超短編小説

男と女が再びホテルで会う理由

5415050


「最後もこの部屋だった」
 背もたれのひび割れたチャコールグレーのラブソファにバッグを置くなり、女は独り言のように言った。
「狭い方が密着できるからいいんだよなんて、あなた」
 床よりも物が置いてある面積の方が広いと一目で分かる部屋だった。毛布のようなカーテンは締まっていたが、開けたところで隣接するビルの汚い壁を眺めるだけだということを、女は知っていた。
 男は無性に喉が渇いていたが、まずは本題が片付かないと、どうにも落ち着かなかった。女と会うのが二年振りとはとても思えなかった。五年も十年も昔のことのような気がした。
「この辺にコーヒー零したんだよね」
 ガラスの小テーブルの足の側に、ぼんやりした輪郭だが明らかに濃く変色している部分があった。女にそう言われたものの、男は中々思い出せなかった。女は極めて断片的で些細な出来事を、いつまでも記憶している生き物であるということを、男は妻との結婚生活の中で良く心得ていた。
 男の返答を待たずにソファに腰を下ろすと、女はバッグから外国製のタバコを取り出して口に咥えた。
「タバコなんて吸うんだ」と男は聞いた。やや挑戦的な女の仕草に見覚えはなかった。
「ずっと止めてたの、あなたと別れるまで」
 キスが不味いという理由から、男は昔からタバコを吸う女が好きではなかった。女が一口吸い込んでから細くゆっくり吐き出す仕草を、ちっとも格好良いとは思わなかった。しかし女は男にとって妻でも恋人でもなかった。男に吸うなと言う権利はないし、女も言われる筋合いはなかった。
「もう二度と二人で会うことはないと思ってたから」
 女に促されて、男はソファではなく、女の横顔が見えるベッドの端に座った。確かに、もう会うことはないと思っていた。本当なら、もう会いたくはなかった。ただ、男は必死だった。恥もプライドも、自我の一切に蓋をした。可愛い娘の為なのだと、心の中で何度も言い聞かせた。
「変わってないね」
 頭頂部の生え際に、かなり白い物が増えた事を確認した上で、男は言った。
「お世辞は止めて。この二年で随分年とったのよ。あなたこそ、お変わりなく」
「メールアドレス、もう繋がらないかと思って駄目元だったんだ」
「メアドはそう簡単に変えられないわよ。こんなこともあるから。でもどうしたの、急に。奥さんと上手くいってないの?」
「今日はお願い事があって」
 女の表情が一瞬強張ったのを、男は見逃さなかった。正直に話すしかない、と男は腹を括った。
女の知り合いが役員を務めていると話していた子役タレントの養成所に、その後娘が登録したこと、これまで全く出番がこないので、口利きをして欲しいということを。
 顔も演技力もそれほど悪くないと男は思っていたが、いつも最後の壁を超えられなかった。身なりやレッスンには相当の金を注ぎ込んでいた。噂では、金を積むか、コネを使うかしか役を得ることはできない、という情報がまことしやかに流れていた。金はこれ以上無理だった。妻はともかく、娘の落胆する顔を、もう見たくはなかった。
 女はしばらく何も言えなかった。淡い期待は儚く消えた。よく考えれば当然だ。自分は振られたのだ。振られた男から二年振りに会いたいと言われて、何か裏があるのではないかと思わない方がおかしかった。
 女は男が今でも好きだった。家庭の不和を、男は優しく受け止め、共有してくれた。女が会いたいと言えば時間を作り、ホテルで何度も身を重ね合わせた。
 女の夫は、男の会社の取引先だった。何度か、家族同士で食事をしたこともあった。普段は見せることのない家庭の不満を、お互いメールでぶつけ合った。
 やがて二人で会うようになった。長い結婚生活で出来た心の歪みを、夫婦間では口にすることのなくなった愛の言葉で補正した。男にとっては直ぐに止めるつもりだったが、女は男が思う以上に求めた。週に一度は仕事で顔を合わせる女の夫が、男には不憫でならなかった。
 間もなく、男は女を避けるようになった。女は離婚を仄めかしたが、それが男には重く感じた。家庭を一番に考えた上で大人の付き合いをしよう、という最初の申し合わせが崩れ始めていた。
「前からタレントになりたいって言ってたもんね、かなちゃん、だっけ」
 二本目のタバコをとんとんテーブルに落としながら、女は呟いた。
「別に構わないわよ。お願いするくらい」
 口から出てきた言葉に女は我ながら驚いたが、今更訂正するのも不自然だった。お願いなどできるはずもなかった。元々、そんな有名な子役養成所の役員など知り合いでも何でもなかった。その事務所で働いている友人を知っている、という程度の繋がりだった。ここ何年も会っていなかった。当時どうしてそんな嘘をついたのか分からなかった。
「今度、会う予定があるの」
 女はタバコをケースに戻し、バッグから手帳を取り出し左右に開いた。「すっかり忘れてた。明後日じゃない。久しぶりに食事するのよ」
 女はそれまでの話の流れを壊さぬよう、男に言った。
「本当? それはタイミング良かった。二年間もほったらかしにしておいて、都合のいいお願いで申し訳ないね」
「ほったらかしってことじゃないでしょう。母親の介護が必要になったからしばらく会えないって。しばらくが二年は結構長かったけれど、でも待っていたのよ、ずっと。お母様はその後どうなの?」
「一進一退。認知症も始まってきてるから手がかかるよ。足腰弱くて転倒の危険もあるし、誰かが見てないと怖いから」
 適当だった。母親の話は、女と別れるための口実だった。母は未だに実家で元気に過ごしていた。ストレートに「別れたい」と、男は言えなかった。親をだしに使うのは、誰も傷つけない言い訳だった。そう言われたら、それでも会って欲しいとは誰も言えない。嘘かもしれないと思っていても、それを証明することは女には無理だった。
「大変なのね」
「まあね。年をとると色々あるよ。そっちは夫婦仲良くやってるの?」
 野暮な聞き方をした、と男は後悔した。夫婦関係がうまく行っていたら、今日こうして自分と会うはずないじゃないか、知らぬ間にシーツをきつく握り締めていたので、手が置いてあったところはくしゃくしゃだった。
「聞かないでよ、そんなこと」
「ごめん」
「あれからもっと悪くなってる」
「そうなんだ。いまでも手を上げるの?」
「違う、経済的に」
 男には理解できなかった。女の着ている服は、そんなに安そうなワンピースではなかった。バッグも誰もが知っているイタリアのブランドのロゴマークで覆われていた。
「あなたのお願いを叶えてあげる代わりに、私のお願いも聞いてくれる?」
 当然、嫌とは言えなかった。薄々何を言われるか予測はできた。念の為、男は女の肩越しに「何?」と確認した。
「今度新しく出した商品、入れてくれないかな。知ってるでしょう?」
「稟議はもう回ってるんじゃないかな。かなり強力にプッシュはしておいたよ」
 提案書は、山積みの書類のどこかに埋もれていた。女の夫がいる会社との取引は、少しずつ減らしていく方針になっていた。加えて、来月から仕入の担当を外れ、子会社に異動することが、既に決まっていた。
 部屋の電気が一瞬、瞬いた。その後で、地響きのような音が遠くから聞こえた。
「何?」
「雷が落ちたかもしれないね。夕立がくるって言ってたから」
「傘、持ってくるの忘れちゃった」
「俺も持ってないよ」
「会う時はいつも天気悪かった。二年経っても同じね」
 午後十時過ぎには、男はチェックアウトしなくてはならなかった。それはまだ女には伝えていなかった。
「今日はそのお願いだけなの?」
 女は男の横に座り直した。左手の薬指に嵌めた男の指輪を中指で撫でた。女がどうしたいのか、男には分かっていた。
「なら、ホテルじゃなくても良かったね」
「ここじゃなければ、二人きりでは会えないよ」
 ホテルを指定したのは男だった。ホテルの外で会った事など一度もなかった。
「もう前のようには、キスしてくれないの?」
女がどんな顔をしてそんな台詞を言っているのか見てみたかったが、女と視線を合わせるのが嫌だった。直ぐに返事を返せないことがその答えだと思われるのも怖かった。風邪のひき始めの時のような悪寒が脇腹を撫でた。
 女は手をきつく握った。しばらくじっと待ってみたが、目立った反応はなかった。以前は骨ばっていた感触が、少し丸くなったように感じた。
「かなちゃん、有名になったらどうする? 今からサインもらっておこうかしら」
 無理だと、女は直感していた。取り立てて特徴のない、どこにでもいる普通の娘であることと、何より愛嬌がない、というのが致命的だった。母親に似てしまったのだ。
 しかし男は、自分の娘がテレビに出ている様をこれまでに何度も妄想していた。有名子役タレントの親と言われることは決して嫌なことではなかった。とにかく一度だけでもチャンスが欲しかった。
 男は女に気付かれぬよう、心の中で深く溜息をついた。女の全面協力を取り付けるためには、女の要求を飲むのはやむを得なかった。どこまで覚悟すればいいのかは全くの未知数だった。
「またこうして、前のように会って欲しいな」
 女はもう一度男の手を握り締めた。今度は、男も握り返した。「キスして」
 女は目を閉じていた。広く開いたワンピースの胸元から、黒い下着の紐が見えていた。この距離からでも、男は女のタバコの匂いを強く感じた。タバコだけではなく、何か他の匂いも混じっているようだった。香水とは違った、何か。身体を離したくなる程酷くはなかったが、好んで近付きたくなる匂いでもなかった。
 男の頭には娘の笑顔ばかりが思い浮かんだ。時折、妻も側で笑っていた。そして、矢鱈に喉が渇いていることを思い出した。キスをする前に、まずは水だけでも口にしたかった。しかし水を飲みたいなどと言える空気では最早なかった。
 BGMは知らぬ間に止んでいた。上の部屋から、どんという音が一度聞こえたきり、後は無音だった。呼吸音すら聞こえなかった。しかし外が既に土砂降りになっている音だけは、何故か二人の耳に届いていた。(了)


2015-05-23 | 超短編小説7 Comments » 

コメント7件

 匿名 | 2015.05.23 5:56

よかった!火事にはならないみたい!ヽ(;▽;)ノ

 高橋熱 | 2015.05.23 5:59

今回は大丈夫でしたね。火事になるのは、「非情ベル」というお話でした。

 Caco | 2015.05.25 1:57

ホテルと、男と女。。 良くも悪くも、好きも嫌いも。。 人間模様がそこには確かにあるん。 綺麗事だけじゃないよね。生きるって。(笑)

 高橋熱 | 2015.05.25 7:52

綺麗ごとだけで生きられたらどれだけ楽なことか。 だから、ドラマが生まれるんですよね。 善きにつけ、悪しきにつけ。

 Caco | 2015.05.25 9:02

ドラマチックに、ね。 らしく、楽に生きてみたいものです。 シナリオ道理にはいかんけど。。 自分次第なのに、ね。 とりあえず、今日を懸命にいきます。(笑)

 高橋熱 | 2015.05.25 12:38

シナリオは書き換え自由ですから(*´-`)

 Caco | 2015.05.25 15:38

あはは。 なるほど(♡´艸`) じゃあ、きっと大丈夫だね(笑)
Comment





Comment



CAPTCHA


*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)