愛しきメールは我が手の中に

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『愛しきメールは我が手の中に』

 我々家族から会話がなくなってから、すでに3ヶ月が経過していた。
 「会話がない」というのは、いわゆる「口から音声を発したやりとりがない」という意味であって、話題がなかったり、無視したりしているわけではない。一緒に食事もするし、テレビも見る。
 つまり、家族と何らかのコミュニケーションをとる必要がある時、我々家族は「喋る」のではなく、「携帯メールを使う」ということである。

 ある日の食卓。

From:俺
To:由美子
Sub:無題
(本文)このシシトウ、ちょっと辛いよね?

From:由美子
To:俺
Sub:無題
(本文)いつもの八百屋じゃないのよ。はずれだった。

From:俺
To:由美子
Sub:無題
(本文)お歳暮、そろそろ見にいく?

From:由美子
To:俺
Sub:無題
(本文)カタログでいいわよ。どこで選んでも一緒。

 テレビのニュースを見ながら、妻。

From:由美子
To:俺
Sub:無題
(本文)今は小学校で一輪車に乗るのね。

From:俺
To:由美子
Sub:無題
(本文)一輪車か。俺の時代はローラースケートとか、ローラースルーゴーゴー

From:由美子
To:俺
Sub:無題
(本文)どうしたの?

From:俺
To:由美子
Sub:無題
(本文)舌かんだ。

 目の前の娘に眉間に皺を寄せながら、俺。

From:俺
To:彩
Sub:無題
(本文)食事の時くらいヘッドホンはずしなさい。

From:彩
To:俺
Sub:ふん!
(本文)なし

 こんな具合だ。
 メールを通じた会話しかしなくなったのは、俺のちょっとした「癖」に対する妻との口論がきっかけだった。
 会話をしている時、俺の口から「ぷす、ぷす」という音が聞こえる、というのだ。話のセッションごとにまるで句点を打つかのように、下品で、年寄りくさい空気が口の端っこから漏れている、と。
 一体、どのタイミングでそんな音が漏れているのか自分では全く自覚がない。「また『ぷす』って言った」と妻に指摘されて振り返ってみても、どれがその音なのか分からない。別に太っているわけでもないし。もしかすると口のたがが緩み始めているのかもしれない。しかし四十半ばで口周りの筋肉が弱ってきたというのも情けないし、考えたくもない。
 「気のせいだよ」と言っても、妻は「嘘。絶対そう言ってるわ。彩に聞いてごらんなさいよ」と、半ば切れ始める始末。
 そうこうしているうち、我々は口論となった。妻にとってその音は、お新香臭い年寄りを養っているかのような、不吉で不快な音のようだ。そうは言っても、鼾みたいに、それを発している本人に何の自覚もないのだから対処の仕様がない。
「幻聴だよ」と俺。
「幻聴なんかじゃないわよ。あれだけの息を漏らして無自覚っていう方がおかしいわ」と妻。
「なら、録音でもして聞かせろよ」
 俺もいい加減頭にきてそんな言い方をしたものだから、妻の目の色がいよいよ変わった。
 これ以上は売り言葉に買い言葉、もはや「口から漏れる音」なんてテーマはどうでもよく、結婚生活二十年の間に蓄積された日ごろのあらゆる不平不満を妻は間髪入れず猛然とまくしたてる。
 こちらの出方によっては致命的な喧嘩になることは目に見えていたので、最終的には俺が折れることにした。少なくとも妻と口論することは、平穏無事な日常生活を望む俺にとってメリットなど何一つないからだ。
 そう、俺は確かに「ぷす、ぷす」言っている。肥満中年が息を切らすがごとく妙な息を口から吐いている。
 いや、そこまで妻が言うのだから本当にそうなのだ。単に、その事実を俺が認めたくないだけなのかもしれない。
 もう若くない。顔には小刻みな皺が増え、腹もぽっこり膨らみ、バリアフリーの廊下で躓き、そして何より、口から下品な息を漏らす。

 そんなことがあってから、俺は家にいる間はもう口を開くまい、と決めた。言葉を発しなければ、その嫌な音は出てこない。あの音さえなければ、俺も妻も、余計な喧嘩をせずに済む。
 そこで、得意な訳ではなかったが、「今後会話は携帯メールで行う」というルールを自棄っぱちに提案したところ、妻からも娘からも何の反論も抵抗もなくあっさり承諾された。
 自分で提案したくせに、その二人の反応には少なからず驚きと寂しさを覚えたが、それだけ例の音を嫌がっているということなのだ。
 その日以降、意思の伝達には全て携帯メールを使うという、同居家族としては恐らく全国でも初の試みを開始した。
 ちなみに、音声による最後の妻のメッセージは「寝る前に戸締りだけはちゃんとしといてよ」であった。

   *

 それから3ヶ月の月日が経過しているが、何ら不便を感じることもなく、実にスムーズに家庭生活は進捗している。
 口論(メールでやる場合は「メル論」とでもいうのだろうか?)になりそうな時があっても、本文をかちかち打っている間に、妻への怒りは風船が萎むように収まってしまう。
 「怒り」は口ではすぐに表現できても、メールとなるとこれがどうして、なかなかもどかしい。
 感情の赴くまま「怒り」を言語化し素早くボタンを押し込んでいくという作業は指が大きく不器用な俺には不可能であり、最後は思うように文字が打てない自分自身に怒りの矛先が向けられる有様で、妻への反論などもうどうでもよくなってしまう。
 ということで、それを機に妻との諍いは見事なまでになくなった。メールを使い始めてからは「ぷすぷす言ってる」発言もなくなったし、勉強しない娘に落ちる妻のヒステリーも明らかに減った。
 もっとも、娘へのヒステリーは俺に対する不平不満のはけ口、当てつけであることが多いわけだが、俺への怒りが沈静化した分その機会も減り、家族皆すこぶる調子がいい。

(俺)NO残業デー。上司からお誘い。9時コース!

 会社の正門を出ると、俺はいつものように定型文を呼び出して妻に送る。妻からの返信は大抵速やかだ。まめだなあと思う反面、単に暇なだけかとも思う。

(由美子)最近残業少なくない? もう少し稼いでくれないと、彩の学費が…
(俺)今月は仕事少なくて残業する言い訳がつかないよ。こんな時に残業してると、逆にこいつ能力ないんじゃないかと思われる。
(由美子)実際そうでしょ。それなら飲み会も晩酌も控えてもらわなくちゃね。
(俺)上司の誘いじゃ断れないよ。世知辛い世の中だからね。

 いきつけの店で、いつもの通り会社への愚痴をさんざん聞かされたあげく、1円単位までの正確な「割り勘」にさせられた俺は、ラッシュ並みに混雑する電車の吊革に最後の力を振り絞って凭れていた。
 確かに仕事は芳しくない。産業用機械を売っている会社だが、取引先の海外移転に伴って国内需要は冷え込んでいた。
 ここ数年、定期昇給はストップ、スズメの涙程のボーナスからも社会保険料ばかりがざっくり引かれ、住宅ローンと教育費に追われる我が家の家計は、当然のことながら逼迫している。
 お酒だって、ビールを発泡酒にし、発泡酒を「第三のビール」にと、できる限り安いものへシフトさせているのだが、そんなささやかな晩酌すら控えなければいけない、というは何ともはや。
 頼みの綱である娘の彩も、高校生になってからは部屋に閉じこもってばかりで勉強をしている気配はなく、パソコンしたり携帯メール打ったり音楽ばかり聞いている。黙って部屋に入ろうものなら、口より先に物が飛んでくる。どうも最近夜遅くまで起きてるみたいだし、好きな男でもできたのだろうか。
 つい数年前までは「パパと一緒じゃなきゃお風呂入りたくなあい」なんて言っていた可愛らしい女の子だったのに。
 こんなに嫌われるなんて思い当たる節は何もないし、娘に聞いても答えてくれない。まさか「ぷす、ぷす」が原因とも思えないが、思春期とはいえ、余りの突然の豹変ぶりに、女性不信にさえ陥る。
 妻と娘の顔色を窺い、「第三のビール」さえ口にできず、メールを打つふりしてお気に入りのエッチサイトを徘徊しているような、ちっぽけな俺の人生。

 車窓を流れる隣町の明かりをぼんやり見つめながら、俺はこれからの自分の行く末について思いを巡らせていた。
 不味い酒を飲まされたせいで今日はやけに感傷的だ。そんなこと、考えてみたって何も解決しないどころかもっと自分が寂しくなると分かっているのに。
 英字新聞を読むサラリーマン。背筋がピンと伸びたロマンスグレー。お互いの携帯を見せ合う楽しげな女子高生。肩を抱き合いながら話す若いカップル。
 その表情のどれもが幸せそうで、「第三のビール」を取るか捨てるかで迷っているような男など、この車内にはどこにもいないようだった。
 胸ポケットの携帯がぶるぶると振動。
 随分時間差のある返信だが、どうせ「帰り際にスーパー寄って『本だし』と『マヨネーズ』を買ってこい」がオチだろう。

From:info@junai-nostalgia.com
To:俺
Sub:「純愛ノスタルジア」癒しのお相手サーチ事務局より新着メールがありました(ユッチ様よりメッセージ)
(本文)掲示板拝見しました。まるで私の気持を見透かされているようなメッセージに共感しました。自分もまささんと同じ、東京在住、既婚で子持ちの主婦です。こうしたサイトは初めてですが、よろしければお返事ください。

 始めは迷惑メールかとも思ったが、「まさ」という名前と「東京在住、既婚で子持ち」という言葉にひっかかりを覚え、削除ボタンをキャンセルした。確かに俺の名は「雅史」であり「東京在住、既婚で子持ち」だ。
 もう一度件名を読んでから、俺はしばらく頭を巡らせる。
 「純愛ノスタルジア」癒しのお相手サーチ。
 今時ベタで臭いタイトルだが、これはどう見ても「出会い系サイト」の類いだろう。
 それにしてもどうして俺の名前を知っているのだろうか。住んでいる場所も、既婚で子持ちということも。偶然の一致にしては、あまりに出来過ぎだ。それに、掲示板のメッセージって?
 何度もメールを読み返しながら、俺は消そうか消すまいか躊躇していた。これが本当に実在する「ユッチ」という女性から俺へのメッセージだったとしたら。
 アルコールの力は怖い。想像はたちまち自分勝手な妄想となる。
 この時間にメールなんて、きっと旦那の帰りが毎晩遅く、小さな子供抱えてストレスを溜め込んでいるのだろう。
 もしかしたら、同じ市内に住んでいて、スーパーかどこかですれ違っているかもしれない。
 泣き喚く子供を尻目に、ダイニングテーブルで足を組みながら、ささやかな一時の慰めを求めて、携帯のボタンをいつも以上に慎重に押す人妻のけなげな姿。
 妄想はやがてリアルな感傷となって、ここ数年来経験したことのない種類の胸騒ぎを引き起こした。気が付くと、俺は「ユッチ」への返信を打ち込み始めていた。
 いくらか自棄になっていた。別に騙されたって構いやしない。俺のアドレスなんて盗んだところで、何の価値もありはしない。俺にはもう、失う金もプライドも残されていないのだ。

(俺)ユッチさん、メールありがとう。同じような境遇の方と知り合えて光栄です。こちらこそ、これからも末永くお付き合いいただけたらと思っています。ご主人の帰宅は遅いのですか? 携帯からメールしてて大丈夫なのですか?

 送信ボタンを押した直後に、もう一度文章を読み返す。
 畏まった文章だ。「境遇」とか「光栄です」なんて言い方は笑わせる。それに「のですか?」が二度も続いて堅苦しい。同じ立場なのだから、もっとフランクでもよかったのではないか。
 初めての「出会い系」体験、大失敗。きっとつまらなそうな男だな、と思われるに違いない。こんな酒臭い電車の中じゃ気の利いた返事なんて書けるわけがない、とメールを打つ環境のせいにしてみる。
 自宅のある駅まで、あと二つ。乗客は一向に減らない。郊外に住む人間も数年前に比べてぐっと増えた。
 ポルノ雑誌と何ら変わらない写真週刊誌の中吊り広告に目を向けていると、間もなくメールの着信を知らせる振動。差出人は、先程の「純愛」なんちゃら事務局。件名には「ユッチ」という名前。
 ちゃんと返事が来たのである。すかさず本文を開き、手垢のべたべたついた液晶画面を覗く。期待してなかった割に、素早く反応している俺。

(ユッチ)こんなにすぐ返事があるとは思っていませんでした。ありがとうございます。お仕事中でしたら、ごめんなさい。無理なさらないでね。うちの人もそのうち帰ってくるとは思いますが、お互い干渉しませんのでメールはできると思います。それはそれで、寂しいものがありますが。
 三十を過ぎてから、月日の経つのが本当に早く感じるようになりました。このまま年をとっていくことが、最近とても怖くて。私の人生、これでいいのかな、と。ごめんなさい。早速、愚痴ってますね。不愉快でしたら遠慮なくおっしゃってくださいね。

 「出会い系」の誘惑は、もっといやらしい言葉がちりばめられていて、「会いたい」だの「したい」だの、詐欺とかエロいサイトにリンクだの、そういうものを想像していたので少し驚いた。
 ユッチからの返信は、品を感じさせる丁寧な言葉遣いで、実に好感の持てる文章だった。言葉の一つ一つに、彼女の優しさと気配りを感じ取ることができる。
 焦りと、不安。メールを打っている時の、彼女の深い深い溜め息が聞こえてくる気がする。とても「サクラ」の女性が打ちこんでいるようには思えなかった。乗りかかった船、ここは少し信じてみよう。世知辛い世の中でも、一縷の光はきっとある。
 「仕事中ではありませんよ」と打ち込んだ後で、これはないよな、とクリアし、再度打ち直す。

(俺)仕事中じゃないから気にしないで。今は電車の中だよ。俺に話してすっきりするならどんどん愚痴っていいからね。焦りは、自分にだってあるよ。この景気で収入も増えないし、子供ばかり大きくなるし。それに、妻とはここしばらく口も聞いていないんだ。ユッチさんとは、似たような環境かもしれないね。

 今度は気さくに行き過ぎたかな。初めての人に送るメールというのは難しい。メールを打つのに夢中で、危うく自宅のある駅を通り過ぎてしまうところだった。
 改札をくぐり家路を急ぐ。バスのロータリーを抜け、大通りから一本路地を入ると、途端に外灯も人通りも少なくなる。整然と立ち並ぶ家の窓にはそれぞれに灯りがともってはいるものの物音一つなく、まるで人が住んでいるという気配がない。いかにも新興住宅地という仕様だ。
 自分の靴の音にさえ薄気味悪さを感じながら、汗まみれの手の中で振動する小さな文明を紐解く。

(ユッチ)主人にはもう女性として見られていないのかもしれません。お恥ずかしい話ですが、夫婦生活も、もう3年以上ありません。子供も大きくなって自分の世界がありますし。家庭の中で、一人孤立してる感じで。
 そんな時、まささんからのメッセージを読みました。「仕事、家事、育児に追われる単調な日常の中で、忘れかけている若い頃のときめきを一緒に取り戻しませんか?」
 あ、この人なら私の気持ち分かってくれるかもしれないと。それほど年齢も離れていないし、既婚同士だし。決して、ストレスを解消するためにまささんにメールをしたのではありません。もう一度、初めて恋人と出会った頃のようなどきどきする気持ちを味わいたいと思いました。まささんなら、もしかしたら、日常に潤いを与えてくれるかもしれない、と。

 俺ではない「まささん」は掲示板にそんなメッセージを書いたわけだ。まあ、いきさつはよく分からないが、こうして俺のメールにきちんと返事をしてくれる女性と出会えただけよしとしよう。
 別に「サクラ」だって構いやしない。今の俺には、嘘でも「俺」に興味を示し、向き合ってもらえる女性がいてくれるだけでも、どれだけ慰めになることか。
 自宅は目前だった。俺は歩みを止めて、お情け程度の遊具しかない公園のベンチに腰掛けた。
 きっと世の中には、愛の破綻した夫婦などごまんといる。妻を家政婦程度にしか思っていない夫。妻を抱かない、あるいは抱けない夫。その中で、人妻のストレスがこうした出会い系に向いていくのは必然だ。そして、そうした人妻を必要とする男がいるのも。
 「サクラ」なんてことじゃなくても、見ず知らずのリアルな既婚男女が刹那の「癒し」を求める出会いの場は、ネット社会になって飛躍的に増えたことだろう。
 我が家も他人事ではないわけだが、俺の妻はそういうことにはひどく奥手だし、淡白な女なのだ。彼女の趣味はもっぱら料理とビーズアクセサリー。キーボードは打てないし、携帯でメールを打っている姿など、俺との会話以外ほとんど見たことない。
 
(俺)結婚して子供ができたりすると、毎日が単調で退屈で、気がついたらただ年だけを重ねているんだよね。ときめきをもう一度という気持ちは自分にもあるよ。夫婦生活、こっちもご無沙汰です。女というより、母になってしまうのかな。

 短時間に「帰るメール」以上の言葉を打ちこむのは時間がかかりさすがに指が痛い。
 上着を脱いでベンチにひっかけ、俺は酔い覚ましに雲梯にぶら下がるものの十秒ももたなかった。体重が増え過ぎたのか。腕の筋力が落ちたのか。
 脇腹を両手で掴む。一度息を吸って腹を引っ込め、再度息を吐き出しながら、どこまで突き出るものかを確かめる。
 これじゃあ、まるで子を孕んだ牛。最近は、首筋から肩と背中にかけて小さな発疹が頻発している。水虫もなかなか治らない。
 こんな男に、誰が抱かれたいなんて思う? 
 セックスレスは決して一方的なものではなく、お互いで「抱かれたくなくなって」しまっているのだ。

(ユッチ)まささん、とても信頼できそうな方でメールして良かったです。家まであとどのくらいですか?
(俺)実はもう家の前の公園にいるよ。外から見たら、きっと変な男に見られてるだろうね。スーツで雲梯にぶら下がってるんだもん(笑)。職務質問される前に、そろそろ帰らないとね。
(ユッチ)あは。私のせいで疑われたりしたら申し訳ないです(笑)。また明日メールします。私の方はいつメールもらってもかまいませんので。
(俺)自分もOK。携帯のメールって、リアルタイムで連絡取りあえるからいいよね。
(ユッチ)そうですね。何だかとても繋がってるって実感ありますね。
(俺)そうそう、ユッチさんて年いくつ? 女性に聞くのは失礼かもしれないけれど。ちなみに、自分は今年で四十四だけど。
(ユッチ)三十五歳です。だいぶ年下ですね。
(俺)三十五かあ。いいなあ。うちの妻と五歳も違うんだね。若いって素晴らしいねえ。
(ユッチ)そんなことないですよ~。もうすっかりおばさんです。男性は年を重ねる毎に魅力的になるからいいですよね。女性は…ね^^;

 いつの間にか、電話で会話するかのようにメールを打っている。ユッチからの返信が待ち切れない。

(俺)さて、そろそろ帰らなくちゃかな。シャワー浴びて、食事して、布団に横にさえなれば明日はあっという間にくる。またメールするね。これからもよろしく!
(ユッチ)奥様を大切にしてあげてくださいね。母、なんて言わずに。
(俺)今日はもやもやしてるから、うん年振りに抱いちゃうかも知れない(笑) 気力があればだけど。雲梯で体力使い果たしたかな。かなり強い酒を飲まないと駄目みたい。
(ユッチ)ひどーい、そんな勢いでみたいなこと(笑)。とりあえず、おやすみなさい、でいいですか?
(俺)そうだね。また明日。旦那さんによろしくね、って言えるわけないか(笑)

 ドアノブを回す前に、頭を「自宅モード」に切り替える。
 ユッチとのメール交換でかなりヒートアップしているのが分かる。アルコールと雲梯とユッチがないまぜとなって、心臓の鼓動を恐ろしく速めている。彼女の名前がふとした拍子に飛び出してこないよう、記憶の彼方に一時、退避。
 と思ったが、妻とはメールでしか話さないので、口から出てくる心配のないことに気付く。

(俺)ただいま

 靴を脱ぎながら、お決まりのショートメール。

(由美子)おかえりなさい。少し遅かったじゃない?

 お出迎えなど当然なし。返信メールだけが、ちり紙をゴミ箱に放り投げるように届く。

(俺)またJRが遅れちゃってさ。人身事故、最近多くて参っちゃうよ。
(由美子)洗濯したいから、早くシャワー浴びてきて。
(俺)うい

 味もそっけもない会話である。ユッチとは大違いだ。せめて顔文字の一つくらい入れてくれたっていいのに。
 娘の部屋からはいつものようにビジュアル系ロックバンドの曲ががんがんと漏れている。カラオケ嫌いの俺でさえ、曲をそらで歌えるようになるくらい、娘は何度も何度も同じアルバムばかりを聞いている。
 妻にしろ娘にしろ、俺の帰宅には全く関係も興味もなく、それぞれのやりたいこと、やるべきことに没頭している。
 俺のやりたいことは? やるべきことは?
 メールを終えたばかりのユッチのことが、俺はとても気になった。彼女も今、自分の本来の持ち場へ戻り、主婦、そして母としての役目をこなしているのだろう。
 右手にちくちくとした痛さを感じたので見てみると、中指と薬指の付け根の皮が少しずれていた。脆弱な腕で突然八十キロ近い体重を支えるのにはやはり無理があったようだ。
 俺のやるべきこと。
 よくよく考えた挙句に到達した答えは、実にシンプルで分かりやすい結論だった。
 妻の指示通り、早くシャワーを浴びてくること。

   *

 ユッチとのメール交換は、それから毎日のように続いた。時間さえあれば俺は仕事中でもトイレの中でメールを打った。彼女からの反応は小気味いいくらい素早かった。片時も携帯を離さず、俺からのメールを常に待っているようだった。
 彼女が例のサイトの「サクラ」であるという疑いは、もはや俺の頭からなくなっていた。俺はユッチを一人のリアルな既婚女性として、真剣に受け止めていた。

(俺)趣味って何?
(ユッチ)雑貨屋さん巡りとか以前はよくしてましたけれど、最近は家にいることの方が多いから。しいて言えば、いい男を探すこと、かな(笑)
(俺)何だか悪女っぽくていいね。怖い怖い(笑)
(ユッチ)まささんの趣味って何ですか?
(俺)趣味聞かれるのが一番困ってしまうんだよね。ホントに無趣味だからなあ。休日だって、妻に言われた家事の手伝いしかしてないし。しいていえば、サーフィンするくらいかな。
(ユッチ)サーフィン! まささん、サーファーなんですか? すごい。
(俺)インターネット限定だけどね。
(ユッチ)あら、ネットサーフィンってこと(笑)じゃあ、好きな食べ物は?
(俺)なまこかな。あの歯応えと磯の香りが大好き。青いのより赤っぽいやつがうまいんだよね。
(ユッチ)好きな食べ物聞いて「なまこ」って答える人、日本に数人しかいないと思います(笑)
(俺)うまい「なまこ酢」食べさせてくれる割烹あるんだけど、今度行きます?
(ユッチ)うふふ。まささんとデートなんて想像したら、なんか少しどきどきしちゃいました。

 ユッチとのやりとりは「砕けすぎたお見合い」のようだったが、それでも彼女に関する情報ならどんな小さなことでも新鮮だった。我々は喫茶店でコーヒーを飲みながら会話するかのように気ままに言葉を送り、受け取った。
 彼女が、どんなスタイルで、どんな服を着て、どんな髪型をして、どんな顔をしてるのかは分からなかったが、俺の頭には、聡明で品のよい、しかし少女のような愛くるしい微笑を湛えた「ユッチ像」が次第に創られていった。
 レスポンスの速い彼女だからこそ、少しでも反応がないと、何か嫌われるような発言をしてしまったのではないかと心配になったりもした。彼女からの返事が待ち遠しくて仕方なかった。こんなに切ない気持ちになったのは、本当に久しぶりのことで、それは正に恋そのものだった。
 やがて、我々は家族の中にいる時でさえもメールを交わすようになっていった。お互いが四六時中、相手を欲し、求めるようになっていた。むしろ、目の前の妻に内緒でこそこそメールを打つことに快楽さえ覚えていたのかもしれない。
 俺は例のルールにより家においても携帯を手放すことはないので、食事中に彼女からのメールを読んだり、返事を打つことは何ら困難なことはないわけだが、こちらから彼女にメールを入れるのは、かなり気を使った。万が一、旦那にばれたりしたら、今までのようなメール交換ができなくなってしまうわけだから。
 ところが、彼女からの返信はすぐに届くし、文面からはそれほどの切迫感や苦労している感じはなかった。

(俺)ねえ、メール打ってて大丈夫なの? 旦那さんいるんだよね?
(ユッチ)お互い干渉しあわない夫婦ですから。いいのか悪いのか分からないけれど。でも、おかげでこうして、まささんとメール交換できているのだからよしとしておきましょうね(笑)まささんこそ、大丈夫なんですか?
(俺)うちもばらばらだから大丈夫。
(ユッチ)何だか似てますね、私たち。まささんと結婚するべきだったかしら(笑)
(俺)ユッチと一緒になれば、人生変わってたかもなあ。
(ユッチ)またまたぁ。でも奥様、本当は寂しいんじゃないかしら?
(俺)そうかなあ。そんな風には見えないよ?
(ユッチ)女性はいくつになっても、一人の女性として見てほしいものですよ。目の前に旦那さんがいるのに、メールに没頭する奥様の気持ち、何となく分かります。
(俺)理屈では分かってる。でも妻を女性として見るためにはある種の緊張感もないといけないのかもね。旦那が疲れて帰ってきてるのに、それを当然、というような顔して、その上家事も子守もさせられるんじゃたまらないよ。別に誉めて欲しいわけじゃないけれど、感謝の気持ちの一つくらいは欲しいところだね。
(ユッチ)最初は奥様もそうだったと思います。それがいつの日からか当たり前のようになってしまうんですよね。夫は仕事でお金を稼ぐ、妻は家事と子育て、役割分担を決めたらそれだけを毎日淡々とこなしていくような。男と女の関係なんてどんどん隅っこに追いやられていって。元々は男と女という精神的、性的繋がりがあって結婚したはずなのに。
(俺)昔を思い返すと、今のこの状態って何なんだろうと思う。自分も妻も、付き合っていたころには経験したこともない、恐ろしく平板で退屈な生活を前に、ちょっと参ってしまっているのかもしれないな。どこに出口を求めていいのか分からない感じ。いつかは自分たちで解決しなければならないことなんだけどね。あれ、何だか随分真面目な話してる(笑)
(ユッチ)たまにはいいんじゃないですか?(笑)。でも答えは簡単な気がします。相手に対する、ちょっとした思いやり。心にダムがあるかどうか、ですね。
(俺)うん、心にダムね。何のドラマの台詞だっけ(笑)。ま、それはいいとして、余裕のある人なんていないのに、自分が一番余裕がない、と思っちゃうんだよね。
(ユッチ)まささんとこうしてメールしてるのも、もう一度きちんと今の生活を仕切り直したかったのかもしれません。家族以外の方とコミュニケーションをとることによって、思い出させていただいたり、新たに教えていただいたり。だから、まささんとのメール、すごく新鮮で楽しいんですよ。本音で話せるから。
(俺)自分もそう。ユッチには思ったことを素直に言える。きっとうちのじゃ聞く耳も持ってくれない。一喝され一蹴されて終わり。そんなに男って女性が思ってるほど強くない。
(ユッチ)きっと奥様だって、同じように思ってますよ。一見、強く見える女性ほど根っこはもろくて弱いもの。本当は、まささんといっぱい話したいことがあると思います。仕事で疲れてるのはわかりますけど、時々でいいですから、ちょっとだけ、耳を傾けてあげてください。
(俺)ユッチも、旦那さん大事にしてね。給料日くらい、発泡酒ではなくてエビスビールを飲ませてあげて(笑)。
(ユッチ)何だか随分見透かされてますね(笑)まささんとは気が合います。もっと早くまささんと出会いたかったな。
(俺)嬉しいこと言ってくれるね。俺もユッチみたいに理解ある優しい人を妻にしたかった。
(ユッチ)こらこら駄目ですよ、そんなこと簡単に言っちゃあ(笑)

 彼女とメールで会話することは、社会や家族に対するものの見方に、今まで気付かなかった良質な示唆を与えてくれた。

   *

 彼女との出会いから、一ヶ月近くが経過していた。俺はいつでも彼女と繋がっていた。我々の間に、いつしかメール禁止の時間帯はなくなっていた。
 俺の生活の中で、彼女の存在はなくてはならないものとなっていた。会社にいる時でも、自宅にいる時でも、トイレだろうが風呂場だろうが、俺は彼女からのメールが気がかりで仕方がなかった。
 風呂場にいても携帯が打てるよう、防水機能のついた機種に変更したほどだ。
 「迷惑メール」と俺の自棄がきっかけで始まったユッチとのメール交際にこれほど熱を上げてしまうとは思ってもみなかった。
 そうであることが必然であったかのように、やがて我々はただのメール友達から、次第に男と女の結びつきを求めるようになっていった。

(俺)メールは言葉だけでしょ? リアルなユッチの雰囲気を少しだけでも感じたいっていうか。俺の想像が正しいのかどうかを確かめてみたい気持ちもあるんだよね。
(ユッチ)どんな想像してるんだろ(笑)。でもそれって、私を女として見てくれてるってこと?
(俺)もちろん。俺にとってユッチは最初から魅力的な女性だよ。
(ユッチ)お世辞と分かっていても嬉しい。ちょっとだけなら、まささんの希望、かなえてあげてもいいかな、なんて。
(俺)本当?
(ユッチ)さすがに顔は無理ですけど、それ以外なら。どんな写真がいいですか?

 つけっぱなしのテレビ。ボロ負けしている巨人の試合を眺めながら、鼓動は途轍もなく速まった。
 リアルなユッチの写真。
 これまで、想像でしかなかった彼女が見られるのだ。しかもリクエストに応えると。
 俺はソファにひっくり返ってのほほんと携帯をにらんでいる妻がとても目障りで情けなく、いてもたってもいられなくなっていた。

(俺)唇とか?
(ユッチ)そんなのでいいんですか? 私はてっきり、裸っていわれるかと(笑)。

 裸って言えばよかった、と少しだけ後悔した。

(ユッチ)駄目駄目。裸は無理です(笑)。それは、リアルで会えたら…のお楽しみ。
(俺)え? 今何て?
(ユッチ)うふふ。ちょっと待ってて。

 ぐうたら妻を横目に、俺はダイニングの椅子を引き、自室に移動した。自分の部屋は静かだし、誰にも干渉されず、ゆっくりとユッチとのメール交換を楽しむことができる。
 間もなく、ユッチから添付ファイル付きのメールが届いた。「唇って以外に撮るの難しいですね」というメッセージの下に、大写しにされた彼女の口元の写真が展開されていた。
 きりりと横に引き伸ばされた肉厚な唇。フラッシュが焚かれていないので薄暗くピントも甘いが、逆に生々しさを引き立たせていた。
 グロスの光沢。顎の黒子。彼女を自分にとっての「女神」とするには、それだけで十分だった。
 長い間触れていない、女の香り。性の匂い。この唇にリアルで触れてみたい、俺は本気でそう思った。彼女からはいつだって、若かりし頃の闇雲な異性への貪欲さを思い出させられた。

   *

 それからほどなく、俺はユッチと会う約束をした。ダメもとでお願いしてみたら、彼女は快く誘いを引き受けてくれた。「まるで学生時代に初めてのデートの約束をするような気分」と彼女は言った。
 お互い、下心のない全く純粋な気持ちだった。彼女からの「唇」写メが引き金になったことは間違いないが、俺はただ食事でもしながら、メールで交わしてるような会話をリアルでしてみたいと思っただけだった。
 自信なんてなかった。もしかしたら、リアルで会うことは今の関係を崩してしまう危険性もあったが、俺の衝動は抑えられなかった。
 「女性と二人きりで会う」という経験、妻と一緒になってからは一度もなかったが、もしこのタイミングを逃してしまったら、俺は生涯二度と「デート」を経験しないで死を迎えるのではないか、と思われた。平均余命からいって、あるいは生活習慣から言って、俺が妻より先に死ぬのは目に見えている。
 「出会い系サイト」での出会いが、本当に「出会う」ことになるなんて思ってもみなかったが、いざ自身がこうなって見ると、満更「出会い系」の「悪」の部分だけを取り上げて切り捨ててしまうのは片手落ちのような気がした。お互いの日々の活力を高め、むしろ余計に「人」や「家族」を大切に思う効用もあるのではないか、と。
 そうは言っても、後ろめたさがないわけではない。さすがに自分の家の近くで会うのは気が引けたので、俺は大学の頃にアルバイトをし、よく遊んでいだ渋谷で落ち合うことにした。
 渋谷は当時の妻と知り合い、度々デートした場所でもあった。もう何年も足を運んでいなかったが、昔取った杵柄、土地勘だけなら、他のどんなデートスポットよりも良く知っているつもりだった。
 約束は午後七時。妻には適当に言っておこう。この頃はずっと寄り道もせずに自宅へ直帰していたのだ。文句は言われまい。

(俺)今週の金曜に接待が入ったから。

 自室から、いまだにソファに体を放り投げているであろう妻にメール。

(由美子)金曜日? あら、そう。接待なんて珍しいわね。最近全然なかったじゃない。
(俺)新しい取引先なんだ。断るわけにもいかなくてさ。たぶん、遅くなると思う。
(由美子)どうぞ、ごゆっくり。

 浴室のドアがばたんと締まり、シャワーを流す音が聞こえた。彩だ。先を越された。あいつの風呂は携帯持参だからやたらと長い。
 俺は部屋を出て、コップに野菜ジュースを一杯いれた。妻は予想通り、さっきの姿勢を保ったままテレビを見ている。巨人とヤクルトの点差はさらに広がっていて、解説者はメジャーで活躍している日本人選手の話や二軍の話で異常に盛り上がっていた。
 テレビと妻とを見比べながら、俺は結婚後の妻の体型がどのように変化してきたかを考えていた。最近髪の毛を梳かした姿を見ていない。束ねてゴムで留めているだけだ。束ねきれない短い毛が、ぴょんぴょんとあちこちから飛び出している。

 俺の気配に気がつき、妻は咄嗟に何か言おうとしたが、噛み締めるように言葉を飲み込んでばたばたと指を動かした。一言でも口を聞いたら五百円の罰金なのだ。

(由美子)なによ。
(俺)あ、いや何でもないよ。お互い、年をとったなと思ってさ。

 字面以上の皮肉を込めて、俺は答える。

(由美子)失礼ね。それはあなたでしょ。筋トレして鍛えてた胸板、どこにいっちゃったの?

 痛いところをついてくる。胸板どころか、顔、背中、肩、腹回り、大腿部、どこをとっても脂肪の付着と筋肉の衰退が著しい。
 確かにそれは今の仕事に就き、結婚してからのことだ。酒量と食事量が圧倒的に増えたにもかかわらず、一日の消費カロリーは恐らく犬より少ない。
 「ぷす、ぷす」という異音もそうだが、身体のことを指摘されるのは精神的ダメージが大きい。茶畑のような腹筋も、カモシカのような足も、「ジャニーズ系」などとおだてられていた若かりし頃の面影はもう微塵もない。
 年を重ねるたびに、俺の瑞々しい生命の源泉は次第に干上がり、死ぬ頃には、そこから泉が湧いていたことさえ分からなくなるほど、俺の存在は「無」に同化していく。
 「年をとるとはそういうことだ」と分かっていても、自分にとってそれは恐怖だった。四十四歳ということは、もう人生の折り返し地点。あとはひたすら「死」へ向かって突き進むのみ。
 せめてもう一度、男になりたい。男として、人を愛したい。恋して綺麗になるのは女だけじゃない。男だって一緒だ。恋をすると、体の中にはいつもと違った物質が生産され、体内の老廃物を除去し、細胞を若返らせ、免疫力さえ向上させるといった話を聞いたことがある。だから、いつも恋をしている人間は年をとらない。
 今はこんな妻でも、もし恋をしたら…きっともっと素敵な女性になるんだろうな。
 俺はそこで想像を膨らませるのを止めた。ユッチと比較してしまうには、あまりにも妻が気の毒に思えたから。

   *

 渋谷駅を出て道玄坂へ向かう頃には、少しずつ雨が降り出していた。
 こんなこともあろうかと用意していた折り畳み傘を開いてみたものの、骨が二本も逝ってしまっていた。
 念願のメル友に会うというのに、いい年をした大人が骨の折れた傘を差して歩くというのは何ともみっともない。そんな傘を「濡れなきゃいいんだ」みたいに平気で使うようになることが年をとる、ということだ。
 人の視線をいつも感じていること。緊張感のある生活。俺は今日から生まれ変わるのだ。
 雨もまだ小降りである。小走りに待ち合わせ場所のプライムへと向かう。
 ユッチの特徴は、白のワンピース。コーチのショルダー。そして赤い傘。
 にわか雨の避難所となっている「109」を横目に、緩やかな坂道を登り始めた辺りで、少しずつ脈拍が上がってきた。同窓会で、数十年ぶりに初恋の女性と会う時のようだ。
 そう、俺が求めていたのは、この感覚。
 自分の欲望は地底の奥深くに封じ込め、仕事と子育てと妻のケアに全力を注いできたこの二十年。一度くらい、こんな経験をしてもバチは当たらないだろう。
 とは言え、ユッチにも旦那や子供がいる。いくら男女の関係はないと言っても、こうして「出会い系」で知り合った男と今正に会おうとしているなんて事実を知ったら。そう考えるとやや尻ごみをしてしまう。
 しかし、もはや理性では抑えきれない欲望に、俺は支配されていた。ここまできて、もう後戻りはできない。
 手櫛で髪を調え、スーツのボタンを全部閉めた。ジャケットが雨粒に濡れ、あばたのような大きな黒い染みが出来ていた。
 かまうものか。骨の折れた傘よりはましだ。雨の中、傘も差さず、初めて会う女のために濡れそぼる大人の男。絵になるじゃないか。水も滴る何とかだ。
 それより、一つだけ注意しなければならないこと。
 例の「ぷす、ぷす」を口から漏らしてはならない。
 それには一度言葉を飲み込んで、一呼吸置けばよい。
 そう、軽い深呼吸。焦らず、ゆっくり。

 赤い傘の女性はすぐに見つかった。背を向けて、エントランスに張られたポスターを眺めている。
 コーチのショルダーに、白いワンピース。言われた特徴そのままだ。想像通りの背格好。後ろ姿。ウェーブのかかった茶色のセミロング。彼女がこちらを振り向く。

「ユッチ? お待たせ」

 目が合うと同時に、激しく脈打っていた俺の心臓は凍りつき、渋谷の時間がぴたりと止まった。俺も彼女も、自分たちの身に今一体何が起こっているのが分からなかった。お互い真っ白な頭で、時間を進めるためのきっかけを探していた。
 しゃべろうにも、言葉にならない。言葉にしようとすればするほど、得たいの知れない圧力が口の筋肉をこわばらせ、声帯が雑巾のように絞り込まれた。彼女も口と瞳孔を半分開いたまま、体を硬直させている。
 時間だけが、朽ちた棒のように過ぎていった。もし、どちらかが何も切り出さなければ、そのまま日付けが変わってしまいそうな気さえしたので、俺はどうにか携帯を取り出し、これ以上ないという慎重さで震える指を動かした。

(俺)どういうこと?

 送信ボタンを押すや、彼女のバッグの中で、聞き飽きるほど聞いた「冬ソナ」の着信音が遠慮がちに鳴り響く。

(由美子)あなたこそ

 星の数ほど出会い系サイトがあるというのに、よりによって結婚して初めての「女」との出会いが、自分の妻だったなんて。

(俺)念のために聞くけど、由美子、ユッチ?

 今度は試しにユッチのメールに返信を入れてみる。上半身が震えている。今にも膝がくじけそうだ。

(ユッチ)大学時代の呼び名忘れた? 付き合い始めた頃、あなたもそう呼んでたのに

 携帯画面からちらと目を上げると、妻はいつになく寂しい目で俺を見ていた。照明のせいか、ちょっとだけ潤んでいるようにも見えた。
 ユッチ。
 なるほど、言われてみれば確かにそう呼んでいた時期があった。俺は自分の妻の呼び名さえ忘れていたのだ。

「最低だな、俺」
 もはやメールを打つ気力もないほど、萎えていた。
「罰金500円」と、妻が言った。妻の肉声なんて二度と聞きたくないと思った時期もあったが、この時ばかりはとても懐かしく、安らぎすら覚えた。
「もう、いくらでも、あげるよ」
 罰金なんて、別にどうでもいい。
「まさか、まささんがあなただったなんて。確かに、あなたも『雅史』だもんね。想像もしなかった」
 妻は今にも泣き出しそうだった。俺はこれまでのメールのやりとりを最初から思い出していた。この携帯には、つい今しがたまで交わされていた「ユッチ」との心の交流が全て保存されている。
 愚痴も不満も誘惑も唇の写真でさえも、自分の妻、由美子からのものだったわけだ。
 俺の知らない妻の姿。そして、妻の知らない、俺の姿。
「もはや言い訳の仕様もないよ」
 妻はしばらく沈黙していたが、諦めたように言った。
「お互いにね」

   *

 いつの間にか雨はあがり、ネオンに溶けた白い粒子が、濡れた歩道にきらきら輝いていた。金曜日の道玄坂は、大人の男女で賑わっていた。大抵のカップルは、片手で閉じた傘を持ち、もう片手で愛する人の手をしっかりと握っていた。
 世間はこんなにもロマンチックで楽しげなのに、一体我々夫婦は何をしているんだろう。
「どうする?」と俺は言った。言い訳など一切不要だった。それは妻も一緒だろうと思った。どのような行動を選択したとしても、なるようにしかならない気がした。
「どこにいくつもりだったのか知らないけれど。せっかくだからどこか連れてってよ。渋谷なんて久しぶりだから」
 それは、怒りも諦めも愛情さえも通り越した、実に穏やかな言い方だった。俺なんかより、やっぱり妻の方が数段上手で大人なのだ。何せ「ユッチ」だ。
「昔何度か行ったことのある割烹覚えてる? うまい『なまこ酢』あったでしょ?」
「そこでピンとくるべきだった。好きな食べ物聞いてそんな答え方する人、あなたくらいだもん」
 
 我々は他のカップルと同じように、二人並んで道玄坂を歩いた。さすがに手は繋がなかったが、並んで歩くなんて実に久しぶりのことだった。妻の唇に欲情した自分が、少し恥ずかしかった。
 この結末は、しかし完璧な絶望などではなかった。今ではどこか清清しい気持ちにさえなっていた。
 妻と遠慮なく口で会話ができる解放感。彼女とはこれからまだ何十年も一緒にやっていかなければいけないのだ。

「メールが毎日のように送られてくるのよ。何度削除しても、アドレス変えて送られてくるの。『私と相性の合う方が見つかりました』って。でもその中のコメントを何気なく覗いたら、まささん、あなたのメッセージがあって、何度も繰り返し読んでいたら、返事を書いてみたくなった。全く、おかしいわよね。私、本当にああいうサイトに繋いだのも初めてだし、返事を出したのも初めてのことなのよ?」
「それは分かってるよ」と俺は言った。これまでの妻を見ていれば、分かる。
「サイトに登録した記憶なんて俺にはないんだよ。そんなメッセージを書くこともね。これは信じて欲しい。俺だって『出会い系サイト』からくるメールなんて今までは削除してたけれど、ユッチ、由美子からの返信に何故かとても惹かれるものがあって、それで」
「疑っても仕方ないわ。それにしても、ね」
 そう言って、妻は軽く首を傾げた。それから俯いて、呆れたように小さく笑った。
「ユッチは五歳もサバ読んだね」
「いきなり初対面で正直に年言う? 自己防衛よ」
「でもこうしてちゃんと化粧するとさ、結構綺麗になるんだね」と俺。妻が堪らなくいとおしく見えた。
「綺麗になるんだねって何その誉め方。失礼ね」

 これだからいけない。妻だと、つい油断して不用意な発言をしてしまう。
 気を入れなおして、俺は妻と手を繋ぐべきかどうかを考えていると、一通のメールが妻のもとに届いた。今度は「冬ソナ」ではなく「嵐」か何かのヒット曲だった。

Congratulations!

 それは「再会に乾杯!」というメッセージが書かれたデコレーションメールだった。良く見ると、手を繋いでいるカップルの顔が、俺と妻の写真になっている。

「誰から?」
「えっと、知らない。このアドレス」と妻は言った。
「全く世の中迷惑メールだらけだね」
「もしかして、これさ。ちょっと待って」
 妻は立ち止まってメールを打った。「もう、そのあたりにいるかもしれない」
「え、誰が?」
 しばらく歩道で佇んでいると、間もなく坂を駆け上がってくる女の子が見えた。彩だ。
「どうして?」と俺は言った。
「きっと彩の仕業」
「彩の仕業って、出会い系のこと?」
「そうよ」と言って、妻は笑った。
 どこか嬉しそうに我々の間に立つ彩を見て、俺は無意識にポケットをまさぐり携帯を探していた。

「ねえ、もう口を聞いているのにまだメールを打つわけ?」と彩は言った。
「それもそうだな」と俺は言った。「しばらく家の中で携帯持つの禁止しようか」
「かかってきたらしょうがないでしょ?」
「そりゃそうだ」
「メールもだめなの? 友達からの」
「それも仕方ないよ」
「じゃ、禁止にならないじゃん」
「そうだな」
 俺がそう言うと皆笑った。家族全員が一緒に笑うなんて光景はいつ以来だろう。
「普段の生活じゃ言えないこと、直接あなたには言えないこと、まささんには全て話してしまいました」と妻。
「俺だって何でも言っちゃったよ。今思えば、顔から火が出る」
「あなた大丈夫? これから先」
「何が?」
「うまくやっていけそう?」
「由美子こそ」
 そう聞く妻の表情は、決して悲しげではなかった。肩に降り積もる雪をさっと払い落とした後のようにさっぱりとした感じだった。
「寂しかった」
 いつもよりスカートの丈が長めな彩は言った。
「こんな風にうまくいくとは思わなかったけれど。パパはともかく、ママがね」
 彩の目から、はっきりと涙が零れ落ちるところが見えた。
「彩、ごめんね」
 妻は娘の髪をそっと撫で、親指の付け根で涙を拭った。
「パパはともかく、ってどういう意味」
 貰い泣きするのを必死に堪えて、俺は無理矢理笑顔を取り繕った。
 全く、高校生のくせに「出会い系サイト」だなんて。
 まんまと彩に騙されたわけだが、しかし俺はどこか嬉しかった。彩から「パパ」と呼ばれることもとても新鮮な気がした。
「ねえ、今日って何の日だか知ってる?」
 妻が俺に聞いた。
 何の日? いくら考えても、日にちの語呂合わせからは何も連想できるものはなかった。家族の誕生日でもなく、結婚記念日でもなく、父の命日でもなかった。
「あなたと付き合い始めた日。もう忘れちゃっただろうけど」
「ごめん、忘れてる」
 妻の記憶力が良過ぎるのか、俺があまりに薄情者なのか。
「待ち合わせも同じプライムの前だった。これも彩の作戦?」
「それは偶然。あたし、知らないもん。今日がそんな日だったなんて」 
 偶然の一致とは恐ろしい。いや、これは偶然ではなく、家族の皆が無意識のうちに引き寄せた必然なのかもしれない。
「メールで会話、はもう終わり。でも不思議ね。こうして話せるようになったのが、携帯メールのおかげだなんて」
 妻は自分の携帯をいとおしそうに眺めながら言った。俺も、自分の携帯をかちん、かちんと何度も空けたり閉じたりした。
 携帯の功罪はいろいろあるだろうが、使い方によっては壊れかけた家族を救うことさえできるのだ。たかが携帯。されど携帯。
「全国初の試み」を中止する前に、俺は彩に一つ気になっていることを聞いた。
「パパはしゃべる時、まだ『ぷすぷす』って言ってる?」
「こんなうるさい場所じゃ、良く分からないよ」
「じゃあ、静かな場所に行こう。なまこでも食べようよ」
「あたし、なまこなんて大嫌い。キモい」
 妻は黙って笑っていた。俺は彩を小さい頃のように抱きしめたかった。いや、妻も一緒に。脂肪だらけの腕と胸の中じゃ、「痛い」なんて言わせない。
 そして俺は祈った。あの割烹料理屋がまだ残っていることを。飛びきりうまい極上なまこの味を、何とか彩に食べさせてやりたかった。(了)


コメント3件

 Caco | 2015.05.26 11:36

女はいつまでも女でいたくて 男もいつまでも男でいたいんよね。。 生きた言葉を伝えたいね。 ほんとのココロからの(⁎˃ᆺ˂) 文字も発する言葉も。 そうすれば、何かが変わんだね。

 高橋熱 | 2015.05.26 12:31

コメありがとうございます。 メールは会って話すのとは違いますからね。 気持ちを伝えるのは、文字情報だけじゃないですから。

 Caco | 2015.05.26 14:48

うん。 感じて分かることもありますね。 文字や言葉だではなく、目や唇でも。。
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