超短編小説

ラベルの記憶

ラベルの記憶
『ラベルの記憶』

 なぜ、瓶ビールを絵の題材に選んだのか、今となっては分からない。きっと、「サッポロビール」の片仮名以外全てアルファベットで埋め尽くされたそのラベルの柄が、どこかモダンで大人っぽく感じたのだろう。

 自動車修理工だった父はいつも白のタンクトップ姿で、食卓に瓶ビールとコンビーフを並べながら、黙ってジャイアンツの試合を見ていた。一年中一緒にいるはずなのに、どういうわけか昔の父の記憶というのは夏だった。ジャイアンツさえ負けていればいつも機嫌良くビールを注ぎ、ジャイアンツが勝っているといつも機嫌悪くビールを注いだ。母からは、時々「へそ曲がり」とか「あまのじゃく」と呼ばれていた。
 食卓の準備で手が離せない母に代わり、僕がビールを注ぐ時もあった。まだ小学校低学年の僕には、大瓶は余りにも重く感じられた。泡を立て過ぎたり、零したりする時もあったが、父は怒るでもなく笑うでもなく、見て見ぬふりをしながら野球ばかり見ていた。

 白いスケッチ用紙を食卓に広げ、まずはラベルの輪郭から取りかかり、次に星を描いた。それから黒の横断幕に白字で抜かれた「SAPPORO」の文字を、僕は異次元の文化にでも触れるような気持ちで、目に映るありのままを模写した。読めない細かな文字列は、デザインの一部として、読めないなりにそれっぽく描いた。「BREWERIES」も「LAGER」もその意味など分かるはずもなかったけれど、英単語を紙に並べていくのはとても楽しい作業であり、賢くなったように思えた。
 ひとしきり描き終えたところで、仕上げに色鉛筆で色を塗った。と言っても色を塗るところは余りなかった。横断幕を黒くすることと、星を赤くすることだけだった。しかし色を付けてみると、鉛筆だけの時と比べ数段見栄えが良くなり、立体的になった。

 出来あがった絵は、まず母に見せた。母は僕のやることなすこと、どんなことでも褒めてくれた。いつものように、「あっちゃん、天才だわ」と僕の頭を撫でながら嬉しそうに目を細めた。
 次に、ジャイアンツの一方的な負け試合を眺めている父にも恐る恐る見せた。自分が毎日飲んでいるビールのラベルが描かれたその紙を前に、父は何も言わず、絵と瓶ビールと僕の顔を見比べて、たった一度、確かにたった一度だけ、にやりと微笑んだ。母と違っていつも険しい顔ばかりをしている父にしては珍しく砕けた表情だった。その時、全てが報われた気がした。ビールをテーマに選んで良かったと心底思った。
 父はそれを潮にテレビを消して浴室に向かった。僕は部屋に戻り、星の赤を更に濃く塗り重ねた。
 それからパジャマに着替え、翌日の学校の教科書と参考資料を揃え、枕元に絵を置いて目を閉じた。枕元に物を置いて寝るなんてクリスマス以来だった。何を願う訳でもなかったけれど、両親ではない誰かに温かく包みこまれているかのような、不思議な穏やかさを感じた。

 瓶ビールを模写した僕のスケッチはその後、地域の芸術祭のクラス代表として、百貨店のイベントホールに展示された。花や果物やペットなどが並ぶ「小学生の部」の一角にあって、瓶ビールのラベルをリアルに描いた僕の絵は明らかに異質だった。絵の前でひそひそ話をしている大人が、全て僕の絵に感心し、評価しているのだと錯覚した。自分もまだまだ子供のくせに、周りの作品が皆子供っぽく、安っぽく感じた。父は仕事の都合で展示期間中に見ることはできなかったが、絵を眺めていると、もう父がそこにいて、グラスに瓶を傾けているような気がした。

 あれから四十年、父は現役を引退し、昨年先立っていった母と長年住み慣れたマンションにそのまま一人で暮らしていた。あの頃の父と同じように妻と子を持つ立場となった僕を、父はいつも快く受け入れてくれた。瓶ビールの画はまだ実家にあって、母の眠る仏壇の直ぐ脇の壁に、額縁に入れて飾ってくれていた。

「元気にしてるの?」
「ああ、何も変わらないよ。お前も仕事忙しそうだな」
「まあね。働き盛りな年代だから」

 他愛もない会話をしながら、僕は父にビールを注いだ。両手ではなく片手で難なく注げるくらいに、僕は成長し大人になった。その分父も白髪や顔の皺が増え、少しずつ背中も丸まっていたが、食卓に瓶ビールをどんと置くと、時間はたちどころに当時にタイムスリップする気がした。台所に立つのが母ではなく、僕というのが少し違ってはいるけれど。

 今日は放送予定のないジャイアンツ戦ではなく、古い歌謡曲メドレーに聴き入る父の顔を横目で見ながら、僕は実家を訪れる際には必ず差し入れしている瓶ビールのラベルを眺めていた。「SINCE1876」。サッポロビールは、もう誕生から一四〇年近くが経過していた。ざっと親父の二倍、このビールは生きてきたのだ。
 発泡酒でもなく、第三のビールでもなく、一四〇年という長い歴史に受け継がれたビールの旨味というものを本当の意味で理解するには、きっともう少し先なんだろうな、と僕は思った。<了>


2016-07-30 | 超短編小説No Comments » 
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