幸福な男

koufuku2

『幸福な男』

 今、俺はこうして煙草をふかしている。
 むき出しの手の甲が乾燥した真冬の風に晒されて痺れるように痛む。国道のバイパス沿いに先月オープンしたばかりの「ベビーマムマム」の駐車場。道路の片側車線を数十メートル塞ぐほどの渋滞を経てようやく車外に出ることができた。ディズニーランドにある某アトラクションのような外観をした店舗の入り口で、往来する人々をぼんやり眺めながら、俺は肩身狭めて携帯用灰皿に灰を落とす。
 アップリカの最新型ベビーカーを押しながら全身ブランド品で身を固めているハイソな女性。風船のように膨らんだ妻の腹をいたわる優しい夫。いかにも孫へのプレゼントを捜しに来たという感じの品のいい老夫婦。 ここでの買い物が週末の娯楽であるかのように皆一様に幸せそうである。
 それに比べて、俺の仏頂面はどうだ。鏡などなくても、今の自分がどれだけ酷い顔をしているか想像がつく。店のオープン以来、週末は必ずここにいる。安くて、品数豊富な大型ベビー用品店の進出は、買物好きの佳苗にとっては願ってもないことだった。車の免許を持っていない佳苗にとって俺を頼らざるを得ないのは仕方がないとはいえ、土日の休みのうちいずれか一日はここでの買い物で潰れてしまう。
 
 子供が産まれてからというもの、熟睡できたためしがない。赤ん坊は昼も夜もお構いなしに腹が減っては泣き、眠くなっては泣き、おしめが濡れては泣く。標準より小さな体に似合わず、泣き声だけは人一倍大きい。夜中も一時間おきに泣いている。
 夜中に泣く理由の大半は母乳が多い。母乳では俺の出る幕はないので、赤ん坊が泣いても寝たふりをしている。赤ん坊の腹が満たされて再び眠りに落ちるまで、俺は頭から布団を被り、ひたすら耐え忍ぶ。
 長く伸びた灰がアプローチのタイルに落ちる。死んだ蚕のような灰を見つめていると今の自分の姿にどことなく重なり合う。潤いがない。芯がない。覇気も英気もない。大して仕事は忙しくないはずなのに、身も心も何故かくたくたである。
 とはいえ、結婚して子供もできて、定職があって車もあって、こうして週末に家族で「ベビーマムマム」で買い物できるのだから十分幸せじゃないか、と言う人もいるかもしれない。

 口うるさくて神経質だが、そこそこ器量のよい女房。予定通りに妊娠し、予定通りに生まれた子供。 給料は少ないながらも毎月決まって銀行口座に振り込まれているし定時には家路につける。
 マイカーは軽自動車だが、親子三人で乗る分には何ら不自由はない。隣町の「ベビーマムマム」まで、電車を乗り継ぎ、バスを乗り継いで自宅から一時間以上はかかるところを、軽なら十五分も走らせれば到着する。燃費はいいし小回りは利くし、日常生活は軽で十分、と一応のやせ我慢も言ってみる。

 幸福。
 そう、俺は一般的に見れば十分幸福なのかもしれない。結婚したくてもできない人、子供が欲しくてもできない人、仕事に就きたくてもつけない人、車を持ちたくても持てない人。
 しかし、俺は自分の今の生活を「幸福」と感じたことは一度だってない。心の底から実感することがどうしてもできない。
 少なくとも、若かりし頃イメージしていた三十代の未来予想図は、いつ事業仕分けされるか分からない財団法人で働き、育児と家事に奔走し、稼ぎの少なさに目くじらを立てられ、面倒見のいいパパのふりをしながら毎週「ベビーマムマム」の休憩室で赤ん坊のおしめ替えをしている、なんて生活ではなかったはずだった。
 俺の未来予想図。それはギタリストとして華やかなスポットライトを浴びること。エリック・クラプトンのように。あるいはITベンチャーを立ち上げて株式上場を果たすこと。三十代で年収一千万円、妻はテレビ局のアナウンサー、自宅は世田谷の一軒家、車はベンツ、自分の服も子供の服も外国の高級ブランドで固め、週末は三つ星レストランでジューシーなステーキに舌鼓を打つような。
 しかし現実はどうだ。ギターはござと抱き合わせでクローゼットの中。パソコンは五年前の中古品。年収税込み三百万。妻はイケメン友達のナンパのおこぼれ。車は十年落ちのミラパルコ。自分の服も子供の服もベトナム産の激安品。最大限の贅沢は近所のスーパーのタイムサービスで買う「アメリカ産サイコロステーキ」。

 息すら漏れぬ絶望の溜め息の中、 ジーパンに捻じ込んだ携帯がぶるんと暴れ出す。多分佳苗からだ。

送信者: 佳苗
件名: Re:
本文: ねえ、いつまで煙草吸ってるの? コウのおむつ替えて欲しいんだけど

 お約束の送信者、お約束のメッセージ。やれやれ。俺はフィルターぎりぎりまで吸い尽くしてから、泣き出したい気持ちをぐっと飲みこんで覚悟を決める。

 「赤ちゃん休憩室」は多くの母親たちで賑わっている。さっと見渡したところ佳苗の姿はない。交換用のおしめとお尻ふきをベビーベッドに残したまま売り場へ戻っていったようだ。 全くせっかちな女だ。俺がくるまで待っていてくれてもいいだろうに。
 ロンパースのボタンをはずし、お尻ふきでさっと湿った部分を拭いてから、腰を浮かせて新しいおしめを挟み込んでテープで止め、再びロンパースのボタンをぱちぱちと留めていく。
  隣のベッドで子供をあやしていた女性が目を丸くして俺を見ている。あまりの手際の良さに驚いているのか、あまりに乱暴な赤ん坊の扱い方に肝を潰しているのか。俺にとっては、まあどちらでも構わない話だが。
 我が子の顔を見るたび、一体どちらに似ているのだろうと思う。本当に我が子なのかと思うくらい、どちらにも似ていない。もう少し大きくなれば特徴が出てくるのかもしれないが、顔の中のどの部品を取り上げてみても、二人に共通点はない。裏を返せば、我々二人に特徴がないだけのことなのかもしれないが。
 ぐずり始めたので俺は子供を抱き上げ、使用済みのおむつをゴミ箱に放り込み休憩室を後にする。おしめを取り替えても泣き止まないということは腹が減っているのだ。そういえば、大しておしめも濡れてはいなかったし。
 俺は必要以上にだだっ広い売り場の中を必要以上に首を伸ばしながら佳苗を捜す。ここにいる母親はどの母親もそれなりにバイタリティがあるように見えるが、男性諸氏にはいまいち生彩がない。生彩というより男らしさというべきか。四十路はとうに越えていると思われる白髪混じりのいい男が、抱っこ紐の赤ん坊を必死な形相であやしている姿を見ると、一抹の物悲しさすら感じる。「ねえ、ちょっとおむつ安くなってるか見てきてくれる?」と言われて「うん、分かった、三千円を切ってたら安いよねぇ?」なんて答えている姿においてをや、だ。日本男児たる男らしさはどこにいってしまったのだろう。「父権」や「亭主関白」は死語なりや?
 皆、演じさせられているだけなのだ。文句を言わないことをいいことに会社にこき使われ、文句を言わないことをいいことに家でもこき使われ。
 かくして、育児も家事もそつなくこなす「家政婦」のような「家政夫」となって、毒気を抜かれ角を取られ、こじんまり平準化された平べったい男に飼い慣らされていく。
 染みだらけのフリースを着ながら、赤ん坊のよだれを胸にこびりつけて、韓国男優にぞっこんな我が愛しき妻を、うろうろきょろきょろ探し回る哀れな男の姿。そんな男に身の半分を埋めつつある今日この頃なのである。
 さりとて、平準化からの脱却を目指すために、俺は何の努力をしているというのだ。血豆を潰すほどギターを掻き鳴らしているわけでもない。寝る間も惜しんでネットビジネスの研究をしているわけでもない。
 俺が唯一してる事といえば、好きな女子アナを思い浮かべては、こっそり佳苗に隠れてトイレでマスターベーションをすることくらいだ。世の大半の父親と同じように、俺もこじんまりした平準化男として生きていくより仕方がないのだろうか。
 と、堂々巡りの妄想の途中で、どすん、と誰かにぶつかった。とっさに「すいません」と答えると、相手は佳苗だった。
「ちょっと、どこ見て歩いてんのよ。それよりトイレ行きたいから、これレジ通しておいて」
「うん、分かったぁ。ポイントは使う? それとも溜めておくぅ?」

 その晩、佳苗が夕食の支度をしている間、代わりに子供を寝かしつけていた。一緒に横になっていると往々にして自分も眠たくなってしまうものだが、案の定、肘枕をしたままこくりこくりとやっていた。このまま子供と一緒に眠りにつけたらどれほど気持ちいいだろう、と何度も誘惑にかられたが、それを逐一察するかのように、がちゃん、とフライパンをレンジに落とす音ではっと目覚めさせられる。
 俺はともかくせっかく寝付いた赤ん坊まで、と思うが、赤ん坊というのは大人と違って一度眠りについてしまうと、ちょっとやそっとの物音じゃ目覚めないようである。聴覚がまだ発達していないからかもしれない。
 何度目かの衝撃で、さすがの俺も完全に目が覚める。赤ん坊は大の字になって首を横に向けたまま、気持ちよさそうに眠っている。俺はまじまじと赤ん坊の顔を見る。どの角度から見ても相変わらず我が子と自分の共通点は見い出せない。
 ん?
 ふと感じた違和感について考える。いつものコウと、何かが違う。
 匂い? いや、そんな漠然としたものではない。
 黒子。
 この口の端にある小さな黒子。こんなところに黒子なんていつできたのだろう。たまたま今まで気付かなかっただけなのだろうか。子供の口元にこれほどはっきりした黒子が現れているのに気がつかないなんてことがありうるだろうか。いくら赤ん坊に無頓着な俺だとしても。
 料理に夢中な佳苗に確認してもよかったのだが、ただ俺が気付いていなかっただけだとすれば、またいつものように墓穴を掘ってしまう。
 「何をいまさら言っているの? 生まれた時からあるじゃない。女の子じゃなかったからがっかりしてるんでしょ。所詮、あなたはコウに興味ないのよ。興味ないから見ようともしない。コウだけじゃないわ。私に関してもね!」
 俺は身を起こす代わりに、ぐっと堪えて口に溜まった生唾をごくんと飲み込む。

 黒子だけではなく、気になるところはまだあった。髪の毛。湿っているせいかもしれないが今日は随分とウェーブが激しい。コウに癖毛はなかったはずだ。それに何となく毛の量も多い気がする。
 もみあげの毛をそっとつまんでぎりぎりまで伸ばしてから指を離す。形状記憶合金のように、髪の毛はくるんと渦を巻きながら元の場所に納まっていく。髪質も変わったというのか。
「何をいまさら言っているの? そんなの生まれつきじゃない」
 佳苗はそれほど驚いた感じでもなく、箸を口に運びながら言う。
「それより、このポテトサラダ食べてみて。評判のお店で買ってきたの」
 予想通りの反応だったが、佳苗はそれ以上追及することなく、むしろいつも以上に穏やかそうな表情をしているのを見て俺は内心ほっとする。
 機嫌のいいことを幸いに髪の毛の話も持ち出してみる。「私って、昔はとても癖毛だったのよ。今も少し残ってるけど。遺伝しちゃったのかな」
 佳苗が癖毛だったなんて話は、初めて聞いた。
「最近、コウの髪増えた感じしない?」
「成長する時期なのね。大人の一年とは違って、一歳の子供の一年はその子の人生全てなんだから」とまるで意に介さない。今の佳苗にとっては、コウより惣菜の方が一番の関心事であるようだ。
「いや、間違って違う子供を連れてきちゃったのかなと思ってね」
 半分冗談で言ったつもりだったが、「間違って」という言葉が後から妙なリアリティをもって頭の中を駆け巡った。そういえば、隣のベビーベッドにも月齢の同じくらいの赤ん坊が横になっていたような気がする。あの時間、あの場所にいるということは、あの店で子供の服を買っている確率は高いわけだし、もし似たような顔をして、似たような服を着ていたら。

「馬鹿ねえ。我が子を取り違える親なんているわけないでしょう。相手もいることなのよ?」
 呆れたように佳苗は味噌汁をすする。言われてみれば確かにその通りだ。子供に対してそれほど執着を持っていない俺の感覚なんて、生まれる前からコウと一緒にいる佳苗からしてみればあてになるはずがない。というよりそもそも彼女の眼中にない。
「ねえ、そんなことよりポテトサラダはどうなの?」
 俺のつまらない妄想にはこれ以上付き合ってられないというように、佳苗は話題を引き戻す。諦めて、俺は頭をひねる。
「レタスがアクセントになっているね。甘味も酸味もちょうど好みに合うよ。惜しむらくは、グリーンピースが多過ぎるかな。こういうものは『ちょっと使い』がいい。でも、これまで食べた市販のポテトサラダの中ではじゃがいもの質と食感はいいと思う。もちろん、佳苗の手作りには敵わないけど」
「あら、珍しく嬉しいこと言ってくれるじゃない」

 我ながら模範解答だと思う。良い点、悪い点をバランスよく具体的に指摘しているし、最終的には妻を褒める、という落としどころも忘れていない。きちんと話を聞き、優しい言葉をかけてあげさえすれば、世の中の九割九分の夫婦喧嘩はなくなり離婚率も半減することだろう。本当にそう思っているのかどうかなんてどうでもいい。グリーンピースが入っていようがいまいが、ポテトサラダなんてどこで食べたって大して変わらない。飽和した成熟経済下にあっては、ひたすら商材の模倣とわずかな差別化が繰り返されるだけだ。やれやれ。

 佳苗にはあっさり聞き流されたが、やはり少し気になったので、翌日仕事場からベビーマムマムへ電話を入れてみた。 
「昨日そちらで買い物をした者ですが、『帰ってきたら、自分の子供じゃなかった』なんて連絡、入ってませんか?」
「はい? ええと、申し訳ございませんが、もう一度伺ってよろしいですか?」
 突然そんなこと言われても、学生アルバイトじゃ理解できないのは当然だ、俺はもう一度、今度は丁寧に昨日の状況を説明した。
「いや、そういう連絡は特にいただいていないようなのですが」
「そう、それならいいんだ。いや、別に何でもないからね。ではまた、きっと来週お邪魔します。ありがとう」
 事を大きくされるのも嫌だったので、俺はそこで話を打ち切り、静かに受話器を置いた。
 佳苗の言う通り、そんなことあるわけないか。佳苗の言うことは絶対なのだ。何せ、コウがまだ種の頃から、ずっと一緒にいるのだから。
 俺はすっぱり気持ちを切り替え、それ以上コウについて疑うのを止めた。

   *

 振り返れば、あれが一つのターニングポイントだったような気がする。それまでのうんざりするだけの毎日が、まるで夢のように輝き始めたのは。それは、こんな一本の電話から始まった。「お前、まだギター弾いてるの?」
 大学時代、バンドを組んでいた友人からだった。近々、都内でライブをすることになっていたのだが、ギタリストが交通事故で入院してしまった。チケットは完売しているし、出演料の一部も受け取っているのでキャンセルはできない。心当たりのある人間何人かに連絡をしてみたもののいい返事をもらえない。 俺が最後の頼みの綱というわけだ。
 彼とは大学を卒業して間もなく、友達の結婚式の余興で演奏して以来会っていない。もう十年以上も前の話だ。ライブハウスで出演料をもらって演奏しているなんて、なかなか頑張っているじゃないか。

「たまに弾いてるよ。昔ほど指は動かなくなったけどね」
 その返事は自分でも予想外なものだった。
 たまに弾いている? 馬鹿言っちゃいけない。あの余興以来、ギターもアンプもずっと押し入れの中だ。
「ライブは来月なんだ。すぐに楽譜と曲を送るからさ。やってもらえる?」
「どんな曲なの?」
 勢いとは恐ろしい。俺はもうすっかりステージに上がっている気分でいた。
「一言で説明しろと言われると難しい。とにかく聞いてくれれば分かるよ」

 二日後、早速彼から楽譜と楽曲の入ったCDが送られてきた。ミスチルとポルノグラフィティとサザンを足して中島みゆきで割ったような曲だった。メロディアスでドライブ感もありながらアンニュイさが満ち満ちている、言葉にするとそんな音楽だった。 少なくともエリック・クラプトンとは程遠いが、引き受けてしまった以上やるしかない。
 クローゼットから埃の積もったギターケースを引っ張り出す。弦は少し錆びてはいたが何とか音を出すことはできそうだ。試しに名曲「愛しのレイラ」のイントロ部分を弾いてみる。昔取った杵柄、こうして十年ぶりにギターに触れても体が覚えている。フィンガリングもピッキングも思った以上にスムーズに動くことに我ながら驚いた。全盛期よりも綺麗に音が出ているじゃないか。
 側で黙って眺めていた佳苗は、思ってもいなかった俺の才能に目を丸くしている。そういえば、佳苗にギターを弾くところを見せたことはなかったかもしれない。
「こんなに上手にギター弾けるんだね。どうして今まで黙ってたの?」
「黙ってたわけじゃないけれど、こんなもの、雑音になるだけだと」
「もっと何か弾いてみて」
 居間の赤ん坊そっちのけで、珍しく佳苗が食いついてくる。
「サンシャイン・オブ・ラブは?」
「え? そんな曲、よく知ってるね」
「私、古いロックは大好きよ」
「それ、初めて聞いた」
 結婚してこの方、俺たちは一体何を話してきたのだろう。佳苗の音楽の趣向も知らなかったなんて。いや、佳苗には以前「ロックなんてただうるさいだけで大嫌い」と言われた気がしたのだが。
 しかし、佳苗の顔は真剣だ。知ったかぶりをしている風でもない。俺は半信半疑ながら、例の有名なフレーズを弾き始めると、佳苗はにやにやしながら、俺の顔を感心したように眺めた。
「あなたもやればできるんだ。素敵じゃない」
 素敵?
 決して人を褒めようとしない佳苗から「素敵」なんて言葉をいきなり言われると、全身に悪寒が走る。今日の佳苗はどこか気持ち悪い。何か下心でもあるのだろうか。
 とはいえ気が付くと、俺も調子に乗っていて、ストラップを肩にかけ、立って弾いていた。気分はすっかりエリックだ。それにしても、自分でも信じられないくらい指がよく動く。まだまだ捨てたもんじゃない。
 佳苗も俺の奏でるメロディラインに合わせて頭を上下に動かしリズムを刻んだ。コウの泣き声が聞こえたような気がしたが、佳苗は曲に夢中で全く関心を示さない。
 結婚以来初めて、俺は佳苗のことを、ちょっとだけ可愛い奴だな、と思った。

   *

 さらに、もう一つの出来事があった。
 佳苗には内緒で応募していた、とあるベンチャーキャピタル主催の「ビジネスアイデアコンテスト」でグランプリをとったのだ。これにはさすがの俺も驚いた。グランプリには賞金三百万円が与えられるからだ。三百万なんて大金を一度に手にすることなんて、宝くじで三千円以上当たったことがない俺にとっては、もちろん初めての経験である。
 まず真っ先に思ったことは、これで伊勢丹や高島屋で「ベビーマムマム」の商品より数ランク上のベビー服が買える、ということだった。三百万円を手にしてまで、「ベビー服」を真っ先に連想してしまう俺も、相当佳苗に洗脳されている。
 ビジネスプランと言っても、本当にただのプランだけである。便利屋とお年寄りをサイト上でマッチングさせるというアイデアを少し整理して文章化しただけなのだ。今の時代マッチングサイトなんて星の数ほどあるので、それを高齢者向けに見やすくて使いやすいデザインにしたことと、いざという時の「お助けボタン」(近所の便利屋やボランティアにメールが飛ぶといういたって初歩的な仕組み)が審査員の評価を集めたらしい。

「あなた、すごいじゃない!」
 それだけの大金をもらって黙っているわけにはいかなかった。もし後でばれたら、間違いなく俺は彼女に刺される。
「ベビーカーのいいものが欲しいって言ってたよね? それにたまには実家の両親も呼んでどこかうまいものでも食べにいく?」
 佳苗に話をした以上、もはや俺の金であって俺の金ではない。
「何言ってるのよ。それはあなたが優勝したお金じゃない。好きなように使って」
 俺は耳を疑った。この前のギターのリアクションといい、最近の佳苗はまるで天使だ。
 そういえば、改めて佳苗の顔を見ると、最近どことなく綺麗である。頬がすっきりしたせいなのか。化粧も以前ほど濃くないし。こうしてみると、俺の女房もなかなか捨てたもんじゃない。
「どうしたの? そんなにじろじろ見ないでよ」と佳苗は照れながら言う。
「最近、綺麗になったね」
 こんな恥ずかしい言葉が自然と口から出てきてしまうくらいだ。
「それじゃ、今までが綺麗じゃなかったみたいじゃん」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて」
「これからが本当の人生じゃない、私たち。もっと楽しまなくちゃ。今度の土曜日はバンド練習でしょ? ベビーマムマム行きたかったけれど、どうしてもってわけじゃないから、練習を優先して」
 気持ち悪いくらい優しい。どちらが本当の佳苗なのだろう。
 いずれにしても今の佳苗がとても居心地のいいものであることは確かだった。次第に、佳苗から怒鳴られたり、文句を言われたり、絵文字も顔文字もないショートメールをもらうことはなくなっていった。

   *

 それからの一年は、これまでの人生で経験したことのないとても中身の濃い一年だった。これほど一年が、いや一日一日が短く感じられた年はなかった。
 ライブは成功した。俺は彼から与えられた楽曲を忠実に、あまり目立たぬように隅っこで弾いた。ライブハウスで演奏するのは初めてだったが、ステージから観客一人一人の反応を見ることができるほど余裕があった。超満員の観客はとても盛り上がっていた。他のバンドも出演していたが、まるで俺たちだけを見に来ているかのような歓迎と歓声だった。
 そして、ライブを聞いていた大手レーベルのスカウトマンに声をかけられ、とんとん拍子に話が進み、ライブから半年後には、レコード店にCDが並べられた。
 事があまりにも粛々と進められていくので、デビューした喜びというものがいまいちなかったが(楽曲が個人的にあまり好みの音楽ではない、というせいもあったが)、自分たちの曲が売れているということは、毎月振り込まれる印税がみるみる増えていくことで理解できた。ティーンエイジャーの心をたちまち掴んだ俺たちに「ミュージックステーション」の制作担当者から連絡が入るにはそれほど時間がかからなかった。
 そして、ビジネスの方も鳥肌が立つくらい順調だった。俺のビジネスアイデアに目をつけた投資会社から驚くほどの資金提供をしてもらえることになった。その資金を元に渋谷にオフィスを構え、社員も雇えるようになった。イメージ通りに作り上げることができたマッチングサイトは順調にアクセス数を伸ばし、登録者もうなぎのぼりに増えていった。
 一旦回り始めれば、あとはコンテンツの充実と課金システムだけ考えていればいい。資金繰りに困ることはない。そんなに必要ない、と思っていても、メガバンクやら証券会社やら個人投資家やらがどんどん金を提供してくる。このままいくと、上場することも満更絵空事ではない。念願のベンツSLクラスにもに乗ることができるようなり、来月には世田谷に百坪の家が建つ予定だ。

 と、あまりにも劇的な生活環境の変化に少々戸惑いを感じつつも、俺を黙殺し続けてきた世間からの開放感と、俺を馬鹿にしてきた友人達への優越感を存分に味わっていた。正に手で触れることができそうなほどリアルな幸福だった。
 コウは、というと一歳を過ぎ、最近小さなテーブルのへりを伝って「つかまり立ち」を始めている。あの耳をつんざくような真夜中の泣き声は一体何だったのだろうと思うくらい、今では大人と同じリズムで十時間近くも眠る。おしめ替えの回数も以前よりぐっと減った。我慢することを覚えているのだろう。
 運動量が増えてくると、顔や体の脂肪はそぎ落とされ、全体的にスマートな印象になる。いまだに「どっちに似ているか」と聞かれれば「どっちにも似ていない」と答えざるをえない。
 けれども、親馬鹿かもしれないが、トンビが鷹を産んだと思うくらい、まるでハーフのように、目がくりくりとした愛くるしい顔立ちに変化している。その辺のCMで見る子役よりずっと可愛いとさえ思う。それには佳苗も同意見だ。
 モデル事務所に写真を送れば、即仕事の話が舞い込んでくるのは間違いない。最初は定番の「おしめ」がいいだろう。メジャーどころのおしめCМは、子供タレントの登竜門。自分の子の写真でパッケージされているおしめを買うなんて、これほど優越感に浸れることはない。ベビーマムマムにいくことも少しは苦痛じゃなくなる。想像しただけで頬が緩む。

 劇的な変化といえば、佳苗も忘れてはいけない。月日を重ねるごとに若返るということが生物学的にありうるのだ、と思うほど、佳苗は綺麗になった。自慢ではなく、おそらく十人の男に聞いたら、十人が「美人」と答えるほど、佳苗の容姿は変化した。
 昔と比べてどのくらい変わったのだろうと思って、結婚当時の写真を探してみるが、どこを探しても出てこない。唯一残っているのは、サイドボードに飾ってある出会った頃の写真だ。ディズニーランドでミニーマウスと撮ったもので、五年ほど前になるだろうか。
 しかしその写真の中の佳苗は、今と何も変わっていなかった。俺はもう一度日付を確かめる。確かに五年前のクリスマスであり、それ以来、ディズニーランドには一度も行っていない。
 ついこの間まで、俺は佳苗の容姿を全く取るに足らぬ、平々凡々の女だと思っていた。いつもぴりぴりしていて、そのぴりぴりはたちまち顔の眉間や目尻を侵食して、年齢以上に老けた顔を形作る。佳苗とはそういう女性だと思っていた。ぶっきらぼうだし、自己中心的だし。
 俺は幻を見ていたのだろうか。写真の中の若い女性はミニーに寄り添いながら女神のような微笑みを湛えていた。
この笑顔、どこかで見たことがある。そう、フジテレビの今人気急上昇中のアナウンサーに似ているのだ。まさか本人と結婚したのか、と妄想したくなるくらい。

 仕事がうまくいき始めると、これほどまでに周りが違って見えるものなのだろうか。本当に夢のようだった。
 健やかな子の成長にアナウンサー似の美人妻。欲しかったものもやりたかったことも、たった一年の間に全て叶ってしまった。
 真っ当な感覚で冷静に捉えれば、「これは夢だ」と判断するに違いない。
 長い長い夢。こんなにいいことばかりが続くはずがない。あまりにもでき過ぎである。
 もし仮に夢だったとしても、それはそれでいいと思っている。これまで嫌な思いも不毛な我慢もたくさんしてきたのだ。ちょっとくらいいい思いをしてもバチはあたらないだろう。
 願い事があともう一つ叶うとしたら、ぜひ神様にお願いしたいことがある。
 この夢、覚まさないでほしい、と。

   *

 今、俺はこうして煙草をふかしている。言わずもがな、ベビーマムマムの駐車場だ。ベビーマムマムにぴかぴかのベンツを止めていると何となく違和感がある。駐車場の整理員の対応も以前の軽自動車と違って、ブレーキランプが消灯するまで丁寧に誘導してもらえるようになった。
 今年は暖冬なので、手袋をはめて煙草を吸う必要はない。顔に当たる日差しが少し痛く感じるくらいのぽかぽか陽気である。
 おそらく、ここにくるのはこれが最後になるかもしれない。来月にはいよいよ世田谷の家が完成する。まさか世田谷からここまで来る必要はない。側には百貨店がある。これだけ裕福になったのだ。庶民にまみれて、こんなチープな店で買う必要はもうない。

送信者: 佳苗
件名: お待たせしてます(*^_^*)
本文: そろそろ戻るからね。レジが渋滞しているの。一人ぼっちにしちゃってごめんね~(T_T)

 携帯を閉じながら、メールの内容も変わったなあとしみじみ。早くこい、抱っこしろ、おしめを替えろ、服を着せろ、げっぷをさせろ、荷物を持て、他の女をじろじろ見るな、エロオヤジ、馬鹿みたい等々、少し前まではこんなメールばかりだったのに。
 それに 件名に言葉を打ち込んでくることなど一度もなかったし。俺の方から件名を打ち込まない限り、まるでムカデが成長していくように「RE:」ばかりが延々繋がっていった。
 ベビーマムマムは相変わらず、エントランスから次々に人々が吸い込まれ、重い荷物を両手一杯に抱えさせられて、ベルトコンベアのように吐き出されていく。
 そんな人混みの中に、俺の視線を強く捉えるものがあった。
 ベビーカーを押す女性。年の功は自分と同じ三十代半ば、ニット帽を目深にかぶり、白いタートル、カーキのカーゴパンツ姿でまるで人目を忍ぶようにうつむきながら歩いている。
 俺は彼女をとてもよく知っている気がする。
 同級生? いや、そんな次元の話ではない。
 佳苗!

 そう、佳苗じゃないか。佳苗と言っても、今の佳苗ではない。出会った頃の、あの取り立てて特徴のない、むしろ不細工な部類に分類されていた頃の佳苗。ミニーマウスと一緒に映っていたはずの、俺の記憶にある昔の佳苗の姿だ。
 ついこの間まで俺の側にいた佳苗が、今目の前にいる。あれほど鬱陶しいと思っていた佳苗だが、今はなぜかとても懐かしい。うつろな目に神経質そうな顔。ちょっと猫背で、けだろうそうに歩くあの姿。
 ベビーカーの中の赤ん坊は「おくるみ」でほとんど隠されていたが、寝顔だけはばっちり露出していた。四六時中泣いて俺を苦しめていた、生まれたばかりのコウ。青白い血管を瞼に走らせ、いつも頬をパンパンに膨らませている、ふてぶてしくて泣きたい放題の、我がままなコウ。

 フィルターの焦げる匂いで我に返るまで、俺は一心にその親子を見詰めていた。幻でも見ているのだろうか。他人の空似なのか。一年前の佳苗と赤ん坊の姿を見るなんて、そんな馬鹿なことがあるわけない。
 二人が店に消えた後、俺は頭を冷やそうと新しい煙草に火をつける。すると、ちょうど俺とは反対側に立っていた男が、俺と全く同じような動きをしているのに気がつく。
 ダウンの内ポケットからセーラムライトを一本取り出して、ジッポで火をつけている。穴の空いたジーンズ。アディダスのスニーカー。髪の毛は寝癖がついたまま。さも不味そうな顔をして一口深く吸い込み、そしてゆっくりと煙を吐く。
 一瞬、男と目が合う。同時に、誰かに思い切り胸を蹴り飛ばされたかのように俺はよろめき、体全体が火の出るように熱くなっていた。

 そこに立っていたのは、「俺」だった。
 空似などというレベルではなく、正に俺は「俺」を見ていた。

 向こうの「俺」は、まるでこちらの存在などそもそもなかったように、すぐに目をそらして足元に目線を落とした。俺はあまりの恐ろしさに一刻も早くこの場から逃げ出したかったが、足の筋肉がこわばって、最初の一歩が踏み出せない。佳苗もまだレジから戻ってくる気配がない。
 同じ店の西と東で、同じ人間が同じ顔をして煙草を吸っている。もちろん、格好は違う。向こうはユニクロあたりのダウンジャケットだが俺はヴィトンのロングコート。
 向こうの「俺」はまもなく、携帯用灰皿に煙草をねじ込んで、さもつまらなそうにこちらにも聞こえるくらいの大きな舌打ちをしてから店内に入っていった。

 俺はたった今自分の目の前で起きたことについて、もう一度最初から頭の中で反芻した。考えれば考えるほど、それはあまりに非現実的で馬鹿馬鹿しいことのように思えた。
 一年前のドッペルゲンガー。俺は本当に夢を見ているだけなのだろうか。それとも…。
 レジが混んでいる、というメールを最後に、佳苗もコウも店の中から消えた。一年前の「俺」にも、それ以降、店内で出くわすことはなかった。
 閉店までの間に、俺は何度も店に入り、車に戻った。彼女が荷物とベビーカーを押して自力で家に帰ることなどとても考えられない。携帯に電話してもすぐに留守電に切り替わってしまう。メールにはもちろん何の応答もない。
 「そろそろ閉店なのですが、よろしいですか?」
 整理員は半分あくびをしながら、俺に言った。夜の9時を過ぎ、俺は仕方なくエンジンを始動させ、ベビーマムマムを後にした。
 神隠し? いや、もしかしたら何かの事件に巻き込まれたのかもしれない。しかし店の出入り口は正面しかないし、ずっと注意して見ていたのだ。店内を探していた時にすれ違ってしまったのだろうか。それにしても、あれだけの人間がいる中で、ベビーカーもろとも誘拐とは考えられない。家に帰れば、ひょっこり電気をつけて待っているかもしれない。

 その期待も虚しく、帰宅しても佳苗の姿はなかった。俺の頭の中に「捜索願」という言葉が浮かんだ。けれども、今このタイミングで、そうしたトラブルを表ざたにするのはやや気が引けた。バンドの紅白出場も決まり、会社の新興市場への上場が見えている。
 きっと佳苗は何か特別な事情があって、今は連絡のとれない状況にあるのだ。明日になればきっと平気な顔をして帰ってくるに違いない。
 ところが、それから三日が経過しても、佳苗からは何の連絡もなかった。佳苗がいなくても、世の人々には何の支障もなく、いつも通り世界は回っていた。どう対応することがベストなのか、俺は混乱した。
 まさか、逃げられたのだろうか。いや、逃げる理由がない。今まで順調にいっていたじゃないか。経済的にも裕福になったし、家庭内暴力を振るわれているわけでもない。
 もう少し、もう少しだけ待ってみよう。アクションはそれからだ。常識的な行動ではないかもしれないが、自分の置かれた立場も考えて、俺はそうすることに決めた。
 いかにこれまで佳苗に負うところが大きかったか、いなくなってみるとよく分かる。俺一人では、家のことなど何一つできやしない。佳苗がいないので、新居への引っ越し作業は、俺一人でやらなければならなかった。一番難儀をしたのは、食器の養生。一人でやるにはかなりの作業量だった。まだ一度も使ったことのない食器の塊をいくつも眺めながら、これらが新居のテーブルに載る様子を、俺は想像することができなかった。

   *

 佳苗とコウがいなくなってから、それまで順調だった俺の運はたちまち萎んでいった。俺のアイデアで立ち上げたマッチングサイトが特許侵害で訴えられたことに加え、投資会社は結局ただの乗っ取り屋で、一緒に仕事をしてきた仲間は、次々とよその会社に引き抜かれていった。
 バンド活動の方も、本来のギタリストの復帰に伴い、最近コードすら押さえられなくなっていた俺にとって代わった。指にまるで力が入らないのだ。ピックをつまんでいることすら容易ではなく、床に落とすこともしばしばだった。メンバーたちにこれ以上迷惑をかけ続けるわけにもいかず、俺は自らバンドを離れる決意をした。
 とどめは、引っ越しを数日後に控えていた新居が火事で燃えたことだ。家は骨組みだけを残して綺麗さっぱり焼け落ちた。また一から、ここに家を建てようなんて気持ちは全く起きなかった。家族がいないのに百坪の家なんて建てても、もてあますだけだ。それに、全ての収入の道が断たれてしまった今、家を建てること自体難しくなっていた。

 新居が燃えた夜、あまりの運命の振幅に恐怖さえ覚えながら自宅に戻ると、誰もいないはずの居間に明かりが灯っているのが見えた。
 佳苗! 
 俺はとっさにそう思った。レースのカーテン越しに、ぼんやりとだが、お茶をすする女性の横顔が見える。そして、その隣に小さな子供がちょこんと座って、手をばたばたさせている様子も。
 帰ってきてくれたのだ。佳苗がいなくなってからのこの一ヶ月はまさに地獄の連続だった。佳苗は自分にとって幸運を呼ぶ女神。佳苗がいてくれないと、結局俺は何もできない男なのだ。
 と、俺は佳苗の向かいに座っているもう一人の男のことを危うく見過ごすところだった。佳苗と一緒に笑いながら俺の湯飲みを傾けている、あの男。
 俺はエンジンをかけ、自分の家を後にした。もちろんあてなどない。アパートの駐車場には、昔乗っていた、あの廃車寸前のミラが停まっていた。乳臭くて、狭苦しくて、コウの童謡ばかりがいつも流れていた、紺のミラパルコ。
 いよいよ、俺は住むところさえ失った。信じられないと言ってみても、これは厳然たる事実だ。このベンツもやがて失うことになるのだろう。
 コンビニで熱い缶コーヒーを買った後、駐車場に車を停めて俺は金勘定をした。俺に残されているのはこれが全てだ。俺はカード類を全部抜き出して、その一枚一枚を確認した。そして、ある事実に気が付いた。それぞれのカードに書いておいたはずの住所や名前の痕跡がなくなっているのだ。
 俺は気になってベンツのカードホルダーに差してある免許証を見た。すると、ふてぶてしい罪人のようなお決まりの顔写真が、あるべき場所にない。名前も生年月日も本籍も住所も全て空白になっている。かすれて消えかけているということではない。まるで最初から印刷されていなかったようだ。
 名前も写真もない免許証。 
 自分の名前。 名前?
 名前を思い出せない自分に、さすがの俺も愕然とした。急性の若年性痴呆にでもなってしまったというのか。いや、他の記憶ならちゃんとある。車の運転もできるし、現在の総理大臣や昨日の日経平均株価だって言える。自分に関することだけが、どうしても思い出せないのだ。
 これまでの凋落がフラッシュバックのように脳裏に甦る。ドッペルゲンガー。失われた記憶。
 消される。
 俺は思った。このままでは、俺はこの世界から完全に抹殺される。生きたまま消されるのだ。もう一人の「俺」に。
 数百メートルも離れていない自宅に戻るのに、俺は何度も曲がる角を間違えながら、ようやくたどり着くことができた。時間は既に午前零時を回っていた。ダイニングの明かりは消されていて、室内からは何一つ物音は聞こえてこない。
 やるしかない。やらなければ、俺が「やられる」まで。
 俺はエントランス前にベンツを停め、工具入れから一番大きなスパナを手に持った。自分の家に入るのに、まさかスパナを握り締めながら入ることになるなんて。
 幸い、チェーンロックはされていなかったので、鍵を開けるだけで難なく侵入することができた。我が家に侵入するというのもおかしな話だ。皆が眠っているのは、玄関を入って左側の和室。きっと、「俺」もそこで眠っているに違いない。

 そっと襖を開ける。布団に包まるようにして眠っている佳苗の顔が見える。口を半開きにし、呼吸をするたびに鼻からぴぃぴぃ音をさせて。
 佳苗の寝顔をこんなに冷静に、しげしげ眺めることなどこれまでなかった。人の寝顔は、立っている時の顔と少し印象が変わる。日頃は強面の人でも穏やかに見える。それは重力のせいなのか、緊張が解かれているからなのか。
 その向こうに、半分以上布団を蹴飛ばして、大の字になって眠っている赤ん坊の姿。名前がどうしても思い出せない。名前は分からなくても、俺の子供だということは何となく分かる。この赤ん坊には、これまでずっと悩まされ続けてきたのだから。
 その部屋に「俺」の姿はなかった。俺は襖を閉めリビングに通じる扉を静かに開ける。フローリングの床は注意して歩いていてもみしみし泣いた。築十年にもなると、少しずつ緩みが出てくるのだ。
 スパナを握る右手が汗ばんでいるのが分かる。いつ「俺」が飛び掛かってきてもいいように、何度も握り直しながら、目前の暗闇に注意を払う。

 台所の流しの前に、黒い棒のような人影が見える。窓ガラスに反射する外灯の光が、男の横顔を白く照らす。男は何も身に着けてはいないようだ。身動き一つせず、じっとこちらを見つめている。
 針金のように硬い髪。マジックを引いたような太い眉毛。いつでも寝不足のような奥二重の目。一日であっという間に伸びてしまう髭。たるみきった胸の肉に突き出した腹。そして、左曲がりにいきり立つ浅黒いペニス。
 あまりに醜い自身の姿から、俺は目を逸らすことができない。
 俺はこんな奴なのだ。 奴のせいで、これまでどれだけ嫌な思いをし、悔しい思いをし、つまらない生活を送ってきたことか。
 悪の元凶が、今目の前にいる。しかし、俺は「俺」を止めるわけにはいかない。俺は俺以上でも俺以下でもない。自身を止める時は即ち、俺が死ぬ時だ。
 何か途轍もなく強力な衝動に、俺は背中を押される。前方によろめく勢いに任せて俺はそのまま奴に走り寄り、即頭部めがけて、あらん限りの力で右手を振り下ろす。情けない「俺」よ、さらば!
 重苦しく固い音がした後、全裸の「俺」は何の抵抗も見せず、その場にがくんと倒れこむ。うずくまる俺に、俺は容赦なくスパナの嵐を浴びせ続ける。後頭部を叩き、背中を突き、大腿を打ちつける。何度殴りつけても血が吹き出ることはない。赤くなったり、青痣ができたりすることもない。しかし雨で硬くなった土嚢を叩いているような鈍い感触だけは、確実に掌の神経を伝って俺の脳幹を貫く。
 やがて、「俺」はぴくりとも動かなくなった。何らかの反撃を覚悟していた俺はやや拍子抜けした。
 あっけない、幕切れ。俺の分身は、俺の手によって息絶えた。これで俺の存在を奪い返すことになったのだろうか。横になった「俺」の下半身だけはしかし、いつまでも勃起していた。
 服の中がまるで真夏のシャツのようにぐっしょりしている。心臓は激しく鼓動し息が上がる。スパナを放り投げダイニングの床にごろんと仰向けになる。

 実のところ、一体俺は誰と戦っている?
 長い夢。
 もうたくさんだった。当たり前の生活に戻りたかった。普通に朝起きて、会社に行って、子育てをして、佳苗を愛す。それがどれほど幸せなことだったか。
 途方もない疲労感が俺を襲った。俺は静かに目を閉じた。リビングの床はとても冷たく固かった。
 投げ出した右手が、微動だにしないもう一人の「俺」の手に触れる。手の甲はざらついて骨っぽい。しかし裏返した手の平にはまだ熱が残っていて、もぎたてのオレンジに触れるようにすべすべして張りがある。とても大の男の手には感じられない。
 それから、俺は自身の手を眺める。スパナを握りしめていた手の中は真っ赤に変色し、親指の付け根の一部分は内出血をしていた。加えて下腹部に締め付けられるような圧迫感。どのような状況になっているのかは、触れなくても理解できた。
 そう、俺は生きている。もう一人の「俺」も含めて。
 突然の睡魔が、俺を深い闇の中に引きずり込んでいく。
 俺を殺すことなんてできやしない。俺を止めることなんてできやしない。俺は死ぬまで、俺と付き合っていくより他ないのだ。
 もう一方の「俺」の手を力の限界まで握ってみた。気のせいか、一瞬握り返されたような感じがした。だが、もう一度握り返すには、俺の体はあまりにも疲弊していた。

   *

 今、俺はこうして煙草をふかしている。
 むき出しの手の甲が乾燥した真冬の風に晒されて痺れるように痛む。国道のバイパス沿いに昨年オープンした「ベビーマムマム」の駐車場。道路の片側車線を数十メートル塞ぐほどの渋滞を経て、ようやく車外に出ることができた。ディズニーランドにある某アトラクションのような外観をした店舗の入り口で、往来する人々をぼんやり眺めながら、俺は肩身狭めて携帯用灰皿に灰を落とす。

差出人: 佳苗
件名: Re:Re:Re:Re:
本文: いつまで煙草吸ってるのよ。 コウの面倒みてあげてよ

 お決まりの内容だが、こんな当たり前のメールが妙に嬉しい。どれだけ他愛もない文章でも、それは間違いなく佳苗の携帯から送信され、俺の携帯で受信したものなのだ。口うるさくて神経質だが、そこそこ器量のよい女房と元気な子供が、俺にはいる。何といとおしい、俺の家族。俺の宝。
 つまりは、この幸福な感じ。俺が求めていたものは、正に今のこの姿なのだ。
 休憩室はいつも通りごった返している。この光景だけを見ていると、わが国が「少子化」で困っているというのがとても信じられない。
 ベビーベッドにコウがいる。手足をばたつかせてご機嫌だ。周囲に佳苗の姿はない。枕元におしめとお尻拭きだけが残されている。全く、相変わらず無防備でせっかちだ。
 でもここでいらいらしてはいけない。佳苗は一生懸命に頑張っている。何事にも真剣なだけなのだ。猪突猛進。そういえば今年は猪年、佳苗は年女。
 隣のベッドに、もう一人赤ん坊が寝かされている。偶然、コウと同じ柄のロンパース。しかしそちらのおむつ替えには母親がいる。おむつも、うちが使っているのと同じメーカーらしい。顔の形から体の大きさまで、コウととても良く似ている。

 デジャブ?
 いやデジャブではない。間違いなく同じ状況のことがついこの間あったわけだ。思い返してみれば、平穏だった生活がおかしくなったのは正にあの日からだ。もう二度と騙されるもんか。
 俺は隣の赤ん坊のことは気にかけず、コウのおしめを取り替える。手際の良さなら負けてはいない。服のボタンをはずし、濡れたおしめをはずし、綺麗なおしめを尻を持ち上げながら下に滑り込ませる。
 俺はじっとコウの顔を見る。髪の毛も、目も、鼻も、耳も、口も、全く、コウだ。毎日見ている、わがいとしき息子の、コウ。
だよね?
 一度ああいったことがあると、否が応でも慎重になる。間違いなくこの赤ん坊がうちの子だ、と言えるもの。 そうだ。大きな蒙古斑、そしてその真ん中にある小さなほくろ。
 俺はコウを静かにうつ伏せにする。そして、お尻の上の蒙古斑を確認する。
 ない。
 蒙古斑どころか黒子もない、何とも美しい美白の桃尻だ。
 今の今まで隣のベビーベッドに居たはずの母子はもうそこにはいない。俺は慌ててコウを何度も転がす。どちらの方向に転がしても蒙古斑が浮き上がってくるようなことはない。斑と黒子を確認したのは、つい今朝のことじゃないか。
 それは恐怖を通り越して無感覚に近かった。俺は何か説明のつかない異次元のギャップにはまり込んでいる。これは一体夢なのか、現実なのか。頬をつねるとめちゃくちゃ痛い。いや、夢の中だって痛みを感じることはある。
 夢かどうか確かめることを、夢の中で実践する方法。
 どこかの高層マンションから飛び降りて、死ぬかどうかを確かめてみようか?
 いや、それはあくまで「夢」ということが前提の話だ。これが夢ではなく現実だとしたら、と考えると、とても恐ろしくてできることじゃない。
 俺は佳苗にメールを入れる。「ねえ、コウって、蒙古斑あったよね?」
 大方、どういう返事が返ってくるのか分かっていながら。

差出人: 佳苗
件名: Re:Re:Re:Re:Re:Re:
本文: 蒙古斑? コウは黒子もアザもないぴかぴかのお尻だって病院でも有名だったのよ。忘れちゃったの? それより、荷物持てないのよ。早

 俺はそれ以上画面をスクロールせずに携帯を畳み、コウを抱きかかえる。コウの身体は、また一回り重くなった気がする。でも、近くでよく見てみると、何となく眉毛の形なんて俺に似ている。そうやって口を時々尖らせるのは佳苗のよくやる仕草じゃないか。鼻が低いのは俺で、くりくりした黒い瞳と目尻は佳苗の方だ。やっぱり、お前はうちの子なんだ。
 俺はここ数年したこともないような最上級の微笑みをコウに送った。

 ベビーマムマム。
 ここにくれば、良いことも悪いことも全てが振り出しに戻される。
 人生のリセット。

 そして、俺は試される。
 真剣に妻を愛しているか? 
 我が子を愛しているか? 
 自分のことばかり考えてやしないか? 
 誰かを傷つけてはいないか? 
 これまでの不義理を詫びているか?

 まるで死んだ後、閻魔の裁きを受けるように。もしかしたら、俺は死ぬまで、もう現実の世界には戻れないのかもしれない。メビウスの輪のように、ゴールのない同じ道を延々走り続けるのだ。願い事が一つだけ叶ったとするならば、もう俺には単調で退屈な毎日などない、ということだ。
 コウは虚ろな目で俺を見る。まるで死ぬ間際の年寄りのような表情で。そのあまりの醜さに、俺はコウの顔を手で覆う。コウは俺の手首をむんずと掴み、恐ろしいほどの力で払いのけ、部屋中に響き渡る断末魔のような奇声を上げた後、激しく嗚咽を始める。嗚咽はコウの声ではない。俺はしばらく考える。この声の主を、俺はとても良く知っている。
 佳苗。
 佳苗がコウの口を借りて、乾いたぞうきんを絞りあげるように、心の底からむせび泣いている。
 携帯が嗚咽に反応したように突然暴れ出す。もはや、佳苗からどんなメールがこようとも、俺は抵抗せず甘んじて受け入れるのだ。佳苗への感謝。そして贖罪。

送信者: 佳苗
件名:買い物完了です^^
本文: そろそろご飯食べない? ちょっといいイタリアンレストランが側にできたの。早くいこうよぉ、愛しのダーリン!

 気が付くと、俺と佳苗は「ベビーマムマム」のエントランスに立っていた。整理員も居眠りするほどのぽかぽかとした暖かい陽気だった。佳苗の手にはリボンを掛けた大きなおもちゃの箱がぶら下がっていた。
「あれ、コウは一緒じゃないの?」と俺は聞いた。
「一緒じゃないのって…そんな冗談にならない冗談は止めて」
「冗談って?」
 佳苗の言っている意味が俺は理解できずにいた。
「今日はコウちゃんの三回目の命日だから、お墓参りに行く前におもちゃでも買って行ってやろう、って言ったのはあなたじゃないの。しっかりしてよ」
 俺の頭は真っ白だった。髪の毛の全てが一瞬で白髪になるくらい、何十年も老けこんだ気がした。
「ねえ、一つお願いしてもいい?」と佳苗は言った。 俺は頷くよりほかなかった。
「そろそろ、また子供欲しいな」
 少しだけ照れながら、佳苗は言った。俺は実に久しぶりに、佳苗の手を握り締めた。佳苗の顔は出会った頃の佳苗の顔だった。俺はこの顔、この声、この瞳、この体、佳苗の全てが好きで一緒になったはずだった。そして永遠の愛を誓ったはずだった。これまでも。そして、これからも。
「もちろん」と俺は答えた。今度は何のためらいもなく、自信を持ってそう言えた。本気で子供が欲しい、そう思った。
 佳苗は俺の顔見て、とても幸せそうに笑った。まるでこれまで我々の間には、何一つ不幸などなかったかのように。俺は思い切り佳苗を抱きしめた。そしてキスをした。キスをせずにはいられなかった。やる気のない整理員は、赤い誘導等を手持無沙汰に回しながら、いつまでも我々のキスを羨ましそうに眺めていた。(了)


Comment





Comment



CAPTCHA


*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)