結婚記念日

kinenbi2

『結婚記念日』

 妻と結婚してからのこの二十年という歳月は、妻がどう感じているのかは知らないが、僕にとっては明け方に見る夢のようにあっという間に過ぎていった。
 思うに、夢も希望も生活も「身の丈」に合わせ、我が身に課せられた必要最低限のノルマを必要最低限の労力でこなしていくばかりの日々だった気がする。
 その間に、僕の腹周りを脂肪が取り巻き、妻の顔は細かい無数の皺で覆われていった。

   *

 「結婚記念日」のその日、僕は妻に内緒で二人だけの一泊二日旅行を企画した。
 妻に内緒と言っても、ひょっとしたら妻の記憶にはあるのかもしれないが、当時の結婚式のオプションとして「二十周年記念サプライズツアー」というものがあったようだ。
 ある日、「親展」と書かれた封書が会社の僕宛てに届くまで、そんなものが特典としてついていたことなど、とうの昔に忘れていた。その封書には、式を挙げたホテルの支配人の名と、「NPO法人夫婦のキズナ再生協議会」という団体の名が差出人欄に記されていた。
 キズナ。
 カタカナで書かれたその言葉の意味を、僕はしばらく考えていた。あの頃と比べて、今の僕と妻との間に、どれ程の「キズナ」が保たれているのだろう、と。
 実は先日も妻と口論したばかりだった。きっかけは高校受験を考えなくてはいけない息子の教育に関することだったと思うが、僕が言い放ったある「売り言葉」が彼女の逆鱗に触れたようで、一週間、お互い口も聞かない日々が続いた。
 妻には、一年の内に何度かこうした癇癪を起こす時があった。人が真剣に話をしているのに上の空で聞いている、子供とまともに向き合っていない、あなたからの話題がない、家事を手伝わない、、給料が上がらない、キスをしてくれない云々。
 その時々によって内容は様々だが、それでも以前までは、日を跨ぐ前に関係は修復していたはずだった。
 僕は感覚で物を口走ってしまうタイプのようで、その発言内容には時間の経過とともに矛盾をきたすことが多かった。その矛盾は、恐るべき記憶力に裏打ちされた妻の合理的な論理性でたちまち粉砕された。口では、とても妻には敵わないのだ。
 最終的には、「家族に対する愛情と思いやりの欠如」という印籠の前に僕はひれ伏すより術がなくなる、というわけだ。
 ところが、最近は自分が折れても一日では解決せず、三日、一週間と、尾を引く時間が長くなっていた。
 結婚以来、家のことは妻に任せっきりで、確かに思いやりは欠けていたかもしれない。しかし僕の仕事量も勤続年数を重ねる毎に増えていき、帰宅時間もじわじわ伸びていたのは事実で、とても家のことや子供に関わっている物理的な時間も心の余裕もなかった。
 馬車に曳かれる車輪のようにあくせく働く割には毎年の収入が減らされていく中、子供が大きくなるにつれて出費ばかり嵩んでいく。
 結婚した当初思い描いていたような将来の自分たちの姿からは、幼児の書いた「いたずら書き」とギュスターヴ・クールベの油絵くらい異なっていた。

   *

 狭苦しい一軒家の我が家の前に乗りつけてきたのは、真っ黒なキャデラックのリムジンだった。こちらが恥ずかしくなるくらいの派手な演出だが、二十周年記念だし、普段経験できない趣向をこの時ばかりはと楽しむことにした。
「素敵ね。こんな車、映画の中でしか見たことない」と、妻は目を輝かせて後部座席に腰を掛けた。真っ黒なレザーシートに体を埋めると、まるで自分自身も映画俳優か芸能人になったような気分だった。
「それでは松沢様、出発します」
 白手袋をはめた品の良い運転手は、これ以上ない丁寧さでドアを閉め、運転席に座りサイドブレーキを解除した。
「啓太の修学旅行と偶然重なって良かった。それにしても、二人だけで外出なんて本当に久しぶり。前から考えてくれていたの?」
「もちろん」
 前からと言っても、せいぜいあの案内状が届いた日からだが。
「リムジンなんて贅沢すぎるわ。お金、大丈夫なの?」
「お金のことは心配しなくていいよ。この日のために、ちゃんと貯金しておいたんだから。楽しもうよ」
「そんなこと考えていてくれたなんて……本当ありがとう。最近、あなたには酷いことばかり言ってしまって」
「もういいって」
「これから何処に行くの?」
「それは着いてのお楽しみ」
 と言いつつ、僕自身もどういうコースになっているのかは知らなかった。一泊二日だから、それほど遠くに行くことはできないと思うが、恋人時代に良く行ったデートスポットをそのエピソードと合わせて紙に書いて送れというので協議会に送っただけだった。
 窓にはスモークが張られ、あまり外の様子を見ることはできなかったが、後席の天井には、小さな液晶モニターが吊り下げられていて、あるテレビ番組が流れていた。
「ねえ、このドラマ懐かしいね。結婚して最初に住んだアパートで一緒に見た初めてのドラマ。覚えてる?」
「もちろん、覚えてるよ。篠原涼子が主役のやつでしょ?」
「違うわ。深津絵里よ」
「そうだっけ」
「相変わらず適当ね。でも、本当に懐かしい。このドラマの放映途中でパート勤め始めたから、余計」
 そう言われてモニターを眺めているが、僕にはどんなストーリーでどんなラストだったのかうまく思い出せなかった。
 でも、確かにまだこの頃は早く家にも帰れたし、妻とは色々なドラマをリアルタイムで見ることが出来た平和な時代だ。すでにバブル経済は崩壊していたが、またその余韻というか、精神的にも経済的にも「ゆとり」を今よりは感じることができた。
 車は幹線道路から立体を上り、首都高速に乗ったようだ。特に会話もなく、妻は懐かしそうにドラマを見ていた。本当は何かを話しかけてあげなくちゃいけないのだろうが、特に何を話していいのか分からなかった。
 普段は息子が間にいるから、子供の顔さえ眺めていれば、文句を言われることはなかった。息子の話さえしていれば、無難にやり過ごすことができた。
 「無難にやり過ごす」という僕の姿勢を、きっと妻は察しているのかもしれない。一体いつから、こういう感じになってしまったのだろう。妻とドラマを一緒に見ることはおろか、会話することも苦痛になるなんて。
 リムジンが最初に停車したのは、渋谷にある映画館の前だった。そもそも渋谷なんて場所に来るのは実に久しぶりのことだった。街行く人々の賑わいは相変わらずだが、そのファッションや街並みは微妙に当時とは違っていた。
「こちらでお待ちしておりますから、ごゆっくり」と運転手は軽く頭を下げた。
 妻は懐かしそうに、一度建物を仰ぎ見、「いきましょう」と僕の手を引いた。あまりの不意打ちに、僕は反射的に手を引っ込めてしまった。
「何よ、せっかく二人きりだっていうのに」
 妻は僕をそういう言い方で非難した。悪いことをした、と僕もすぐに反省した。デートをしていた頃は、この渋谷の映画館を中心に、どこに行くにも固く手を繋いで歩いていたはずなのに。あれから二十年、この気恥かしさと言ったら何なのだろう。
 いけない。今日はせっかくの二人だけの日なのだ。妻にサプライズツアーをセットしたのは僕自身なのだから、何としても妻には満足してもらわなくてはならない。今日一日だけは、余計な羞恥心はなしで。
 僕は勇気を出して妻の手を改めて握った。最初はむっとしていた妻だが、僕がもう一度ぎゅっと握り返すと、かすかに妻からも握り返してくるのを感じた。目を合わせようとしなかったけれど、看板を見ている妻の横顔が少し緩んでいるのを、僕は見逃さなかった。
 妻の手。
 僕の手から比べたらまるで子供のようだが、ちょっとだけ温かくて、ちょっとだけ湿っていて。手を繋いで歩かなくなったのがいつの頃からなのか、僕は思い出していた。

 映画館は当時と同じようにいくつかのフロアに分かれ、それぞれ異なった映画を放映していた。しかしそれらは現代の映画ではなく、当時僕らが見ていた頃流行っていた映画ばかりだった。
 昔の映画のリバイバル祭でもしているのだろうか。それとも、僕らのためだけに、今日特別に貸し切りで上映してくれているのだろうか。まさか。
 チケット売り場には、他のお客もちらほら、カウンター上に掲げられた映画の上映時間とにらめっこをしながら、どの映画を見ようかと相談していた。
 映画自体も久しぶりだ。啓太が小さい時、スタジオジブリのアニメを見て以来、妻と二人だけで映画を見ることは、もしかしたら結婚後初めてのことだった。
 僕は「フォレスト・ガンプ」を見たかったが、二人で相談した結果、「愛人/ラマン」に落ち着いた。
それは、僕らが交際を始めてから一番最初に映画館で見た映画だった。人と車の行き交う日常の喧騒から一つ壁を隔てた建物の中で、若いフランス人少女と華僑の青年が激しくお互いの体を求め合うシーンが鮮烈なイメージとして残っていた。
 今思えば、付き合い始めの大学生が見る映画としてはインパクトあり過ぎだったかもしれないが、当時は「何の映画を見るか」ということよりも、「一緒に映画を見に行く」ということの方が大切だった。今では間違いなく前者になってしまうだろうが。
 お約束のポップコーンと生ビールを買って、僕らはがらがらの客席の真ん中よりやや後ろ、前方に足を放り出せるいいポジションに腰掛けた。さすがに平日の午前中から「愛人」なんて見ようというカップルはいない。「フォレスト・ガンプ」だったらどうだったのだろう、とちょっと気にはなったが。
 僕らは映画を見ている間中、ずっと手を繋いでいた。ひじ掛けに置いた妻の手の上に、さりげなく自分の手を重ねた。今度は素直に受け入れてくれた。二十年前に交わした結婚指輪を、妻は欠かさず嵌めていた。
 僕は結婚して間もなく金属アレルギーのようなものを感じてからつけたり外したりを繰り返していたが、ある日を境にずっと机の中に仕舞い込んだままになってしまっていた。
 正直、それが本当にアレルギーだったのかどうかは分からない。たまたまその時だけ痒みを感じたのかもしれない。どうも指輪というのは拘束されているような「窮屈さ」を感じるせいもあって元々好きではなかった。だからしないで済ませるための言い訳かもしれなかった。
 妻に対しても、アクセサリーは全くといっていいほど買ってあげられていない。結婚十年目の「スイート・テン・ダイヤモンド」なんて論外だった。十年経っても年収は増えず、むしろ子供の成長に合わせて出費ばかりが増えていった。妻がパールやゴールドのアクセサリーが好きなことは充分知っていたが、日々の生活に終われる中で、僕の小遣いの範疇では、そうしたものを買ってあげられる余裕などなかった。
「どうしたの?」と妻は僕を見て言った。
「どうしたのって?」
「ううん、指輪ばかり触ってるから」
「何でもないよ、大丈夫」
「やっぱり痒い?」
「ううん、そうじゃない」
「仕方ないわよ、アレルギーなんだもんね」
 ドリンクを飲みながら、妻は諦めたように言った。諦めさせてしまったのは、僕の責任なのだ。
 ポップコーンを頬張りながら、僕は再びスクリーンに目を向けた。今日一日で、二十年の不義理のどこまで挽回できるだろうか。

   *

 終了後、僕らは再びリムジンに乗り込んだ。移動する度に、こうして専用車が待っていてくれる、というのはこの上なく贅沢な気分である。運転手付きでリムジンを走らせる、となると、これだけでも相当な費用がかかっているのではと直ぐに金勘定をしてしまうのは悪い癖だ。
 そう言えば、「キズナ再生協議会」には、錚々たるメンバーの名前が協賛者として印刷されていた。誰もが知っている一流企業ばかりだ。それほどのスポンサーが協賛していれば、このくらいのサービスはどうってこともないのだろう。社員の給料は上げられなくとも、「社会貢献活動」という名の予算はあるということか。
 もっとも、全ての人にこのオプションが付いていたわけじゃないだろうし、二十年以内に離婚してしまったら権利はなくなってしまう。
 ただ一つ、「キズナ再生」という言葉には少し引っかかりを覚えた。「再生」と言うと、既に壊れつつある、否、壊れたものを再び甦らせる、というイメージがあるが、中には二十年間、キズナが深まることすらあれ薄まることなどない、という「おしどり夫婦」だっているだろう。そういう人たちには、このサービスは与えられないのだろうか。
 車は少し進んで停車した。宇田川町の交番の手前だった。時間は正午を少し回っていた。
「昼食を予約してありますので、お時間の許す限りごゆっくり」と運転手は言った。
 交番の側にひっそりと営業する割烹料理。今思えば、学生の分際で生意気だが、アルバイトで稼いだお金を全て自分の使いたいように使えていた当時、僕らは他の学生がいくような安くて騒々しい居酒屋チェーン店ではなく、しっとり落ち着いて美味い日本酒の飲めるこうした店が何よりのお気に入りだった。
 割烹といっても、渋谷という場所柄、飛び抜けて単価が高いというわけではなかった。学生でも洋服をちょっとだけ我慢すれば充分お釣りのくる店だ。従業員は全員着物を着ていて、旬の魚や焼き鳥、天麩羅、鰻と和食に関するものなら何でもある店だった。
 その後の不景気の中で、確か僕らが卒業して間もなく潰れてしまい今では全く違う洋食の店にとって変わった、と聞いていたが、今目の当たりにしている店の面構えは、まるでいつでも快く僕らを受け入れてくれた当時のままの佇まいだった。
「いらっしゃいませ」
 おしとやかな年配の女性が、お待ちしておりました、という言葉を添えて一段上の座敷に案内してくれた。既に前菜と小鉢が用意され、冷えたビールグラスがすぐに目の前に出された。
 そこは昔もよく案内された場所だった。何故か広い店内の中で、決まって案内される場所というものがある。店員と申し合わせたわけではないが、僕らの指定席のような場所だった。
「懐かしいわ。まだ営業してたのね」
「確かバブルはじけてから潰れたって聞いてたけど」
「誰に?」
「さあ」
「また、いい加減」
 妻はきょろきょろと店内を見渡す。僕もメニューを広げて、側にいた店員にビールを頼もうとすると、既にビールを持って立っていた。
 懐かしい。メニューも看板も店の雰囲気も、全く当時と変わっていない。もう二十年近くも来ていなかった店なのに、まるでつい昨日まで通い詰めていた店のように、店内の色と匂いが体に自然に馴染んでくる。
「お食事はいつでもご用意できておりますから、声をおかけくださいね」とその店員は言った。
「ありがとう」と僕は言った。ビールの後には、ちょっとだけ日本酒も飲んでみたいな、と妻に言うと、「昼間からあまり飲み過ぎないで」と軽く釘を刺された。確かに昼から飲んだくれていては夜まで持たない。
 僕はビールだけで我慢することにした。いけない、また自分で楽しもうとしている。あくまでも妻へのサプライズなのだから、自分がホスト役にならなくてはいけない。
「いろんなことを話したね」
 妻は目を細めて、僕に言った。一瞬、妻の顔が大学生の頃の妻に戻った気がした。
「そうだね。何度開店から閉店までいたことか」
「あの当時は、本当に話すことが沢山あったわ。次から次へと」
「うん」
「お互いの趣味とか好きな音楽とか映画とか、そして将来の夢や結婚の話も、ここでしたんだよね」
「こうやってビールや日本酒を注ぎ合いながら。あまり学生らしくなかったけれど」
「生意気だったのよ、二人とも」
「確かに」
「あなたが熱く語る夢の話、私大好きだった」
「今思うと、恥ずかしいね」
「そんなことないわよ。強く思っていれば、いつかは叶う。でもあなた、気が多いから」と妻はちょっと皮肉っぽく笑った。
 妻には、実現可能性と根拠の乏しい、文字通り「夢」のような話をたくさんした。ロックバンドとしてデビューをするとか、タレントとしてスカウトされるとか、小説を書いて芥川賞を獲るとか、学生ベンチャーを立ち上げて株式公開するとか、そんな荒唐無稽な話を怖いもの知らずの若気の至りで平気でしていた。
 しかし特にそれに向かって具体的な努力を重ねるということもなく、語るだけ語っておきながら「バブルが崩壊した」ということを全ての言い訳にして、とりあえず雇ってくれそうな適当な会社に適当なモチベーションで入社した。
 「夢を語れる男」を、妻は好きだと言った。でも彼女が本当に好きだったのは、夢を語るだけではなく、夢に向かって努力をする男だったんじゃないだろうか。だとすれば、僕はずっと彼女を裏切り続けていることになる。
 こうして妻と会うことが楽しみでしょうがなかった当時のデート場所なんてところにくると、あの時彼女と交わした会話、約束、誓い、そんなものがまるで昨日の出来事のように浮かんでくる。そしてそれらのほとんどは、僕に後悔と懺悔を求めてくるものばかりだ。ビールグラスを口に当てながら、そんなことをぼんやり考えていた。
 客は僕らが入店した後は、入れ替わり立ち替わり席を埋めていた。BGMで流れている琴の音色と客の話声は、丁度いい音量と音質で、僕らの会話の隙間を埋めた。
 ビールの味が最近苦く感じるようになっているのは、味覚がおかしくなったのではなく、ビールを美味く飲む心構えができていないからなのだろう。

   *

 車は再び首都高速に乗った。食事を終えて、というより少しアルコールも入って、僕は心地よく座席に持たれていた。妻の頬も少し上気して、満足そうだった。
「次はどこに連れて行ってくれるのかしら」
「さあね」
 浜崎橋からレインボーブリッジを目指している辺りで、僕はある程度推測がついた。この道はこれまでに何度も通っている道であり、妻と結婚し、啓太が生まれてからも幾度となく。
「ひょっとして」
「その通りだと思うよ」
「でも何年ぶり? 啓太が小学校高学年になって以来全く」
「そうか。随分、久しぶりなんだね」
 湾岸線から見える東京湾は、水平線に沿って光の粒子がひしめき合っていた。TDL内の建造物の頭がちらちら見え隠れしてくると、妻はまるで子供のように身を乗り出して、様々な感嘆詞を呟いた。
「間もなく到着しますから、ご辛抱を」と運転手は言った。
 昔の映画に美味い割烹に夢のTDL。これ以上ない飛びきりのデートコースだな、と僕は感心した。妻への感謝を表す企画としては充分過ぎるほどの行程だ。さすがは「キズナ再生協議会」。

 運転手からチケットを預かると、妻は早歩きでゲートに向かった。平日のせいか、駐車場にはまだ余裕があった。ゲートもスムーズに通過し、制服を着たアルバイトから園内マップをもらった。ゲートを入ってすぐ正面には、「ミッキー」の顔をイメージした花壇が植えられ、チップとデールが、他のゲストたちと楽しそうに写真を撮っていた。
「いつ来てもワクワクするわね」
 TDLは、二人とも大好きだった。交際をしている頃は、イベントの切り替えやアトラクションの新設があったりする度に訪れていた。
 僕は元々アミューズメント施設は好きではなかったが、このTDLだけは特別だった。アルバイトとはいえ、サービスや接客はプロフェッショナルだった。皆、ゲストを楽しませよう、がっかりさせないようにしよう、という思いが徹底して貫かれていた。ゲストは時にメインキャストとなり、時にエキストラとなった。
 園内にゴミは一つも落ちておらず、周囲にオフィスビルの面影はなかった。中途半端ではなく、何もかもが徹底されているところが好感を持てた。そういえば、「キズナ再生協議会」のメンバー一覧に、「オリエンタルランド」の名前が入っていたことを僕は思い出した。
「まずはどこに行ってみる?」
「お決まりの、あそこでしょ」
 そう言われて、僕はすぐにぴんときた。きっと「カリブの海賊」のことを言っているのだ。ワールドバザールを抜けて直ぐの場所にあるアクセスしやすいアトラクションだ。混み過ぎることもなく、一瞬コースターがすっと落ちる感覚を味わえるし、薄暗い雰囲気の中でランドの導入部としてはとても入りやすいところだった。
 予想通り、ほとんど待ち時間なしで、僕らは乗り物に案内してもらうことができた。園内は想像以上に空いているようだった。
 同僚から最近は外国人の観光客で溢れ返っていて、平日だろうが休日だろうが関係なく混み合っている、と聞いていたが、少なくとも「カリブの海賊」を見る限り、外国人と思しきゲストは皆無だった。
「あそこでも食事したよね。一番最初にディズニーランドに来て、一番最初に食事をした場所なのよ。覚えてる?」
 乗り物に乗って最初に見えるアトラクション内のレストラン、ブルー・バイユー。
「覚えてるよ、あの頃はインターネットなんてなかったから、本買って事前研究してさ」
「今は何でも調べられるから便利よね」
 妻と座ったのは、「カリブの海賊」の船が良く見える一番端の席だった。あまりの薄暗さに、何を食べているのか分からなかった記憶がある。
 あの頃の自分は、一体何を考え、何を楽しみにして生きていたのだろう。もちろん今でも大人の考えが出来ているなんて到底思ってはいないが、今とは比べ物にならないくらい、子供じみた青臭い男だったのではないかと思う。
 しかし少なくとも今以上の愛情を目の前の妻に対して注いでいたことは事実である。妻の話を一生懸命聞こうとしていたし、僕の話も、拙いなりに、一生懸命語ろうとしていた。僕の興味は妻にあり、アトラクションを楽しむことがメインでは決してなかった。
 ポイントは、と僕は思った。啓太が生まれたあたりから、恐らく妻に対する関心が少しずつ子供に振り向けられていったのではないだろうかと。僕の中では、愛情の「容積」が決まっていて「子供が産まれたから」といって「拡張」されるわけではない。そうした愛情の柔軟性と発展性のなさが、きっと妻の求めているものと乖離を生んでしまっている原因なのだろう。

 「カリブの海賊」を終えて、次に妻が向かったのが、「イッツ・ア・スモールワールド」。ここも常にはずさないアトラクションだ。ゆったりとボートに腰掛けながら、世界中の元気な子供たちの歌声を聴く。皆が手を取り合って、戦争や飢餓のない平和な世界が来ることを夢見て。こういう設立者の「思想」が明確に打ち出されているところが、TDLが他の「遊園地」とは一線を画す理由だ。
「何度見てもいいわね」
 人形たちの踊りを瞳一杯に溜めて、妻は子供のように言った。こういう妻の顔を、僕はこれまでに何度となくカメラに収め、ビデオに収めてきたはずだった。啓太が生まれてからは、その中心は啓太になった。妻の姿は、徐々にファインダーから消えていった。
 そして、今日も妻と二人だけの外出だというのに、カメラを持ってくるのを忘れていた。こういうところが、妻から「気遣いが足りない」と言われてしまう所以なのだ。
 仕方なく、僕は携帯で妻の写真を撮ることにした。いくら携帯のカメラが一千万画素あるからといってデジカメはいらない、という問題ではない。
「カメラは持ってきてないの?」と妻は聞いた。
「忘れた」と僕は正直に答えた。
「相変わらずね。この暗さで携帯で撮れると思う?」
「いや、思わない」
 妻はやれやれと言った感じに、僕に向かってそれでもピースをくれた。僕は携帯を横に構えて、シャッターボタンを押した。出来あがりも予想通りほとんど真っ暗だったが、それでも妻の笑顔はおぼろげに見てとることはできた。妻よりはむしろ、奥で腰を揺らしながらフラダンスを踊る人形にピントが合っているようだった。携帯電話のカメラは記念写真には向いていないということがよく分かった。

 ロマンチックな小舟の世界旅行を終えると、僕らはディズニーランドの象徴、「シンデレラ城」に向かった。
シンデレラのストーリーはいい。誰もがそう思っていることが、そう思う通りに進行し、誰の期待も裏切ることなくクライマックスを迎える。世界中に愛される物語となるためには、分かりやすいストーリー、万国共通の主題であることが大切だ。
 妻はここにくると、必ず「シンデレラ城」を背景に写真を撮り、アトラクションに参加した。ガイドに従って、グループで豪華絢爛な城の内部を巡り、最終的には敵を剣で倒してメダルをもらう、という他愛もないものだったが、今まで一度もこのメダルをもらったことはなかった。大勢の中から、勇者に選ばれるのは結構難しいことだった。
 若い女性ガイドが、ディズニーキャラクタ―たちの肖像画が飾られたギャラリーを案内した後で、映画『コルドロン』で魔獣ホーンドキングを討伐した少年ターランについて説明を加えた。もう何度となく訪れているはずなのに、僕は全くその名とストーリーを覚えていない。
 「記憶の不明瞭さ」もしょっちゅう妻から指摘されるところだ。誕生日に人からもらったものや、妻や啓太のために、こちらから贈ったものでさえ、一体いつ何のタイミングであげたものなのか、すっかり忘れてしまうのだ。
酷い時になると、あげたことすら忘れている時があって、そうした時には、妻からは呆れられるのを通り越して、絶望的微笑を浴びることになる。
 確かに、去年妻の誕生日に買ってあげたストールを見て「中々いいストールしてるね。いつ買ったの?」なんて真顔で聞かれたら、それは冗談には受け取れないだろう。
 後になって思い出してみれば、「ああ、そうだったよな」と合点のいく話なのだが、それまでに随分と時間がかかることが多くなっていた。これは妻や子供に対する「薄情さ」というより、もしかすると、痴呆の症状がリアルに進行してきているのではないか、と自分でさえ心配になった。
 白雪姫の女王の実験室。『ファンタジア』の悪者チェルナボーグ。『眠れる森の美女』のマレフィセント。そしてついにホーンドキングとの対決。
 ガイドは辺りを見回して、勇者を探した。と言っても、今回のツアーに参加しているのは、僕と妻の二人だけだ。何と贅沢なツアーなのだろう。ガイドのお姉さんを完全独占している。
「はい、それでは松沢夫人、この『光の剣』でホーンドキングをやっつけてください!」
 ガイドに名前を呼ばれるとは。しかも、松沢夫人だなんて。いきなりお金持ちになったような錯覚。
 妻は恥ずかしそうに剣を手にすると、ガイドに言われた通り、大上段に振り被り、一息に空を切った。
 ずばば、と背景のライトが明滅、ホーンドキングの姿が瞬く間に目の前から消えた。
「松沢夫人のおかげで、無事キングを倒すことができましたあ。どうもありがとう!」
 たった二人のツアー客なのに、ガイドの女性は全力で盛り上げようと声を張り上げていた。こういうところが、他とは違うところだ。ゲストを招き入れる人々が皆、すっかり世界に取り込まれ、世界の一部をなしている。
「皆の危機を救ってくれた松沢夫人には、『勇者』の称号が与えられます」
 そう言って、ガイドは妻に「勇者のメダル」を手渡した。ひんやりとした重みのある金属で出来たそのメダルには、「HERO」の文字が刻印されていた。
 単純だが、TDLではその安っぽさを全く感じない。むしろ、単純さゆえに違和感なく引き込まれ、流れに乗らされてしまう。「ディズニーマジック」とはよく言ったものだ。
 本当はパレードも見たかったけれど、次のイベントが控えているということなので、僕らはTDLを後にして、駐車場に戻った。妻よりも、僕の方が残念に思ったくらいだった。
 何故だろう、と考えたら、今日は息子がいないから。いつもパレードを見るのは、カメラやビデオのファインダーを通してばかりだったから。
 肉眼で見るのと、カメラで覗くのでは全くその印象は違う。肉眼はとても視野が広く全体の雰囲気が掴める。カメラだと、フレームの枠に収まっていない部分は見ることが出来ない。そこは存在していないのと同じだった。子供の父親であり、「カメラマン」の任務を背負わされた僕は、どこへ行っても、切り取られた世界と切り取られた記憶を持つしかなかった。
 今日は仕方ない。妻の為の記念日だし、この後こそ、今日のメインイベントだというのだから。

「時間が経つのが早いわね」
 妻は疲れている感じでもなく、後ろ髪を引かれる訳でもなく、また次のイベントを楽しみにしているようだった。
「次は?」と僕は運転手に聞いた。
「今日は『結婚記念日』ですからね。ご想像の通り」と言って、最後に、「横浜です」と、彼は付け足した。
 夕焼けに染まる天高い雲を眺めながら、僕はこれもしばらくご無沙汰している「みなとみらい」の近未来的な風景を思い浮かべていた。
 櫛の形をしたインターコンチネンタルホテル、段々畑のようなパンパシフィック、クイーンズスクエア、そして横浜一の展望、ランドマークタワーに観覧車。独特で個性的なみなとみらいの景色が、僕らは好きだった。
 そして、二十年前の今日、「インターコンチネンタルホテル」の一室で、大勢の親族、友人、会社の人々の前で、僕と妻は永遠の愛を誓った。
 ホテルに到着すると、エントランスで待機していたベルボーイが僕だけを呼んで、軽く会釈をしてから、こう耳打ちした。
「指輪をはずしていただいてもよろしいですか? これから衣装室にご案内します。奥様には『二十周年を記念して、記念写真を撮る』ということにしてありますから」
 ベルボーイは僕から指輪を受け取ると、「ぴかぴかに磨き直しておきますからね」と大切そうにケースに仕舞った。
 妻も他のベルボーイから、何か言伝をされているようだった。指輪を渡したことで大体予想がついた。二十年ぶりに、もう一度式を挙げ直す、というサプライズなのだ。
 写真を撮る、と思っていたら、チャペルで挙式。「結婚式は何度でもやりたい」と言っていた妻の願望を叶える、これ以上ないサプライズだ。今妻がぞっこんの韓流タレントがお相手だったらと、相手が「僕」で少し申し訳ない気もした。
 僕と妻それぞれの想像を巡らしながら、それぞれの衣装室へと案内された。部屋に用意されていたのは、グレーのタキシードだった。何となく見覚えが、と思っていたら、「当時、松沢様が着用されたものと同じ型のものなんですよ」と衣装担当の年配の女性は言った。そこまで徹底しているのだ。
 髪型は、昔から全く変化のない髪だったので、少し前髪をスプレーで固めただけでセット完了だった。男なんて簡単なものだ。
 チャペルの扉の前で僕は妻の支度が整うのを待つように言われた。何だか随分本格的な演出だ。当時のことが少しずつ僕の頭の中に甦っていた。
 「人生、誰しも二度は主役になれる。それは結婚式の時と葬式の時」という冗談を聞いたことがあるが、しかし考えてみると、実際本当にそうじゃないか、と思う。
 結婚式以来、僕が誰かから注目されたり、もてはやされたことなんて一度もない。この先、会社での立場も先が見えている。本当に次に「主役」になる時なんて、僕の「葬式」しかないのかもしれない。でも悲しいかな、その様子は、死んだ僕には見ることが出来ない。
 そんなことを考えていたら、「整いました」との世話役の耳打ち。扉がゆっくりと開く。
 神々しい程のライトが真正面から僕を照らす。大勢の人影が花道だけを開けて、両サイドから割れんばかりの拍手と共に僕を待ち構えている。逆光なので顔は良く見えないが、ざっと見る限り一〇〇人は下らない。これほどのエキストラをどうやって揃えたのだろう。ちょっとやり過ぎなんじゃないか、とも思ったが、二十年ぶりの主役になるのもまた新鮮でいいかもしれない、と一度深呼吸をして高鳴る心臓を抑えつけた。
 バージンロードの先端に立って見えているのは神父。そして少し左に寄った位置に、ウエディングドレスを着た妻の姿があった。
 導かれるように、僕は一人でバージンロードを歩く。それにしてもどうして僕一人がここを歩いているのか。今日は妻を驚かす企画であり本当なら彼女が歩くべきではないのかな、とも思ったが、僕のそんな疑念もエキストラの賑やかな賛辞と拍手の雨に悉くかき消された。
 気恥かしさと逸る気持ちから、「主役」の味を楽しむ間もなく、僕はほとんど「早歩き」に近い形で神父の前まで歩を進めた。妻はヴェールを被ったまま、じっと前方の十字架の辺りを見つめていた。妻がどんな表情、どんな気持ちで今ここに立っているのか気になった。まさか、写真撮影のはずが、こんな形で「二度目の式」を挙げることになるとは思ってもみなかったに違いない。
 今すぐ妻と話をしてみたかったが、既に神父は何やら英語でもごもごと僕らに向かって言葉を掛け始めていたので、仕方なく姿勢を正した。
 讃美歌312「いつくしみ深き」。
 祈るような歌声が会場の中に静かに響く。自分より人のためにこれまで沢山歌ってきた歌。教会には讃美歌が良く似合う。当たり前だが。
「松沢さん、あなたはこの者と結婚し、神の定めに従って夫婦となろうとしています。あなたは、その健やかなときも病めるときも、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか?」
 神父は僕の目をじっと見て、そう聞いた。二十年前も同じことを聞かれた訳だ。
 僕は結婚してからこの方、「固く節操」を守ってきたのだろうか? この結婚式が「サプライズ」だとしても、こう二度も尋ねられると、誓いが全く果たされていないじゃないか、反省しろ、と神父に言われているような気がした。
 とはいえ、何も答えない訳にもいかないので、僕は二十年前と同じく、あまり深く考えることもなく「誓います」とだけ答えた。
 神父はもう一度同じ言葉を、妻に投げかけた。少しの間を空けて、妻も小さな声で一言、「誓います」とだけ答えた。僕には何となくその間が気になったが、どうにも妻の顔が見えないので、真意は計りかねた。
 「節操」という面では、妻は僕以上に僕に対する「操」を貫いている。それは結婚以来、妻が僕に尽くしてきたこれまでの日頃の行動を見ていれば分かる。僕はそんな軽々しく「誓います」なんて言っていいものだろうか。
「あなたはこの指輪を早乙女さんに対するあなたの愛のしるしとして彼女に与えますか」
「はい、与えます」
 指輪の交換。
 そう、彼女の旧姓は「早乙女」。「松沢」なんていうもったりとした名前とは違って、美しい響きの名である。
男には分からない世界。「名字が変わる」ということ。
 「早乙女」が「松沢」に変わることによるアイデンティティの変化。今では当たり前のように、妻は「松沢さん」と人に呼ばれて返事をしているが、本来は「松沢さん」じゃなくて、「早乙女さん」なのだ。
 そして、僕は彼女の指に、改めて結婚指輪を嵌める。K18のイエローゴールド。向かい合わせとなった妻から差し出された左手を僕の手の平に乗せる。
 小さな手。こうして改めて妻の手を見ると、結婚してからの年月の長さを感じる。指先の腹に無数の皺。所々でささくれ、乾燥して切れてしまっているところが痛々しい。毎日洗剤に晒され、水仕事を繰り返していると、あんなに白くて透き通っていた手でさえ、こんな風になってしまうのだ。僕がそうなる替わりに引き受けてくれた、妻の苦労。
 指輪は簡単に関節を通過した。こんなに緩かっただろうか。いや、これは指輪が緩いのではなく、妻の指が細くなったのだ。
 逆に妻から返される僕の指輪が今度はきつくて中々入らない。関節でひっかかってしまっている。毎日酒を喰らい、運動もろくしていないとこうなるのだ。結婚して十五キロも増えてしまったのでは「詐欺だ」と言われても仕方ない。苦戦している妻がいたたまれないので、僕は自らの手で指輪を捻じ込んだ。
「では、誓いのキスを」
 僕は息を押し殺して妻に被せられていたヴェールを上げた。しばらく伏し目がちになっていた妻だが、いよいよ覚悟を決めたのか、僕の顔を潤んだ瞳でじっと見つめた。
 いくらサプライズとはいえ、これだけの人の前でキスをするというのは何度経験しても恥ずかしい。
 それでも妻は軽く顔を上げて、瞳を静かに閉じ、受け入れ態勢を整える。ここのところ感じたことのない、特別な緊張感。そもそもキスなんて、いつ以来だろう。いや、そんなことは今この場で考えることではない。
 僕は本当に妻を愛しているのだろうか?
 恐らく一年ぶりのキスを、多くの面前にて交わした。妻の唇が、何故かとても冷たい感じがした。

   *

 ホテル最上階のスイートルーム。
 今日はここで宿泊できるのだそうだ。当時宿泊したのと、全く同じ部屋のようだが、あまり記憶になかった。披露宴で飲み過ぎた酒が、今頃になって目まぐるしく頭の中を駆け巡っている。
 思えば、当時も緊張が一気にほどけた緩みからベッドでばたんきゅうだったので、せっかくのスイートルームも、楽しんでいる余裕などなかった。
 それはともかく、今回エキストラだと思っていた人々は本物の招待客だった。自分の両親はおろか、相手の両親も親族も、またもう何十年と会っていない友人や既に辞めた会社の同僚まで。それは僕にとってもサプライズな演出だった。高砂があまりにも明る過ぎたので、こちらからは皆の細かい表情や様子は見えなかったが、自分の両親も含めて、どの人も皆若々しくあまり年をとっていないように見えた。
 たかだか僕らの結婚記念日のお祝いのために、よく遠路はるばる出掛けてもらえたものだ。一人一人にお礼の挨拶をする間もなく部屋に案内されてしまったので、ろくに話をすることもできなかった。今日は皆このホテルのどこかに泊まっているのだろうか。
 一人だけ、どうしても名前の思い出せない親族がいた。その人の顔も仕草も喋り方もとても良く覚えているのに。そうしたことはよくあることだが、何故か僕はその人のことがずっと気になっていた。
「素敵な記念日だったわね」
 街の明かりを海面一杯に溜めた港に目を向けながら、妻は言った。バスローブを着て髪の毛の裾がまだ濡れている状態の妻の後ろ姿に、久しぶりに女の色気のようなものを感じた。
「あなたはどうだった?」
「もちろん何から何まで最高のプレゼントだった。本当に」
「ねえ、あなた、まだ気が付かない?」と言って、妻は振り向いた。大あくびをしたくて堪えている僕とは裏腹に、妻の顔は瑞々しく、満面の笑みを湛えている。
「気付かないって?」
「全く鈍感ねえ」と言って、妻はバッグから便箋を取り出して僕に差し出した。その封筒は、僕宛てに届いていた「NPO法人夫婦のキズナ再生協議会」からのものと全く同じだった。
「どういうこと?知ってたの?」
 僕は未だに事情を呑み込めずにいた。
「今日一日、実はあなたのためのサプライズなのよ。私が計画したの」
 僕は酔いが一気に冷めていくのを感じた。あの「親展」の封筒。今日一日、行く先々でのサプライズ。その度ごとの、妻の表情。今思えば、どれもこれも、良くここまで僕らのことを知り尽くしている、と思うことばかりだった。
 なるほど。結局、騙されていたのは僕の方だった、というわけか。
「これは参りました」
 僕は素直に脱帽した。妻には完敗だった。全く、妻の為にスペシャルなサプライズだなんておこがましくも粋がってた自分が、矢鱈に恥かしく思えてきた。
「それにしてもここまでうまくいくなんて、ちょっとびっくり」
 妻はこれ以上ない笑顔で僕を見ていた。これほど綿密に段取りをされていたら、気付きようがない。
「ねえ、あなた」と妻は少し真顔になって聞いた。
「式に来てくれた人たちに配った『自己紹介パンフレット』の誓いの言葉、覚えてる?」
「誓いの言葉? えっと」
 突然妻からそう聞かれて、僕は頭が真っ白になった。まだ自分が騙されていたということの整理が頭の中でできていなかった。誓いの言葉。誓いの言葉。
「まさか、お忘れ?」
「いや、ええと、そうだ。『初心忘れるべからず』」
「『初心忘れるべからず』。で、今日を終えてみて、また初心に戻れた?」
「もちろん。あの日、この場所で誓ったこと。一生愛し続け幸せにする、という」
「この二十年、保ち続けてる?」
「それは」
 僕は答えに窮した。誓いの言葉を達成しているか、と問われると自信を持って「イエス」とは言えなかった。それはあえて妻がそう僕に問うていることで感じていた。「愛されている」とか「幸せ」と感じるのは、彼女自身が感じることであって、僕自身がいくら「愛している」、「幸福だ」と思っても仕方ないことである。
 彼女が求めているものに僕がきちんと応え切れていない、というのはこれまでの生活での彼女の態度、言動を見ても明らかだった。
 僕はいつも妻に対しての負い目を感じていた。それは二十年前の今日誓ったあの思いを全くと言っていいほど達成できずにいるからだ。
 初心忘れるべからず。
 一体、いつの日から僕の「初心」は忘れ去られてしまったのか。毎年迎える「結婚記念日」というのは、時を経るごとに忘れがちなその気持ちを謙虚に思い出し、今の自分の身の振り方を反省すべき日なのだ。決してプレゼントをあげたり、美味い物を食べるための日ではない。
「ごめんなさい」
 それは自分でも予期しない謝罪の言葉だった。しかし妻には二十年間、本当に苦労ばかりかけてきた。心の底から謝罪したかった。決して酔っている勢いからではなく、ずっと彼女の期待を裏切り続けてきたことに対して。「誓い」をいつしか忘れ、僕だけの「幸福」ばかりを追い求めてきたことに対して。
「別に謝ってほしいわけじゃないわ。ただ、もう一度、結婚した当時の気持ちを思い出してもらいたかっただけなの。ここのところ、喧嘩ばかりしていたから。私にも足りないところはたくさんあると思う。直せるところは直したい。でも最近のあなたはあまりにも」
 妻はそう言って、僕の手をとった。さっきお互いで嵌め合った結婚指輪は、もう体の一部のようにすっかり馴染んでいた。妻の手をこんなに荒れさせてしまったのも、白髪を増やしてしまったのも、こんな演出を考えなくてはいけない状況に追い込んでしまったのも、全て僕のせいなのだ。
「また今日から気持ちを入れ替えて頑張るよ」
 嘘じゃなかった。家族のためを最優先に考えて、家族が幸せになる、ということが一体どういうことなのか、もう一度この機会に真剣に考えてみたいと、僕は思った。
「抱いて」と妻は言った。僕はこれまでにないくらい強い力で、きつく妻を抱いた。妻の体は一回りくらい縮んでしまったように感じた。それは一年近くも抱いていないせいなのか、本当に縮んでしまったのか分からなかった。
「久しぶり」
 妻は僕の方に顔を強く押しつけた。濡れた髪の毛を撫でながら、僕は遠くに点在する光の群れを見つめていた。この誓いを、全世界の人達に見てもらいたい、と思った。全世界の人々に証人となってもらいたかった。僕は死ぬまで妻を愛し続ける、ということを。
「私のこと、好き?」と妻は顔をつけたまま、僕に聞いた。
「もちろんだよ」と僕は正直に答えた。
「二十年前の気持ちに戻って、もう一度やり直せる?」
「もちろん。今とても新鮮な気持ちなんだ。これまでの自分が何だったのかと思うくらい」
「嬉しい。ありがとう」
 僕は更に強く妻を抱いた。彼女の体は柔らかく温かかった。僕の中で、激しく血が騒ぐのを感じた。それは衝動に近いものだった。妻を「女」として意識していた。
「実はね、もう一つ、とっておきのサプライズがあるのよ」と妻は言った。
「まだあるの?」
「うん、でもそれは、明日のお楽しみ。というかもう、ね」
 妻は体を少しだけ離して、僕をじっとみつめた。それは間違いなく、誓いのキスをもう一度求める表情だった。
 もう一つのサプライズが気にはなったが、僕は体のある衝動を抑えることができなくなっていた。
「奈々子」
 僕は静かに唇を重ねた。妻も静かに僕を受け入れた。それ以上僕は何も考えず、目の前の妻だけに意識を集中した。

   *

 次の日、まだベッドで眠っている妻を横目に、僕はモーニングコールのアラームを止めた。今日はゆっくり眠っていてもいいのだが、どうも気がせいて早朝から度々目が覚めた。
 酒を飲み過ぎたのかもしれない。ベッドや枕との相性も良くなかったのかもしれない。
 ちょうど窓からは朝日が差し込み、今日という日がまた素敵な一日になることを予感させていた。
その景色をベッドサイドから臨みながら、僕は昨日から気になっていることを再び思い出していた。
 そう、あの親戚のこと。あれからはっきりと思い出したことは、既に叔父は亡くなっていて、数年前にお葬式に出席していた、ということだった。
 叔父は間違いなく亡くなっている。彼の死を一番悲しんでいたのは、僕からはおばさんにあたる彼の妻だが、確か昨日の式にも出席をしていた。もう死んでいる人が、僕たちのサプライズウェディングに顔を出した、というわけだ。
 妻はそんなことは露知らず、いや、既に承知をしているのか分からないが、とても気持ちよさそうに眠っている。思い返してみると、ほぼ完璧に近い形で、当時の参列者と同じ顔ぶれが揃っていた。いくらなんでもおかしくないだろうか。
 当時の映画ばかりが放映されていたり。潰れたはずの店が営業していたり。
 今日に残された、いやもう始まっているかもしれない、とっておきのサプライズとは?
 僕は混乱していた。一つ気になり始めると、何もかもが気になった。しかし、これから初心に立ち返って、もう 一度幸せを構築していこう、妻を息子を愛していこう、そう決めたし、誓ったのだ。何も考えることはない。迷うこともない。愛する妻のために、僕は今日から生まれ変わるのだ。
 洗面所で冷たい水を飲み、さっと熱いシャワーを浴びて寝汗を流した。それからドアに差し込まれてる新聞を取り出して、ソファに座った。ミネラルウォーターを口に含んで再び新聞を手にした時、二日酔いの頭でも理解できるおかしな見出しが躍っているのが目に付いた。
「横綱・千代の富士が引退表明」
 千代の富士?
 新聞の日付は「平成三年五月一四日」。
これがサプライズな演出などではない、とすれば、今日は僕と妻の結婚式翌日だった。(了)


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