愛のミステリーツアー

 愛のミステリーツアー

『愛のミステリーツアー』

 今回のツアーは、最初から気乗りがしなかった。そもそも、ミステリーツアーなんて時代遅れな感じがしたし、妻から誘われたのもつい三日前のことだった。いくらネットで見つけた格安ツアーとはいえ、出不精の俺を引っ張り出すには、もう少し事前の根回しというものが必要だったのではないのか。
 とはいえ、季節は紅葉の最盛期。普段なら大した感慨もなく、町内のお祭り程度に素通りしてしまうところだが、長年勤め上げた会社を定年退職したばかりで、柄にもなく感傷的になっていたし、近場の温泉で骨休めくらいいいかなと思っていたので、俺はしぶしぶ同意した。
 ツアーの参加者は、我々ともう一組、同世代の熟年夫婦だけだった。経営に疎い素人でも、このツアーが赤字なのは一目瞭然だった。贅沢なハイデッカーバス。宿泊費と食事代。往復のガソリン代に交通費。運転手と添乗員の人件費。とても四人の参加者だけでカバーできる経費ではない。「最少催行人数」というものがあるだろうに。
「これで全員?」
 出発時間前であったが、既にバスの乗降口を閉め切り、最前列に腰掛けて書類をチェックしている添乗員に俺は聞いた。
「平日ですからね。もっとも、参加者が一組でもやりますけどね」
 特段困っている様子でもなく、若い添乗員は答えた。一組の為に実施する団体旅行など聞いたことないが。
「愛のミステリーツアー~秋の味覚と天然温泉」というのが、このツアーのキャッチフレーズだった。「愛」なんて、随分大仰で気恥かしい冠をつけたものだ。ミステリーツアーの性質上、目的地は到着するまで分からない。車窓は厚いカーテンで閉ざされ、運転席と客席との間もレースで仕切られていて、外の景色を中から見ることはできないという仕掛けだ。
「どこに連れて行かれるのかしらね」
 手堅く慎重派の妻が、不確実要素の多いミステリーツアーなんていうものに参加することは意外なことだったが、むしろそれを楽しんでいるといった表情で、妻は俺に聞いた。
 バスは、特に出発合図もなく途についた。間もなく、エンジンの回転音と床下の振動から高速道路に乗ったようだった。
 ツアーは出鼻から挫かれていた。昨夜から降り始めた雨がしぶとく残っていた。日頃の行いが良くないのね、と妻は嫌味を言ったが、俺には返す言葉がなかった。
 二人の子供を育て上げた妻の労苦をねぎらうのは、本来旦那の役目なのだろうが、子供が家を離れてからは会話も触れ合いもなくなり、お互いの生活リズムに干渉しない程度に気遣いながら日々を過ごしていたので、妻が何を考え、これからどうしたいのかも分からず、更にここのところ退職に向けた引き継ぎやら送別会やらで、まともに顔を合わせる時間がなかった。そこに来てのこのツアー話だったということも、拒めなかったもう一つの理由である。
 間もなく、添乗員からマニュアル通りの主催者挨拶と、今後の予定について説明があった。順調にいっても到着は午後三時頃になる、と彼は言った。五時間近くバスに乗る計算だ。
 一泊二日しかないのに移動時間が長いというのは、いささかもったいない。道中では目的地が推測されるので休憩場所には一切立ち寄らないとのこと。車内にトイレは付いているのでそちらの心配はないが、五時間もバスから出られないというのは鬱々とする。
 我々と一緒に参加している後列の夫婦は、控え目な感じの二人だった。男は俺と同じくらいかやや若く、一方、女の方はずっと老け込んでいた。
 バスを待っている間に男とは何度か視線があった。こちらを気にしているようだった。身なりはきちんとしていて背の高い紳士的な感じの男だった。格安のバスツアーなどではなく、ヨーロッパ旅行の方が似合いそうな感じだった。二人の表情からは、これからの道中にわくわくしている様子はなく、出発前から疲弊している感じだった。
 車窓の景色が全く見えないバスツアーは、想像以上に退屈だった。雨天とはいえ、せっかくの紅葉を眺められないのはストレスだった。長時間、薄暗い車内だけで過ごすには、強靭な忍耐力と想像力が必要だった。
 それから俺も妻も、いつの間にか眠ってしまったようだった。忍耐力も想像力もない俺は、眠るしかなかった。ふと目覚めると、車内のデジタル時計は午後一時だった。車でこれほど熟睡してしまうのは珍しかった。隣の妻は椅子を半分程度まで倒し、窓側にもたれかかるようにして眠っていた。俺は変な姿勢でいたせいか、首の筋がつったように疼いた。
 車の速度と道を曲がる際の揺れ方から判断して、バスは既に高速道を下り、どこかの山道を登っているようだった。クラッチを繋ぎ直すたびに、ごう、ごうと地響きのようなエンジン音が足元を揺らした。添乗員の話し通りいけば、あと一時間半で目的地に到着する筈だ。一体何処の山を登っているのだろう。それより、尻が痺れ、身体の節々が痛かった。バスを降りて、ラジオ体操でもしたい気分だった。
 いよいよ我慢できず、熟睡している妻の体越しに、俺はこっそりカーテンの裾を指でめくった。山道なら、ちょっと見たって分かりはしない。雨はいまだ激しく降っていた。雨だけではなく風もかなり吹いているようだった。木々から迫り出す枝葉が、時折爪を立てるように車窓を掻いた。
 間もなく、ばんという大きな破裂音と、底から突き上げるような振動があった後、バスは急停止した。
「皆様、どうもパンクみたいです。状況を確認して参りますので、しばらくお待ちください」
 特に慌てる様子でもなく、添乗員はマイクを使わず地声で言った。それから運転手と一緒に外へ飛び出して行くシルエットが、薄いカーテン越しに見えた。
 往路からパンクなんてついてない。俺は「解放厳禁」と書かれたカーテンの留め金を外して、もう少し良く見えるようにしたかったが、ガラスが曇っていて、はっきりと確認することはできなかった。
「どうしたの?」
 妻はパンクの音で目を覚まし、一体何事かと不安そうに身を起こした。その際、偶然妻の手が俺の指に触れたが、俺は反射的に手を引っ込めてしまった。かなりの長期に渡り妻に触れていなかったので、耐性が失われていた。
「パンクだって。大丈夫、必ずスペアタイヤは積んでる筈だから。少し時間はかかるかもしれないけど」
 大型バスのパンクなんて、我々では手も足も出ない。それにしても高速道路ならいざ知らず、こんな山道でパンクとは。よっぽど変なものでも踏んでしまったのだろうか。
 今回のツアーは、位置情報を伏せるという意味で、現地に到着するまでスマホの使用は厳禁となっていたが、さすがに我慢できずロックを解除した。しかしどう向きを調整してみても、アンテナマークは点灯しなかった。山奥だからかもしれないが、こういう緊急事態に役立たない文明など何の価値があるのだろう。
 バスが停止してから、既に三十分が経過しようとしていた。作業が進んでいる様子はなかった。俺も妻もただ無言で待機しているだけだった。時刻は午後四時に近付いていた。本来なら、もうとっくに温泉にでも入って、一杯やり始めようかという時間帯だった。
 やがて、後席の二人が何かぶつぶつ言葉を交わしたとかと思うと、上に積んでいた荷物を下ろしてウインドブレーカーを着始めた。女は目深に帽子を被った。
「すいません、ちょっと外の空気を吸ってきます。妻が気分悪くなってしまったようで」
 我々の席の追い越しざまに男は言った。外の空気を吸うだけで、全部の荷物を持っていくことはないだろうに。俺はどう言葉を返して良いのか分からず、黙ってやり過ごすしかなかった。
 傘を広げながら女の方が先にステップを降りた。そして、男が続いた。男が降りる時、再びこちらに目を向けた。笑いかけたようにも見えたが、気のせいかもしれなかった。
 まさかこのトラブル、ミステリーツアーの演出なのではないかと俺は一瞬疑ってみたが、それにしては余りにも時間の使い方や客への対応が乱暴過ぎる気がした。
「ちょっと見て来るよ」
 憔悴し始めている妻の返事を待つまでもなく、俺は折り畳み傘を広げて外に出た。道幅は狭かった。バスは退避スペースに停まっていた。風は少し弱まっているようだが、大粒の雨は相変わらず容赦なく降り続いていた。左の後輪が、茶色く濁った泥水に埋もれ、見た目でも分かる程、車体は斜めに傾いていた。パンクしたのは事実で演出などではなかった。しかし、バスの運転手も添乗員もその側にはいなかった。
 俺はぐるりとバスを一周した後、これまで来た道、そしてこれから行く道を見渡したが、山側と谷側の景色が反転するだけで、現在地の手掛かりは何も掴めなかった。
 気分が悪いと言って降りていったもう一組の夫婦の姿も見当たらなかった。荷物を全て持って行ったのが俺には気になった。これから益々暗くなる山の中を勝手に歩き回るのは遭難しかねない自殺行為だ。冗談ではなく、不倫のなれの果ての心中旅行だったのではないだろうか。あの二人の奇妙な空気感、満更でもない想像だと思った。
 主催者にも同乗者にも見放された身としては、一刻も早く我々としての行動指針を立てなければならなかった。二人は一体何処に行ったのだろう。いっそパンクしたまま走り続けることはできないのだろうか。このままバスの中で夜を明かすのだけは勘弁だった。下界より標高の高い山の夜は一層冷え込むはず、今も薄いセーターの網目を通して、じわじわ体温を奪われ始めていた。
 バスに戻ると、妻はバッグの中から、何かを探していた。
「降りましょう」といきなり妻は言った。
「降りるって、急にどうしたの」
 そんな場所と状況でないことは、今外へ出て見てきたばかりの俺が一番良く分かっていた。
「ここにじっとしている方が危険よ。寒くて堪らない」
 妻の目は、さっきの寝起きの表情とは打って変わって血走っていた。闇雲に飛び出して歩くのは危険だ。相変わらず、スマホのGPSは自宅を示したまま動いておらず、全く役に立たなかった。
 とはいえ、いつまで放置されるのか分からない添乗員を待ち続けるのも、それはそれで堪らなく不安だった。妻の言う通り、自力でどうにかするしかないのだろうか。
 初めて使うビニール臭の強い携帯用雨合羽を袋から出して羽織り、俺は旅行バッグを肩に掛けた。合羽を用意しているとは妻も準備がいい。傘を差すよりは確かに動き易い。
 パンクがなければ進む筈だった前方の山道に沿って、妻は歩いた。雨は直接全身を叩いた。こんなに雨を身体で受け止めるのはいつ以来だろう。
 暗闇は、深まりつつあった。ただ黙々と歩を進める妻の背に、俺は畏怖さえ覚えた。元々自己主張の強い女性ではあったが、この状況にあって一層積極的だった。いささかパニックになっているのかもしれない。自分の計画した旅行がこんな形で台無しになってしまったことに。
 妻がそういう心理状態なら、少なくとも俺だけは冷静でいなくてはならない。まだバスからあまり離れていない間に引き返すべきなのかもしれない。バスの中で黙って添乗員を待っていた方が正しい判断だったのではないか、外気と雨の冷たさにうちひしがれながら、後悔が何度も頭を過った。もちろん、今の状況そのものも、ミステリーツアーの一環なのだという可能性を、いまだ捨てきれずにはいたが。
 車が近付いてくる気配など全くなかった。頼りになるのは、たまたまバッグのポケットに入れっぱなしになっていたペンライトだけだった。それだって、いつまで電池が持つか分からなかった。
 加えて、見事に空腹だった。バッグには多少食べ物を入れてあるが、この雨の中で、それを取り出して口に入れるという行為が億劫でならなかった。一度歩みを止めてしまえば、溜まっていた疲れがどっと出てきて、二度と立ち上がれなくなってしまうような気がした。
「ねえ、見て」
 緩やかなカーブの崖の下に、明かりらしき光が灯っているのが見えた。俺は何度も目をこすって、弱々しいペンライトを当てながら、幻覚じゃないかどうか確かめた。確かに、闇の中にオレンジ色のぼんやりした光がぽつんと浮かんでいた。
「家かしら」
 今にも走り出しそうな妻を俺は制止した。そこに行くには、勾配の急な草深い崖を下っていかなければならない。
「俺が先に行くから、後ついてきて」
 光はオアシスのようだった。ちょうど眼下に見下ろす位置までくると、一番障害物の少なそうなところから、腰をかがめて足を踏み出した。ぬかるみに足を捕られないようにすることだけに、俺は神経を集中させた。くじけそうになる膝小僧を必死に堪えながら、慎重に慎重に、柔らかい土の中を進んだ。足の下で、細い小枝がぱきぱき折れた。時々、背の高い植物の葉が顔に当たり、その都度ひやりとして反射的に下腹が力んだ。
 道のりはとても長く思えた。スニーカーの中で雨と土が絡まり、踏み込むたびに、じゅ、じゅ、と嫌な音を立てた。生臭い雨水が頬を伝って息の上がりかけている口元を濡らした。
 ようやく辿りついた家は太い丸太でできたログハウスだった。最後は滑り落ちるように玄関まで駆け下りると、妻は力一杯戸を叩いた。妻の雨合羽の一部は破け、朝長い時間をかけて調えた髪型も化粧も、今では台無しになっていた。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」
 呼び鈴も同時に押し続けるが、中からの応答はない。
「留守かな」
「だって、部屋の明かりついてるじゃない」
 妻は更に強く拳を打ちつけた。こんな山深いところにログハウスというのは奇妙だった。そもそもこんな場所に電気がきていること自体が不自然だった。自動車が出入りするような駐車スペースも道も見当たらない。
 玄関の入り口に表札があり、そこには「瀬田」と名前が彫ってあった。偶然か必然か、それは俺の名字と同じだった。
 俺はログハウスから少し距離をとり、四方を眺めた。一帯はすり鉢状の平原が限られた広さであるだけで、周囲を山に囲まれていた。良く見ると、明かりの灯る家はここだけではなくぽつぽつ点在し、ちょっとした集落のようだった。
 山の中腹に、一台のバスが見えた。ぼんやりと浮かぶその車体の模様から、我々が乗ってきたバスに間違いなかった。まだ見える位置にあることで、俺はいくらかほっとした。
「偶然なのかな」
 再び玄関に戻ると、妻は言った。
「何が?」
「名前よ。うちと同じ」
「良く分からないけど、ひとまず雨宿りさせてもらおうよ。これからどうしたらいいか考えなくちゃ」
 鍵はかかっておらず、扉は難なく開いた。念の為、俺は改めて声を掛けたが、応答する者はいなかった。玄関には靴が一足もなかった。ざっと見渡して二十坪程の広さの間取りに、台所やベッド、ソファ、テレビ、冷蔵庫など一通りの物は揃っているようだった。
 泥だらけの靴と雨合羽を脱ぎ、妻はバッグからタオルを出して髪と顔の水を拭った。
「誰か来たら、事情を説明すればいいわよね。とにかく今は休憩。もう限界」
 妻は居間にバッグを置き、カーペットの敷いてある床に横になった。俺もスニーカーを脱ぎ、靴下を脱ぎ、台所の水と石鹸で手を洗った。
「こんな場所で生活する人なんているのかな」
 独り言に受け止められたらしく、床に寝そべる妻からの返答はなかった。勢いで冷蔵庫を開けてみると、ビールが何本かと、ワインや日本酒、乾き物のつまみ、ミックスナッツ、チーズなどが並んでいた。
 洗面所はユニットバスになっていて、歯ブラシのセットやタオルが二人分置いてあった。ダイニングテーブルにはランチョンマットが敷かれ、食器が二人分並べられている。そして食卓の中心には、茄子と大きな椎茸がざるに乗っていた。いや、それは椎茸ではなく、どうやら松茸のようだった。スーパーで見るものよりも、ずっと傘と軸の大きな松茸だった。
 俺の中のぼんやりとした疑念は、確信に向けて徐々にまとまりつつあったが、まだはっきりと断定できる決定的な証拠はなかった。仮にそうであったとしても、そうでなかったとしても、その事実をもってして、これからの不安を一掃することにはならなかった。
 とはいえ、自分だけで疑問を抱えているのも気持ち悪かった。能天気だと言われるのを覚悟で妻に伝えようかとも思ったが、もう少し様子を見てみてからにした。
「これからどうしよう」
 いずれにしても、今夜はここで仮眠をとることになるだろう。ログハウスの中は、暖房がついている訳ではなさそうなのに、全体的に暖かかった。
「もう真っ暗だし、今日はこれ以上動けない」
 居場所を確保した時点で、妻はほっとしたのか、今では大の字に仰向けになって、天井に向かって呟いた。
 相変わらず通信のできないスマホは、ただの荷物だった。電池切れを示すマークさえ出ていた。部屋に固定電話はなかった。幸い雨風は凌げているものの、手持ちの食糧は俺も妻も殆ど持ち合わせていなかった。何せ、今日は温泉旅館の夕食を楽しみにしてきたのだから。
 ここまで辿り着くことは、最初から予測されていたのだろうか。バスに残っていたら、どうなっていたのだろう。仮にここが今夜の宿という設定だとしても、そのままバスで待機し続ける可能性だってあった訳だ。その場合は、また別なストーリーが展開していたということか。そう思うと、確証は再びぼんやりとした疑念に逆戻りした。
「お腹空いてない?」
「ううん、私は大丈夫。そんな気分じゃない」
 妻は見るからに疲れているようだった。よく考えてみたら、今朝食パンを食べたきり、何も口に入れてない。人の家かもしれないと控えめでいるのも、さすがに空腹という本能には逆らえない。
 俺はレンジの金網に茄子と松茸を隙間なく乗せて火にかけた。それから、妻がカップラーメンを持ってきているのを知っていたので、やかんにも火を付けた。
「あなたが台所に立つ姿、とても久しぶり。私の為に何かを作ってくれたこと、いつ以来か覚えてる?」
 妻は上半身だけを起こして、俺に向かって言った。こういう質問は苦手だった。いくら考えてみたところで、記憶になければ永遠に思い出しようがない。
「結婚当時は、良く作ってくれたのにね」
「そうだった、かな」
「あなたが退職してからね、いやそれ以前から、色んなこと考えてたの」
 妻はそう言って、キッチンに立つ俺を幻を見るように眺めていた。癖毛の前髪が無秩序に額に貼り付き、目の下は大きく窪んでいた。
「あの件以来、何度も喧嘩してきたよね。最近、この年齢になって初めて分かったことがあるの。私にも非があったんじゃないかって。夫が浮気するのは妻にも問題があるんだってこと」
 俺は松茸の天地を返しながら驚いた。気の強い妻が自省の言葉を言うのは珍しいことだったから。
 あの件。妻は度々そういう呼び方をした。それは俺の浮気だった。会社の同僚の女性と撮った携帯の写真を妻に見られたのだ。二人で酒を飲んでいる程度の写真ならまだ言い訳はつくだろうが、さすがにベッドの上で撮った写真ではどうしようもなかった。
 妻は潔癖だった。相手に一点の曇りも油断も許さないタイプだった。そんな性格を分かっていながら、いやそれが窮屈になり、俺は妻を裏切った。妻はいつまでもその事について根に持ち、事あるごとに蒸し返した。
 妻に浮気を知られた以上、そのままで良い筈はなかった。俺が失職する訳にはいかなかった。会社を止めて欲しい、ありのままを独身の千春に伝えた。かなりの時間をかけて、彼女を説得した。同じ職場じゃない方が会い易くなるから、と俺は嘘をついた。
 また会ってくれるなら、と千春はついに観念した。しかしそれ以降、俺は彼女と会うことはなかった。会いたいとも思わなかった。千春を思うと、どうしても妻の顔が思い浮かんできてしまうのだった。自分でも酷い男だと思った。最後の別れを告げるメールに、彼女からの返事はなかった。
 ちなみにそれは、もう十年も前の話だった。それ以降、千春とは会っていないし、彼女が今どこでどうしているのかも分からない。あれほど酷い裏切りをした以上、しばらくの間、千春の動向が気になっていたが、特に音沙汰はなかった。彼女なりに気持ちの整理をつけて、新たな人生を歩んでいることだろう。自身が損をするような復讐を企てる程、馬鹿な女じゃない。少なくとも、俺がリスクを冒してまで見込んだ女なのだから。
 そして、我々夫婦は、来年で銀婚式を迎える。
「浮気はする方が悪い。俺の方が一方的に悪いよ」
「ううん、違う。私がいつまでも忘れないから、あなたをいつまでも苦しめることになってしまって。懐の狭い、駄目な女なの。ただでさえ、あなたは仕事でストレス抱えているっていうのに。もう少し寛容になるべきだった。これまであなたを何度も責めたこと、本当に後悔してる。もうこの話は二度と持ち出さないからね。約束する。今日で本当に終わり」
 妻はしばらくぶりに微笑んだ。一時はお互い顔を見るのも嫌だった夫婦関係、しかし今の妻の言葉を聞いて、十年もの間、夫の浮気を胸の内に仕舞って生きてこなければならなかった妻を、俺は不憫に思った。正直に告白してくれて良かった。これから何十年と一緒に生活していくのだ。こうした時間が持てたのは、ミステリーツアーの思わぬ副産物かもしれない。
 これまで家事に育児、掃除、炊事、洗濯、家のことはほとんど妻に任せてきてしまったことを後悔した。俺が千春を抱いている時でも、妻は俺と子供の為に食事を作り、浮気で汚れた俺の下着を洗い、いつも酒臭い部屋を綺麗に保っていてくれたのだ。俺の浮気に傷ついてからもずっと。
 お湯が湧いたので火を止め、カップに注いだ。もう随分長い間、お腹にしっかり溜まるものを食べていない気がした。
「ラーメン一緒に食べない? 松茸もいい塩梅に焼けたよ」
「うん。今まで頑張ってきたんだもん。これからの楽しい人生を考えなくちゃね」
 疲労はどこかに飛んでいた。洗面所で手を洗い、タオルで髪を拭いながらダイニングテーブルに腰掛けた妻はまるで、初めて出会った頃の、無邪気で若々しい妻の表情だった。
 俺は冷蔵庫の缶ビールを開け、二つのグラスに注いだ。今日一日、いや結婚以来ずっと、苦労してきたのだ。ビールくらい飲んでも、罰は当たるまい。
 妻と静かにグラスを合わせて一口胃に流し込んだ。食道を伝い、胃に流れ込む様子がありありと分かった。皿に盛った松茸は、指で裂いて醤油をつけて食べた。何とも言えぬ香ばしさが口一杯に広がった。松茸をこんな風に食べるのは生まれて初めてだった。季節が秋だということを、しばらくぶりに体感した。
 それから我々は半分ずつラーメンを食べ、俺はもう一本ビールを、妻は持参した温かいお茶を飲みながら、結婚してからこれまでの足跡を、回想映像を見るように順に語り合った。もう自分は忘れてしまっているようなエピソードを、妻は良く覚えていた。逆に俺の話は当然妻も知っていて、妻は更に話を付け加え発展させた。
 アルコールが程良く効いてきて、油断をすると瞼が落ちたが、妻は気にせずに喋り続けた。長い間会話のなかった日々を、ここぞとばかり埋め合わせるように。途中から、俺の相槌など意味をなさなくなっていた。妻はきっと一人でも喋り続けただろう。
 しかし、そろそろ俺も限界だった。長時間のバス移動。そして、先の読めないトラブル。俺は妻の話を聞きながら、度々意識が飛んだ。妻はシャワーを浴びたいと言った。こんな訳の分からないところのログハウスでシャワーだなんて、全く度胸がある。俺はシャワーよりも少し横になりたかった。
 妻が浴室に行ったのを確認してから、俺はベッドに仰向けになった。吹き抜けの丸太屋根の継ぎ目をぼんやりと眺めながら、これからのことを考えた。
 浴室から、妻が昔の歌を歌う声が聞こえた。ここまで聞こえてくるのだから、随分と大きな声で歌っている。きっと、じっとしていると不安で仕方ないのだ。
 俺だって正直怖い。これが正しいトラブルなのか、そうではないのか分からない状況で一日を終えるということに対して。
 思考は遂に停止した。妻がシャワーから上がってくるのを待っていることはできなかった。目の奥でぐるぐる回っていたものがようやく回転を止め、正しい場所へと収められていった。

 酷い寝汗で目が覚めた。いつ落下したのか、ベッドではなく床の上に転がっていた。シャツの首周りに染み込んだ汗が冷やされて、少し気持ち悪かった。
 目覚めたもう一つの要因は、窓から差し込む強烈な朝日だった。紫外線をたっぷりと含んだ真っ白な光が顔を焦がした。
 半身を起こして辺りを見渡すと、視界の行き届く範囲に妻の姿はなかった。立ち上がろうとすると体の節々が痛い。ふくらはぎもぱんぱんに腫れ上がり、筋肉痛もあるようだ。還暦にもなると情けない。枕元に置いた腕時計は、既に正午前だった。随分眠ったものだ。ビール二本飲んだだけなのに、頭が芯からじんじんと痛む。
 テーブルの上は綺麗に片付けられていて、食器は洗われ、水切りかごに並べられている。妻はトイレにもいなかった。外を散歩でもしているのだろうか。
 俺は家の外に出た。雨が蒸発する時の蒸せるような匂いが草いきれと交じり鼻をついた。昨夜見た景色と、昼間の明るい時に見る景色とでは、印象がまるで違っていた。ログハウス全体、庭を含むあらゆるスペースが、実際には思ったよりこじんまりとしていた。
 昨日、我々が死に物狂いで降りてきた崖の斜面は、紅葉した落ち葉が雨水をたらふく含みながらきらきら照り輝いていた。道らしい道はどこにも見当たらなかった。よくあんなところを下りてきたと思う程だ。
 太陽の元で見ると、絵に描いたようなすり鉢状の盆地になっていて、文明から隔絶されていた。真っ赤な木々の間に、黄やオレンジの葉の群れが、パレットから跳ねた絵具のように点在していた。燃えるような紅葉とは正にこのことだった。
 そして、俺は気が付いた。自分達が乗ってきたバスが、昨日停まっていた筈の山の中腹にいないことを。
 ログハウスの周囲をぐるりと一回りしてみるものの、やはり妻の姿は何処にもなかった。一体何処に行ってしまったのだろう。
 昨日は全く気付かなかったが、膝ほどの雑草の茂みに細い小道があって、それを抜けると川が流れていた。川はいくらか茶色く濁ってはいたが、それほどの水勢もなく、野鳥のさえずりを川面に浮かべながら流れていた。河原もしっかりあって、下流の方までずっと続いていた。
 白くて角の取れた丸い石が転がる河原の一角に、煙の上がっている所があるのが見えた。そこには直径五メートル程の穴が人工的に掘られていて、周りに大きめな石が積み上げられていた。手を入れてみると、それはお湯だった。人肌より少し熱い位のいい湯加減だ。こんなところに温泉が湧いているのだ。
 温泉。そこで俺は気が付いたことがあった。昨日からのバスのパンクに端を発したサバイバル体験、秋の味覚としての松茸、河原の天然温泉、そして夫婦愛の再確認。ツアーのキャッチコピーにあった所期の目的は、質はどうであれ達成されているではないか。
 しかし、妻がいなければ次の行動が起こせない。移動するなら、日の高いうちに動かないと。バスが停まっていないということは、あれからパンクを修理したというのだろうか。それにしても乗客がいなくなっているのに、バスを走らせるだろうか。
 ログハウスに戻ってから、俺は再びベッドに横になってみたが、居てもたってもいられず、ここにきてようやく昨日の風雨と寝汗で汚れた髪と身体が気になり、シャワーを浴びることにした。その間に妻が戻っていることを期待して。
 いつもよりもゆっくりシャワーを浴びたつもりだったが、やはり妻は戻ってはいなかった。俺は妻の旅行バッグが消えていることに気が付いた。バッグだけではない。玄関先のフックに引っ掛けてあった雨合羽までも。
 その時、こつこつと、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。妻だろうか。いや妻ならノックなどする必要はない。
 心臓が大きく高鳴った。ノックは一定の間隔を空けて何度も繰り返された。俺は急いで下着を着てシャツを羽織り、ジーンズを履いた。訳もなく忍び足で玄関に向かった。もちろん、髪の毛はまだ濡れたままだった。
 覗き穴がなかったので、扉を開けるしかなかった。俺は根性を据え、息を止めてノブを回した。扉の向こうに見えたのは、妻ではなく、昨日のバスに同乗していた、あの老けた女だった。
「こんにちは」と、女は言った。顔は一日経って、より一層皺が刻み込まれたように見えた。
「あなたは同じツアーの」
 女の背後に男の気配はなく、一人のようだった。
「捨てられたみたいですよ、私達は」
 溜息をつくように、女は言った。
「捨てられた?」
 最初、女が何を言っているのか意味が分からなかった。「私達」と、彼女は今確かにそう言った。
「奥さんはもう帰ってこないと思います。ミステリーツアーだなんて、本当はもう二度と家には戻ることのできない、姥捨山ツアーだったみたい」
 姥捨山。そんな昔話があったことを、俺は思い返した。若い男に捨てられたお婆さんの行く末がどうなったのか、直ぐには思い出せなかったが。
 捨てられた、という言葉がどうもしっくりこなかった。誰が誰を捨てるのだ? 妻とは昨晩完全に和解した筈だ。妻が何故俺を捨てる必要があるのだろう。
 ひょっとすると、と俺は別の可能性を疑った。これは夢であるという可能性だ。長い長い夢。夢から目覚めようにも、そのきっかけを掴めずにいるだけなのだ。
 そう、ここのところ仕事のストレスからは解放されたものの、退職後の未来に対する不安もあり、あまり熟睡できていなかった。挨拶以外の会話も性的な触れ合いもとっくに失われている妻と二人、お互い趣味がある訳でもなく、仲良しな友人がいる訳でもなく、これから後何十年も顔を突き合わせて暮らしていかなければならないのだ。
 ただ、夢という仮説を立てたにしても、それにしては実に生々しい。この気配。この手触り。この匂いにこの色彩。夢がこれほどリアルだろうか。
 女は、捨てられた、と言った。このツアーで、お互いの相方を見限る為だったとすれば、それはそれで辻褄が合わなくもない。ここまでの妻の行動は全て演技だった訳だ。
 もっとも、何十年もの間、過去の過ちは決して許さないと言っていた妻が、いくら旅行という非日常的空間とはいえ、あんなに素直に詫びるようなことを言う筈がない。俺に優しく接する筈がない。昔話に花を咲かせたり、ビールのお酌をしたり。
 確かにおかしなことばかりだった。几帳面で慎重派な妻がミステリーツアーに参加しようだとか、山道でパンクするとか、辺鄙な山間に突然無人のログハウスがあるとか。しかし本気で俺と別れたいというのなら、離婚届一枚あれば済む話じゃないのか。
「どうして私がこんな仕打ちを受けるのでしょう。相手を捨てたかったのはこっちの方なのに。あの人には女がいたんです。証拠もあります。今夜、白黒つける予定でした。一日遅過ぎました」
 女は手持ちの鞄から写真を二枚、俺に差し出した。男女が仲良く手を繋いで歩いているところの写真だった。男の顔ははっきりと映っていた。昨日、朝からこちらばかりを何となく気にしていたスマートな紳士だった。
 相手の女の顔はどちらの写真もはっきりとは見えなかったが、緩くウェーブした髪型、ペイズリー柄のワンピース、それにピンクのショルダーバッグが、どこかで見たことのある気がした。認めたくない気持ちが、かえって想像を肥大させ、細部を補足した。
 夢ではないリアルな現実が、ざらりとした肌触りを伴って俺の意識に迫ってきた。愕然と、というより、頭の中は真っ白だった。ついでに髪の色素も抜けてしまう気がした。
 女の顔は能面のようだった。悲しんでいる筈なのに、笑っているようにも無感情にも見えた。女は二枚の写真を細かく千切り、脇に捨てた。相手への憎しみではなく自身への憐れみしか残されていないかのような絶望的な瞳だった。
「すいません、どうしても誰かに聞いてもらいたくて」
 それから女は夢遊病者のようにふらふらとアプローチを出て、河原に向かう茂みに消えて行った。
 今になって、妻に捨てられたという実感がじわじわ湧いてきていた。妻とあの男がどこでどう知り合ったのかということは大きな問題ではなかった。男は紳士だろうが不細工だろうが誰でも良かった。妻への不義理が、全ての原因なのだ。妻に知られていないものも、実はいくつもあった。自業自得。
 妻の顔が無性に見たかった。会って抱き締めてやりたかった。冗談や冷やかしではなく、本気でそう思った。でもきっと妻は、こんな身も心も腐った男とは二度と触れ合いたいなんて思わないのだろう。だからこそ、今日という日を待ち望んでいたのだろう。
 これから妻は思う存分、自分の人生を満喫するのだ。そこに俺の姿はない。妻のセカンドライフには、最初から俺という存在は組み込まれていなかったということだ。
 外の空気を吸いたくて、俺は外に出た。夜の闇は、既に辺り一面を覆っていた。美しい星空だった。星空は常に美しいと決まっているかのようだった。東京で見る星空とは、その数も輝き方も比較にならなかった。
 余りの寒さに耐えきれず、直ぐにログハウスに戻ると、俺は冷蔵庫に残されていた最後の缶ビールを空けた。寒いのにビールなんて飲みたくもなかったが、何かをしていないと心が押し潰されそうだった。ビールは味も香りもなく、炭酸のぴりぴりした感触があるだけだった。これほどビールを不味いと感じたことはなかった。
 ベッドに横になり、目を閉じた。眠る為ではなく、落ち着いて物事を整理する為だった。
 さっきの女に見せられた写真が、再び浮き上がってきた。それから、妻が裸であの男に抱かれている姿も。それは、今までに想像したことのない妻の姿だった。妻の側に、自分以外の男がいる様子など、出会って以来考えたこともなかった。あり得ないことだった。しかし、それは妻にとっても同じだったのだ。あり得ないことを、俺はずっとしてきたのだ。
 突然、全身に寒気を感じた。身体のあちこちに力を入れていないと寒くて寒くて仕方なかった。疲れが一気に出て、発熱したのかもしれなかった。エアコンのスイッチを入れてはみたものの、温まるまでの冷風が我慢できず、直ぐに電源を切った。
 俺は河原の側に温泉が湧いていたことを思い出した。跳ね起きて、素足のまま靴を履き、その場所へと向かった。
 月は煌々と輝いていた。そのお蔭で、温泉の場所は直ぐに見つけることができた。体が震えているのが自分でも分かった。服を脱いで入る勇気はなかった。まずは温かくなりたかった。
 白く立ち昇る湯煙りの中に、先客がいることに気が付いた。俺の方ではなく、反対方向に向かって、首までしっかりと漬かっている人の姿が。まさか誰かいるとは思わなかったので、一瞬それが人の姿には見えなかった。ペンライトを当ててみると、側には脱ぎ棄てられた服が乱雑に積まれてあった。真っ黒な、長い髪の女性のようだった。
 声をかけていいものかどうか悩んだが、我慢も限界だった。恥も外聞もなかった。女性の方も、俺の足音に気付いていない筈がない。
「あの、すいません」
 俺は女の背後から声を掛けたが、返答はなかった。女は微動だにせず、湯に漬かったままだった。女の頭頂部から、湯気が昇っていた。
「失礼ですが」
 俺は女の顔を覗きこむ。あ、と思わず声を上げそうになった。女はさっき喋ったあの女だった。女は白眼を剥き、口が半分ほど湯の中に沈んでいた。湯は濁っていた。それが泥や湯花で濁っている訳ではないことを直感した。外に放り出された右手の先には、汚れたナイフが握り締められていた。
 その時、山道を走る大型バスのヘッドライトがかすかなエンジン音を響かせながら、停止するのが見えた。
 俺はログハウスまで一目散に戻ると、旅行バッグを背負い、バスまでの最短距離を無我夢中で走った。こんな場所で死ぬのはまっぴらだった。地面の窪みに足をとられ、時には枯れ葉の中に身体ごと転倒しながら、その度に何度も起き上がってはバスのライトを目指した。今までの日常に戻る術は、もうそれしか残されていないように思えた。
 もし、妻に会えるのなら、赦してもらえるのなら、もう一度、しっかりと謝りたかった。謝ったところで、あの男とどうなるのかは分からないが。
 真っ暗な崖を、息を切らせて駆け昇りながら、再びあの二人の写真が脳裏をよぎった。俺は激しく嫉妬していた。男に殺意すら芽生えていた。俺の浮気を知った時、妻もそう思ったのだろうか。女を殺したいと。いや、俺を殺したかったのかもしれない。
 握り締めていた筈のペンライトが、いつの間にか無くなっていた。バスのフロントライトだけが頼りだった。明かりを目指して、俺は挫けそうになる気持ちを叱咤しながら、最後の力を振り絞った。
 バスのアイドリングの音がようやく聞こえる距離まで来ると、俺ほっとした気持ちで一杯だった。助かるかもしれない。そうだ、姥捨山の話だって、捨てた息子は後悔して引き連れに戻ったではないか。そして、この練りに練られた騙し合いツアーの演出は今でも継続しているのだという一縷の望みも捨ててはいなかった。最後に、これは嘘でしたと。
 バスの扉は開いていた。バスの周りに人影はなかった。昨日のバスと同じ外観のバスだった。車内の明かりは、一番後ろだけ点いていた。最後列の端に、誰か座っているように見えた。とにかく誰でも良かった。誰かと話がしたかった。
 ステップを上がり、俺は真っすぐ通路を進んだ。体が火の出るように熱かった。頭は少し朦朧としていた。乗客は女性のように見えた。前席のヘッドレストに遮られ、顔が隠れて良く見えなかった。他に乗客は誰もいなかった。
「助けて」
 ついに俺は力尽きた。座席シートに手をつき、床にもんどり打った。ほっとしたのか、急に身体に力が入らなくなった。
「大丈夫? 清ちゃん」
 薄い意識の中で、下の名前で呼ばれたことに、俺は動揺した。
「久しぶり。元気だった?」
 目の前で俺を覗き込む女の顔が一瞬誰か分からなかった。知っている気もするし、全く知らない気もした。
「忘れたなんて言われたら、悲しいな」
 改めて聞くその声が、俺の記憶を少しずつ呼び覚ました。覚えている。もちろん、とても良く覚えているとも。
 輪郭がいくらかふくよかになっていたが、瞳が大きいところと、じっと人を凝視する様子は今でも変わらなかった。大きな玉のネックレスや真っ赤な口紅を塗る嗜好はなかったはずだが。
「寂しかった。ずっと寂しかった。あなたに捨てられてから」
 女性は、妻に浮気が発覚してから一方的に別れを告げた千春だった。
「あの時はどうにもならなかったんだ」
 ずっと待ってた、待ってたのよ、と、泣きじゃくる子供のように叫んで、千春は俺の唇に真っ赤な唇を押しつけた。抵抗できないくらいの、恐ろしい力だった。
 自意識を保つことがもはや難しくなっていた。限界だった。眠気とは違う魔物が、俺をこれまでに経験したことのない次元の世界に引きずり込もうとしていた。
「やっと、これで二人きりになれるのね。誰にも邪魔されずに」
 耳元で、彼女はそう囁いた。もう勘弁してくれ。
 千春は顔を一旦離して、俺の顔をじっと見つめた。見つめていることは確かだったが、どこに視点があるのか分からなかった。その理由は、全てが黒目だったからだ。
 妙な揺れと眩暈を感じていた。それはバスが動いているせいだった。徐々にその勾配とスピードは増しているようだった。振動が、床に触れた背中から伝わってきた。
 ごめんなさい、ごめんなさい、懸命に謝っている言葉を、もう一人の自分が聞いていた。俺は千春を蹴飛ばしてどうにか身体を引き離し、通路を這って逃げた。夢なら一刻も早く覚めて欲しかった。身体は限界だった。腰は何度も砕けた。しかし俺は必死に逃げた。気が触れそうだった。
 運転席には、誰も座っていなかった。バスは無人で走っているのだ。ヘッドライトの先に、二人の人間が手を繋いで歩いているのが見えた。ペイズリーのワンピースに、ピンク色のショルダー。バスはアクセルペダルをベタ踏みするかのように、突然加速した。
 女、いや妻が後ろを振り返ろうとしたその瞬間、二人の男女はもろとも弾き飛ばされ、どすんという固い音と共に視界から消えた。フロントガラスはびくともしなかった。バスは更に轟音を轟かせた。
 ざまあみろ、という雄叫びにも似た悲鳴が俺を通り越して行った。俺は後ろを振り向くことはできなかった。振り向いたら、完全にとどめをを刺される気がした。その先は、ガードレールのない崖だった。このスピードでは、カーブを曲がりきることは到底不可能だった。
 愛のミステリーツアー。フィナーレは、もうすぐそこまできている。(了)


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