超短編小説

愛玉

5368287
『愛玉』

 かつて、愛は高級品だった。庶民が手を出せるものではなく、お金持ちだけが買える贅沢な代物だった。
 従って、我々が日常生活で目にする機会はなく、過去に愛を所有したことがあるのは、たった一度だけ、結婚したての頃だった。箪笥やら家電やら布団などの妻の嫁入り道具の一つに、愛は混じっていた。妻に聞いても、間違いなく買った記憶はあると。
  しかし奇妙なことに、いつの間にか我が家から消えてなくなっていたという事実と合わせて、愛の色や形、感触や実体など、それがどのようなものであったのかの記憶も一緒に消えていた。僕だけではなく、妻に聞いても同じだった。家庭のどこかにあった筈の愛が、結婚直後から今の娘の子育てに追われる中で、最後にはその存在すら忘れてしまっていた。
「百均に売ってるわよ」と、朝のワイドショーを見ながら、妻は呟いた。
「嘘でしょ?」
 衝撃だった。いくら大抵の生活用品が百均に売っている時代だと言っても、まさか愛が売られてるとは。
「嘘ついてどうするのよ」
「どうして? 何で買わないの?」
「何で買う必要があるの?」
「百円で買えるんでしょ? 愛は必要ない?」
「なくて困ったことあった?」
「そう言われると」
 妻とはこんな調子で、話が上手く噛み合わなかった。確かに具体的に困ったことはないかもしれないが、そんなに身近に買える時代なら、いくら超節約志向の我が家でも、その程度の買い物はしてもいいのではないかと。もっとも、百均レベルの愛がどの程度のものか、品質と効果の程は分からないが。

 その日、僕は久しく寄っていなかった駅前の百均ショップに行ってみた。探すのに少々時間はかかったが、確かに愛は「衛生用品」のコーナーに一ラック分、大量に陳列されていた。愛は本当に百均で売られているのだ。
 愛の形はいくらかぼんやりしていた。手の平に収まるサイズで輪郭も明確ではなかったが、しかし間違いなくそこに存在していた。それは感覚で分かった。気体そのものでもなく、固形物でもない感じだった。シャボン玉と言えばそう見えるし、紫煙だと言っても間違いとは言えなかった。
 品名は「愛玉」と書かれていた。原産国の表記はなかった。色は、緑、ピンク、黄色の三色。色による違いはなさそうで見た目の嗜好の問題だった。
 取り合えず、それぞれの色を一つずつ買って家に戻ると、僕は早速封を開け、匂いを嗅いだ。特別、愛に匂いはなかった。愛玉はするりと袋の口から飛び出ると、僕の目線の少し上、天井には届かない程度の高さで止まり、ゆらゆらと宙を漂った。なるほど、愛とは空中を浮遊するものなのだ。
 それから僕は娘の部屋、そして自分の部屋にも一つずつ愛玉を離した。手で触れてみたが、不思議なことに、潰れるでも変形するでもなく、まるで影のように手応えはなかった。
 妻が帰宅すると、僕の部屋の黄色の愛玉が、玄関に移動して妻を出迎えた。
「何これ」とパンプスを脱ぎながら妻は言った。「愛だよ。案の定、百均に売ってたから買ってみた」
「また無駄使いして」と妻は一瞬顔をしかめたが、満更でもないように「愛ってこんななんだ」と表情を緩めた。「たまにはビール飲みたいと思って。季節限定だって」
 妻はバッグから、見慣れたエビスビールの色とは違うビールを取り出して、僕に手渡した。いつもはビール風味の安い飲み物しか買ってこない妻が、自ら本物のビールを選んで買ってくるとは珍しいこともあるものだ。
 その夜、娘の部活が早く終わったということで、久しぶりに家族三人の食卓だった。娘がいきなり英語のテストの答案を机に広げた。百点だった。あの苦手な英語が百点だなんて、僕も妻も目を疑ったが、間違いなかった。楽勝、と得意げに言った娘の一言で、皆笑った。
 食卓で笑い合うなんていつ以来だろう。最近はずっとばらばらの食事だったし、喧嘩ばかりだった。娘は言うこと聞かないし、妻も負けない。しかし一番の原因は、僕が無職であるということに尽きた。
 いつの間にか、愛玉は三か所の部屋からリビングに集結していた。早速、愛を買った効果が出ているのかもしれない。寡黙に漂う愛玉を、僕はいとおしく思った。もっと早く買うべきだった。
 翌日、履歴書を送っていた会社から、面接がしたいという連絡が入った。また一歩前進だ。たった三百円の投資で随分事態は好転するものだ。愛は基本的に、生活を良くするものなのだ。あってもなくてもいいというものではない。やはり、あるにこしたことはない。
 台所に立つ僕の足元に何かが横切った。緑の愛玉だった。昨日封を開けた時の大きさよりもずっと小さくなっていた。危うく踏んづけてしまう所だったが、足で蹴飛ばしても、空気を切るだけだった。なるほど、効果は一日、愛玉は縮小する、ということのようだ。

 それから、僕はまた百均に行き、今度は三十個の愛玉を買った。数を増やすとどうなるかと思ったから。家中の天井に満遍なく愛玉を散らせた。トイレにも、浴槽にも。
 それぞれがどのように作用しシナジーをもたらすかは分からないが、少なくとも部屋に籠りがちだった娘は、家族の顔が見えるリビングで過ごす時間が増え、食卓では学校の話に花が咲き、勉強時間も多くなり、持ち帰ってくるテストの成績は明らかに良くなった。
 仕事のストレスを、僕や酒で発散していた妻も、職探しはそれほど焦らなくてもいい、蓄えはまだもう少しある、と怠惰な僕に労いの言葉をかけてくれたり、掃除に洗濯、炊事のどの家事も億劫がっていた彼女が、遅くまで熱心に食器を片づけたり、洗濯物を夜に干している姿を多く見るようになった。僕の就職活動が上手くいくようにと、シャツやネクタイを新調し、手を触れるのも毛嫌いしていた彼女が、風呂に一緒に入り、バスタオルも共有するようになっていた。
 嘘のようだった。僕は新婚時代を思い出した。すっかり忘れていた感覚だった。とにかく、僕の会社が倒産して以来ずっと表情のなかった二人の顔に、笑顔が戻っているのが何よりの成果だった。
 しかし、愛玉の寿命は長くはなかった。二日や三日のうちには消えてなくなっていた。こんなペースで消費していたら、あっという間に破産してしまうのは明らかだった。確かに効果は上がるが、維持するにはお金がいくらあっても足りなかった。僕のなけなしの小遣いは直ぐに底をついた。

 愛玉を買わなくなると、途端に妻は以前のように不機嫌になり、僕のやることなすことにけちをつけた。娘もスマホを抱えたまま友人宅に泊まりにばかり行った。会社の面接は、三度目の面接で落ちた。愛玉が家にあるのとないのとでは、こうも違うのか。
 ネットで調べてみると、もっと長持ちする愛玉も世の中にはあるようだが、とても一般人の手の届く金額ではなかった。それこそ自動車のように、頭金を入れてローンでも組むようだ。僕が無職の状況ではそれこそ無理だった。
 百均で愛玉を買う以前の状態に戻っただけなのに、その落差に愕然としていた。愛に満ちている状態がどれだけ心地良いものかを経験してしまったが為に。愛玉は、まるで麻薬のようだった。
 その日、妻は仕事から帰宅すると「気持ちが悪い」と言って、和室に布団を敷き潜り込んだ。体が酷く震えていた。こんなことは珍しいことだった。僕が風邪ひくことはあっても、妻はここ何年も寝込むような風邪をひいたことはなかった。
 服を着たままだったので着替えを促したが、このままでいい、と聞かなかった。病院に行こうと言っても、あなたの考えることは金のかかることばかり、とそれも取り合ってもらえなかった。医療費と無駄遣いは全く別問題だと思ったが、妻にとってはお金が外に出て行くことは、必要最低限のもの以外、すべからく浪費だった。現在何の収入もない僕は、生活を支えてくれている妻に、それ以上何も言えなかった。
 娘にメールを入れても梨のつぶてだった。見たかどうかも分からなかった。どいつもこいつも。
 いい気味だ、と僕は思った。以前、風邪をひいて起き上がれず、やむなく病欠の連絡を会社にいれる僕に、妻は「今日稼げたはずの残業代分、損した」と言ったのだ。大人が風邪をひくとどれだけ辛いか、たまには思い知った方がいい。布団で唸る妻を、僕はただ眺めていた。よかれと思ってしたことまでいちいち文句を言われるなら、何もしないで文句を言われた方がまだましだった。
 僕はリビングでサッカーを観ていた。和室の妻は一向に起きてこなかった。さっきの様子では、このまま明日まで眠ってしまうかもしれない。娘からメールが入った。何も食べていない、何か作ってあるか、と。妻が寝込んでいる以上、僕が支度するしかなかった。全く、どいつもこいつも。僕は諦めてテレビを消し、腰を上げた。
 食器棚に、娘が小さい頃の写真が飾ってあった。昔の家庭用プリンターで印刷した写真なので、かなり退色していた。当時は会社も順調で、そんなに遅くまで働かなくても、ずっといい給料をもらっていた。妻も専業主婦で娘のことだけを考えていれば良かった。妻とのスキンシップだってまだあった。結局二人目には恵まれなかったが、気持ちに余裕があった。今は皆自分のことしか考えていない。自分のことだけで精一杯なのだ。家族という名のルームシェア。
 愛玉、僕はふと思った。空間に浮かぶ、あの不定形な愛の形。今愛玉があったら、どうなるのだろう。
 お金をかけずに上手くいく方法。そんな魔法はない。金のかかる愛玉は麻薬だ。金のない人間は、どこまで行っても上手くいかないように出来ている。悲しかった。不甲斐なかった。これからを考えると絶望的だった。仕事には永遠に辿り着けないような気がした。
 今できることをするしかない、と僕は思った。僕が今できること。妻にはお粥を、娘にはスパゲティを作ってやること。その事だけに意識を注いだ。
 大きな鍋に火をかけて、塩を入れた。お粥用の土鍋も火に掛け、余り物のご飯を入れ蓋を閉めた。やがて蓋の穴から、ぶくぶくと湯気が上がってきた。
 僕の作ったものなんて食べてくれるだろうか。愛玉効果が出ていた頃の食卓の光景が、僕の頭に浮かんだ。家族皆笑っていた。僕が作ったというより、ただ温めたりレトルトをかけたりするだけの食事だけれど、妻と娘が、僕の用意した食事を食べて笑っている顔を想像した。しかしそれはただの妄想で現実味はなかった。現実は、妻は床に臥し、娘は遊び疲れていた。
 背後に気配を感じた。虫かと思ったが、米櫃ラックの上に浮いていたのは、愛玉だった。まだ前回の残りが生きていたのだろうか。いや、新たに妻が買ってきたのだろうか。以前百均で買ったものより、二周りくらい大きめだった。今まで見たこともないような綺麗な色をしていた。
 愛玉と目が合った気がした。じっと僕を見つめているようだった。僕は手を伸ばした。愛玉は僕の手に沿うようにすっと落ちて、僕の肩でぱちんとはじけた。はじけた後の愛玉は、三つに分かれて、キッチンの換気扇の周りに揺らいでいた。
 玄関のチャイムが鳴った。娘だ。いいタイミングじゃないか。もうすぐで茹で上がる。蓋をあけるとお粥もいい塩梅だった。
 僕は和室の襖を開け、横になっている妻の肩を揺すった。妻は中々目覚めなかった。無理に起こす必要はないか、僕は布団をかけ直して妻の寝息が間違いなくあることを確認してから、再び襖を閉めた。
 キッチンに戻り、茹で上げのスパゲティにレトルトのミートソースをかけた。良い香りだった。自分が食べたいくらいだった。
 愛玉、とふと思った。あるべき筈の場所に、先程の愛玉はなかった。リビングにも廊下にも、妻の眠っている和室にも。
 三つの愛玉は、ただその余韻だけを残して、跡形もなく消えて無くなっていた。(了)


2015-06-17 | 超短編小説4 Comments » 

コメント4件

 りょうこ | 2015.06.17 10:10

どのお家にも愛玉はあるって思った。 主人の為に綺麗でいたいってお金をちょっぴりかけるお化粧品 家族の健康を考えて作る日々の食事作り お洗濯、お掃除 全て愛玉があるから出来る事だって。 そして 結婚は、最悪の事態になってもこの人なら!って思えるか…で決めるべきね。 幸せにしてもらおうってスタートした人が 百均に走らなきゃならなくなるのよ。

 高橋熱 | 2015.06.17 19:14

りょうこさん、コメントありがとうございます! 愛は…あったはず。愛を与えていたはず。 いつか、忘れてしまうんですよね…。 今からでもまだ…

 Caco | 2015.06.21 23:29

わ。素敵な話です。 愛玉。どんな色をしてどんな風に浮遊するんだろう。。そんなことを想像するだけで嬉しく楽しくなる。 誰かの為に、自分の損得じゃなくて純粋なココロ。 そんな想いの愛玉。 きっと綺麗なはず。 愛にカタチはないけど。。見ようとしてないだけなのかもしれないですね。。(*´-`*)

 高橋熱 | 2015.06.22 4:56

意識することなく、自然に愛は「存在」しているのでしょう。きっと、Cacoさんのご家庭にも。
Comment





Comment



CAPTCHA


*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)