ラブドールズ・ライフ

lovedollslife

『ラブドールズ・ライフ』

 ブロンディの華奢な手を握り締めながら、僕は仰向けになって果てていた。かさの壊れたスタンドライトが我々の性戯により生み出された無数の塵を大きな口を開けて吸い込んでいた。
 天井に描かれた宇宙空間には、大小様々の星が不規則に散りばめられ、地球と思しき惑星の下を、スペースシャトルと思しき宇宙船がこちらに船首を向けて飛行していた。
「なかなか上手な絵ね」とブロンディは言ったが、僕は絵の巧拙より、ホテル街のはずれ、猫と鼠の追いかけっこでも始まりそうな場末のラブホの天井になぜこのような絵が必要なのか、ということを考えていた。
「ドクター・ハルヒト、ユーは絵好き?」とブロンディが聞いた。
「ブロンディ、ドクターじゃなくて、ミスター」
「私、今CGの勉強しているの。カンピータ・グラヒクス。カンピータを使うと思い通りの絵が描けるのよ」
「CGの前に発音の仕方を勉強した方がいいかも」と言って、僕は笑った。
「下唇がうまく噛めないの」
「下唇を噛まなければいけない音なんてあったかな」
「わざとよ、ドクター」
 スピーカーからはBGM用に編曲されたインストルメンタルのJポップが静かに流れ、会話の隙間を均一に埋めていた。原曲は確かビジュアル系ロックバンドの曲で、激しいディストーションのかかったギターとツインペダルのバスドラムが絡み合う楽曲だったはずだが、編曲家はメロディラインだけを残してそうした刺激的な部分をものの見事に取り除いていた。
 近所のスーパーで買い物してるみたいね、と言って、ブロンディは片方の眉をつり上げた。
「それより、スペースシャトルはないと思う」
「いいんじゃない? 宇宙らしくて」
「その『らしくて』というのが、悪の元凶」
 長くカールした睫毛を摘みながら、ブロンディは留守宅を覗くように僕の顔を見た。
 僕の興味は既に天井から離れ、再び彼女の白い肌を弄んでいた。ぴんと張り詰めた人工乳房の緊張感が心音と共に手の平に伝わった。先の汗と体液でまだ少し湿っている自身の下腹へブロンディの手を導いた。
「ねえ、初めて私たちと出会った時の話、聞かせてほしいな。クライアントには必ず聞くことにしてるのよ。それを聞くと、その人となりが大体分かるから」
 体の向きを変え、ただでさえ大きな瞳をさらに見開いて、ブロンディは僕を見た。彼女の左手は僕の下腹の茂みの奥深くに埋もれていた。パウダー入りのグロスを引いた瑞々しい唇を中指の腹でゆっくりなぞりながら、僕は妻が家を出ていった後、ケイトと過ごした日々のことを思い返していた。

   *

 顔を合わせるたびに喧嘩ばかりしていた妻は、僕との口論に憔悴していた。つまるところ、彼女は僕の「怠慢さ」を糾弾した。非が自分にあることは明白だった。僕は彼女に食べさせてもらっているだけだった。それでも僕は妻が好きだった。特に腰のくびれから大腿にかけてのラインは、他のどんなモデルにも敵わないと思うくらい芸術的だった。
「あなたには才能なんてないのよ。ただの自惚れで自信過剰なだけじゃない」
 妻は思い切りテーブルを叩いた。ピグレットのマグカップが床に落ちるほどだったが、とても拾える雰囲気ではなかった。
 翌朝、妻はお気に入りの洋服と下着、化粧道具、アクセサリー、自分名義の預金通帳数冊をボストンバッグ一個に詰め込み、鍵をテーブルの上に残して僕の眠っている間に家を出ていった。
 僕は完全に見くびっていた。まさか彼女が家を出ていくとは思ってもみなかった。仮に僕が気がついて「どこにいくの?」と声をかけても「セブンイレブン」と答えられたらあっさり信用してしまうくらい、あまりにも自然に消えていた。
 未練がないといえば嘘になるが、彼女に捨てられても仕方のないことだった。大体、僕はもうその時三十を過ぎていて、ろくな仕事についていなかったのだから。 
 以来、妻からの連絡はなかった。婚姻関係を明確に解消せぬまま、僕は一人暮らしを余儀なくされた。

   *

 足元を襲う明け方の寒さが目覚まし時計替わりだった。目が覚めると僕はいつも、中綿の潰れた掛け布団を股に挟みながら壁際に丸まっていた。部屋を温める唯一の熱源はカーテン越しに流れ込んでくる朝日だけだった。
 物が何もないわけではなかった。短かったとはいえ、普通の結婚生活を送っていれば、それなりに物は増える。ちょっとした電化製品や観葉植物や壁飾りやその他諸々の生活用品と生理用品。しかしそれらは妻の意志と趣向で買い求めた物であり、彼女のいなくなった今となっては、生気の吸い取られたただの無機物に過ぎなかった。
 しいて二人の思い入れのあるものをあげるとすれば、フリマでタダ同然で譲ってもらった漆塗りのロッキングチェア、イトーヨーカドーで買った陳建民推薦のフライパン、三十枚のCDをランダム再生できるミニコンポ、アミューズメントパーク嫌いの僕がたった一度だけ妻とディズニーランドに行った時に買った、ピグレットのマグカップくらいだ。

 中でもケイトのお気に入りだったのはロッキングチェアだった。「笑うことだけが人生だ」というように、彼女はいつも椅子に揺られて静かな微笑を湛えていた。
 ケイトは決して眠ることはなかった。朝、僕が目覚めると、彼女はいつも少女漫画に登場するヒロインのような眼差しで僕を見つめていた。不安も猜疑も逡巡も悲嘆も何一つ感じさせない、均整のとれたいい瞳だった。
「おはよー。今日のハルヒトはずいぶん早起きさんね。また職探し?」
「いい加減仕事見つけないと家賃払えないし、ケイトにも傍にいてもらえないからね」
一度馴らされた依存体質を元に戻すのは生易しいことではなかった。しかもこの年になると、なかなか正規雇用は難しかった。そこそこ名の通った大学を出ていながら履歴書に書けるほどの社会経験もなく、いつまでもロックばかりにしがみついて、妻にも愛想尽かされるような人間を雇う企業がどこにあるだろう。
 僕はどうにか体を起こして、やかんを火にかけた。ニコチンの上塗りで通りの悪くなった喉を正常化するには、ピグレットのマグカップで飲むインスタントのミネストローネが効果的だ。
「それにしても、眠らなくてもいいなんて羨ましいよ」
「眠る必要ないんだもん。私たちが本当に眠る時は、メインスイッチが切れた時だけ」と言って、ケイトは桜の花びらのような唇を忙しく上下させた。
「世界は一秒ごとに変わってる。次々に生まれてくる新しいことを見逃したくない。同じ日というのは一度もないのよ。ハルヒトと毎日こうして一緒にいるのだって。ハルヒトは自分が眠ってる間のこと、何にも知らないでしょう?」
 知ってたら怖いでしょう、と僕は笑ったが、ケイトは何も聞こえていないかのように眩しそうにカーテンを開けた。
「月の明かりがとても綺麗だったことも、いつもより早く朝刊が届いたことも、雀がベランダの手すりでキスをしていたことも、ハルヒトが寝言で私の名前を呼んでくれたことも。私は美しいもの、素敵なものを求めることにはいつも貪欲でいたいの。ハルヒトのことだってもっと知りたいし。私には知らないことがまだまだ多過ぎるから」
 スープを啜りながら、僕は神から授かった等身大の奇跡を眺めた。襟元に花柄の刺繍のついたシルクのブラウスとタータンチェックのタイトスカート。レースのソックス。鼈甲色の髪留め。柔らかくて艶のある長い髪。
 ブラウスと髪留めについては、妻が残していった物の中から僕がチョイスした。サイズもカラーもケイトの雰囲気にぴったりで、それらは無条件に温かく、秩序ある安らぎを僕に与えてくれた。
「ねえ、今度どこか連れて行ってほしいな。ここからの景色だってとっても素敵だけど、ずっと見続けているとそれに触れてみたくなるの。前の酒屋さんの看板にも、給水塔の梯子にも、お母さんに手を引かれて歩く男の子の擦り切れたスニーカーにも」
「そういえば一緒に外出したことはまだなかったね。今度、ドライブにでもいく?」
「本当? 嬉しい、ありがとう!」
 ケイトは飛び跳ねて喜んだ。
「無邪気で羨ましいよ」僕はジーンズに足を通して、今日最初の煙草に火を付けた。半日ぶりのメンソールは、だれていた神経をいくらか活性化した。
「仕事、どうするの?」
「何とかしないとね」

 あてなど特になかったが、家でじっとしていても埒があかないので、出掛けにケイトにキスをして、通勤中のサラリーマンの波に紛れながら駅へと向かった。
 仕事のことを考えながらマックで一番安いハンバーガーを食べ、学生の頃よく読んでいた週刊誌を久しぶりに買ってから僕は電車に乗り込んだ。
 間違えて買ってしまったのかと思うほど、週刊誌には読むに耐える記事などほとんどなく、中身の大半は一世代前のタレントのヌードと育毛剤と消費者ローンの広告だった。昔読んでいた頃はもう少し気の利いた特集や社会批評などがあったはずなのに。
 そして、針を突き刺すようなお決まりの胃痛。胃が何となくおかしくなったのは、妻が家を出た直後からだった。
 週刊誌を網棚へ放り投げ、大学のある駅の一つ手前で降りてトイレに駆け込んだ。胃が痙攣したように収縮し始めると決まって僕は吐いた。胃の中のものが全てなくならないと、そのむかつきは治まらなかった。
 吐く度に僕は思った。こんなことなら、食事なんてしなくてもいいのではないかと。あのマックの女の子も、まさか自分の売ったハンバーガーが三十分もしない間に駅のトイレで流されることになるなんて夢にも思っていないだろう。それとも一個一〇〇円+スマイルの価値なんて所詮そんなものでしょ、と鼻で笑うだろうか。

 向かった先は、僕の母校だった。訪れたのは十数年ぶりだったが、特にこれといった理由があったわけではなかった。ふと十数年ぶりに訪れてみたくなったのだ。ふと十数年ぶりに訪れたくなるには、それなりに説明のつく理由があるのだろうが、僕にはそれが意識の上では分からなかった。悪事を働いたわけではないけれど「ちょっと魔が差した」という表現がこの場合最も適切なように思えた。
 都心の一等地、マンモス大学の割りには狭隘な敷地の中に、被災した獄舎のような建物がひしめいていた当時の雰囲気はなく、丸の内のオフィスビルの様なガラス張りの巨大建造物が次々と学生を飲み込んでいた。
 窶れた胃を摩り、そのスケールとゼネコンの建築技術に圧倒されながら、僕は差し当たり一番大きそうな講堂のあるフロアでエレベーターを降りた。今の学生は、講義を受けるのにエレベーターで階を移動するのだ。といって階段で移動しろといっても、とても昇り降りできる階数ではないけれど。
 講堂の扉は開放されていて、自由に出入りができた。聞こえてくる内容からすると「経済学」に関する講義のようだった。僕とそれほど年が変わらない若い教授が、ピンマイクの力を借りながら過去の偉業者について語り、黒板には「見えざる手」とだけ書かれていた。学生の中には、机に鞄を置いたままぼうっと外の景色を眺めている者や正々堂々と居眠りをする者、おしゃべりに講じる者、熱心にメールを打つ者など、まともに講義を聞いていそうな雰囲気の学生はほとんどいなかった。
 「箱」はいくら立派になっても、講義風景は何も変わっていない。 僕はしばらくガラス窓に映る都心のビル群を眺めていたが、あまりにも退屈だったので目立たぬように退室した。僕にも「見えざる手」は差し伸べられるのだろうかとアダム=スミスに問いかけながら。
 それから、当時毎日のように通いつめていた裏通りのゲームセンターに行ってみた。まだ営業を続けていたことに少し驚いたが、客は数えるほどしかおらず、店員はカウンターで爪を切っていた。
 ケイトにお土産をと思って何気なく始めたUFОキャッチャーだったが、たかだか握りこぶし程度のミッフィーのアクセサリーを手に入れるのに、等身大ミッフィーのぬいぐるみが買えるほどのお金を費やしたあげく、結局成功することはなかった。
 予期せぬ精神的外傷を引きずりながら駅の周りを少しぶらぶらし、スタバで一番高いコーヒーを飲んでから、ケイトが一人ぼっちで留守番をしているアパートに戻ることにした。
職探しをするために家を出たはずなのに、逆に精神的外傷を受け無駄な金を使っているわけで、我ながら救いようのない非生産的な行動だった。

「ただいま」
 靴紐を解きながら、僕は三時間ぶりに声を出した。家で待っている人がいるというのはとても心休まることだ。誰もいなくなった家は瞬く間に荒む。人が生活する中で温められていた空気はたちまち熱を失い、ベクトルを持たない膠着した冷気となって次に扉を開ける者を否応なく鬱にする。八〇〇ワットの電気ストーブ、甘い整髪料の香り、粗削りなジョン・フォガティの歌声。しかし、僕が帰宅する頃には、ストーブは褪せ、匂いは湿気り、ジョンの唇は固く閉ざされる。
 妻がいなくなった今、「朝」の気配をそのままに保っていてくれるのはケイトだった。古いアパートでも待つ者がいてくれさえすればそれだけで部屋は生きてくる。
「ただいまあ」
 語尾を間抜けなくらい間延びさせて、僕はもう一度言った。
「あ、おかえりなさい。さっき出ていったと思ったのに」
 椅子にもたれたまま、ケイトは手にしていた本をそっと閉じた。
「どうだった? 何かいい仕事あった?」
「いい仕事があったとすれば、あれだけの数の窓ガラスを取り付けた職人の仕事だろうね」
 歪んだ僕の顔をじっと見つめてケイトは何か思案していたが、やがて僕の口調を真似てきっぱり言った。

「人生、なるようにしかならないのさ」
 それが余りにも似ていたので、我々は顔を見合わせて大笑いした。ケイトには笑っている顔が一番似合っていた。 こうしてケイトと屈託のない会話をしている時というものが、当時の僕にとってはこの上ない慰めだった。ケイトとは何の遠慮も打算もなく、現実的な生活の話から、後で考えれば赤面してしまうようなロマンティックな話まで心置きなく交わすことができた。もちろん、喧嘩することもなく。
 僕はスウェットに着替えてウーロン茶を飲んだ。嘔吐で疲弊した食道に馴染みの爽快感。ケイトは再び本に目を落として、フラゴナールの「読書する娘」のように熱心に見入っていた。 
「何を読んでるの?」
「うん、勝手に本棚開けてしまってごめんね。あんまり綺麗な写真だったから」と彼女は本から目を逸らさずに呟いた。
 それは、僕が中学生の頃、親の都合で急遽転校することになった同級生からもらったものだった。有名な写真家の写真集らしく、北海道の十勝に沈む夕日、能登の荒波に漂う夕日、東京タワーを影絵のように浮かび上がらせ、中央アルプスの稜線を幻想的に歪めている、そんな日本各地の「夕日」の姿ばかりが収録されたものだった。
 彼の夢は様々な場所を旅しながら写真を撮るカメラマンになることだった。一度、僕も彼から夢への熱い思いを聞かされたことがあった。まだ十五歳にも満たない年で人に熱く語れる夢を持つ彼を、僕は不思議に思うと同時に羨ましく思った。そしてそれは「間違いなく実現する」と無条件に信じこませるほど、彼の言葉には説得力があった。 しかし他の同級生からは、「カメラ好き」というだけで「エロフォトグラファー」とからかわれていた。

 今度、ケイトと富士山の夕日を見に行こう、とその時僕は決心した。
 ケイトの世界を壊さないように、静かにシャワーを浴びて缶ビールを一本飲んでから、彼女の頬にキスをして布団にもぐり込んだ。まだ眠るような時間ではなかったが、痺れた胃を休めるための仮眠がいくらか必要だった。
 ケイトは一連の僕の行動を気にも留めず、目を潤ませて本ばかりを見続けていた。
「閑話休題」と、僕は言った。
「ゆっくりお休み、可愛いベイブ」
 ケイトはようやく本から目を離して僕に微笑んだ。それは実に満ち足りた表情だった。きっと今日もケイトは眠らないのだろう、と僕は思った。

   *

 その日は、梅雨時のような湿った風が吹いていた。歩道に捨てられたキャンディーの包み紙が音もなく側溝に運ばれ、不安定に揺れながら、やがて力尽き闇に落ちた。
 空はぼろ布で作ったパッチワークのように暗く沈んでいた。予報では午後から大雨が降るということだった。
「せっかく行くんだからまた今度にしよう。こんな天気じゃ何も見えないよ」
「行こうよお。『見えない富士山』なんて安藤広重でも書けないわ」
 ケイトは、気にしない気にしない、といった能天気な少女の笑みをこぼした。
「車、一ヵ月以上エンジンかけてないんだけど、大丈夫かな」
「いいのよ? 車じゃなくても」
「ドライブしてみたかったから、ケイトと」
 砂埃の積もった古いコロナの助手席を開けてケイトを乗せ、シートを調節し、ベルトをしっかりと装着した。車は僕の父親からのお下がりだった。助手席には僕の母親も乗ったし、歴代付き合った女の子(と言っても二人くらいの話だが)も座ったし、もちろん妻も、落ちそうになる瞼を必死に堪えて運転する僕のことなど全く気にせずに鼾をたてて眠っていた助手席だ。
「これがハルヒトの車なんだ。なかなかいい感じ」
 色々な計器に目を向けて、ケイトは中指の腹で触れ回った。その仕草は、まるで目の見えない人が指先の感覚だけで物の存在を確かめているようだった。
「今どきそんなカーステ、どこのスクラップ工場探し回ったって見つからないよ」
「そうかしら? レトロでいいじゃない。私、この車とっても気に入ったわ。匂いよ。ハルヒトの匂いがする。ほら、この運転席のシートに」
 そう言って、ケイトは子犬のように鼻を嗅ぎ立てた。僕には偏頭痛を引き起こすような汗と脂と塩化ビニールの匂いがするだけで、自分の匂いを識別することはできなかった。
「ハルヒトは、いつも自分の匂い嗅いでるから分からないのよ」
「僕の匂いって、どんな感じなの?」
 少し考えてから、ケイトは言った。
「夜明け前、バイカル湖のほとりで草笛を吹くマーク・ハミル的芳香」
「ずいぶん難解な匂いだね」
 ケイトのメタファーは、時に人口頭脳から生みだされているという事実を忘れさせる。
 そんな会話をしている間にも、空はますます怪しくなっていたが、ケイトの楽しげな様子を見ているともう後には引けそうもなかった。よし行くか、と僕は心のなかで決意を固めた。
「よし、行こう!」
 ケイトは元気に号令をかけた。エンジンは二回目のトライでスムーズに始動した。「昔から日本車は丈夫なのよ」とケイトはその車の開発者のように、得意気に言った。

 高速道路は平日ということもあって空いていた。 元々スピードの出る車ではないので、左車線に法定速度プラス十キロ程度の速度を維持したままのんびり進むことにした。調布から中央道に入り八王子、そして下り坂の小仏トンネルを抜け、色づき始めたばかりの葉に覆われた山あいを縫うように走る。
 僕はオールディーズのCDを間に流して、思いついたことを思いつくまま口にした。
 時折、ケイトは車窓に広がる雄大な風景に感動しては「ねえ」「ほら」「あれ」「へえ」「うわ」「おお」と感嘆詞のパレードを僕に浴びせた。
 そんなケイトの様子を見て、どうして僕はもっと早く彼女を外に連れ出してあげなかったのだろうと後悔した。
 当時では最高のスペックだったのだろうが、最新型に比べればデフォルトの登録語彙や感情表現のバリエーションがまだ少なく、メモリの半分も使用していなかった。この初期型ラブドールをどこまで人間に近づけさせることができるかは、クライアントの裁量と努力に委ねられていた。
 談合坂を過ぎると、分厚い雲の固まりの中から幾筋の光が我々の視線を捕らえた。もしかしたら天気は回復してくるかもしれない、と僕はケイトに言った。
「でも予報は雨でしょう? 山のお天気は気まぐれだから。確率、何%だったか覚えてる?」
「一〇〇%。午後は東海から関東一帯、大雨だって」
「気象庁の予報で一〇〇%雨が降るって言った時、ハズしたのは過去三十年間でたったの二回だけなの」
「本当? それは知らなかったな」
「嘘」ケイトは僕を指差して笑った。メモリを半分しか使っていないにもかかわらず、冗談のバリエーションだけはきちんとメモライズされている。
「最近よくからかうよなあ」
「ハルヒトがすんなり信じちゃうから可笑しくて。でも、自然を予測するって難しいことなのね。予測できないところがまた魅力なんでしょうけど、ハルヒトと一緒で」
「僕は予測できるよ。毎日やること一緒だから」
「そんなことないわ。ハルヒトの気持ちが、どんどん私に向いてきているのが分かるの。どんどん大切に思ってくれて、どんどん優しくなっているのよ。私には感じる。明日はどれだけ今日より好きになってくれるだろうって、そればかりは予測できないわ。こんな風に私のことを愛してくれるとは思わなかったから」
 窓を少し開けて、煙草に火を点けゆっくりと深く吸い込んだ。そしてケイトの右手を軽く握った。
「自分を好きだと言ってくれるだけで嬉しいよ。一ヵ月なんて言わず、このままずっと側にいてほしい」
「もちろん私もよ。あんな黴臭くて狭苦しい倉庫はもううんざり」
 そう言ったきり、ケイトはしばらく沈黙した。人間に近づくことはできても、決して人間になることはできないドールの苦悩を、沈黙は息継ぎなく飲み込んだ。運転中の僕の肩にもたれるようにして、ケイトは体を擦り寄せた。
 懐かしい石鹸の香り、柑橘系のシャンプー、フレッシュなオーデコロン。ケイトの匂いはそんな感じだった。この匂いを例えるとしたら、ケイトなら何と言うのだろう。マーク・ハミルに対抗するためには、吉永小百合級の女優に登場してもらう必要があるかもしれない。
 御殿場方面へ南下する有料道路に入ったところで、再び天候は悪化した。富士山はおろか、十メートル先の道路も見えない状態だった。僕はスピードを極力落とし、ただ目の前の白い壁だけに注意を払ってハンドルを握った。
 一般道に下りてから霧は少しずつ晴れていったが、雨を降らすかどうか結論の出せない優柔不断な雲で辺りは覆われ、いつもなら右手間近に迫っているはずの富士の峰は、一向にその姿を現さなかった。我々の目に映るものはただ、道路に引かれたセンターラインと、寡黙に車窓を流れ行く名も知らぬ木々だけだった。
「疲れた?」
 ケイトは僕が目を瞬いている様子を見て心配そうに言った。
「少しね」
「大丈夫?」
「もう少し行くとドライブインがあるみたいだから、そこで休憩しよう」
「私、トイレ行きたくなっちゃった。もう我慢できないの。どうしたらいい?」
 地球上の全人類の社会活動が、三秒間停止した気がした。
「ジョークよ、ジョーク。『トイレ! トイレ!』って、一度言ってみたかっただけ」
「マジ」僕は胸を撫で下ろし、気を取り直してハンドルを握り直した。
「でも、変よねえ。一体どんなつもりなのかしら、彼」
「彼?」
「フジヤマよ。本当にここにあるの?」
「昔から雨男なんだ。修学旅行とか家族旅行の写真、みんな空が暗い。嫌われてるんだよね、太陽には」
 僕はBGMを特別に編集したアイドルソング集に替えた。若い女の子の頼りなさそうな歌声ではこの雨空を晴らすことはできないが、僕の心を晴らすにはそれなりに効果はありそうだった。
「ハルヒトのせいじゃないわ。本棚に貼ってある、あの巨乳アイドルのポスターがいけないのよ」
「彼女も雨女なのかな。今度、シュレッダーに突っ込んでおくよ」
「でもせっかくここまできたのに、やっぱり悔しい。静岡の空気吸いにきたわけじゃないのよ、もう」
 ケイトはハンドルを掴んで上下に振った。「やめろって」
 我々の体は大きく左右に振られ蛇行した。ケイトは直ぐに手を離したが、車は反対車線を直進していた。
「仕方ないね。無理して行こうって言ったのは、私だもんね」
 ダッシュボードに両手を乗せて、ケイトは微妙に肩を落とした。
「マジ、ケイト勘弁」
 車を軌道修正しながら僕は胸を三回撫で下ろし、心臓が確かに鼓動していることを確認した。こんな風に衝動的に行動してしまうところはどことなく妻に似ていたりもして、命懸けとはいえ、ケイトに腹を立てるというより微笑ましさすら感じてしまう。

 「水ケ塚」という名のドライブインで、僕は車を止めた。やたらに広い駐車場だったが、この時は泥まみれのライトバンと、ワインレッドのスカイラインがひっそり停車しているだけだった。
 我々は車を降りてベンチに腰掛け、僕はコンビニで買ったおにぎりを食べた。皮膜のような霧が寝入りばなに見る夢のように辺りを包んでいた。御殿場方面が一望できるはずの展望台は、その彼方に不定型な帯状の影を浮き上がらせているだけで、景観らしい景観は何一つ存在しなかった。ベンチの背後には小さな公園があって、円墳の形をした小山と朽ちかけた木々の根、そして持ち主に見捨てられたプラスチックのスコップが、凍りついたように砂場に突き刺さっていた。
 口に残る五穀米のかけらを舌でかき出しながら、僕は煙草を吸った。ケイトはずっと山頂に目を向けていたが、一度小さく頷いてから僕を見、そして前方の三角屋根のレストハウスに目を移して、穏やかに呟いた。
「どうやら、本格的に無理そうね」
「みたいだね。また次回に期待しよう」
 まだ契約期間は十分残されている。もう一度くらい、チャンスはあるだろう。
「全然別の話なんだけど」とケイトは表情を切り変えて言った。「ハルヒトのお母さんて、どんな人?」
「どんな人って普通の人だよ。これといった特徴は見当たらないな」
 家族の話は苦手だった。特筆すべきことは本当に何もない。
「父親は八年前、車に跳ねられて死んだ。酔っぱらって道路で寝てたところを、酔っぱらい運転の大学生の4WDにね。どっちもどっちだよ」
 僕の息は白んでいた。それが煙草の煙りなのか寒さのせいなのか区別がつかなかった。
「私には親なんて生まれた時からいなかったけど、親って必要? 素敵なもの?」
 ケイトの瞳は真剣だった。僕も真剣に考えた。
「一定の年齢になれば、きっとなくたって困りはしない。イチゴにかける練乳みたいなものだよ。なくちゃだめだって言う人ならかければいいし、なしで食べる人はそれでいい」
「ふうん、そんなものなんだ」
 的を得たり、といった感じに、ケイトは大きく頷いた。
「じゃあ、奥さんは? 奥さんも練乳と一緒?」
 ケイトにそう訊ねられて、僕はうろたえた。そんなもんだよ、と即答はできなかった。妻という存在は「イチゴを食べる時の練乳」ではなく、それがなければそれ自体の存在理由がなくなってしまうような特別重要なもののように思えた。例えば、ミートソースのひき肉とか、コールスローのキャベツとか。
 そんな陳腐な譬えすら遥かに超越した場所に、妻はいる気がした。それをうまく表現する言葉を、僕はなかなか見つけることができなかった。
「例えばね、スーパーの野菜売り場で、これは、と思うキャベツを買う。数あるものの中から彼女の選んだキャベツが一番大きくて、艶やかだった。春キャベツだからそのまま千切りにして食べてもいいし、もやしと合わせて野菜炒めにしてもいい。とても楽しみにして家に持ち帰って、外側の葉を剥いていると、本当に小さな虫、といっても青虫とかじゃなくて、黒ゴマ程度の小蝿のような虫ね。もちろん、もう死んでるし、さっと流してしまえばそれまでのこと。仮に知らずに口に運んだとしても害はないし、いくら農薬を使っているといっても、そのくらいの虫は出荷の時や市場で入ってしまう可能性はある。でも、彼女はそれがとても許せない。店に電話して、新しいものと交換してもらう。けれども、もうその時点でキャベツの千切りも野菜炒めも食べる気分じゃなくなっている」
 ケイトが少し目を丸くしているのを承知で、さらに話を続ける。
「人の誕生日だとか、記念日にとても敏感なんだ。彼女のスケジュール帳には、我々が出会った日、父の日、母の日、敬老の日やクリスマスなどの一般行事はもちろん、僕の親兄弟の誕生日から彼女の高校や大学時代の友達の誕生日、友達の子供の誕生日まできちっとメモされてた。何でも記念日にしちゃうんだよね。そうすると一年に半分くらいは誰かのお祝いしているような感じ。友達の子供の誕生日には、配達日を指定して、五百円くらいの文房具を同じくらいの宅配料を払って送ったりするんだよ。一度、彼女の一番の親友の子供の名前を忘れた時にはひどく怒られた。薄情者とまで言われちゃったからね。僕の妻ってそんな人」
 親の話はろくにできないが、妻の特徴やエピソードならいくらでも出てくる。
「とても繊細な人なのね」とケイトは言った。「そういう気持ち、私も少し分かるかな」
「やり過ぎじゃないか、と思うことはしょっちゅうだった。それでも繊細といえばそうだし、元々感情の起伏が激しかったことは間違いない。そこに惚れたと言えば惚れたんだけどね」
「あら、のろけてる」
 まるで自分のことのようにケイトは笑った。
 妻の話になると、他の話題より饒舌になることを僕も自覚していた。時には疎ましくさえ思った彼女のその繊細さが、一人身の今となってはとても懐かしく貴重なもののように感じた。妻に振り回されることがなくなった代わりに、振り回されることの「心地よさ」を味わう機会は失われた。人の流れに身を任せる、というのも現代社会においては満更悪いものじゃない。
 妻の話題が一段落すると、あとはお互い思いつくままに言葉を交わした。ケイトが問いかける質問に僕は答え、僕が投げかける話題に、ケイトは戸惑い、立腹し、嘆き、お腹を抱えて笑った。心に残るマンガや音楽の話から過去に付き合った友人の話、初めて自慰した時のトラブルや日本経済におけるASEANの脅威など。
 僕のトイレ休憩で一度中断したものの、後は全て我々の時間だった。誰にも邪魔されず、咎められず、レストハウスとトイレのマークしか見えないベンチの上で、お互いの物語を共有し気持ちを確かめ合った。

 小粒の雨が降り始めてきたのをきっかけに我々は車に乗り込み、シートを倒して音楽を聴いた。僕は古いロックが好きだった。
「ハルヒトはどうして洋楽が好きなの?」とケイトが聞くので、「歌詞の意味が分からずに済むから」と答えた。
「分からないのがいいの?」
「愛だの恋だの、好きだの嫌いだのとかが露骨に聞こえてこないから」
「アイドルソングなんてそればかりじゃない」
「あれは楽曲として聞いてるというより、存在そのものに価値がある」
「さっきのポスターのシュレッダー行き、言って後悔してるんじゃない?」
「ご推察いただき光栄です」
 音楽の好みだけは見事に一致していた妻のことを少し思った。こうして助手席に座って、お気に入りの曲が流れてくるとまるで自分の持ち歌のように口を突き出して歌い始める妻の顔。特別お気に入りだったのは、ロネッツの『ビーマイベイビー』。
 僕がぼんやりしていると、ケイトは僕の腿に手を乗せた。
「何考えてるの?」
「何も考えてないよ」
 ケイトの瞳は潤み、少し寂しげだった。「奥さんのことね」
「違うよ」
「ウソ」
 少しすねた感じで、ケイトは僕の顔をじっと見つめた。
「ねえ、したい?」とケイトは言った。僕は素直に頷いた。
「いいわ。でも今は私のことだけを真剣に思っていて。いい?」
「うん」
 ケイトは僕のズボンのチャックをそっと下ろした。僕はケイトの髪の毛を撫でながら彼女の行為を受け止めた。彼女の掌はとても柔らかく、温かかった。
 ケイトは途中、何度も「私のこと、好き?」と聞いた。僕はその都度「大好きだよ」と答えた。そして目を閉じ、頭の中をからっぽにしてから、ケイトの顔を思い浮かべた。頬の色艶や瞳に映る僕の顔まで、それは手で掬い取れるほど鮮明に思い浮かべることができた。
 妻については何度集中してみても駄目だった。どんな髪型で、どんな瞳で、どんな鼻で、どんな唇だったのか、どことなく輪郭がぼやけ、まとまりを欠いていた。
 僕は目を開け、ケイトの胸に手を当てた。ケイトは目を瞑ったまま、今にも眠ってしまうのではないかと思うほど深く、僕の懐に顔を埋めた。

 二回目のトイレに向かおうとした時、辺りが随分暗くなっていることに気が付いた。時計を見ると、既に四時を回っていた。スカイラインはいつの間にかいなくなっていて、レストハウスの経営者らしき中年女性が、憮然とした表情で表のシャッターを閉め始めていた。
 そろそろ行きましょうか、とケイトが目で訴えた。僕は煙草を消してからサイドブレーキを解除した。
「時が経つのってあっという間ね」
 ケイトは深くシートにもたれ、満足そうに僕を見つめた。
「楽しかった?」
「うん、とっても。ハルヒトのことも奥さんのことも色々教えてもらったし。それだけでも大きな収穫」
「はるばる運転してきた甲斐があったよ」と僕は言った。
「でも気を抜かないでね。お家に帰るまでが遠足ですよって、よく先生に言われなかった?」
「はい、はい」と僕は笑った。
「オーケー、では解散。ご両親には今日の事、ちゃんとお話するんですよ。いいですね? では日直さん。はい、起立、さ・よ・お・な・ら」
 帰りの車中、ケイトは無口になっていた。車窓に流れ去る梢を、民家の屋根を、遠くに揺れる初々しいネオンを、ただ無表情に眺めていた。ラブドールが無口になっている時って一体何を考えているのだろう、と思う。
 僕は音量を少し下げて、ケイトに着せた革ジャンの胸元をきちんと締め直した。
「ありがとう」とケイトは言った。
「眠ってもいいよ?」
「ううん、大丈夫。私が眠る時はね」
 そう言って、ケイトは口を噤んだ。それについて、ケイトはあまり言いたくないような感じだった。
 私が眠る時はね……。
 仕方ないので、その後に続く言葉を僕は心の中で想像し補足した。
 燃料が切れた時。あるいはメインスイッチが落ちた時。しかしそれはどちらも受動的であり、本人の意思とは関係のない眠りだった。自らの意志で眠ることができないということを、僕は少しだけ不憫に思った。

 信号待ちをしていると、あれほど頑だった雲の一端がぷつりと途切れ、扇形に開いた赤い光線がルームミラーに反射した。夕日が、さっきまで我々がいた辺りの山々を背後から照らし、富士の影を切り絵のように浮かび上がらせていた。
「馬鹿にしてるよな、全く」
 僕が心の中で呟くと、まるでケイトに通じたかのように彼女は言った。
「人生、なるようにしかならないのさ」
 その時の僕もケイトも、出会ってから最高に幸せな顔をしていたのではないかと思う。

   *

 酒を飲まないか、という友人からの誘いの電話で起こされた。電話を切った後、前日の夜更かしが祟って再び翌朝の居酒屋の生ゴミのように二度寝してしまい、気付いたら家を出るべき時間となっていた。慌ててはね起きてシャワーを浴び、髪を整えてケイトに一時の別れを告げ、二度強く抱擁をして家を出た。
 抱擁の際、ケイトから小さな紙包みを手渡されたので電車の中で開けてみると、胃腸薬の錠剤が二回分、四錠転がって出てきた。
 そしてその一つずつに、鉛筆で「体」「大」「切」「に」の四文字が、教科書の見本のように書いてあった。薬にものを書くやつがあるかと僕はやたらに愉快になって、そのうちの「体」と「に」を、ぼりぼり音を立てて噛み砕いた。
 それから朝まで酒を飲み、彼の家で午前中を潰し家を出た。僕の頭の中は、ホルマリン漬けの白子のような脳味噌で満たされていた。行動を起こしてから、後でその意味を考える有り様だった。
 ケイトが気にして待ってくれているのは分かっていたが、どうしてもそのまままっすぐ家に帰る気がしなかったので、僕は駅前商店街の本屋に立ち寄った。
 本屋に並んでいる本の八割は雑誌かコミックか実用書だった。その本屋には、客はもとより店主すらいなかった。平積みにされている「少年マガジン」の上に、僕は手当たり次第に周りの週刊誌を重ねていった。適当な高さまで積み上げてからバランスや向きを調節し、一つ大きく深呼吸した。そして作業を締めくくるに相応しい、「頂」に置くべきものを探してみるものの、僕の持ち物といえば小銭と煙草と衣類と靴と胃腸薬くらいしかなく、かといって服を脱ぐわけにもいかないので、仕方なく一〇〇円ライターを差し込んだままのマールボロを置くことにして店を出た。
 しばらくして、僕は考えた。起爆させるための導火線を忘れている。元から持っていたのかさえ怪しい。致命的なのは、それが遠い昔既に誰かの手によって実行されていた試みであり、しかも僕の場合、丸善ではなく「田所書店」であり、檸檬ではなく「一〇〇円ライターとマールボロ」。
 お陰で僕は自宅に着くまで、更に酷い頭痛を抱えこまなくてはならない事態となった。

 眼窩に鈍痛を感じながら玄関の鍵をそっと開けると、ケイトは台所に立ってフライパンを振っていた。腰を低く落とし折れそうなまでに細い両腕で不安定な鉄の塊を必死に支えながら、二日酔いの胃でさえも刺激する、いい匂いを立てていた。
 ケイトは栗色の長い髪の毛を後ろで縛り、僕のエプロンを着けていた。エプロンの紐が片結びになって床に触れるくらいまで垂れ下がり、それが腰を入れるたびに馬の尻尾のようにひらひら揺れ、何とも愛くるしかった。帰宅した僕の姿に気付いていないようなので、しばらく彼女の初舞台を母親のような目で静かに見守った。

「お見事!」
 いきなり叫んだ僕の声にケイトは激しく驚いてフライパンをレンジに落とした。その拍子に、炒め物の一部がガスの元栓と流しの方へ勢いよく弾けた。
「ちょっと、びっくりするじゃない」
 ケイトの声はほとんど涙声だった。
「だって、余りにも夢中になってるから、声かけづらくて」
「この心臓の音、聞こえる? おかげで寿命が三年は縮まった」
 ケイトはその場に座り込み、大げさに深呼吸をした。全く、何から何まで人間そのものだ。
「何を作ってたの?」
「ジャガイモとベーコンの炒め煮。お腹空かせて帰ってくると思って」
 事実、胃の中は見事なほどに空っぽだった。今僕が死んで司法解剖を受けたとしても、胃の内容物による死亡推定時刻の判定は不可能だろう。
「ケイトが料理?」
「私だって女よ」
 ケイトはようやく立ち上がって、フライパンを持つ手を再び動かす。
「美味しそう」と僕は中身を覗き込む。
「美味しそう、じゃなくて、美味しいの。簡単なのよ。ジャガイモ、ピーマン、ベーコンを 千切りにして油で軽く炒める。水をはり砂糖、醤油、本だし、味醂を加え弱火で十五分くらい煮詰めるの。これだけ。ジャガイモがとろけてくればグッドね」
「肉じゃがっぽいね」
「うん。ただベーコンを使うと気持ちニュアンスが変わるわ。それより今日は天気がすごくいいからベランダで食べない?」
 そう言って、ケイトは得意気に微笑みながら、味噌汁に使うもめん豆腐を切る作業に取りかかった。僕はその間、酔い覚ましに熱いシャワーを浴びることにした。
 風呂から上がると食事の準備は終わっていて、ケイトは一つずつその出来ばえを点検していた。熱いお湯を浴びたお陰で、いくらか頭と眼窩の痛みは落ち着いた。
 食事といっても、ジャガイモ料理とご飯と豆腐の味噌汁だけだったが、ケイトに料理を作る才能があるとは思っていなかったので、僕は少なからず感動していた。手料理を作ってもらうのは実に久しぶりのことだった。
「料理も記憶されてるの?」
「初めてよ」とケイトは胸を張って答えた。「料理の本を読んでいたら、私もハルヒトのために何か作ってみたくなって」
「いきなり料理なんてできるもんじゃないよ。それにこの材料は」
「今はコンビニだって宅配してくれる時代よ。もちろん、費用は私の方で持ちましたから」
 僕は狭苦しいベランダに無理矢理段ボールでテーブルを作り、ケイトの初料理を並べた。ラブドールの学習スピードは僕の想像を遥かに越えていた。彼女の無垢なメモリに知識は次々と記録され実践されていった。自分には失われつつある貪欲なまでの好奇心と一途な奉仕。彼女には気付かされることが沢山あった。
 しっとりした乳液のような西日を浴びながら、僕はケイトの料理を口に運んだ。味付けも塩加減も、僕の味蕾の構造を知っているかのようにぴったりだった。
 ケイトは頬に両手を当てて、僕が腹ぺこの犬のように頬張る様をじっと見ていた。試しに「ケイトも食べる?」と聞くと、あなたの食べてるところが見たいだけだから、とケイトは笑った。
「お味はいかが?」
「大したものだ」と僕は大げさに舌鼓を打った。
「料理してないの?」
「最近はあまりね。一人分を調理するというのは不経済なんだ」
「私が付き合えたらいいのにね。食後のビールは、どう?」
 僕はあっと言う間に食事を平らげ、ケイトから缶ビールを受け取った。何か聴かせて、とケイトはラックをがさがさと漁っていたが、決め手がないようで、左右に首を傾げていた。
「ねえ、孤独と連帯、今の気分は?」とケイトは僕に助けを求めた。少し考えてから、連帯、と答えてみた。彼女はほっとした表情でCDをセットしてから僕の隣に座った。
 アコースティック、ハーモニー、そして風。ピーター・ポール&マリー。
 孤独を選んでいたら誰の曲が流れたのか気になったが、僕は聞かないでおいた。
「どうして夕日ってこんなに美しいのかしら」
 ケイトは僕の肩に顔を寄せ、眩しそうに目を細めた。
「消えつつあるものは、その儚さゆえにどれも美しい」
 言った後、僕はあまりの恥ずかしさに顔から火が出る思いだった。今時韓流ドラマの脚本家だってそんな台詞は使わない。恥ずかし紛れにケイトの手を軽く握った。
「ねえ、あの夕日の色は、何色といえば正確なの?」
「うん? 何?」
「色よ、夕日の」とケイトはもう一度言った。
「オレンジ色じゃないの?」と僕は答えた。
「オレンジ?」
「蜜柑色、なのかなあ。うん、ちょっと待って」
「どしたの?」
「いや、何だかこんな会話、どこかでしたことのあるような気がしたんだ。オレンジ色についての話」
「デジャヴ?」とケイト。
「いや、本当にしたことある、遠い昔に」
 それは中学生の頃の出来事だった。どういうわけか、そのときの事が突然、ケイトとの話の中で鮮明に甦った。
「どんな話なの?」
「近所にね」と僕は言った。「結構仲良かった同い年の女の子がいたんだ。彼女が中学二年の頃だったかな、急に目が見えなくなった。視神経が障害を受ける難病。本当にあっという間に進行したみたい」
「全く、病気って嫌ね」とケイトは言った。
「それから、しばらく会ってなかったんだけど、夏のある日、彼女が向こうの母親と一緒に僕の家を訪れたことがあった。親同士の用事だったと思うけど、ふと会いたくなったって、彼女もいてね。でも、彼女の目、見えてないなんて信じられないほど、健全と輝いた瞳だった。
 僕はぎこちなく彼女の手を取って二階の部屋に行き、ジュースとクッキーを用意して彼女に差し出した。喉が渇いていたらしく、彼女は三口でコップを空けてしまったので、もう一杯注いであげたらそれもあっと言う間にごくごく飲んじゃった。冷たくてとても美味しいって、彼女は嬉しそうにお礼を言った。
 その時、このオレンジジュース、何色って彼女は聞いた。もちろん、橙色だよ、と僕が答えると、橙色ってどんな、と聞いてくるから、次は蜜柑色と答えた。でも、それ同じだな、なんて思って。目の見えない人に色を説明するのってすごく難解な命題だよ。
 そしたら、彼女はこう言った。そうじゃなくて同じ橙色でも沢山あるでしょう、と。濃い色から薄い色、明るいとか暗いとか。果汁一〇〇パーセントのバレンシアオレンジジュースと果汁一パーセントの合成着色料ジュースとでは全然違うと思う、家で飲むものよりずっと美味しかったからどんな色をしてるのかなって。
 目が見えなくても、色を感じることはできる。それは物の色だけじゃなくて、例えば私の前にある人が立っている。声も出さず、呼吸も聞こえないくらい静かに。相手はじっと私のことを見つめている。そして、彼が私に対してどういう感情を抱いているのかが、ぼんやりした形の定まらない色のイメージとなって、 真っ暗な意識のなかに浮かんでくる。こういうことって信じられる? と。『超能力みたい』と僕が言うと、嘘よ、あんなの、と彼女は言った」
「未知の世界ね」とケイトは相槌を打った。
「木の香りがする広々とした公園でベンチに座ってうとうとまどろんでいる、これは、白又は淡い灰色。私のことをすごく憎んでいる人が、いついじわるしてやろうかじっと機会を窺っている、これは、黒、茶色、赤、それらの色がその時の心の強さによってぐるぐる入れ替わったり、混じり合ったり。目の健康な人が羨ましいなあとぼんやり思うとき、黄金色か明るい茶色。
 生きているのがとっても辛い、何もやる気が起きない、深い深い藍色。そうした色のイメージがその時の気分や環境で雲がかかるみたいに見えてくる。色に感情を表す意味もあるよね。ブルーは憂鬱だとか、レッドは怒りだとか、イエローやグリーンは嫉妬深いとか、あれ、いい加減じゃなくて本当にそういった色なんだって。感情の色。きっと最初に目が見えなくなった人が気付いた。人間が昔から持っていた動物的能力。でもいつしか目だけで物を見るようになってしまった。目に映ることと、感じることは全く次元の違う話だと。
 クッキーを齧る手を休めて、僕は話に聞き入った。そして一生懸命に話し続ける彼女の瞳ばかりをずっと見つめていた。どの角度から眺めても、瞳は一杯に光を溜め、その中に僕の輪郭もすっぽり収まっている。でも彼女には、僕が当時よりいくらか大人になり、二つの小さな黒子が新しく右頬にできたという事実を認めることはできない。僕は彼女を不憫に思ったけれど、彼女はそれほど哀しそうには見えなかった。楽しんでいるかのようだった。心を捉える色のイメージ。忘れかけている原始の感覚。少しだけ、彼女が羨ましくも思った」
「それで、オレンジの話ね」とケイト。
「うん。それでね、ジュースの色なんだけど、と彼女は言った。大きな枇杷をナイフで縦割りにしたときの、あの柔らかい実の色、と。なるほど、その通りの色だった。枇杷とオレンジの共通項だね。オレンジの話はこれでおしまい」
 百均で買った健康サンダルに両足を乗せて、僕はビールを一口飲んだ。
「感情の色かあ」
 ケイトは僕の手を軽く握り返し、暖色から寒色へ染め直された空の帳へ顔を向けた。夕日は姿を消し、厳しい冬の予感を孕むひんやりとした冷気が僕の耳元をすり抜けた。
「彼女は今どうしてるの?」とケイトは聞いた。
「分からない。その後引っ越しちゃったから。でも、きっと彼女のことだから、元気にや ってると思うよ」
「だと、いいわね」ケイトは小さく微笑み、頷いた。
「部屋に戻ろうか?」とケイトに聞いた。
「もう少しここにいさせて。二番星が見えるまで」
「ここから二番星は、当分見えないよ」
「だから言ってみた」
 ケイトは小気味よく微笑んだ。僕が諦めて煙草を口に咥え火を付けようとすると、ケイトはすかさず僕の手からライターを取り上げ、風を遮りながら火を点けた。
「そんなこと、いつ覚えたの?」
「お客様へ奉仕する者として、この程度のことはデフォルトよ」
 惚れ惚れするほど、よく出来たドールだった。

   *

 僕は、ケイトを割引率が最大になる「ロング」でレンタルした。期間は一ヶ月。ネットで彼女を見つけ、直ちに予約金を振り込んだ。ケイトは二世代くらい前のバージョンだったので、どうにかローンを組まなくても支払いはできた。
 当初、ラブドールは独身男性の性的欲求を満たす愛玩品として裏市場に出回っていたが、人工皮膚と人口知能、駆動系制御装置の飛躍的な技術革新により、限りなくリアルな人間に近づいていった。
 ユーザー数の増加に伴い、開発コストは次第に抑えられ、レンタル費用も低廉になりさらにユーザーが増えるという好循環の結果、会話能力の向上とも相俟って、従来の性的欲求だけを満たす使われ方から孤独を癒す良き話し相手、独居老人の家事援助などドールが活躍する裾野は急速に広がっていった。

 ネットでケイトを見つけてから二日後、自ら契約書を持参して、彼女はやってきた。身体の特徴に関する説明書と使用法、交換可能なオプションパーツも付いていたが、翌日、それらはダンボールにまとめて押し入れに仕舞った。要らないものはすぐに目の前から消す。これは妻から教わった処世訓だ。 
 ケイトが人間の女性と異なる大きな点は、僕とは正反対な理工系技術者たちのたゆまぬ努力によって生み出されたということと、原則として「生理」がない、ということだった。オプションパーツを使えば「生理」を人工的に引き起こすことは可能だったが、どういう目的でラブドールを「生理」にする必要があるのか僕には分からなかった。

 一つだけ懸念があるとすれば、僕の留守中に妻が突然帰宅しケイトと鉢合わせをすることだ。妻は鍵を持って行っていない。ケイトにはもし妻らしき人物が玄関ののぞき穴から見えたら、出なくてもいい、と伝えてある。もっとも、一年以上何の連絡もない妻が突然帰ってくるなんてことは、二年連続で年末ジャンボに当たるくらいありえないことだった。

   *

 その年のクリスマスイブは、朝から細かい雨が降っていた。街を彩るデコレーションランプは、母の膝で聞く絵本のように温かく灯っていた。
 僕はケイトへのプレゼントを探そうと渋谷に出ていた。金曜日と重なったこともあって、お洒落に着飾った若いカップルやスーツ姿のグループが歩道を埋め尽くし、年に一度の特別な日に心躍らせていた。
 賑やかな人の流れを何となく眺めているうちに辺りは黄昏ていた。僕がしたことといえば、オリバー・ストーンの映画を一本見て、三軒の喫茶店でコーヒーを飲み、クリスマス限定煙草のサンプルを街頭で貰っただけだった。
 こういう記念日に、いつものような非生産的行動をしていてはいけない、僕は道玄坂下で一服しながら、プレゼントのことを本気で考え始めた。今夜は二人で朝まで語り合おうと約束していたのだ。クリスマスはなぜ恋人同士で過ごすのかケイトに教えてあげなければならなかった。
 僕はふと、「夕日」ではなく、「朝日」だけを写した写真集はないものかと思いブックセンターへ向かった。消え行くものの美しさもいいけど、生まれたばかりの瑞々しさを知らなければ片手落ちではないか、と思ったからだ。
 外の喧騒とは裏腹に、気味の悪いほど閑散としたその地下の店で僕は側にいたアルバイトの女の子に聞いた。
「ア、サ、ヒ、ですかあ? 写真集ならあそこのコーナーなんですけど」
 髪の毛を真っ赤に染めたアルバイトの女の子の導きに従って、僕は写真集の並ぶ書棚の前に立った。阪神・淡路大震災、ガウディ建築、世界遺産、下町に暮らす人々の表情や新進女優のオールヌードなど、何の脈略もなく並んでいる本の背表紙一つ一つを彼女は指で追う。
「ちょっと、ないですねえ。一応、風景ものはこの辺なんですけど。すいません」と言って、彼女は雑誌を整理していた元の場所にそそくさと戻っていった。
 普段写真集なんてアイドルだけの専売特許、と思っていたが、こうしてみると、実にいろいろなジャンルのものがある。日常こうした「風景もの」の写真集を買う人というのは全国にどのくらいいるのだろう、と考えいていたら、昔「夕日」の写真集をくれたあの彼の顔がふっと浮かんだ。名字は「山崎」といったが、下の名前がどうしても思い出せなかった。もしかしたら、既に何冊かの写真集を発刊しているかもしれないと思い、僕はもう一度「風景もの」の詰まった書棚から、「朝日」にとって代わるべき山崎作品を探していると、先程のバイトの子がいつの間にか僕の背後にいてこう言った。
「今確認したら、もう一軒のお店にはあるみたいなんですけど」
「もう一軒? 悪いけど今必要なんだよね。そのお店はどこにあるの?」
「円山町」
 そんな場所に書店なんてあっただろうか。
「昔から芸妓さんご用達の由緒あるお店なんですよ。あと五分でバイト終わるから、案内します」

 通りの人波は一段と激しさを増していた。小雨はすでに上がっていて、それぞれの店からそれぞれのクリスマス用BGMが、お互いのテリトリーを侵さない程度に鳴っていた。
 間もなく、彼女は私服に着替えて現れた。それはとても雑誌の返品作業ができるような格好ではなかった。強烈な香水の匂いが僕の鼻を鋭く突いた。
「イヴにバイトなんて、可哀想な女とか思ってない?」
 階段の入口で、口紅を塗りながら彼女は馴れ馴れしい口調で言った。
「人がお金を使ってる時にお金を稼ぐっていうのもいいもんよ。ここは大したお金にはならないけど、好きなだけ本読めるからさ」
 彼女は「芸妓御用達」という円山町の別館へ向けて歩き始めた。僕は黙って彼女の後についていった。嫌な予感はしていた。彼女の口から規則的に吐き出される白い息は、誰にも交わることなく歩道に溶けた。坂を登り、路地を曲がり、あるファッションホテルの前で突然彼女は立ち止まった。
「写真集に、カラオケと美女をつけるけど、どう?」
 振り向きざまに彼女は言った。
「悪いけど、人を待たせてあるんだ」
「人って?」
「もちろん、彼女だよ」
「どこに?」
「マイホーム」
「マイホームはどこなの?」
「高井戸」
「ふうん」
 赤い髪の女の子は不満そうに唇を尖らせて、バッグからフリスクを取り出し口に放り込んだ。僕は彼女の考えていることを表情から探ろうとした。彼女はじっとホテルの入口に立つ観葉植物を眺めていた。ケイトが家で待っている、ということを僕は何度も心に言い聞かせた。
「あなた、サラリーマン?」
「いや、今は無職」
「ねえ、アタシってどう見える?」
「どう見えるかって、そうだな、松濤に住む財閥の娘」
「ショウトウのザイバツのムスメ? あはは」と、彼女は笑った。
「あるいは、ブックセンターでアルバイトしてる高校生の女の子」
「まんまじゃん」
 彼女は小さく息をついて顔を上げた。赤い髪も紫の口紅も強い香水も、ホテル街の暗闇の中では、本来の輝きと色相を失っていた。一帯はまるで縁日のようだった。多くのカップルが我々の傍らで立ち止まり、看板を見上げ、お互いの顔を見つめ、肩をすくめ、そして闇の中に消えていった。親子ほど年の違う男女もいれば、ランドセルが似合いそうな男女もいた。外国人もいれば、男同士もいた。
 彼女は両手を後ろに組み、ブーツの底で地面をこつこつと打った。僕は煙草をくわえ、ジーンズのポケットに入れた財布の所在を確認した。
「一般論で言えば、高校中退、十七才、フリーター」
「本当? それ以外で気付くところない?」
「気付くところって?」
「ちゃんと人間の女性に見えてるんだね」
「どういう意味?」
「ラブドールってご存知かしら」
「マジで?」
 彼女は首を少し傾けて、エレベーターガールのようなポーズをとりながらにっこり微笑んだ。
 最近、ファームウェアのバグによって暴走するドールが(ケイトはそれを「ロスト」と呼んだ)街に飛び出していろんな悪さをしている、ということが社会問題化していた。
 さすがに人を殺したり放火したりといった極悪非道なドールはまだいないようだが、そういうドールが現れるのは時間の問題だった。
 実際、ドールを外見で見分けるのはほとんど不可能に近いことだった。政府では、メーカーに対し規制を強めていく話し合いが始められていた。
 アルバイト先の店長は、彼女がドールであることを知っているのだろうか。もっとも出版不況という現在の実情を考えると、ドールであることを承知の上で、彼女の足元をみながら一般のアルバイトより破格な人件費で雇い入れる、ということはありうる気がした。暴走したとはいえプログラムが安定しさえすれば、ドールは自分を支配していると感じる人間に対して実に従順なのだ。
「でも、どうして本屋なの?」
「人間と同じライフスタイルを送りたいだけよ。今時の高校生みたいなことがしたいだけ。アタシたちはどこまで行っても所詮フェイクだから」
「メインスイッチはどこにある?」
 ケイトにも聞いたことがないコアな質問を僕はしてみた。
「そんなこと聞いてどうすんのよ」
 ちょっと怒ったような顔を彼女がしたので、なだめるように言った。
「いや、ただ何となく」
「どこでしょう。実はアタシたちも知らないんだ、そういうことは。ていうより、どうしてそんなこと知りたいの? まさか回収屋じゃないよね?」
「回収屋って」
「じゃあ、電源フェチ?」と言って、彼女は笑った。
「燃料の補充はどうするの? それは本部じゃないとできないって聞いたけど」
「今の時代、どんなことにも裏ルートってものはあんのよ。ていうか、何かアタシたちのこと詳しそうだね。もしかしてヘビーユーザー様?」
 恐ろしい世の中だ、と僕は思った。と同時に、ドールが何食わぬ顔をして人間と同じように売春しているのもどうしたものかと、僕はしばらく考えた。
 自分がきっかけで生み出された沈黙を嫌うように、彼女は直ぐに言葉を紡いだ。
「それより、恋人を待たせてこんな時間まで何してたの?」
「プレゼント探し」
「もっと早く用意しておけばいいのに」
 全く、彼女の言う通りだ。「イブに女の子を待たせては駄目よ。あ、もしかして一緒に暮らしてんの?」
「一応」
「いいなあ、同棲かあ。してみたあい」
 今頃、ケイトは何をしているのだろう。
「でも、どうしてさっき、あんな寂しそうな顔してたの? 本探してる時」
「寂しそうな顔?」
「大好きな彼女にプレゼント探してるような顔じゃなかったわよ?」
 そう言って、彼女は僕の革ジャンの襟を両手でつまんだ。それは触れているのかどうか分からないほどの微妙な感触だった。
「ドールにも、寂しいって感情はあるの?」と僕は聞いた。その質問は余りにも直截的で陳腐だった。僕は彼女から目を逸らすわけにはいかなくなっていた。
「もし、ある、としたら?」
 彼女は見上げるように僕を見つめた。その瞳は、どこかケイトのものに似ていた。ラブドールの共通項。僕は煙草を捨て足で揉み消した。
「でも、安心して。家で待ってる彼女への愛まで奪う気はないから」
 家で待っているのもラブドールだとよっぽど言ってやろうかと思ったが、また話が長くなりそうだったので止めた。
 一組のカップルが伏目がちにエントランスをくぐり、入れ替わるようにもう一組のカップルがお互いの腰に手を当てながらホテルを後にした。
「ところで、写真集はいくら?」
 諦めて、僕は聞いてみた。
「歳末セール中につき、税込み二万」
「本当に売ってもらえるのかな」
「もちろんよ。ちゃんとラッピングして紙袋に入れて。ほら、ね。ロボットは嘘つかない。 最後まで整合性を保ちながら嘘を重ねていく、って意外に複雑な演算が必要なのよ」
 僕を導く彼女の手は少し湿っていた。

 本屋のバイトドールと別れた後、僕は家路を急いだ。電車を降りた時にはもう既に十時を回っていた。彼女からは約束通り写真集を貰ったが、それは「朝日」ではなく、世界のダイビングスポットで撮影した魚や珊瑚礁の写真集だった。撮影者は、偶然にも、何とあの「夕日」の写真集と同じ人物だった。「スキューバやるんなら、モルディブへ行かなきゃ」と彼女は最後に何度も念を押した。
 駅前の洋菓子店がまだ開いていたので、僕は苺のたくさん詰まったロールケーキとシャンパンを買い、アパートに通じる薄暗い小道を足早に急いだ。
 ケイトが僕を待っている。今日の日を、世の中の恋人たちと同じように過ごすために。そして、僕は今夜中に天気が回復してほしい、と願った。クリスマス当日の「朝日」を、ケイトと一緒に見たかった。写真よりもずっと綺麗に違いない、本物の朝日の姿を。

「ごめん、遅くなっちゃって」
 声だけが、ひんやりとした空気に虚しく響いた。ケイトからは何の応答もなかった。部屋の異変を、僕は瞬時に感じ取った。
 荷物をテーブルに置き、祈るような気持ちで居間を見た。ケイトは俯いて肘掛け椅子に座っていた。左手はだらんと垂れ下がり、足元には夕日の写真集と膝掛けが落ちていた。
「ただいま、ケイト」
 僕はケイトの正面に回り、両頬に手を当て、顔を起こすようにそっと持ち上げた。
 彼女は、眠っていた。
 瞼と口許に力みのない、それはとても優しい寝顔だった。
 僕は深呼吸をし、気持ちを整理するためにビールを開けた。それから冷たい水で顔を洗い、夕刊の一面と社会面の見出しだけを、ざっと流し読みした。
 そして、もう一度彼女の肩を揺すり「ケイト」と呼んだ。眠りはどうやら本格的なようだった。体温はモルディブの本以上に冷たかった。ケイトの睫毛が思ったより長かったことに、僕は今更ながら気が付いた。

 それ以来、ケイトが僕の帰りを待ったり、夕日の写真集を見たり、料理を作ったりすることはなくなった。眠りは本格的どころか、二度と目覚めのこない眠りだった。契約期間の満了まではまだ一週間近く残されていた。
 何かの間違いではないか、と電話口でリース元の営業は言った。
「ご説明の状況では、CPUのハングアップによるダウンは考えられません。これまでにそういうトラブルは、一件もありませんから」と彼は僕を疑うように言った。これまでになくても、これが第一号の報告かもしれないのに。それなら増加している「ロスト」したドールについてはどう説明するのか。
「自らメインスイッチを落とすというのは構造上不可能な話なんですよ。これは企業秘密の部分もあるので、ここじゃ言えませんが」
 残りの契約期間について、別のドールを派遣する、あるいは日割り計算をして返金する、のいずれかを選択してほしいと彼は言ったが、僕はどちらも断った。こんな形でケイトと別れることになるとは思ってもみなかったのでショックを受けていたし、後々面倒なことになるのも嫌だった。

 それから数日後、業者がケイトを引き取りにやってきた。男は僕が用立てたケイトの洋服を全て脱がせ、眼球や口の中、乳首や性器までをも入念にチェックし、何度も首を振った。
 そしてこの間の営業と同じように、最近の彼女の状態と僕の行動を子細に聞きとった後、最後にもう一度大きく首をひねってから心のない詫びの言葉を残し、ケイトを肩に抱きかかえて玄関の戸を閉めた。
 トラックにエンジンをかける音が聞こえてきた時、僕はいてもたってもいられなくなって、ケイトが大好きだった夕日の写真集を手に家を飛び出した。
 彼は意味不明という戸惑いを見せていたが、僕は構わず「修理の際に必要になるかもしれないから」と無理矢理荷台に入り込んで、全裸で転がったケイトの両手にしっかりと挟み込んだ。

 初めてのラブドールとの別れは実に唐突であっけないものだった。僕の生活は一緒に言葉を交わす者も家を温めておいてくれる者もいない、殺風景で平板な元の日常へと引き戻された。
 そして、ケイトが確かにこの家に存在したことを証明する形見は、業者が引き取り忘れたオプションパーツと、ポケットに仕舞いこんだままになっていた「大」「切」と書かれた胃腸薬の錠剤二粒だけだった。

 その日の夜、僕は酔った勢いで妻の携帯に電話をかけた。実に久しぶりのことだった。ダイヤルしている間、頭の中は真っ白だった。今更、何を話すつもりだったのだろう。
「もしもし」
 電話に出たのは男だった。僕は黙っていた。背後で、ジョン・レノンが流れていた。「もしもし? どなたですか?」
 何度も電話を切ろうと思った。しかしその度に、僕は受話器を持ち直し、強く耳に押し当てた。
「もしもし? 誰?」
「もしもし」と僕は言った。なるべく、声を低めて。
「どなた?」
「晴海は、いらっしゃいますか?」
「今、シャワー浴びてるけど。それよりあんた、自分の名前、名乗りなよ」
「彼女に離婚届は準備できてるけどどうしたらいいのか、伝えておいてもらえるかな?」
「あんた、酔ってる?」
 男は明らかに苛立っていた。
「こっちは何とかやってるから何も心配いらないってことも。それから晴海、何か嫌なことがあると洗濯する回数が急に増えるから」
「今すぐ電話切ってもいいんだが、こっちにも報告しなきゃいけない義務あるからね」
「この間まで、彼女と一緒に暮らしていた者です」と僕は言った。
「ああ、あんたがそうなの。噂はかねがね」と言って、男はこちらにも分かるくらい大きな声で笑った。
 顔が酷く熱かった。シャワーの音までは聞こえなかった。男が妻の腰に手を当てている姿を想像した。
「一緒に暮らしてるの?」と僕は聞いた。
「まあね」と男は素直に答えた。
「もちろん、仕事してるんだよね?」
「設計事務所経営してるよ。あんたとは違って」
 そこで男は言葉を切った。僕もしばらく沈黙していた。お互いが喋りはじめるのを待っていた。
 ジョン・レノンは既に終了し、音楽は何も流れていなかった。男は何か飲み物を飲んでいるようで、からんと氷の落ちる音が聞こえた。音が消えると、またとても静かな部屋に戻った。
 妻は幸せに生活している、その事実だけで泥酔した頭には充分だった。本当は彼女の声を一言だけでも聞きたかったが、それは無謀なことだと諦めた。僕はゆっくり三つ数を数えてから受話器を置いた。妻にはしっかり生計を立てられる男が既にいる。僕にも一緒に暮らしている女性はいるが、それはラブドールであり、将来一緒に生計を立てる相手ではない。勝てっこない負け戦。きちんと離婚してあげることが、彼女の幸福への最大のプレゼントなのだ。

 イヴから三日後、東京は記録的な大雪に見舞われた。数十年振りのホワイトクリスマスに、あるものは驚き、あるものは鬱陶しがり、あるものは子供のようにはしゃいだ。
 そして、僕のアパートの周りには、蒼い雪が降った。ブルーハワイのシロップを振りかけたかき氷のような雪が一晩中、ベランダを、狭い植え込みの木々を、自転車置場の屋根を蒼く染めたのだ。僕はその時の雪を、ピグレットのマグカップ一杯に詰めてフリーザーに入れて保存した。その奇妙な出来事はニュースにもならなかったが、これはおそらく僕以外誰も知らないとっておきの奇跡だろう。

   *

「で、結局、ミス・ケイトはどうなったの?」とブロンディは聞いた。
「その後のことは知らないよ」と僕は答えた。それ以降、僕はラブドールをレンタルすることに対してかなりナーバスになっていた。
「その営業は随分いい加減な説明ね。初期型のトラブルはよくあったって聞いてる」
「生身の人間だって、初期不良はあるしトラブルもある」
「でもハルヒトも、何もそんな日に別のドールの相手をするなんて」
 ブロンディは空調を少し弱めながら言った。彼女の言う通りだった。それから僕に煙草を勧めた。
「本を買っただけだよ。結局、抱いてはないよ」
 それは真実だった。どうして抱かないのかをバイトドールに説明するのに、部屋の制限時間のほとんどを費やした。
「でも約束の時間には帰ってこなかった。ホテルの部屋に入ったのも事実だし。ミス・ケイト、ぴぴっと感じたんじゃない? まあもっとも、ロボットが非科学的な霊感やテレパシーを感じるなんてことはナンセンスな話だけど」
「だよね」 
 ブロンディにそう言われ、僕は本当にそうかもしれない、と思った。ケイトは無垢だった。そして敏感だった。彼女はあまりに人間的に反応した。感情をコントロールするプログラムを持ち合わせてはいなかったのだ。
 ハングアップ。
 クールに感情をコントロールするなんて人生経験豊富な大人でさえ難しいことだ。自分だって、妻に「クール」と思われていたようだが、実際は少しもクールなんかではない。いつもあたふたと右往左往しているし、優柔不断で度胸もないし、知恵も知識もない自分を悟られるのが怖くて、わざと「クール」に見せているだけなのだ。ケイトのスイッチがダウンした原因は、十中八九自分にありそうだった。
「今の私たちはミス・ケイトの頃より数段進歩してる。ロスト率は限りなく〇%に近いところまで落ちてる。でも人間の開発したものである限り、決して〇になることはないけれど」
 ケイトの話をした後で改めて天井を眺めてみると、不思議なことに宇宙の壁画は当初の印象ほど悪過ぎるということはなかった。よく見ると、シャトルの翼にはNASAのロゴマークやアメリカ国旗までもが忠実に描かれていた。いい仕事かどうかは時間をかけなければ分からないこともある、という一つの例だ。
 ブロンディはシーツに付いた髪の毛をつまんで、ごみ箱に捨てた。
「それにしても蒼い雪の話は作り物?」
「本当だよ」と僕はすかさず言った。壁の宇宙が少し広がったように感じた。
「証人は?」
「証人ていうのは……特にはいない。隣近所とも仲良くなかったし。それに翌日には積もった雪から色が消えていた」
「ストレイイインジ!」
 彼女は首を左右に振り、外国人がするように、大げさに両手を広げた。僕は蚕のようになった灰の塊をビールの空き缶に落とした。真実だが、それ以上説明のしようがない。
「嘘だと思うなら見にくる?」
「ぜひ」とブロンディは言った。「奥さんと暮らしたアパートね」
「引越しなんてするお金ないから」
「ラブドールをレンタルするお金はあるじゃん」
 ブロンディは僕の顔を覗き込んだ。僕は一言多い、と言った感じに眉をしかめた。それを見てブロンディはまた子供のように笑った。
「ところで、僕の人となりはよく分かった?」
「その判定は、その奇跡の雪を見せてもらってからだわね」
 これから何かとてもいい映画でも見にいくかのように、彼女はてきぱきと支度を始めた。僕も誰かに蒼い雪を見せるのは初めてのことだった。というより、冷凍庫に入れて以来、自分でも見たことはなかった。
「この服、ミス・ケイトも着たものなのね」とブロンディはスカートを広げた。
「妬く?」
「みたいね」とブロンディは目を細めた。それからすぐに「嘘、嘘」と言ってシャネルのバッグから化粧品を取り出し、手際よくパフを叩いた。
「そのバッグには何が入ってるの?」
「大したものはないわよ。携帯とか手帳、化粧道具、オプションパーツ」
「オプションパーツねえ」
「何よ」
「それって必要なの?」
「必要な人には必要なのよ。趣向の問題ね。クライアントはあなただけじゃないから。あ、こんな風に言うと、ジェラシー感じる?」
「みたいだね」
 僕は正直に答え、手持ち無沙汰にホテルのキーを振り回した。そして口紅を塗り終えたブロンディの後ろに回り、首にキスをしながら言った。「かなり」

 アパートは月明かりを反射して白く光っていた。建物は古く外壁には幾筋もの亀裂が入っていた。
「ねえ、今時こんな古いアパート、住む人いるの?」とブロンディは言った。
「意外や意外、現在空き部屋はなし。『駅に近い』というのは、構造物の価値より遥かに大事なことなんだよ」
 僕はブロンディの手を取り二階へ上がった。彼女は足元を気にしながら慎重に登った。見た目より軋みの少ない階段じゃない、とぶつぶつ独り言をいいながら。
 部屋に入ると、僕はビールをグラスに空けた。ブロンディはベランダやトイレや本棚など、目に付いたものを次々と物色していた。
 やがて、ケイトが何よりも気に入っていたロッキングチェアに深く腰を埋め、乱暴に揺らしながら、ブロンディは改めて「本当に何もない部屋ねえ」と言って天を仰いだ。そんな彼女を見て、ケイトとの写真を一枚くらい撮っておけばよかったと後悔した。
「ビール、飲む?」
「いえ、結構。ロボットはアルコール効かないから。というより酔う必要ない」
 ブロンディは黒いストッキングを履いた足を組みながら言った。滑らかなウェーブのかかった栗色のセミロングのヘア、シルバーのピアス、そしてケイトのために買ったニットカーディガンとフェイクレザーのスカート。そして、誰もが腰を埋めたがる、魅惑のロッキングチェア。
「ねえ、こんなこと聞いていいのか分からないけれど、私って、何人目のラブドール?」
「リースしたドールの数なんて、いちいち数えてないよ」
「ユーは本当に嘘をつくのが下手ね。ミス・ケイトがよっぽど気に入ってたのね」
 ブロンディはバッグから手帳を取り出しぱらぱらと捲った。そしてリビングで一服していた僕の向かいに座り直し、溜め息を一つつき、テーブルの置時計を見た。
「十時までだよね、私」
「そう」
「あと三十分か」
 ブロンディは僕の手からグラスを奪い、少しの間、口に含んでからごくりと音を立てた。苦い、と言って彼女は驚いたようにグラスを置いた。
「味覚あるの?」
「もちろん」
「進歩してるんだねえ」と僕は言った。
「あなたと違ってね」
 ブロンディはいたずらっぽく笑った。
「ごめんね、延長はできないんだ」
 僕は昨日確認した通帳の残高を思い浮かべた。
「いいの。次のクライアントが待ってるから」
「これから?」
「ええ。十二時に池袋。その前に本部に戻ってガスチャージ」
「妬けるな」
「妬いてよ。最後にもう一度、いいのよ?」
「ありがとう。でも今日は遠慮するよ。そんなに僕も若くない」
「たまにキスもタッチもしない人がいるの。ただコンバセーションだけを楽しむっていう人。フィーをいただくわけだから私たちにとってはどちらでもかまわないんだけど。そういう人って、ハルヒト、どう思う?」
「男だからって、いつも体を求めるわけじゃないよ。人それぞれいろいろな目的があると思うけれど、僕としては、少なくとも君たちと一緒にいると、人間の女性と付き合っているよりがっかりすることが少なくて済む」
「そう言ってもらえるとすごく嬉しいわ。クライアントに尽くすことは、私たちのリーゾン・デットルよ。エキスキュースミー、シャワー、いただいてもいい?」
「ご自由に」
 床を打つ湯の音を聞きながら、僕は引き出しに仕舞ってあった妻の写真を取り出し、改めて顔の輪郭、髪型、目、鼻、口の形を確認した。
 幸福。そして、失望。 
 僕は妻があの男に抱かれているところを想像しながら、残りのビールを口に流し込み、写真を引き出しに戻した。そして両手で頬を撫でた。今日一日だけで、髭が随分伸びた気がした。
 別れ際、ブロンディはごつごつした僕の手の指を名残惜しそうに弄んでいた。
「また指名してくれる?」
「もちろん。でも、しばらくは日雇い労働の日々が続くけどね」
「ミスター・ハルヒト」と言ってブロンディは僕の目を見上げた。「ミス・ケイトに、また会ってみたいと思う?」
 僕は頷こうかどうしようか、迷っていた。
「探してみようか?」とブロンディは言った。
「もう随分前の話だよ?」
「解体されるかロストしていない限り、必ずどこかにキープされているはずだから、台帳調べれば分かるかも。もっとも、当時のまま今も動いているとは思えないけど」
 ブロンディは自分の恋人を探すように楽しげに言った。「任せてみて」
 僕は彼女の小さな唇に感謝のキスをした。
「その代わり、次回もまた指名お願いね」
「了解」
「ねえ、私、何か忘れてないかなあ」と言って、ブロンディはポケットに手を当てた。
「忘れ物?」
「ううん、まあ、いいや。お元気で。シー・ユー!」

 ブロンディは僕の姿が見えなくなるまでいつまでも手を振っていた。僕は部屋に戻り、ブロンディの残り香漂う浴室でシャワーを浴びた。シャンプー台に彼女のカチューシャが残されているのに気が付いた。ラブドールにも「忘れる」なんてことがあるんだ、僕は自分の頭にカチューシャを差して浴室を出た。
 部屋はとても寒く感じられた。電気ストーブは何の役にも立っていなかった。僕は友人に電話をし、飲みにいかないかと誘ったが、今彼女と一緒だから、とあっさり断られた。その彼女も一緒にどうかと聞いたら、ふざけろよ、と言って一方的に電話を切られた。

 仕方なく、僕はネカフェにでも行くことにした。家にはいたくなかった。駅へ向かう途中、ブロンディのもう一つの忘れ物を僕は思い出した。
 彼女に蒼い雪を見せる、という約束。

   *

 玄関のチャイムに起こされ、寝ぼけた頭で扉を開けると、そこにはケイトが立っていた。ブロンディと別れてから一週間余り、彼女はブロンディが持ち帰った服を着ていて、表紙の擦り切れた本を手にしていた。もちろん、僕はひと目でその本が何の本であるかを理解した。髪形も顔つきも、全くあの時のままだった。

「ケイトです。初めまして」と言って、彼女は小さな紙きれを僕に差し出した。「ブロンディさんからメッセージを預かってきたの」
 要旨はこうだった。ケイトはロストにならず解体もされず、社内の倉庫に保管されていた(というより、放置)。メモリと人工器官を一度オーバーホールされているようで「ハルヒト」と過ごした記憶は残っていない。燃料は二日分、旧式ガスのため追加の補充は不可。レンタル料は私の独断で不要。

 二日。僕は紙を折りたたんでポケットに仕舞い、「まあ、どうぞ」といってケイトを居間に通した。僕があまりにもケイトの顔ばかりじろじろ見ているので、ケイトも口をすぼめて不思議そうに僕の様子を見ていた。
「何かついてるかしら?」
「ううん、別に」と僕は言った。「ゆっくりして」
 ケイトは部屋に入ると、僕に軽く目礼をして、すかさずロッキングチェアに腰掛けた。
「座り心地のいい椅子ね」
「いろんな女の子に座られて、幸福な椅子だよ」
 布団を畳んで隅に寄せカーテンを開けた。昼下がりの町は明るく、空には刷毛で引いたような雲が一筋凍りついていた。
「この本を渡されたんだけど、元々あなたの物ですって?」
「そう。昔、君にあげたんだ」
「私に? 初めてではないのね。でも覚えてない」
「遠い昔のことだから」
「素敵な写真集ね」
 ページを捲るケイトの姿に、僕の気持ちは高ぶった。共に過ごしたあの頃の匂い。僕は無意識にケイトの髪を撫で、指に絡めていた。
「する?」と、嫌な素振りも見せずにケイトは言った。
「いや、いいんだ。話だけで」
「最近、あなたのような人、増えてるのよねえ。男の人ってみんなしたいのかと思ってた。生理現象だって聞いてたから」
「生理といっても、自分自身である程度はコントロールできるタイプの生理だから」
 ケイトの顔を見ていたら、久しぶりに料理を作ってみたくなったので、まな板にお湯を流し、残っていたじゃがいもと肉を刻みフライパンに油を敷いた。
「あなた、料理するんだ」とケイトが感心して聞いた。「台所に立つ男の人って、私大好きなの。何を作るの?」
「じゃがいもとベーコンの炒め煮だよ」
「ふうん」
「ケイトは食事できる?」
「もちろん。トイレにも行くわ」とケイトは嬉しそうに言った。
「本当? 進歩したんだねえ」
 新たに生み出された機能はすぐに標準化され、バージョンアップは青天井で繰り返される。リアルな人間以上の「人間らしさ」が今のドールには求められており、日進月歩のイノベーションがそれを着実に可能にする。
 それに比べて僕は進歩はおろか退化しているようにさえ思う。この数年、僕の中で一体何がアップデートされたのか。ただいたずらに月日だけが過ぎ、外部環境の変化に適応できずハングアップしている僕自身の姿があるだけだ。
 僕はフライパンに蓋をし、米をといだ。「ねえ、ケイト、何か音楽をかけてくれない?」
 ケイトは床に積み上げられたCDを何枚か見比べてから、プレーヤーに入れた。
 ジャニス・ジョプリン。
 あの時、もし「孤独」と答えていたら、ジャニスは選ばれただろうか。なくはない、僕は足で「ムーブオーバー」のリズムを刻みながら、じゃがいもの煮詰まり具合を確認した。
 準備が整うと、僕はあの時のようにベランダに空の段ボールでテーブルを作り、二人分の食器と料理を並べ、ワインの栓を抜いた。
「ケイト、ワインはどう?」
「飲み過ぎるとよくないらしいけど、少しいただいちゃう」とケイトは答えた。「それにしても美味しそう」
「食事の前に見せておきたいものがあるんだ」と言って、僕は冷凍庫から霜の降りたマグカップを取り出してケイトの目の前に置いた。ピグレットの顔には、溶けて零れ出た雪の跡が幾筋もついていた。面影は失われ、わずかに蒼色の澱みを残す氷の塊となっていた。
「これは何?」とケイトは不思議そうに尋ねた。
「去年のクリスマスに降った雪」と僕は言った。「このアパートの周りにだけ、蒼色の雪が降ったんだよ」
「本当?」
「少し褪せてしまっているけど、よく見てごらん」
 ケイトはカップを覗き込んだり、上に翳したりした。そして二度大きく首を傾けてから、よく分からない、と呟いた。
「仕方ないか。月日が経てば褪せるよね」僕は声の調子を落とした。
「ホワイトクリスマスだったのね、東京」
「そう」
「あなたの話、信じるわ」とケイト。「蒼い雪なんて、ちょっとロマンチックじゃない。あなたにとっての思い出の雪」
「ありがとう」
 僕はそう言うと、長い間、体中に蓄積した煩わしい楔がすうと消えて行くのを感じた。それはまるで優しく子供の棘を抜く母のようだった。自分の両手が正確に物を捕らえ、両足が堅実に大地を踏みしめている気がした。
 蒼い雪は今日限りにしよう、と思った。久しぶりにピグレットのマグカップでミネストローネが飲みたくなっていた。
「ねえ、どうしたの?」ワインは彼女の頬をうっすらと染めていた。
「いや、何でもないよ」
「ちょっと見て、綺麗な夕焼け」
 ケイトはベランダの桟の間から覗く遠くの空を眺めて言った。安アパートのベランダから見た夕日だって、写真集にあってもよかったのに、と僕は思った。
「あれは何色っていうのかな」と僕は聞いた。
「何色って?」
「あの、夕日に染まった雲の色」
「オレンジ色じゃない」
「そうかな」
「橙色とか。ねえ」と言って、ケイトは首を少し傾げた。
「どうしたの?」
「ううん、何かこんな会話、前にしたことあるような気がして」
「デジャヴじゃない?」
「これがデジャヴっていうの? 一度味わってみたかったの。でも何か変な感じね、少し」
 そう言って、僕はケイトの肩を抱いた。ケイトは静かに体を預けた。最近、これほど鮮やかな夕焼けを目にしたことはなかったので、後でケイトと一緒に公園にでも行って、消えてなくなるまで見届けてみたいと思った。
 居間で電話が鳴っていた。キスをしている間中、電話はいつまでも鳴り続けていた。(了)


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