マアクンとコウタン

 死にたい、そう思った。
 車内の人波に流されるまま目的の駅で降りると、視界が突然狭くなり、いよいよ立っていられずその場にうずくまった。朝の通勤ラッシュでホームはごった返していて、その場から動けない人間などただの障害物でしかなかった。多くの通勤通学客が私の背中にぶつかり、鞄を蹴飛ばし、悪意すら感じる一瞥だけを残して、無言で歩き去った。
 自販機にもたれながら、深呼吸をして天を仰いだ。いつ雪が降ってもおかしくない絶望的な空だった。汚れた雲の中には、私を失望させ、落胆させる多くの人の顔が浮かんでは消えた。もちろん自分自身も含めて。両親を亡くし、兄弟もおらず、五十を過ぎて未だ一人身の男になど、社会の誰一人期待していなかった。
 ホームの点字ブロックの更に端を私は歩いた。今直ぐ電車が入線するなら、一思いに身を投げ出してしまいたかった。今の悩みも絶望も、いや、まだこれから何十年も続くであろう未来の苦しみの全てを断ち切ることができるのだから。あと三十センチ、ホームの向こう側へ身を投げ出す勇気さえあれば。
 駅西側の階段の下、線路の枕木の上に強烈な視線を感じた。しかしそれは小さなクマのぬいぐるみだった。脚を伸ばしL字型に身体を折り曲げ、顔を私に向けていた。頭にはストラップのような紐が付いていた。鞄や何かから落ちてしまったのだろうか。薄茶色のふさふさした毛で全身覆われ、ガラスのようにきらきらした真っ黒い瞳が、呼吸するのを忘れている私をじっと見つめていた。
 そのクマのぬいぐるみに、私はしばし釘付けになっていた。これほどぬいぐるみを凝視したのは初めてだった。ぬいぐるみは、今にも話しかけてきそうな感じだった。ひょっとしたら、何かを語りかけているのかもしれなかった。悲しい顔ではなく、どこか気丈で芯のある意思を感じさせた。
 ぬいぐるみなど、所詮無機質な女性の玩具だと思っていた。人生のたった一度だって関心を持ったことなどなかった。しかし誰が落としたのかも知らない、この線路上の小さなクマだけは違った。視界から消え去るまで、ずっと私の方を見ていた。視線を切ることはなかった。もっとも、そんなのはただの思い込みであり、弱っている私の心が求めた妄想なのかもしれなかった。しかし仮にそうであったとしても、クマを見つめている間だけは、死を忘れていた。
 ひとまず眩暈は治まっているし、きちんと足を運べているし、職場に向かおうという意欲が湧いている。クマのぬいぐるみは、私にとって命の恩人だった。もし彼がそこにいなければ、私は次の電車の下敷きになっていたかも知れないのだから。

 それから一週間、クマはずっとそこにいた。週の最初には大雨にも晒されたが、クマはずっと同じ姿勢で、いつでもホームから私を見ていた。朝と晩、私はクマの存在を確認し、意思を通わせた。いってらっしゃい。お元気で。お帰りなさい。お疲れ様。優しい表情で、クマは私に語りかけた。クマがそこにいてくれるだけで、私は死なずに済んでいるし、嫌なことばかりの毎日を何とかやり過ごすことができていた。五十も過ぎて、線路に落ちているぬいぐるみに心を救われているなど、傍から見れば酷く馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、紛れもない事実だった。

 ある日、クマは消えた。いつかそういう日がくるだろうと予測はしていた。しかし、毎日挨拶したり、元気の素をくれる私だけのクマが、いざこうして目の前からいなくなると、それはとても悲しいことだった。まるで自分の子供を誘拐されたような気分だった。ゴミのない線路は、冬山のように冷たく目に映った。枕木も、その隙間を埋める石も凍りついているようだった。クマを含めた線路上のゴミが定期清掃でなくなっただけなのに、まるで別の駅に降り立っているようだった。
 身体を折り曲げた小さなクマのぬいぐるみ。私は頭に鮮明に残るその印象を元に、ネットショップを漁った。形の近い物、雰囲気の似た物はあったが、そのものずばりではなかった。しかし何としても私はあのクマのぬいぐるみを手に入れたかった。毎日線路から私の通勤を見守り、私に話しかけてもらえるクマが必要だった。
 ある玩具ショップのサイトで、ようやくぬいぐるみを手に入れた。探しうる限り、一番近いものだった。翌日、私はある試みの為に自宅には帰らず、終電後までトイレの個室で身を潜めた。手にあるクマは、毛の色も瞳の潤いも微妙に違っていた。私はそれをあの時のクマなのだと自身に何度も言い聞かせた。また再会できたね、そうクマに話しかけると、探してくれてありがとう、とクマは薄く微笑んだ。イメージよりやや低いトーンの声で。
 エスカレーターは既に停止していたので、階段で1番ホームへ下った。ホームは照明が消え真っ暗だった。周りに誰もいないことを確認してから線路に飛び降り、足音をたてないように、あの場所に向かった。手にクマのぬいぐるみを握り締めて。
 人の気配がすると、私は身を屈め耳を澄ました。夜間の点検を行っているようだった。信号機が赤く点灯していた。暗黒の線路は、どこまで続いているのか分からなかった。弱々しい星たちが、塵のように瞬いていた。もちろん線路に降りたのは初めてだったし、線路側から隣の駅を見通したり、空を仰いだりすることも生まれて初めての経験だった。
 何か人影のようなものが動くのが見えた。私は見つかってしまったかと思ったが、特にこちらに注意を向ける訳でもなく、影はじっとしたまま、そこから動かなかった。私はしゃがみ歩きをしながら、少しずつ影との距離を詰めていった。
 影の正体は、制服を着た女の子のようだった。真っ赤なリボンにタータンチェックのスカートを履いていた。点検中の労働者でないことは間違いなさそうだが、声を掛けていいものか悩んだ。ここまでくれば、私の存在には間違いなく気付いている筈だった。それよりこんな時間、こんな線路の上でこの子は一体何をしているのだろう。
「あれから、また一人の若い女の子と、中年の男性が亡くなったの」
 女の子は溜め息を吐くように言った。その目線の先には、クマのぬいぐるみがあった。正に私が探し求めていた、毎日死を踏み止まらせてくれた、あのぬいぐるみだった。暗くてぼんやりはしていたが、そのクマであることは直感的に分かった。手で握りしめていたもう一つのクマを、咄嗟にコートのポケットに仕舞った。
「あれから?」と私は聞いた。
「定期清掃。マアクンもその時に片付けられちゃうから。あ、マアクンて、この子の名前。あたしの名前、真麻って言うの」
 女の子はしゃがんだまま、暗がりの中で静かに言った。
「とっても良い子。何でも言うこと聞いてくれるし。ダッフィーって知ってる?」
「いや、知らないな」
「ディズニーシーで売ってるぬいぐるみ」
 寂しげだった。お下げ髪の学生は、ぬいぐるみのお腹の辺りをいつまでも撫でていた。
「君のぬいぐるみだったんだ。実はね」と、私は彼女の側に腰を下ろして言った。
「このぬいぐるみにはとても癒されてた。毎日通勤で、いや厳密には学生時代から通学でも使っている駅だけど、駅には良い思い出が一つもなくて」
 女の子もマアクンも、黙って私の話を聞いていた。
「でも救われてた、このクマに。ホームに落ちているのを初めて見つけてから、ずっと自分のことを励ましてくれているような気がしてね。おじさんのくせに、おかしな話だよね」
「ううん、おかしくないよ。あたしも一緒。マアクンは、色んな人を元気にしてくれるんだよ。駅は多くの人が乗り降りするけど、皆疲れてるから。ぎすぎすしてるし。ねえ、知ってる? マアクンがね、このホームの、丁度この場所で皆と一緒にいる間は、誰一人死んだ人なんていないし、電車の故障も信号機の故障もないの。マアクンがいなくなると、途端に人は死ぬし、電車もちょくちょく止まる。だから、何度片付けられても、あたし、こうしてまた置きに来るの。この子で救われたり癒されたりしてる人が沢山いること知ってるから。この駅全体の守護神よ、マアクンは」
 女の子はどこか楽しげだった。それから彼女はそっと私にぬいぐるみを手渡した。私は両手でそれを受け取った。ぬいぐるみには僅かに女の子の熱が残っていた。いや、まるで内側から発熱しているようだった。張りのある身体の弾力も、それこそ生きているようだった。
 マアクン。私は心の中で声を掛けた。目線はじっとこちらを見つめていた。口元が、少しだけ左右に引っ張られ、笑ったように見えた。私はマアクンが本来いるべき場所に丁寧に戻した。これで、明日からまた駅が楽しみになる。仕事を楽しみに出来る。仕事がなければ、このぬいぐるみに会うことはないのだから。
「真麻ちゃん、ありがとね。君のお蔭だよ」
「違うよ。あたしじゃないよ。マアクン」
「そうだね。マアクンのお蔭だね」
「おじさん、折角買ったんだからさ、それも一緒に置こうよ」
「え?」
「マアクンもお友達欲しいみたいだから」
 私はポケットから、昨日郵送で届いたぬいぐるみを女の子に手渡した。サイズは殆ど同じくらいだったが、毛の密度、目の大きさ、ストラップの長さ、腰の曲がり具合など、並べてみるとそれぞれが微妙に違った。
「可愛い。双子みたい。この子、お名前は何て言うの?」
「名前はまだ付けてないよ」
「おじさんの名前は?」
「平野浩一」
「こういちかあ。じゃあ、コウタンはどう? マアクンとコウタン。いいじゃん、仲良しっぽくて、ね」
「そうだね」
 女の子は、私のぬいぐるみを自身の物と密着させるように並べて置いた。二つのクマが四つの目でこちらを見ていた。微妙な違いがかえってそれぞれの個性を主張していた。コウタンも、マアクンに釣られて、何かしゃべりたそうだった。
「おじさん、死んじゃ駄目だよ。これからきっといいことあるから」
「そうなのかな」
「うん、きっとあるよ」
「だといいね」
「マアクンはずっとここにいるから。今度はコウタンもいるし、もう大丈夫。辛くなったら、苦しくなったら、マアクンとコウタン、思い出して」
 向こうのホームで、丸いライトが沢山回転していた。何か作業が始まったようだった。そろそろ退散しないとさすがにお咎めがありそうな気配だった。
「君はどこから来たの? どうやって帰るの?」と私は女の子に聞いた。
「私のことは気にしないで。おじさん、知ってる? この駅、抜け穴がいくつもあるの。あそこの一番端まで行くと、今見えてるあの赤い信号機の脇なんだけど、分かる? あの脇のフェンスにとても大きな穴空いていて、そこから誰でも出入りできるのよ」
「そうなんだ。分かった。行ってみる」
「あたしはもう少し、マアクンとコウタン遊ばせてから」
「見つからないようにね」
「うん」
「明日、学校あるんでしょう?」
「まあ、ね。あたしもちゃんと学校行く。バイバイ」
 私は信号機まで小走りに進んでから一度だけ振り向くと、女の子の姿は既になかった。フェンスには、彼女の言う通り、五十センチ四方程の大きな穴がぱっくり空いていた。穴から出て低い塀を飛び降りると、普通に側道の歩道に降り立つことが出来た。側には小学校もある。保守点検は一体何を見ているのだろう。
 それにしても、不思議な女の子だった。クマのオーナーに出会えた事が、何かとてもラッキーな事のように思えた。明日はいつもより少し早めに家を出る日だった。どうしても朝やっておかなくてはならない仕事があった。マフラーをきつく巻き直し、両手をポケットに突っ込んで、早歩きで帰路を急いだ。二つのぬいぐるみが再び回収されないことを、心から祈った。

 翌日、どきどきしながら向かうと、一人の女性が、線路に向かって手を合わせていた。線路には、二体のクマのぬいぐるみが、昨夜のまま置かれていた。女性は目を開くと、側に私がいることを知ってか知らずか、独り言を呟くように言った。
「命日なんです。娘の」
 ホームの駆け込み乗車を注意するアナウンスでかき消されそうだったが、女性は確かにそう言った。「早いもので、あれから丁度半年になります」
 女性の瞳は潤んでいるように見えた。私は何か応答した方がいいものなのかどうか迷っていた。命日。ぼんやり感じていた昨夜の女の子とのやりとりや違和感が、少しだけ晴れた気がした。
「どういうわけか、ぬいぐるみだけはいつまでもあの場所に残されていて。何度か拾っていただきましたが、しばらくすると、また。一体どなたが置かれているのか分かりません。でも、もういいんです。娘の分身のような気もしますから」
 本人が置きに来ているのだとは言えなかった。言わない方がいい気がした。ハンカチで目頭を押さえる母親を見て、私も胸が熱くなった。良く似ていた。眉毛から目の辺りと、丸い輪郭。電車が入線すると、一時的に二体のぬいぐるみは電車の下に隠れた。また電車が乗客を乗せ、次の駅に向けて発進すると、再びぬいぐるみは我々の前に姿を現した。私は菩薩のように黙祷する母親に会釈をし、静かにその場を離れた。昨晩この場で女の子と話したり、ぬいぐるみに名前を付けたりしたことは、やはり言わないでおいた。
 それから私は、マアクンとコウタンを今後二度と処分してはいけない理由について、駅長宛てに手紙を書いた。これまでどれだけの人がこの駅で命を落としてきたか、しかしこの半年近く、マアクンのお蔭でどれほどの利用者が癒され、死を踏み止まってきたか。それは女の子とマアクンが駅の利用客を守ってくれているのだということを丁寧に便箋にまとめた。昨夜の女の子とのやりとり、鉄柵の穴とその危険性についても洗いざらい。書き上げたものは、改札脇の駅長室の扉の間に挟んだ。仕事の御礼メールでさえ上手く書けない私なのに。これは私が書かなければならないと思った。私にしか書けないと思った。生きることに絶望した人の為に。いや、自分自身の為に。

 それから、二年の歳月が経過していた。私はどうにか会社で仕事を続け、どうにか生き長らえていた。相変わらず、マアクンとコウタンを眺めては癒されていた。私の直訴は、今のところ受け入れられているようだった。あれから一度もぬいぐるみが姿を消すことはなかった。人身事故が全国でも有数だった路線が、今や遅延することすらなくなっていた。
 女の子の命日には、母親は必ずその時間になると手を合わせにやってきていた。私もその時ばかりは一緒に手を合わせた。我々以外にも、何人かが黙祷を捧げた。その数は徐々に増えていき、今ではちょっとした人だかりができる程だった。こんなにも大勢の人が、マアクンを必要としていることに驚いた。私だけじゃなかったことに安堵した。駅員も人の誘導で力を貸してくれた。最早、暗黙の了解だった。
 あの女の子との一夜の出来事を、私は今でも度々思い返す。また会いたいと思わなくもないが、会わない方がいいに決まっている。
 マアクンとコウタンは、いつも二人仲良く線路に並んでいた。もし私にも兄弟がいたらどんな人生を送っていたのだろう、とふと思った。(了)

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