既婚同士で話しませんか?

kikon

『既婚同士で話しませんか?』

 鉄橋越しに細く蛇行した川が流れ、手つかずのブッシュが横切り、遠くの山々は一番遅く視界から消えていく。
 もみくちゃの通勤電車の虚脱の中で、今日の成すべき事を考える。最近、勤務時間中は、仕事のことより、仕事以外のことを考える時間の方が多い。
税金泥棒。
 携帯を取り出し、着信履歴とメールをチェックする。そして、そのまま一時間程、目的の駅に着くまで、僕は直立したまま、セメントのように眠り続けた。

   *

 会社は神田駅から歩いてすぐの場所にあった。老朽化した建物は、四十年分の排気ガスを吸って完膚なまでに煤けていた。
 職員数二十数名の、とある国の外郭団体。 そんな会社を選んだのは本意ではなかったが、何より交際相手に子供ができてしまったので仕方がなかった。
「三十過ぎてもまだ『新人』だもんね」
 社内で「新人」と言えばもちろん僕しかいない。ここ何年も新規の人材採用を見送っている。もっとも、大した労働量ではないので、誰かが辞めても残されたものだけで充分仕事は回る。聞こえないふりをして、各デスクの紙くずを集め続ける。
「民間の会社はリストラの嵐なのに、こういうところは無関係だから。平社員より役職者の方が多いってどんな組織なんだろう。ねえ、一枚頂戴」
 そう言って、マキはゴミ袋をひったくるようにして抜き取り給湯室へ向かう。 僕はつんと張り出したマキの豊かな尻をしばらく眺めている。

 彼女は勤続二十年のベテラン職員だ。子供がいないせいか、とても四十の年には見えない。ファッションもメイクも若々しいし、仕草もどこか誘惑的である。
 もちろん個人的にも容姿は嫌いではないし仕事のこなし方もそつがなく感心するが、色気を武器に役員を取り込み、影の人事権を握る偏った存在感がいまいち好きになれない。

 予定通り、仕事は午前中で終了。簡単な伝票整理と文書作成。仕事は他にもあったが、明日の仕事がなくなるのでそれには手を付けない。
 熱いコーヒーを入れデスクで飲む。コーヒーでも飲んでいなければ、仕事のないデスクワークで半日潰すのはとても苦痛だった。
 幸い、光ファイバーと無線LANが整備され、ノートパソコンも各人に割り当てられている。建物の外観によらず、通信環境だけは抜群にいい。会計ソフトとワープロソフトを使うだけでどうしてこれだけの設備が必要なのか理解できないが。

 椅子に腰掛けながらぼんやり時計を眺める。出張や上部団体へのお伺いで役職者の大半は出払っている。マキは片足だけパンプスを脱いで足を組み、つま先を小刻みに揺らしながら、こっそりファッション雑誌をめくっている。
 メールチェックといくつかの情報サイトに目を通した後、僕は「お気に入り」フォルダにある地域限定のアダルト系チャットサイトを開く。

 空室ゼロ。

 最近はこんな時間でも部屋が埋まっている。暇な人間というのは大勢いるものだ。しばらく「更新」ボタンを押し続けるがなかなか部屋が空かないので、諦めてコーヒーを入れ直す。

ルーム1 「ひろ こんな時間だけどまったりしよう(主婦の方限定)」
ルーム2 「翔  サポ希望・JK以下・込5@渋谷」
ルーム3 満室
ルーム4 「ミチル TELで感じてみない? 初心者の方も気軽にどうぞ」
ルーム5 「けん 初体験してみたい十代の女の子おいで(世田谷・三十代)」
ルーム6 満室
ルーム7 「ゆきこ としさん、ここです」
ルーム8 「なお 露出好きな方。じっくり見てあげるよ」
ルーム9 「俊之 家事、育児でストレスの溜まっている奥様♪」
ルーム10 「調教師S じらされたり恥ずかしい格好させられたりするのが好きな淫乱M女」
 
 マキが衝立越しに何か話しかけていたが、適当な相槌を打ちながら、ひたすら「更新」ボタンを押す。部屋の一つが「空室」になったが、次にボタンを押した時にはもう違う人間で埋まっている。
 やれやれ。
 画面をゆっくりスクロールさせ、刹那の出会いに満足を求める懲りない面々をゆっくり眺める。

ルーム11 「TOSHI 楽しく電話で話しませんか。気が合えば会いたいです」
ルーム12 「はるき 軽く雑談」
ルーム13 「ろっきぃ チャHしませんか?」
ルーム14 「瞬 あなたの写真でイカせてください(三十歳、童貞)」
ルーム15 満室
ルーム16 「BB 母親のあなた……下着泥棒を繰り返す私をおもいきり叱ってください!(イメチャ)」
ルーム17 「けん おっぱいの大きい方とお話したいな♪」
ルーム18 「漣 近所では良妻賢母の幸せな家庭を演出する貴女☆現実は家事や育児に追われ旦那からはただの家政婦扱い☆夫婦生活もなく女としてのときめきも刺激もない日々☆そんな日常が嫌になりませんか☆ありのままの自分をさらけ出す解放感☆一枚ずつその偽りの衣を剥ぎ取り素直な貴女を語ってください☆きっとそこには魅力的で素敵な本当の貴女の姿が☆自分再発見の旅お手伝いします(五十代・総務部長)」
ルーム19 満室
ルーム20 「まる 近親相姦の経験のある者同士☆」

「その年でゴミ拾いさせられてる自分が惨めに思わない?」
 うるさいな、と喉元まで出かかるが、直前で言葉を飲む。マキへの口答えは人事考課にも影響をしかねない。本当にそうですよね、と取りあえず答えておく。 それよりチャットルームが一向に空かない。目の奥にやるせない鈍痛。

「本当にそうですよねって何? あなたって、何考えてるか分からないね」
 フリスクをいじりながら、彼女は不思議そうに眉をひそめる。マキのような女性も、こういうところでチャットなんてするのだろうか。
 諦めてブラウザを閉じ、冷めたコーヒーに口をつける。
「こういう人を旦那に持つ奥様も大変だろうなあ」とぽつり呟いてから、マキは机の上の雑誌を仕舞い、面倒臭そうに仕事にとりかかる。

   *

「今年、七五三をすべきだと思う?」と帰宅するなり妻が言う。娘はリビングでテレビを見ている。
「実家に聞いたら、数え年でやるのが普通だって言うの。最終的には任せるって言ってるんだけど」
「任せられてもね。そういうことは分からないな」
「分からないなんて他人事みたいに言わないでよ。あ」
 くしゃみの音がすると、妻は決まって娘の元へ飛んでいく。僕はシャツのボタンをはずすのに手間取りながら、心の底からどっちでもいい、と思う。
 食欲はなかったが、何も食べないと「何も食べない理由」を説明しなくてはならないのが面倒なので、仕方なくテーブルに座り味噌汁の具ばかりを無理やり口に押し込む。
 妻はビデオを見ながら、密度の薄い娘の髪の毛をゴムで束ねている。とろる、とろる、と、真子はブラウン管を指差す。
「そう、トトロよ。上手に言えるようになったねぇ」と言って、妻は微笑む。何か応答しようにも口の中の物が邪魔をして、うまく声を出すことができない。「年の割りにやけに言葉の覚えが遅いんじゃないか」とは口が裂けても言えなかった。

 その夜、妻が求めてきた。しかし僕にはその気力はなく、妻に背を向けた状態で意識の端境を彷徨っていた。
「今日はちょっと疲れているんだ、ごめん」と言って妻の手を軽く握り返す。「いつもそうじゃない」と、妻は手を払いのけ、熟睡している子供の方へ体を向ける。
 愛情云々の話ではなく、肉体的にも精神的にも疲れ切っていた。体がこれほどだるい理由が自分でもよく分からなかったが、最近はアパートの僅かな階段を昇降したりバスルームとダイニングを隔てる段差を超えることさえ億劫に感じる。こんな状態で試みたところで、相手を失望させることは目に見えていた。
 地の底に引きずり込まれるような睡魔。
 気力を振り絞って、もう一度、目覚しが所定の時間にちゃんとセットされているかを確認してから、毛布を首まで上げ直す。

   *

 午前四時、目覚ましの音と共に起床。
 条件反射のように布団から抜け出し、リビングと和室とを結ぶガラスの引き戸を慎重に閉める。用を済ませ、防寒対策にユニクロのフリースを着る。
 そしてリビングの一角にあるデスクトップパソコンが立ち上がるまでの間に、コーヒーメーカーに二杯分の水を入れ、ドリップスイッチを押す。
 これが最近の僕の日課だ。不思議と、早朝だけは頭がはっきりとしていて、目覚めもいい。体の動きも一番軽快だ。自分だけの世界に浸ることのできる、唯一の時間だからかもしれない。
 スリッパを履き直しキーを叩く。休前日の徹夜組が多く手間取ったが、ひとまず部屋を確保する事はできた。

「拓哉 既婚同士で話しませんか?(都内・30代)」

 いつものハンドルネーム。いつもの待機メッセージ。一分もたたないうちに、一つの反応。

(お知らせ)エリさん(女)が入室しました。
(エリ)おはよーー
(拓哉)おはよう。初めまして
(エリ)いまね、シャワー浴びてバスタオル一枚なの。そしたら、とてもエッチな気分になって、ついきちゃいました♪
(拓哉)そうなんだ
(エリ)乳首がすっごく敏感なんだ……エリ
(拓哉)今すぐそこに飛んでいきたいな
(エリ)ねえ、エリのこと、想像してる?
(拓哉)うん、凄く
(エリ)勃起してんじゃねーよ 
(エリ)ばーか 
(エリ)変態野郎 
(お知らせ)エリさん(女)が退室しました。

 これでは、男女の区別さえする間もない。こういう輩は何度経験しても後味悪い。

 部屋の西側のカーテンレールにぶら下げられた洗濯物はタオルやガーゼばかりだ。一度使って汚れたものはすぐに濯いで洗濯籠に放り込まれる。潔癖症というか、神経質というか。真子が生まれてから妻のその性格は一層洗練された。

 自動車のヘッドライトが台所の窓を黄色く照らし、路面の水を巻き込みながら急勾配の生活道路を駆け登っていく。車の後には、再び厳かに回り続けるCPUクーラーと雨の音。
 仕方なく別のウィンドウを開いて、サイトの掲示板を眺める。
 そして、再び入室を知らせる合図。

(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が入室しました。
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が退室しました。
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が入室しました。
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が退室しました。
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が入室しました。
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が退室しました。
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が入室しました。
(鉄槌天使)死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
(お知らせ)鉄槌天使さん(男)が退室しました。

 やれやれ、今日は荒れ過ぎだ。
 ハンドルネームと待機メッセージを変更しようかとも考えたが、そういう問題でもなさそうだった。こんな時はおとなしく「荒らし」が通り過ぎるのを待つしかない。

 「強制退室」ボタンを押して画面をクリア。制限時間、残り三時間十三分。
長年の猫背が崇り、腰には針を刺すような痛みが定期的に走る。声が勝手に漏れるくらい大きな伸びをして椅子に深く腰掛ける。襖が開いたような音がしたので咄嗟に振り向くが、空耳だったようだ。

 別ウィンドウで部屋の様子を見る。もう半分以上が空室になっている。徹夜組はそろそろ寝る準備に入る頃だ。
 反対に、夫の目覚める前、あるいは出勤を見送った後の主婦たちが、家事や育児からのささやかな解放を求めてどこからともなくやってくる。
 僕がこの時間を楽しみにしているように、多くの既婚女性たちも、夫には内緒で現実逃避の相手を探している。
 みうが入室するまでの三十分間は、先程の「荒らし」が懐かしくなるくらい平穏な時が過ぎ、画面のカウンターだけが淡々と減っていった。こちらは携帯電話の請求書を眺めていて、彼女が入室したことにしばらく気付かないでいた。
 
(お知らせ)みうさん(女)が入室しました。
(みう)おはよ
(みう)……
(みう)いる?落ちてるかな?
(拓哉)おはよ。ごめん、よそ見してた
(みう)あ、いた!
(拓哉)この前は盛り上がったね
(みう)うん。覚えていてくれたんだね 
(拓哉)もちろんだよ。とても魅力的だった、みう
(みう)改めて言われると、恥ずかしい

 「平成二十四年度事業報告書」と題されたワードファイル以外のウィンドウを全て閉じて、キーボードを手前に引き寄せる。

(みう)今日は一日雨みたいね
(拓哉)旦那さんは?
(みう)仕事。夜も遅いの
(拓哉)子供さんはいないんだっけ?
(みう)うん。拓哉は?
(拓哉)もうすぐ二歳の女の子が一人
(みう)女の子じゃ可愛くてしょうがないでしょ?
(拓哉)いろいろと大変だよ。ネットだって朝しかできないし
(みう)それは既婚者の宿命ね。仕方のないこと
(拓哉)みうは一日中チャットしてるの?
(みう)まさか。フルタイムで仕事してるし、家事もしなければいけないし
(拓哉)両立は大変だよね
(みう)でも男の人ってそうは思わないんでしょう? いつも「自分が一番大変」て思ってる
(拓哉)余裕がないのかな
(みう)仕事はお金もらえるけど、家事は無報酬労働。専業主婦はそれを毎日繰り返してるの。地獄だと思わない?
(拓哉)何となく
(みう)本当の苦労は男の人には分からない。食べさせてもらってるんだからって割り切る人もいるけど自分にはできないな。だって、私は食べさせてもらうためにその人と結婚したわけじゃないから。食べさせてもらうだけなら、結婚しないで実家にいた方がよっぽど楽じゃない
(拓哉)まあ、確かに

 六時四十分。炊飯器の蓋から蒸気が昇り始める。2DKの狭い部屋の中で、もう一度聞き耳を立てる。
 炊飯器。CPUクーラー。雨。自動車。キーボードのタイプ音。
 お願いだから、二人にはもう少しだけ眠っていてほしい。

(みう)昨日、一昨日と、拓哉いなかった
(拓哉)寝坊したり、妻が起きてたり。でもずっと、みうのことは気になってたよ
(みう)本当? 嘘でも嬉しい
(拓哉)嘘じゃないよ。仕事してても、この間のこと思い出したりして
(みう)私もよ。あの後シャワー浴びながら、ずっと余韻に浸ってたの。恥ずかしいけど
(拓哉)みう
(みう)ん?
(拓哉)いや、何でもない
(みう)なに? 気持ち悪い

 今までに味わった事のない不思議な感覚が胸一杯に広がる。寒くもないのに身震いし、「何でもない」という言葉を打つのに三度もタイプミスをする。
 切ない。
 どこの誰かも分からない人妻にここまで魅せられるなんて。いや、まだ本当に彼女が人妻である保証はない。顔の見えないチャットの世界では、「みう」が男である可能性さえ否定できないのだ。先の「荒らし」のように。

(拓哉)ねえ、みう
(みう)ん?
(拓哉)次はいつ会えるのかな
(みう)ねえ、会ったばかりでもう次の約束してる
(拓哉)明日は会える?
(みう)明日は本当は休日なのに出勤なの。事務所の空調工事の立会い。
(拓哉)妻が実家に帰るんだ
(みう)そうなの?
(拓哉)明日なら一日時間とれるから、みうの都合さえつけばたくさん話せるかなと思って
(みう)多分夕方には終わると思うから、それから帰って十時くらいまでだったら時間取れるよ
(拓哉)会ってくれる?
(みう)もちろん私も会いたい……ねえ、拓哉、一つお願い聞いてくれる?
(拓哉)何?
(みう)私のアド教えるから、拓哉も教えて

 画面に、彼女の携帯のメールアドレス。僕は少し迷ったが、フリーメールを立ち上げ「開通記念」とタイトル欄に打って送信ボタンを押す。

(みう)きたきた
(拓哉)フリーメールでごめん。携帯は万が一ってことがあるから。今時この携帯、シークレット機能ないんだ
(みう)私はかまわない。連絡取れれば問題ない
(拓哉)みうは旦那さんにチェックされないの?
(みう)ほとんど家にはいないからね。それに私が何をしようと、全く関心ないみたいだし
(拓哉)それもなんか寂しいね
(みう)もう慣れちゃった
(拓哉)ねえ、思い切り抱きしめたい
(みう)うん、抱いて
(拓哉)今、みうの胸がぴったりとくっついてる。鼓動を感じるよ
(みう)私も、とてもどきどきしてる

 かちゃりと、扉が開く。条件反射のように慌ててマウスを握り、「最小化」していたワード文書を開く。

「仕事?」と、妻は目をこすりながら言う。
「昨日やりきれなかったんだ」
「事業報告書……何だか難しそうな仕事ね」
「難しいことなんて何もないよ。前年の雛型に基づいて、日時と中身を替えるだけ。毎年同じ事しかしてないから単純作業」

 妻の目線が気になる。ツールバーに「2CHAT」の文字が残っているが、今閉じるのはかえって危険だ。
「ねえ、真子の様子が少しおかしいのよ」
「どうしたの?」
「何だか熱っぽい感じなの。見てくれる?」

 仕方なく椅子を引き、布団と布団の間に挟まっている真子の額に手を当てる。真子はじっとこちらの顔を見つめたまま親指をしゃぶっている。
「それほど熱いとは感じないけどな。計ってみた?」
「ううん。ただ抱いた時、ぐったりしていて熱いって思ったから」
 小さな上着のボタンをはずし、妻は枕元の体温計を差す。体温計の電子音が三十秒もたたないうちに鳴る。
 三十六度三分。念のためもう一度計り直す。今度は五分以上何の反応もなかったので抜いてみたが、三十六度四分だった。「気のせいだったみたいね」

 妻がトイレに入るのを確認してからすぐにチャットルームに戻ったが、既に部屋は閉鎖されていた。フリーメールにも繋いでみたものの、ログインに時間がかかり、その間に妻が戻ってきたので画面を閉じパソコンを終了する。

 一分以上会話が途切れたらお互いそういうことだと判断しよう、と約束していた。しかし実際にその状況になってみると辛いものだ。切断されていることも知らずに返事を待っている相手のことを考えると不憫でならない。メールを送ることすらできないなんて。携帯のアドレスを教えておくべきだった、と僕は後悔した。

   *

 翌日、妻と子供は自動車で大月の実家へ帰っていった。
「お願いね」とシートベルトを締めながら妻は言った。
「よろしく伝えといて」と言って、チャイルドシートの娘の頬にそっと手を当てる。
「庭先で転んだだけだからたいした怪我じゃないって言ってたけど、顔を見るまでは心配だし。お母さんももう年だから」
「一緒に行ってあげたいけど、早急に仕上げなければいけないんだ」
「分かってる。明日の午前中には帰ってくるから」

 テールランプが坂の下に消えていくのを見届けてから、玄関の鍵を閉め、パソコンのメインスイッチを入れる。
 通電音。パワーランプ点灯。クーラーが回り、CPUが忙しく働き出す。その間にいつものコーヒー。そして今日は付け添えにアーモンドチョコレート。

 妻の母の様子は気にはなったが、それよりもみうとチャットしてる時間の方が何よりも貴重だった。それはほとんど中毒と言ってもいいくらい、僕の心身を支配していた。
 妻がこの家からいなくなる時間を、心の底から望んだ。あれほど好きで結婚したはずの妻なのに。自分でもどうかしてる、と思う。ひどい夫だと思う。子供を愛せない最悪な父親とも思う。
 でも今の僕には、そうでもしていないと、自分がもっと駄目になってしまう気がした。この単調で退屈な日常という化け物を前に、「僕」の属性全てをはぎ取られていくような。チャットの世界で思い切りありのままの自分を解放することにより、辛うじて緊張の糸は保たれていた。

 みうのいないチャットは、レスポンスの異常に遅い関西の女性と「荒らし」予備軍の男の入室があっただけ。彼女あてに、昨日のお詫びメールを入れておく。

 受信、一件。
 九時二十八分。携帯電話から。

「既婚同士は、お互いの事情を理解できるからいいんでしょう? 私は全然気にしてないから。そういう時は容赦なく落ちて。さて、これから業者がくるからまた後でメールするね」

 一人だから暇ならメールして欲しい、と返信。間もなく、右下に「新着メール」を受信した旨のポップアップメッセージ。

「今日はずっと一緒にいられるんだね。嬉しい。何だかメールでチャット状態になってる」

 パソコンを立ち上げたまま、部屋中の窓の鍵とガスの元栓をチェックする。洗濯物を箪笥にしまい、カーペットに散らばっているスナック菓子とぬいぐるみを片付ける。長い間一緒にいると、性格は似てくるものだ。
 
 ベランダの桟に積もった埃が、陽の光に反射して白く輝いている。少し寒気がしたのでフリースを羽織り、換気扇を止め食器棚から粉末の風邪薬を一つ出して飲む。
 正午近くまで、みうからのメールはなかった。その間に、コーヒーを三杯飲み、新聞を隅々まで熟読し、折り込みチラシを眺め、画像掲示板を見ながらマスターベーションをする。

「ごめんねー。やっとメールできた。全く手際の悪い業者なの。もう少しでお昼休憩。何食べようかな。でも一人って寂しいね」

 待ちに待ったみうからのメール。即座に返信。「一緒に食べたいな。みうとランチ」
 二分後、受信。
「本当? 嬉しいな。じゃあ、いますぐ来て。美味しいイタリアンが近所にあるの。拓哉はスパゲティ好き?」
 返信。「スパゲティは大好き。トマトベースの物がいいね。でも残念なことに家を空けることはできないんだ」
 一分三十秒後、受信。
「冗談。本気にした?(笑) トマトベース、私も大好き。粉チーズいっぱいかけて。拓哉とは食の好みが合いそうだね。デートしたら楽しいだろうな。そろそろ、食事行ってきます」
 返信。「いってらっしゃい。ランチセットをもう一つ、飲み物はホット頼んでおいて」

 みうと二人で食事をしている風景を想像する。こぎれいなレースのテーブルクロスにランチョンマット。磨き抜かれた銀食器。かぼちゃのスープ。グリーンサラダ。ほうれん草とベーコンのポモドーロ。
 みうはアスパラを口に運びながら、優しく微笑んでいる。何か小さく呟いているが、よく聞き取れない。ワインを継ぎ足しながらじっと彼女の顔を見つめている。
 顔? 
 みうの顔。顔。顔。
 冷凍ピラフを皿に開け、レンジに突っ込む。みうのこと知ってるようで、実はまだ何も知らない。

 十二時五十七分、受信。
「ランチはボンゴレだったけど、美味しかったよ。でもやっぱり一人で食事するのって寂しいね。拓哉がいたらなあって本気で思った。さて、もうひと踏ん張りです。って、私が何かしているわけじゃないんだけどね」
 返信。「自分も総務なのでよく分かるよ。仕事の半分は雑用だもんね。頑張ってね」

 午後は、間違い電話が一本と、卑怯な新聞勧誘の対応。「宅急便です」と相手が言ったのでドアを開けたのだ。
「半年後からの契約でいいから、お考えいただけませんか。半年分の購読料はこっちで持ちますから。ビールお飲みになるでしょう?」と若いセールスは言った。「ビールは飲まないし、先祖代々アンチ巨人だから」と言って、玄関についてる三つの鍵を全てかけた。

 二時四十分、受信。
「暇。拓哉、今、何してる?」
 返信。
「何もしてないよ。みうからのメールだけを待ってた。ねえ、みうってどこの大学?」
 受信。「卒業したのン十年前のことなんで忘れました(笑)。じゃあ、当ててみてね。第一ヒント。女子大。第二ヒント。千代田、多摩、あと埼玉の方にもキャンパスがあります。ネットで調べてはだめ」
 返信。「うん、分かったよ。昔、深夜番組に出てた好きな女の子がそこの出身者だったから」
 受信。「そうなの? 拓哉、女子大マニア?(笑)」
 返信。「二十年以上も昔の話だって」
 受信。「その女子大、どんなイメージ?」
 返信。「エッチな子がたくさんいるイメージ」
 受信。「黒木香が横浜国立大学出身っていうと、横国の女の子がみんな腋の毛を剃っていないって思われるのと一緒ね」
 返信。「黒木香なんて懐かしいね。それにしても、みうは良く知ってる(笑)」

 空は分厚い雲に覆われ、キーを叩く音だけが薄暗いリビングに響く。郵便受けには知らない間に夕刊が投げ込まれている。
 玄関の靴箱の上に、ボールペンで書かれた娘の絵。大きな逆三角形の顔から、手足が宇宙人のように伸びていて、下の方に小さく「パパ」と記されている。これはうちのやつの字だな、その小さな紙きれを冷蔵庫のマグネットに挟む。

 三時五十二分。受信。
「もうすぐ終わり。早く帰って、拓哉と話がしたいよ。飛んで帰るから、待ってて」
 返信。「お疲れさま。気を付けてね。身を清めて待ってるから」

 バスタブに熱い湯をはり、着替えを用意する。職場は中央線沿線と聞いていたが自宅まではどのくらいかかるのだろう。
 午前中からずっと椅子に座りっぱなしだったので腰は抜けそうに痛く、目もしみるようにひりひりしている。湯が溜まると真っ先に腰を鎮め顔をごしごしこする。タオルを冷水で濡らし目頭を押さえながら、これからのみうとの会話について考える。みうの顔を想像し、体を想像する。きっと声もいい感じなんだろうな。
 頭がのぼせてくるまで、なかなか腰を上げることができずにいた。

(お知らせ)拓哉さん(男)が入室しました。
(拓哉)3
(拓哉)2
(拓哉)1
(お知らせ)みうさん(女)が入室しました。
(みう)お待たせ!
(拓哉)お疲れさま。どんぴしゃり
(みう)ごめんね。待たせちゃって
(拓哉)いいよ。今、部屋とったばかりだから
(みう)あんまり焦って、マンションの玄関でころんじゃった
(拓哉)大丈夫?
(みう)うん。ちょっとすりむいちゃったけど
(拓哉)悪い事しちゃったかな
(みう)何で? 自分で勝手に転んだだけだから。拓哉は何も悪い事なんてしてないよ
(拓哉)ゆっくり落ち着いてからでいいよ
(みう)うん。とりあえず、着替えてくるね。ちょっと待ってて

 洗い立てのジーンズに薄手のタートル、白を基調としたベーシックなカーディガン、ジッパー付きのショートブーツ、茶系のヘアマニキュアを入れた長い髪、細い唇、淡いルージュ。
 思いに任せて勝手に想像していると、まるで目の前にみうが立っているようだった。衣擦れの音と口から漏れる息遣いが、ケーブルを伝わってモニターからこぼれてくる。指先が熱くなり、身がきゅっとこわばる。

 みうはどんな女性なのだろう。どんな下着をつけて、どんな胸をして、どんな陰毛をしているのだろう。
 膨張しつつある下腹部を押さえるように手を当てる。そして、年甲斐もなく溢れ出る自身の性欲が世間一般からみて妥当なのかどうかということについて、真剣に思いを巡らせる。

(拓哉)ジーンズ、タートル、白のカーディガン
(みう)え? 
(拓哉)今の格好
(みう)当たり!
(拓哉)本当?
(みう)ほとんどね。一つだけ違うのは、カーディガンは黒です
(拓哉)嘘みたい
(みう)カーテン開いてるのかと思った。それじゃ、今つけてる下着の色を当ててみて
(拓哉)うーん、黒?
(みう)ぶぶー
(拓哉)赤
(みう)違います
(拓哉)青
(みう)ううん
(拓哉)白!
(みう)困りましたね
(拓哉)ピンク、茶色、黄色、オレンジ、グレー、紺
(みう)そんなに言ったらだめ。でも、全部はずれてる
(拓哉)降参。答えは?
(みう)はいてません
(拓哉)それはずるい
(みう)あはは。ごめん。
(拓哉)みうはチャットに何を求めてる?
(みう)やっぱり癒されたいのかな。別に旦那とうまくいっていない、とかそういうことじゃない。でもあんまり放っておかれると、寂しい
(拓哉)そうかあ。自分はむしろ少し離れたい感じかな
(みう)何て贅沢な話。あまり突き放してると、奥さんも私みたいになっちゃうよ?
 みうにそう言われたので、妻がチャットサイトで知らない男と会話している姿を想像してみるが、それは全く場違いであり得ない話に思えた。妻は未だキーボードを片手で打つくらいのスキルなのだ。

(みう)結婚相手ではなく、ありのままの自分をさらけ出しても受け入れてくれる人。何のしがらみなく。純粋に男と女の関係になれる相手っていうのかな。結婚相手とはもうそういう関係にはなれないから。それもリアルな私の姿なんだって最近気付いた
(拓哉)どんな夫婦も、何年も一緒にいるとそうなるんじゃない?
(みう)でも子供は可愛いでしょ?
(拓哉)どうだろ。うちはできちゃった婚だから。本音を言えばまだ欲しくなかった
(みう)また贅沢な悩み言ってる。そんなに簡単にできる人が羨ましい
(拓哉)子供欲しい?
(みう)もちろん。でもできないの。私の子宮、壊れてるから
(拓哉)そう……ごめん、悪いこと聞いちゃったね
(みう)ううん、いいのよ。ねえ、拓哉はネットの出会いに何を求めてるの?
(拓哉)限りなくリアルに近いバーチャルセックス
(みう)聞いた私が馬鹿でした

 それから我々はお互いのぬくもりと愛情を求め合う。みうはいつになく敏感で即座に反応する。キーボードは今や彼女の体の一部だ。滑らかで軽快なタッチが、彼女の首筋を背筋を脇腹を大腿をソフトになぞる。
 時の経つのも忘れ、ただひたすらにキーを打ち続ける。時間制限で何度か部屋自体が落ちたが、その都度適当な名前をつけて新しく取り直す。一人の女性と、こんなに長い時間話をしたのはいつ以来だろう。
 みうには「愛」という言葉が心置きなく口にできる。妻に「愛している」という言葉をかけたのはいつが最後なのか思い出せないけれど。

 幸福ゆえの退屈。
 確かに贅沢な悩みなのかもしれない。でも僕は、心の底から「幸福」だと思ったことは結婚してから一度もない。
 チャットルームで先日見かけた「漣」という名の待機メッセージをふと思い出す。「フリ」をするのは窮屈なのだ。いい「夫婦」のフリ。いい「家族」のフリ。そして「幸福」の押し売り。
 妻とはお互い好きになって愛し合って一生一緒にいたいと思ったはずなのに。二人でいる時間は、少しでも嫌な「現実」を忘れることのできる唯一の時間だったのに。
 子供ができ、就職し、結婚し、一緒に暮らすようになってから、生活そのものが「現実」となった。その「現実」は想像していたものよりずっとタフでストイックなものだった。
 妻にも同様の苦悩はあるはずだった。でも僕はまだ若かった。人の苦悩まで背負う余裕も自信もなかった。
 時に、無性に逃げ出したくなった。帰りたくないと思うこともしばしばあった。どうしようもなく、僕は駄目な男だった。しかし現実はそれを一刻も許してはくれなかった。

 そんな時、ふとしたきっかけで見つけたチャットルームには、僕と同じ思いの男たちがたくさんいた。そして、妻のような立場の女性たちも。
 そこで知り合う見ず知らずの異性との一時は、僕にとっては正に癒しの時間だった。

 時刻は既に十時を回っていた。妻から明日の帰宅時間を確認する電話で一度中断をしたものの、残りの時間は全て二人だけの時間だった。

(みう)主人からあと少しで仕事終わるからって連絡あったの。食事の仕度をしなきゃ
(拓哉)そろそろかなって思ってた
(みう)今日はいっぱいしゃべって、いっぱい愛し合ったね
(拓哉)すごく感じたよ。ありがとう
(みう)こちらこそ。また、いっぱい愛し合おうね
(拓哉)みう、愛してる
(みう)ありがとう。主人と比較するのはフェアじゃないけど、違う次元で、私も明らかに拓哉のことを愛してる
(拓哉)みうをもっと近くに感じたい
(みう)近くにいるよ、いつでも
(拓哉)このままみうに対する思いが募っていくと、一体どうなるんだろうって思う。リアルで会いたくなってしまうかもしれない
(みう)私もよ。今ここに拓哉がいて、一緒に食事できたらって、お昼食べてて本気で思った
(拓哉)いつか、そんな日がくるのかな
(みう)拓哉次第よ
(拓哉)ねえ、みう
(みう)ん?
(拓哉)何か、みうを感じることのできる写真ない?
(みう)写真?
(拓哉)みうの雰囲気を感じたい
(みう)顔は無理
(拓哉)もちろん顔とは言わない
(みう)ねえ、拓哉って何フェチ?
(拓哉)フェチ?
(みう)うん。女性のどこに一番魅力を感じるの?
(拓哉)そうだな、脚とか?
(みう)脚かあ……私のでよければ撮ってみようか?
(拓哉)本当?
(みう)きっとこんな脚、好みじゃないとは思うけど
(拓哉)そんなことないよ。嬉しい
(みう)明日までには送れると思うから待ってて。あまり期待しないで。大根足のボンレスハムだから
(拓哉)次はいつ会える?
(みう)明日は主人が早く会社いかなければならないの
(拓哉)じゃあ、明後日は?
(みう)いいわ。時間はいつも通りね
(拓哉)そうだね。4時半にここで待ってる
(みう)拓哉と知り合ってからめちゃめちゃ早起きになっちゃった。お陰で昼間は仕事になりません
(拓哉)^^
(みう)それじゃ、ね
(拓哉)うん。おやすみ
(みう)ばいばい。ちゅ!
(お知らせ)みうさん(女)が退出しました。

 チャットが終了してからも、しばらく「雑談部屋」の待機メッセージを眺めていた。疲れているはずなのに、すぐに電源を落とすことができない。
 閉鎖したばかりの二人の部屋は既に、露骨に援交を希望する「色事師」というハンドルネームの男に占領されていた。画像交換を希望したがっている男がいたので、からかい半分に女子高生のふりをして入室。男は二十代前半の大学生だ。

「俺のあそこ見たい?」と大学生は聞く。あそこだけじゃつまらない、彼女とエッチしてるところがみたい、と煽ってみる。
 大学生がアップした画像は、どこかのホテルの一室で撮影したもので、フラッシュが弱く結合部分が不明瞭なものだった。女性の顔にはモザイクも目線もなく、画像全体がセピアがかっていて、画質も荒い。何年も前にポラロイドカメラで撮影したものをスキャンしただけの画像だろう。
「これ、本当にあなたの彼女?」
「そうだよ。昔付き合ってたSF」

 知恵のない奴。
 そのまま黙ってブラウザを閉鎖。これでは、この間の「荒らし」と一緒だ。
 みうとの充実した時間を過ごしたはずのに、酷い徒労感に襲われている。訳もなく苛立っているのが自分でもよく分かる。空腹のせいなのかもしれない。

 いよいよ決意を固めてPCの電源を落とし、インスタントラーメンを食べる。それから乾燥器の中の食器を片付け、布団を敷く。夕刊にも目を通そうと思ったが、見出しの一行すら目で追うことができない。まるで眼球全体がソフトボールくらいに腫れているようだ。

 布団にごろんと横たわり、目を閉じる。みうが裸で脚の写真を撮っている様子を妄想する。いたたまれず寝返りを打つ。布団の下に、ちょっとした違和感を感じたので起きてめくってみると、つい最近までよく見ていた真子の歌のビデオテープだった。
 パッケージに描かれた河童のイラストを見ながら、その曲を思い出してみる。それは妻の一番のお気に入りでもあり、サビの部分の節回しがとても印象深かったはずだが、いつまでたっても、イントロすら流れてこない。

 テープを放り投げ、再び布団の中にもぐりこむ。体中が、これから実験を控えたモルモットのようにぶるぶる震えている。時折、地震かと思うくらい大きく体がぶれる。そのうちの一つくらいは、本当の地震だったかもしれない。

 みうの脚。妻の歌。そして真子の笑顔。

 それから眠りにつくまでどれくらいの時間を要したのだろう。その間、一度用を足し、二度冷水を飲み、数え切れないほどの寝返りを打った。

   *

 翌日、目覚めたのはもう昼近くだった。留守電には、これから大月インターチェンジに入る、という妻のメッセージが入っていた。あと二十分くらいで到着する計算だ。
 鉄芯のような体躯を起こし、洗面台で髭を剃る。酷い顔だ。頬はこけ、唇は乾燥し、剃ったばかりの顎のラインは白く粉が葺いたように荒れている。
 帰宅するや、妻には早速そのことを指摘された。

「昨日は遅くまで起きてたの?」
「そんなに遅くはないよ。十一時には寝たから」
「でも、何かすごく疲れた顔してる。ちゃんと夕飯食べなかったのね」
 三角コーナーに捨てられたラーメンのかすを見つめながら、「これだから、一人にするの嫌」とうんざりしたように冷蔵庫の中を漁る。
「まだ、食事してないんでしょう?」
「うん」
 頷きながら答えるが、その声が妻まで届いたのか自信がない。
「パパ」と、今度は真子がパジャマの裾をひっぱりながら、手にしていたおもちゃをこちらに差し出す。
「ばあば、ばあば」
 それは携帯電話のおもちゃで、ボタンを押すといろいろな効果音が鳴るようにできていた。
「ねえ、聞いて。この子、二語文しゃべったのよ、実家で」
「二語文?」
「そう。『あめ、食べる』って。単語が二つ並んで、文章みたいでしょう?」
「そうなんだ」
 おもちゃを子供の手に戻し、ダイニングのカーテンを開けて外を眺める。アパートの駐車場で主婦同士が立ち話をしている。会話の内容が全て聞こえてしまうほどの大きな声で。

「ねえ、あなた、聞いてる?」と妻。
「聞いてるよ」
「じゃあ、何て言った?」
「真子が、二語文しゃべったって」
「どんな言葉?」
「ママ、食べる」
「ママじゃなくて、あめ」
 妻の語気が荒くなってきているのを感じる。危険な兆候。
「言おうかどうか、少し迷ってたけど」
 妻は一呼吸置いてから極めて冷静にこう言う。「あなた、最近おかしい」
「おかしい?」
「話しかけても、いつも違うこと考えてる。私の話、上の空で聞いてる」
「そんなことないよ」
 包丁を動かす手を止めた妻の背中。エプロンの紐が半分ほどけている。
「朝、あんなに早く起きて本当は何をしているの?」
「何って、仕事してるんだよ」
「会社で残業すればいいんじゃない?」
「残業なんてしたって給料は変わらない。逆に残ってまで仕事する奴は能力ないって見られるから」
「私たちに対する関心、もうなくなった?」
 包丁を再び動かし始める妻の肩は小さく揺れていた。

 その日の夜、僕はなかなか寝付けないでいた。床に就いてからもう一時間以上その状態だった。妻は何も変わっていない。これは自分自身の問題なのだ。
 妻はこちらを向いて眠っている。僕の布団まで放り投げられた手。少なくとも自分の知っている限り、結婚以来一度もはずしたことがないイエローゴールドの結婚指輪が妻の左手に同化している。
 軽く握った妻の手首は粘土細工のように冷たく重い。もう一度、目覚まし時計を見る。二時。アラームが四時五分前にセットされていることを確認してから、僕は妻の手を所定の位置に戻し、静かに目を閉じる。これで眠れなければ寝ない方がましだ。

   *

「あなた、七時半だけど、大丈夫なの?」
 妻がとんとんと頬をはたく。目覚し時計のボタンはしっかりと押されている。無意識のうちにまた眠ってしまったのだ。慌てて跳ね起きて髭を剃り、整髪料をつける。この時間ではどうあがいても完全に遅刻だ。もちろん、食事などしてる余裕はない。

「途中で、サンドイッチでも買って食べてね」
玄関で靴を履いていると、妻は腫れぼったい目をして言う。
「こんなに深く眠ってしまったのはいつ以来だろう。大体、遅刻なんて」
「私が昨日、あんなこと言ってしまったから?」
「それは関係ないよ。気にしなくていいから」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
 妻の頬に口づけをする。これは結婚当初からの習慣だ。止めた時の妻の反応が怖いので形だけ続けている。妻は表情一つ変えず、俯いたまま受け入れる。「残業しないなら、早めに帰ってきて」

 駅まで小走りしながら、会社に遅刻をする旨の連絡を入れる。電話に出たのはマキだった。
「へえ、珍しい。遅刻なんて」とマキはからかうように言った。「夜更かしでもしたの?」
「子供が熱を出してしまって」
「あら、それは大変。父親なんだね」
「どういう意味?」
「ううん、何でもないわ。部長には伝えておくから。何かしておくことはある?」
「してもらったら、今日の仕事、何もなくなってしまう」
「仕事、もっと探してきてあげようか?」
「余計なこと、しなくていいです」
「生意気な新人」
「それじゃ、よろしく」
「了解」

 ホームの最後尾はほとんど人がいない。出勤時間がちょっとずれるだけでこんなにも違うものか。フレックスのある会社がうらやましい、と正直に思う。同じ鉄道料金を払っているのに。
 抜けるような青空から差し込む日差しのせいか、いつもの退屈な景色までもが今日はやけに立体的で鮮やかに見える。
 たまには遅刻も悪くない。
 規則正しい脈拍の中で、重たい瞼を静かに閉じる。

 幸福。生活。退屈。日常。平穏。破壊。妻。真子。ネット。愛人。

 言葉の断片ばかりが頭に浮んでは消えていく。
 留保すべきエッセンスを何も見出せないまま、それらはまるでただの記号のように車窓の景色と共に流れ去っていく。これからの身の処し方を想像するには、通勤電車はあまりにも日常と癒着し過ぎていた。

 一時間の遅刻は仕事の進捗に何の影響もなく午後二時には予定のノルマを完了した。部長は出張、マキは銀行回り。一回り年の違う隣の席の先輩は新婚旅行のため長期不在中だった。
 今朝の約束を破ったお詫びをしなければいけない。みうと出会ってから、会話の途中で切断することはあっても、約束を守らなかったことはない。
 ブラウザを起動し、フリーメールに繋なぐ。ログインするまでの時間がやけに長く感じる。

 受信、三件。送信者はすべて「Miu」。
 一通目。送信時間は、四時十一分。
 「拓哉、どこにいるの? まだ夢の中かな。もう少し待ってみます」
 二通目。四時三十二分。
 「今日は無理かな。二日酔い? 次の機会を楽しみにしています」

 そして最後の一通は、十三時五十五分。さっき届いたばかりだ。

 「拓哉へ 写メ送ります。本当に恥ずかしいけれど、大好きな拓哉のために勇気を出しました。うまく撮れてるかな……見たらすぐに削除してね。約束」

 メールの末尾をスクロール。添付されたJPEG画像。

 それは、ストッキングを履いた細い両足の写真だった。
 斜め上方から見下ろすような角度で、彼女はベッドに浅く腰掛けて脚を組んでいた。大根足なんて全くの謙遜、逆に華奢過ぎるくらいだった。
 ベージュでチェック地の丈の短いスカート。薄手のストッキングを通して、色白な彼女の肌が透けて見える。
 右足の内股の黒子に気がついた時には、彼女の大事な秘密を発見したようだった。恥ずかしがりながら撮影しているみうの様子を想像する。
 無性に、彼女と話がしたかった。すぐに返事のメール。今朝のこと、写真のこと。そして、明日の約束。

 それから、写真をパソコンに保存し、画像編集ソフトを開く。内股の黒子を拡大したり縮小したり。上司とマキが同時に帰社するのを確認すると、諦めて事業報告書のファイルを開く。開いた後で、既に修正を加えるべきところは一つもなかったことに気が付いた。

   *

 久しぶりに妻を抱こうと思い手を差し伸べる。
 静かな夜。
 家具のきしむ音がたびたび鳴る。何度か呼びかけてみるが反応はない。妻も自分に負けず劣らず、疲弊しているのかもしれない。
 すぐにでも眠りたかったが、眠気そのものが湧いてこない。いつものことだ。目を通したはずの夕刊を再び広げながら、みうのことを少し考える。
 そして、今更ながら思う。彼女にも体を重ねる旦那がいるという事実を。

 顔が熱い。大きく伸びをしながら心呼吸する。それから洗面所の冷たい水を一口飲み、ついでに顔を洗う。頭の中は空っぽだった。タオルで顔を拭い、下着を履き替えた。

(拓哉)おはよう。よかった、会えて
(みう)おはよ。今日は会えたね。お詫びなんていいのに
(拓哉)寝坊なんて三歳の頃以来だよ。約束しておいて、本当にごめん
(みう)いいのよ、そういうことは私だってあるんだから

 いつもの朝。いつものコーヒー。いつものサイト。
 結局、その後寝室には戻らず、ソファに横になったままうとうとしている間に、約束の時間になっていた。体は筋肉痛のように痛かったが、PCを立ち上げると、なぜか眠気は消えてしまった。

(拓哉)写メって相手を身近に感じることができるからいいよね。とても素敵だったよ。ありがとう。会社でずっと眺めてた
(みう)恥ずかしいわ、会社でなんて。他の誰にも見せないで
(拓哉)もちろん。誰にも見せたくない
(みう)ねえ、写メ見て、どう思った?
(拓哉)どうって?
(みう)勃起した?
(拓哉)うん
(みう)会社で?
(拓哉)そうだよ
(みう)そういう時、どうするの?
(拓哉)どうって……トイレに駆け込む
(みう)じゃあ、いきなり拓哉がトイレに駆け込んだら、私の写真見て勃起したって思っていいのね
(拓哉)もちろん
(みう)拓哉って、本当に可愛い

 遠くで防災無線を点検する音。つま先が酷く冷えている。畳んだ洗濯物の山の中から靴下を探し出して履く。それから、モニターの上を這う小さな赤い蜘蛛をティッシュで潰す。

(みう)拓哉
(拓哉)ん?
(みう)奥さんと何かあった?
(拓哉)どうして?
(みう)何か今日は元気ないなと思ったから
(拓哉)そんなことないよ。いつも通りだよ
(みう)そう、それならいいの。実は、昨日ね
(拓哉)うん
(みう)奥さんに何か気づかれて、それでチャットできないのかなぁなんて思ったから
(拓哉)そんなことないよ、心配しないで。気付かれた時は気付かれたって言うから
(みう)毎日、こんなに早起きしてパソコンしてたら、誰だって怪しむわ
(拓哉)みうこそ大丈夫?
(みう)私はうまくやってるわ。神経質なの
(拓哉)罪悪感は?
(みう)え?
(拓哉)感じてる?
(みう)拓哉こそ、家族仲良しなんでしょ?お子さんいたら、感じるんじゃない?
(拓哉)まだ何も分からないから、子供は
(みう)今、レス少し遅かった。感じてるのね
(拓哉)本当に、そんなことないって。ねえ、みう
(みう)うん?
(拓哉)これからどうなっていくんだろう
(みう)どうしたの、急に
(拓哉)毎日朝会って、チャットして、それから?
(みう)先のことは考えたことない。毎朝を楽しみにしてるだけだから
(拓哉)会いたい、みう
(みう)拓哉……
(拓哉)会ってくれる?
(みう)もちろん私も会いたい。でも、もし会ったら、このチャットも終わってしまう気がする
(拓哉)どして?
(みう)きっと、拓哉の好みの女じゃないよ、私
(拓哉)そんなことないよ
(みう)会ったことないから言えるのよ
(拓哉)そんなことないってば。ねえ、みう、今凄く会いたい。会ってきつく抱きしめたい
(みう)私も拓哉の熱を感じたい。ねえ、今ここでしっかり抱いて
(拓哉)みう、愛してる
(みう)……拓哉……

   *

 それから数日、僕はみうをどうにか説得し、週末に会う約束をした。
 もちろん、チャット相手と会うことなんて初めての経験だった。会ったところで何かが解決するとは思えない。むしろ、今より状況が悪くなる可能性もある。
 みうの言う通り、バーチャルの出会いはバーチャルだけで留めておいた方がいいのかもしれない。
 けれども、みうと会わずには居られなかった。顔すら知らない相手とリアルで会って、リアルで抱き合って、どれだけ妄想が自分勝手で恣意的なものなのかを確かめる必要があると思った。その地点まで辿りつかなければ、僕はそれ以上どこにも進んでいけない気がした。

 やけになっている、と自分でも思う。妻への罪悪感。失望することは目に見えている。しかし今の自分には失望体験が必要だった。これまでの平和な生活には二度と戻れないくらいの、致命的な失望が。
 三十二歳、妻子持ち。本能と欲望だけで生きるにはもう遅く、堅実に生きる決意をするにはまだ早い。
 
 渋谷東急前、午後2時。
 目印は黒のセーターにヴィトンのショルダー。携帯メールを伝えてあるので、うまく会えないようならメールを入れる。
 妻には、休日出勤と伝えた。「手当は出るのか」と聞くので「手当ではなく代休が一日取れる」と答えると、「有給だってろくに取れないくせに」と妻は憮然として言った。

 休日だというのに、昼の渋谷は閑散としている。朝から冷たい風が吹き、若者はそれぞれの凍える手を恋人の熱で温める。
 坂を登り、待ち合わせ場所に着いたのは、約束の二十分前。店のトイレで髪型を整えてから、みうが来るのを待つ。
 いつも想像するしかなかった彼女に会える、そう思うと僕は興奮した。みうがきたら、最初に何を話したらいいのだろう。どこかの喫茶店で、まずはお茶でも飲もう。学生時代よく使った、東急ハンズ通りの喫茶店はいまでもあるのだろうか。
 しかし約束の時間になってもみうは現れない。メールにも何の連絡もない。足元には半ダースほどの煙草の吸殻。僕の方からもメールを送ってみるが返事はない。
 メールも打てない状況について考える。例えば、身内に何か突発的な出来事があったとか。まさか、旦那にばれてしまったとか。
 それから、さらに三十分待つが、何一つ状況は変わらない。
 あと、十分待ってこなかったら、今日は諦めよう。足元の吸殻を丹念に拾い、火が確実に消えていることを確認してから灰皿に捨てる。こんなことなら、一本ずつ灰皿で消せばよかった、と後悔する。
 道玄坂の人並みは、日が傾き始めるのを待っていたかのように、急激にその人口密度を増していた。

「期待の新人君」
 声の主はマキだった。シネタワー前。細いメンソールをくわえながら。
「最愛の奥様とお子さんは?」
「自宅です」
「妻子を家においてきて、旦那は愛人と密会ですか?」
「愛人なんて、まさか」
 あまりにずばり指摘されたので、僕は動揺した。「大学時代のゼミの友達が上京してるので会う約束をしてたんだけど、急用でこれなくなったって。今、帰るところなんです」
「それなら、奥さんには遅くなるって行ってきてるんでしょう?」とマキは煙草を足で消す。エナメルのヒール。白のワンピース。
「映画、一緒に見てくれない? 一人じゃ寂しくてさ」
「旦那さんは?」
「あの人は休日いつも仕事だから」
 寂しげな素振りも見せずあっさりそう言うと、マキは腕時計をちらと見ながら、何のためらいもなく僕の服の袖を引っ張る。「あと十分で始まるの。ねえ、付き合って。お願い」
「チケット買わないと」
「二枚あるから」マキはショルダーバッグを開ける。
「誰かと待ち合わせだったんじゃ」
「違うわ」
「どうして二枚持ってるの?」
「知りたい?」
「いや、別に」
「意地」

 エレベーターを降りると、マキは売店で生ビールを買った。マキの真意を探ろうとしたが、今の僕はみうに会えなかったショックでそんな余裕はなかった。
 長い一日になりそうだな、他にすることもないので、差し出された好意を仕方なくあおった。

 映画の後、我々は宇田川町で酒を飲んだ。職場で飲みに行く機会はほとんどないので、彼女がどんな飲み方をする女性なのか僕は全く知らなかった。
 キャスティングミスについてマキは指摘するが、僕は何も答えることができない。映画はろくに見ていなかったから。意識はスクリーンのもっと向こう側にあった。自分はただ、映画館で三杯のビールを飲み、全てトイレに出してきただけだった。
 マキは酔って、店を出ると自分の足に躓いていた。あまりにも危ないので、マキの腕をちょっと抱え、腰に手を当てる。

「ちょっと休んでいってもいい?」とマキ。「終電までには帰るから……私の方がここからは遠いんだよね」
「休むって、どこで」
「ホテル」と彼女は臆することなく言う。
「参ったな」
 時間を確認する。駅へ引き上げていく人の波を羨む。
「熱いシャワーを浴びればすっきりするから。一人で入るなんて勇気いるでしょ? まさか置き去りなんて酷いことしないわよね、会社の先輩に対して」

 どんなに酔っていても口調だけはしっかりとしている。会社、という言葉が、頭の中で大きくうねる。
「電話だけしておいてもいい?」
「もちろん」
 妻に少し遅くなりそうなので先に眠っていていいから、と伝える。電話の向こうで、真子が激しく泣いている声が聞こえたが、電話越しの妻はまるで子供などいないかのように落ち着いていた。
「どうしたの? 奥さん、怒ってる?」
「別に。何も怒ってないよ」
 妻への連絡というより、僕はみうからのメールの方が気になっていた。

 そして我々は人波とは反対の方向へ歩き始める。その間ずっと、マキの手の甲を親指で撫で続ける。彼女の指は思ったより華奢でちょっと強く握ったら壊れてしまいそうだった。
 マキは何も言わず、こちらの顔ばかりを見ている。時々、マキの腰を強く自分の元へ引く。
 ん、彼女はその都度足がついてこなくてよろめいている。どうしたの、とマキに聞かれても、聞こえないふりをしている。
 どうしようもなく、やけになっている。

   *

「本当に私のこと、嫌いなのね」
 ベッドの中で、マキは溜め息のように呟く。
「そんなことないですよ」
 頭の中がぼんやりしていて、しゃべったした後にその意味を考えなくてはならない状態だった。早く家に帰って、何も考えずにぐっすり眠りたかった。
「前から感じてはいたけどね」
 マキは布団をはいで、裸のまま煙草を咥えている。口紅の剥げた彼女の唇は少し荒れてささくれている。胸は会社の制服の上から見るとかなり大きく見えたが、行為の後ではそれほどのボリュームはなかった。

「そんなところに黒子あるんだね」
「脚は恥ずかしいわ。でもこの黒子、結構気に入ってるのよ」
 マキの左手はいつまでも萎えた下半身の上に置かれている。無性にみうと話したかった。明日の朝、彼女はチャットルームにきてくれるのだろうか。

「一つ、忠告」とマキ。「仕事中の私的なパソコン使用はそろそろ止めましょう」
「え?」
「仕事中にチャットサイト覗くのなんてまずいわよ」
「知ってるんだ」
 気付かれないように、細心の気を使っていたつもりなのに。よっぽど「ファッション雑誌ならいいのか」と聞こうとしたが止めた。
「ログ管理してるから」と、マキは心配そうにこちらの顔を覗き込む。
「ログ管理? 誰が?」
「私」
 ゆっくり煙を吐きながら、マキは灰皿をこんこんと叩く。
「部長命令」
「随分、信頼されてるんですね」
「でも安心して。あなたの履歴だけは削除して報告するから。もう一人、真田君は新婚旅行なんて行ってる場合じゃない。帰ってきたら、すぐにお呼びかかるわ。あの部長、要注意人物だから、気をつけた方がいい」
「これからは繋なげないな」
「プライベートなネットは駄目ってこと」

 別にどうなったって構いやしない。会社に行かない生活。それならそれで、事態は好転するような気もする。何より、朝夕の絶望的な通勤電車に乗らないで済む。
「チャット好きなの?」
「うん」
 今更ごまかしてもマキには通用しないのだろう。観念して、素直に認める。
「どうせ、いやらしい話ばかりしてるんでしょう?」
「分かります?」
「分かるわよ」彼女はくすっと笑った。
「会話のログまで見られてるみたい」
「それは内緒」
「チャットとかって、する?」
「それも内緒」

 彼女は一時たりとも、下半身から手を退けようとはしない。灰皿に置きっぱなしの煙草の煙が目にしみる。
「そんな嫌な顔しないでよ」とマキはこちらの目を見て言った。「もう二度と誘わないから」

 空気は二人分の大人の汗と息で重く澱んでいる。アルコールはもう完全に抜けてしまった。ソファに脱ぎ捨てられたままのストッキングが、プレスされたニシキヘビのように見える。
「このままいくとね、あの会社、多分三年後には消えてなくなる」
 時間が経てば経つほど、マキと寝たことへの後悔は大きくなっていった。

   *

 次の日、奇跡的に四時に目覚めるものの、体が死んだ象のように重い。その日は先に髭を剃り、洗顔クリームで顔を洗う。
 それからPCを立ち上げ、メーラーを起動。受信一通。待ち焦がれていたみうからのものだった。送信日時は夜中の一時過ぎになっている。

「昨日はごめんなさい。いろいろと考えた結果、みうは約束の時間、約束の場所に行くことは出来ませんでした。
 拓哉は奥様からとても愛されているし、拓哉も奥様を愛しているということがよく分かった。求めている「癒し」のカタチが、きっと私と拓哉では全然違う気がする。
 拓哉は今の幸福を壊してはいけない。一度壊れたら、取り返しのつかないものになる。まだとても小さな子のいるお家だから。
 奥さんは信じてる、拓哉のこと。だから、バーチャルを飛び越えてはいけない。家族でいるべき時間に、嘘をついて、奥様の知らない女と会っちゃいけない。拓哉はちょっと冒険したかっただけ。刺激が欲しかっただけ。欲張りなだけ。なら、もうこれで充分じゃない?
 私の側には誰もいない。旦那とは、もう1年以上前に離婚してるの。ごめんね、嘘ついてて。こんな年齢でバツついてて一生子供できない体です、なんて言ったら、誰も相手にしてくれないから。 
 私には仕事しかなかった。会社にしがみついているしか、自分の居場所がなかった。私、寂しい。本気で。いつか誰からも相手にされなくなる。そうなった時の自分を考えると。
 一方的な話でごめんなさい。でも、拓哉と出会ってから毎日が楽しくて、どきどきして、こんな経験はもう二度とできないかもしれない。
 拓哉は、とても素敵な人でした。拓哉と知り合うことができて、本当に良かったと思ってる。ネットの中だとしても、こんな風に愛されたことなかったから。
 けれど、ネットの愛はどこまでいってもネットの愛。決してリアルにはならないし、してはいけない。
 バーチャルなら、汚いものから逃げることはできるけれど、リアルはそうはいかない。全てを受け入れなくてはいけない。全てを受け入れるのは、今のリアルな生活だけで精一杯。癒しを求めて出会ったはずの二人が逆に重荷になってしまっては、本末転倒でしょ?
 何度もこぼれ落ちそうになる気持ちを慰めてくれたのは拓哉だった。拓哉が私の支えだった。それは本当。
 これまでのこと、感謝してる。奥さんとお子さん、大切にしてあげてね。二人にはどこにも逃げ場はないのだから。
 拓哉、これまでありがとう。そして、さようなら。ネットの恋人 みうより

 追伸 最後にもう一度だけ。拓哉に褒めてもらえた脚の写真、撮ってみたよ。黒子のところ、少しピンク色なんだけど、どうしてか分かる? 写真は後で必ず削除しといてね」

 黒子。
 みうからのメールを何度も読み返す。ぼやけたわだかまりの澱が、少しずつ肥大していくのを感じる。写真をモニター一杯に拡大しながら、昨日のマキとの行為を思い返す。心臓が激しく鼓動する。興奮というより、動悸に近い。
 襖を開ける音。
 妻が眩しそうに目を擦りながら「毎朝大変ね」と言って、トイレに向かう。カップをもう一つ出して僕はコーヒーを注ぐ。「飲む?」と手を洗っている妻に聞く。「うん」と妻は答える。

「昨日は遅かったのね」と妻は僕の目をじっと見て聞く。
「追い込みの時期だからね」心臓の震えは未だ止まらない。
 粉ミルクを入れてぐるぐると掻き混ぜる妻。ブラジルコーヒーが瞬く間に明るいキャラメル色に変わる。
「あのさ」
「ん、何?」
 一瞬、頭の中が真っ白になる。そして妻の手元に向かって、僕は呟く。
「もし、会社辞めたいって言ったら、どう思う?」

 自分で言ったくせに、自分で驚いている。こんな早朝に、ちゃんと目覚めてもいない起き抜けの相手に言うべき言葉ではない。
 けれども、妻は表情を変えず、いつまでもコーヒーを掻き混ぜている。こちらも、彼女の言葉をじっと待つ。やがて妻は一度顔を上げてこちらを見、それからスプーンを置いて、ねじれ模様の結婚指輪を指の中で回す。

「何となくだけど」と妻は言う。「いつかそんなことを言われる日がくるって思ってた。でも、それであなたの気持ちが満たされて、私たちが幸せになれるなら。私も働けば何とかなる。真子のことは心配しないで。真子なりのペースでちゃんと成長してるから」
 そう言って、妻は口を噤む。意外な言葉に、言おうと思っていたことの半分くらいを忘れてしまう。頭の中の血液がさっと下に下がり、余分な体の力が抜けていく。
 妻は初めてカップに口をつける。僕もコーヒーを飲む。湯気が立っているのに、カップの中のコーヒーはもう冷めかけている。

   *

 いつもより一時間早く電車に乗り、駅の売店で買った封筒と便箋に「一身上の都合」とだけ書いて、部長の机に置く。
 誰もいない事務所の中は、オフィス機器の匂いがひときわ強調されている。マキの机の足元には様々なファッション雑誌が無造作に積まれている。
 マキにも何かメモを残しておくべきか悩んだが、何を書いていいのか分からないし、このまま静かにフェードアウトした方がお互いのためだと思いそのままオフィスを後にする。
 リセットボタンは押された。最初に僕のすべきこと、それは昼間の月が白いことと同じくらい明らかなことだった。
 職探し。
 すぐに帰宅する気にはなれなかった。本流からはぐれた一片の千切れ雲だけが、これまでの僅かばかりの労を静かにねぎらってくれた。
 人の流れに逆行するように、僕は駅前にある二十四時間営業のインターネットカフェへ向かう。これからのことを一人で考える時間が、僕には必要だった。

 こんな朝でも、多くの人々が簡易に仕切られたブースの中で思い思いにパソコンやテレビに向かっている。学生やスーツ姿、なかには白髪交じりの老人や若い中学生くらいの女の子もいる。
 無料の紙カップのコーヒーを入れ、一番端の席に座る。検索サイトから、もう何度接続したか分からない例のチャットルームに接続する。
 チャットルームには、はるきというハンドルネームの男以外誰もいない。待機メッセージは「軽く雑談」。彼は4時に起きて僕が繋ぐといつもいる常連だ。一体どういう生活をしているのだろう。「入室」ボタンをクリックして、自分のハンドルネームを入れる。
 カーソルを待機メッセージの入力欄に移動。指が手癖のように勝手に動く。エンターキー。

ルーム1 「拓哉 既婚同士で話しませんか?(都内・30代)」

 もう一つブラウザを開き、自分の待機メッセージを確認する。サイトには、自分以外もう誰一人いないようだ。たった今いたはずの「はるき」でさえ。

 水のように薄いコーヒーを啜る。液晶モニターに手垢がたくさんついていたので、ウェットティッシュで拭く。ここのところ、本当に潔癖になっている。
 モニターには何の変化もない。ただ、自分一人が待機している。次に一体どんな相手が入ってくるのか。それが例え「荒らし」だろうが「ネカマ」だろうが「みう」だろうが、最初の一人でおしまい。それだけは絶対に守ろうと心に決めた、けじめ。

 カフェの中は全くといっていいほど物音がしない。マウスをクリックしたり、キーボードを叩いたり、大きくあくびをする音さえ。(了)


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