所を「池袋」に決めたのは耀司の職場が山手線沿線なのと、シオリが東武東上線一本で来られるからだった。
 葬儀。亡くなっているとすれば、当然の話だ。事情が事情だけに行わない可能性も考えられるが、あたってみるだけの価値はありそうだった。と思う反面、そんなことをして一体何になる、という思いもあった。徒労に終わるのはほぼ見えていた。
 いや、これ以上接点を作るまいと決めたはずではなかったのか。耀司は何度も自問自答した。しかし何かしら動いていないと不安だった。償いとも同情とも違う、もっと大きいものの何か。
 耀司はネットで「志木市内」の葬儀屋を調べ、憑かれたようにリストの上から順番に電話をかけた。本名が分からないので、性別とおおよその年齢を伝え、近日中にそうした葬儀が予定されているかどうかを聞くことにした。名前を言わないことを不審に思った一部の業者からは回答を断られるケースもあったが、大半は予定なし、ということだった。
 あの日からすでに一週間が経過していた。ひょっとしたら、もう葬儀は終わっているかも知れなかった。ひっそり、身内だけで。いや、そもそも亡くなっていないのだから葬式自体存在しない。そう思いながらかけた葬儀屋の一つから、思いがけない返事が返ってきた。
「お若い女性というと、水越さんのご葬儀のことでしょうか?」と年配の業者は言った。
「そうです。あまりに突然のことだったので」と耀司はそのまま繋げた。
「あんな火事でお亡くなりになるなんて。それは、ご愁傷様ですね」
「葬儀の日時を教えていただけますか?」
「明日の六時からお通夜、明後日十時より告別式になります。場所は志木東セレモニーホール」
 埼玉県志木市在住。若い女性。火災で死亡。ここまで符合していればほぼ間違いないのではないか。「あんな火事」と葬儀屋は言ったのだ。
 電話で教わった斎場を直ちにネットで確認した。マウスを包む耀司の指先は震えていた。予定を手帳で調べ、特に何も入っていないことを確かめた。
 翌日、妻には「会議で少し遅くなるかもしれない」と言って家を出た。「いつものことじゃない。いちいち言わなくても」と妻は言った。限りなく黒に近いスーツを着て、黒いネクタイを鞄に忍ばせた。
 浮気相手の生死を確かめるために葬儀場まで行くなんて常識的に見ても馬鹿げていると思ったが、もし本当にシオリが亡くなったのだとすれば、いくら期待外れだったとはいえ、このまま一生妄想の記憶として葬り去るには、あまりにも不憫過ぎる気がした。少なくとも、亡くなる間際まで一緒にいたのは、旦那でも子供でもなく、つい一月ほど前にバーチャルで知り合ったばかりの男なのだ。
 耀司の妻は、今夜夫がどこに行こうとしているのか知る由もなく、とびきりの笑顔で見送った。耀司にとって、妻の笑顔は時に胸の奥深くまで突き刺さった。浮気をしようとする当日は大抵、気味悪いほどの笑みを浮かべるのだ。まるで何もかも見通されているかのように。
 夕刻、一時間の早退届を出して、五時過ぎの山手線に飛び乗った。耀司の頭はシオリの遺影が掲げられる大きな祭壇で一杯だった。
 水越。ミズコシ。シオリの本名はそんな名前だったのだろうか。メールアドレスの一部に「aqua」という言葉が使用されていたことを、耀司はふと思い出した。
 駅から歩いて十分程のところに、そのホールはあるはずだった。歩きながらネクタイを締め直している間、何組かの礼服を着た若い男女に追い抜かれた。
 式場の入り口には「水越家」の看板が立てられていた。記帳所の前に大きな人だかりができていたが、参列者はまだそれほど多くはないようだった。建物の奥の祭壇には遺影が掲げられ、白を基調とした生花が遺影を取り囲むようにして隙間なく敷き詰められていた。
 受付を無視して、耀司は「第二斎場」と掲示された建物の中へ歩を進めた。最前列には、喪服を着た女性が座っていた。喪章を上着に付けた背の高い男性の足元に、幼稚園児くらいの二人の子供がまとわりついていた。焼香はまだこれからなはずなのに、既に場内はその臭いで一杯だった。
 遺影の女性は、そこから見渡せる人々をくまなく包みこむような温かい微笑みを湛えていた。激しく心臓が鼓動していることを誰にも悟られないようにしながら、耀司はじっと遺影に目の焦点が合うのを待った。ボブ風の髪型に小麦色の肌。目尻はやや下がり、面長の輪郭に尖った顎のライン。右の小鼻の横に大きな黒子。それに引きずられるように口元が開かれ白い歯がこぼれている。
 耀司の体からすっと緊張が解けた。写真は全くの別人だった。シオリは小麦色の肌ではなく小鼻の横に大きな黒子もなく、目尻はむしろ上がっていた。
 耀司は目を閉じ、その場で大きく深呼吸をした。安堵のせいなのか外気の寒さなのか分からなかったが、膝が笑っているのが分かった。二階、石油ストーブ、介護、と背後にいる人の会話が部分的に強調されて耀司の耳に届いた。
 正門に向かいながら、耀司はスマホで時間を確認した。今すぐ戻れば、久しぶりに皆で食卓を囲めそうだった。
 ネクタイを緩め、ワイシャツの第一ボタンを外した。電灯の少ない路地に落ちる月明かりは、すれ違う参列者の吐く白い息を幻想的に反射した。これから通夜が始まると言うのに、一人だけ駅に向かって歩いているのが、何となく後ろめたかった。
 耀司はふと火事で亡くなった「水越」という名の女性について考えた。喪章を付けていたのは旦那だったのだろうか。小さな二人の子供を残して、不慮の事故でなくなることの悲しみ。
 それからあの日のこと。ホテルの窓から立ち昇る黒煙。フロントの絶叫。別れ際のシオリの寂しげな瞳。面倒な事態に巻き込まれることを恐れ、まるで売女に金を放るように、ホテル代だけを残して部屋を立ち去る自身の姿。電源が落とされ、耀司の内側はたちどころに空白で満たされた。自分の身体なのに自分の身体である実感が今一つ持てなかった。
 国道に出るちょっと手前で耀司は立ち止り、空を見上げた。ついさっきまで煌々と降りていた月明かりはどこかに消え、頭上は暗く重い灰色の雲に満遍なく覆われていた。

   *

 その夜、耀司はうまく寝付けなかった。暑くもないのにやたらに喉が渇いていたが中々起き上がる決心がつかずにいた。
 隣の妻は規則的な寝息を立てながら布団を首まで上げて眠っていた。結婚したての頃なら、平気で布団にもぐりこみ絡んでいったものだが、今では無謀な試みだった。隣で子供が眠っているということもあるが、何しろ変な時間に起こされた時の妻の機嫌は最悪だった。妻の眠りはここ数年でとても深くなり、鼾をかくようになっていた。
 やっとの思いで布団から抜け出し、冷蔵庫よりも冷えた水道水をコップ一杯飲んでから、再び布団にもぐりこんだ。息子も妻と同じ方向を向いて行儀よく真っ直ぐな姿勢で眠っていた。しばらくうとうとした感じはあったが、寝た自覚はなかった。時間を見ると、水を飲んで横になってから三時間が経過していた。
 どこかで、ぱちん、ぱちん、と何かがはじけるような音が聞こえた。最初、それは大きな家具の軋みや何かと思われたが、それにしては頻度も高く持続していた。
 耀司は寝返り、体の向きを変えた。瞼は目やにの塊で重く半分程度しか開かなかった。庭に面したリビングの二重ガラスが真っ赤に光っていた。光は大きくなったり小さくなったり形を目まぐるしく変えながら、時に強くガラスに打ちつけていた。
 中途半端な覚醒の中で、耀司はその赤色の正体と事態の大きさをおぼろげに把握した。この勢いでは、妻と娘が楽しみに育てていたカランコエとマーガレットは間違いなくやられているはずだった。
 妻を呼び起こそうとするものの、喉が締め付けられてうまく声を上げることができなかった。体が金縛りにあったかのように硬直し、改めて寝返りを打つこともできなかった。耀司はただ、燃え盛る炎が庭から家屋を今正に飲みこもうとしている様を眺めているしかなかった。
 耀司は静謐だった。わずかに室温が上昇してきているのを頬で感じることができるくらい落ち着いていた。いや、それは落ち着いているというより諦めに近かった。耀司は住宅ローンがあと何年残っていたかを思い浮かべ、そして耐火建物と言われているものが、外からの攻撃にどこまで耐えられるのかを考えた。そして唾液を呑み込もうとしたが、口の中がからからに乾いていて、胃液を吐いた後のような苦い感覚が、鼻の奥から喉元にかけて抜けている穴を塞いだ。
 もう一度このまま何事もなかったかのように、耀司はぐっと眠ってしまいたかった。面倒な事はもうたくさんだった。しかしそれはきっと神様が許してはくれないだろう。自ら蒔いた種。自業自得。
 火は既に南側にも回り込んでいるようだった。真夜中であるはずなのに、まるで夕焼けに染まる海のような明るさだった。遠くでサイレンの音が聞こえ、誰かがインターホンと扉を叩打する音が同時に聞こえた。
 激しく猛り狂う炎の向こう側で、家の様子をじっと見つめている小太りな女性の姿が見えた。その表情は最初は泣いているようにも見えたが、じっと見つめていると、笑っているようにも見えた。
 ごく最近まで、耀司はその女性のことをとても良く知っている気がした。(了)


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