日常的なこと

なぜ「小説を読まなくなってしまった」のか、について想うこと。

高橋熱です。こん○○は。
今回は、「小説を読まなくなったこと」についての話です。
といっても、これまでの僕の読書遍歴を紹介するということではなく、どうしてあれほど好きだった小説を読まなくなってしまった(読めなくなってしまった?)のかについての考察です。

読書する人
事実、20代の後半あたりから、恐ろしく小説を読まなくなってしまいました。
もちろん、時間が有り余っていた学生時代と比較して、仕事や育児は元より、親族や地域とのお付き合いなどで「読書にあてられる時間が極端に少なくなった」と言えば確かにそうなんだろうけど、どうもそれだけじゃないような気がします。
時間がなくても、「必要とする」ものには、何とか時間を作ってでもするものですよね?
僕自身、毎朝4時に起きて、小説を書くように。

では、「小説を読む」ということが、突然必要ではなくなってしまったということなのでしょうか。

確かに、若い頃に比べて「読書欲」そのものが冷めてしまったかもしれません。
無性に、あの人の書いた小説(というより、文章?)が読みたいとか、読んでいないと身が持たないとか、寝食忘れて朝方まで読みふける、なんていう経験は学生時代以来なくなってしまいました。(「活字中毒」という言葉がある通り、あの頃は本当に本を貪るように(小説だけではなく評論や学術も含めて)、片時も手放すことなく何らかの本を抱いて寝ていましたから)

欲望自体が収縮してしまったというなら、それはそれで仕方のないことだけれども、まがりなりに「小説」に携わって生きていこう、と考えている人間がそれでいいのだろうかと不安になったりもします。先達の作家が書く「作品」そのものが教科書であり、自身の小説に深みを与え、バリエーションとインスピレーションを加える一番の近道になると思っています。

しかし欲望の収縮となると、それは所謂「加齢現象」として、自身の力ではどうにも抗えないタイプのものなのかどうか。「知識欲」の減退のようなものが誰にでもあることなのか、あるいは僕の個人的な問題なのか、読書欲を満たす対象物そのものがないのか、はたまた別な理由に起因するのか。

漠然と「読書」といっても、実に幅広い。
新聞を読むことは、一般的に「読書」とは言いませんよね。であれば現在、読書は殆どしていません。もう少し解釈を広げて、「文字をじっくり読む機会」と捉えると、新聞を読むことと、仕事で取引先や営業先のホームページを眺めることくらいです。
あるいは、仕事上どうしても必要な法務関連の書籍や、それを読まないと「仕事に支障を来たす可能性のある」ビジネス書を流し読みする程度です。

今回は、読書、とりわけ「小説」を読むことがめっきり少なくなってしまった、という原因を自分なりに考えてみたいと思います。

■「小説を読まなくなった」理由

理由1 一人の時間が圧倒的に減った。

かつて、自分が一番読書をしていた頃を思い返してみると、まとまった読書時間が確保出来ていたのは、学生時代、都心部まで1時間余り揺られていた「通学電車」の中か、布団の中でした。布団に入ってからは、最低1~2時間は読んでましたから、一日の中で、3時間~4時間は、読書のために割りあてが可能な時間でした。

卒業して社会で働き始め、結婚して子供ができてからは、そうした時間がいきなりなくなりました。市内の会社なので電車で本を読んでる余裕はないし、家の中で、個人的に過ごせる時間はほとんどなくなりました。

多忙なサラリーマン
もちろん、結婚して子供が出来ても、しっかり日中に「個人的時間」を確保している諸氏もいるかと思いますが、それは僕からすると、とても羨ましい。家内は、「家族が皆一緒にいるのに、何故会話もせず、個室にこもるのか。そういうライフスタイルは経験してこなかったし、ありえない」という主義を持っています。僕が早朝、皆寝静まっている時間帯しか小説を書かない(書けない)のはそのためです。

我が家のライフスタイルの基本的ポリシーは妻が決定しています。これについて書き始めると、1冊の本が書けてしまいますので、今回は省略しますが、つまり日中家族がいる中では、中々一人にはなれないということです。

また、夜の布団の中といっても、大抵晩酌をしてしまうし、横になると直ぐに瞼が閉じてきてしまって、とても読書できる状態ではありません。読書できる時間があるとすれば、早朝の、まさに今このブログを書いているこの瞬間しかないという感じです。でも、一人になれるこの早朝の自由な時間だけは、小説を書く為に使いたいし、ということで、まずは物理的にも読書用時間の確保がしづらくなったということはあります。

理由2 どうしても「読みたい」と思える本がない。

まずは、実際にその本が「面白い」かどうかは、読んでみないと分かりません。もちろんです。でも、まずはアイキャッチといいますか、とにかく新聞広告てもインターネットでもSNSの誰かのお勧めでも、「その本、読んでみたい。読書時間はそんなにないけれど、何とかやりくりしてでも、その本だけは是が非でも読んでみたい!」と思えるような本に、中々出くわしません。

当たり前ですが、本もスーパーの野菜や洋服と同じように、市場を流通する「商品」です。その本を買うか買わないかを決めるのは、あくまでも消費者であり、値段と中身との相談によります。

もっとも、電子書籍ですと、無料で読めるようなものや月額いくら払うと「読み放題」といったプランも今は登場していますが、自身の限られた時間の一部を、別の、労働生産性を上げたり対価を得る為の行為ではなく「読書」にあてることを考えると、実費としてのお金は払っていなくとも「有料である」という考え方もできなくはないと思います。

そんな読書体験も、例えば、新聞広告のキャッチコピーに「これを読まないと人生損をする」くらいの刺激的なメッセージが多く並んでいます。「今世紀最大の傑作」とか「100年に一人の逸材」とか。あるいは著名な先輩作家や有名タレントに推奨させたり、絶賛させたり。

で、結局、「あなたがそこまでいうなら」と手にしてみる訳ですが、そうした扇情的なメッセージには悉く裏切られることになります。もちろん、全く面白くなかった、ということはありませんが、「そこまで言う程のものではなかったかな」と思うことの方が圧倒的に多いというのが印象です。多かれ少なかれ、失望し、がっかりする訳です。

何度かそういう経験をすると、もう新聞の広告欄はあてにしないようになるし、キャッチコピーも信用できなくなります。ただでさえ厳しい出版社の実情を考えると、1冊でも多くの売り上げを上げたい、という広告戦略としてみれば、当然といえば当然のことですが。

では、僕は何を信用しているのか。信用すれば良いのか。
間違いないのは、自分が経験したことです。「良かった」と思った過去の記憶です。これは間違いない「事実」です。

恐らく、もし今僕が小説を読む時間をたっぷり確保出来て、それなりに「読書欲」のようなものが維持されているとしたならば、今まで読んでどきどき、わくわくした本を、書棚の中から引っ張り出して、もう一度、じっくり読み返してみたいと思う筈です。大半の本のディテールをほぼ忘れてしまっていますから、どれを手にしても、それなりに新鮮な気持ちで読める筈です。

書棚
従って、「読みたいと思える本がない」という理由は、「これまで読んだことのない本の中で」という限定であって、過去に読んだことのある本ならいつでも読み返してみたい願望はあります。なので、これは「本を読まなくなった」直接的な原因ではないのかもしれませんが、いずれにしても「読んだことのない」本が、他の何をさしおいてでも、僕を読書に向かわせる程の魅力を感じないということです。

理由3 読書以外に、もっと興味のあることがある(興味のあることができた)。

かつて、あれ程の中毒症状を呈していたにも関わらず、すっかり影を潜めてしまったものが、実は読書以外にももう一つあります。「音楽を聴くこと」です。

この行為も、大学時代までほとんど生活の一部、血肉の一部になっていたロッククラシック音楽が、今の生活の中では見事に失われています。「三度の飯より好き」であり、「日々音楽を聴いていなければ、僕は人生を全うできない」と確信していた時期もありましたが、三度の飯を食べないと生きていけませんし、生活に音楽がなくても、今こうしてちゃんと生きています。
最早、音楽は自分のライフスタイルにとって、必要不可欠なものではなくなってしまった、という訳です。

読書と同じくらいの時間、いやそれ以上に莫大な時間を費やして聞いてきた音楽。こんなにあっさり生活から姿を消してしまうのは自分でも驚きでしたし、それはそれで何だか寂しい気もします。

もちろん、自然に流れて来る音楽のメロディが懐かしいとか、心地良いと思うことはあります。娘の弾くピアノの生音に癒されることだってあります。ただ、能動的に音楽を聴こうとすることがなくなりました。音楽については、またいつかちゃんと考えてみたいなと思っています。

では、読書以上に音楽以上に、一体今の僕は何に趣味があるのか、と問われたら、実はどう答えてよいのか、返事に悩みます。もちろん「小説を書くこと」は趣味と言えば趣味ですが、小説はきちんと仕事にしていきたいと考えていることなので、趣味に講じる姿勢とは少し異なります。

「小説を書くこと」に関連性があるとは思いますが、もし、「何に興味があるのか」という問いにしいて答えるとすれば、「人という存在そのものに興味がある」と言えるかもしれません。

人との関わりであったり。人との付き合いであったり。
今の職場での付き合いや仕事上の営業、接客行為も含めて。もちろん、SNSでの出会いもそうかもしれない。
今まで知らなかった人と出会い、会話をし、知らなかったことを知り、喜び合ったり、悲しみ合ったり、傷つけ合ったり、慰め合ったり、時には、愛し合ったり。関わる人によって生活が変わり、見方が変わり、影響を受けたり、与えたり。

良く考えてみれば、これはまるで、小説を読む醍醐味そのものではないでしょうか。
人との出会いは、本との出会いに良く似ているような気がします。

大学を出て社会人となり、それまでの自分の身の回りの人とは比較にならないくらいの、夥しい数の人と出会い、付き合い、離れていくという行為を繰り返す中で、僕が「小説」によって得ていたことと同等の、いやそれ以上の経験が、今の生活の中でなされているのかもしれません。

まとめ

つらつら書いてきましたが、書けば書く程、実は本当は、めちゃくちゃ「読書したい」のではないかと思ってきました。もう一度、あの中毒にはまりたい、それこそ、家族そっちのけ、仕事そっちのけで、朝から晩まで、読書三昧な生活を送ってみたい、そんな願望が心の奥にはあるのではないかと。

ただ、それは現実的には出来ない訳で、かといって中途半端な距離感を保ちながら「小説を読む」というスタンスが、どうにも気持ち悪く、そこまで割り切れたり器用でもないので、無意識的に、読書にせよ音楽にせよ、遠ざけてしまっているのかもしれません。

いずれにしても、「小説を読むこと」そのものの愉しみは、充分理解しているつもりです。40代で老後の生活をイメージするのはどうかと思いますが、今はできなくても、年を取ったら、またゆっくり、じっくり、書斎のソファで寛ぎながら、書棚の奥深くに眠り込んだ先人の小説一つ一つに目を通してみたいと思っています。


2016-10-06 | 日常的なことNo Comments » 
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