螺子(ねじ)

 二十代半ばの若い夫婦の未来は、今や妻のパート収入にかかっていた。男は、結婚してからこれで五度目の職探しだった。気性の荒い短気な性格は、何処の職場でも馴染みにくかった。学がないことを直接的にも間接的にも批難されるのは精神的に堪えた。好きで高校に行かなかった訳ではなかった。家業である螺子工場の仕事が忙しく、殆ど強制に近い形で働かされた。身内を除いたら三人の従業員しかいない町工場では、いつ仕事がなくなるか分からないという理由で、そう簡単に人を増やすことはできなかった。
 中学二年の時、母親は家を飛び出したまま行方不明になった。父の酒癖と女癖の悪さが原因であることは、日頃頻繁な口喧嘩の応酬を夜な夜な目の当たりにしていた男にも容易に推測がついた。工場を支えられる人手は一人息子である男の肩に更に重くのしかかった。「高校には行かずに家を継ぎたい」と男が切り出すと、父は「好きにしろ」とだけ答えた。褒められることも喜ばれることもなかった。父親も中卒だった。逆に男は少しだけ進学への言葉を期待したが、それに言及することは何一つなかった。男は小さい頃からの遊び場をそのまま仕事場にした。同級生たちが部活のユニフォームを着て汗を流す中、男は作業服を着て、ろくに冷房も効かない狭い工場の中で汗だくで働いた。
 それから二年後、工場は火事で全焼した。直接の原因は結局最後まで分からなかった。父親は、クビにした従業員の一人が火を点けたのだと疑わなかった。使える機械は何一つ残らなかった。帳簿や税務申告書も焼けてしまった。火災保険には加入していたが、軽度の脳梗塞を患い始めていた父親に、また一から再建してやり直す気力は残されていなかった。螺子という言葉を聞くのもうんざりだった。まだ成人前の世間知らずな子供に、螺子工場をきりもりすることなど不可能だった。古参の従業員は皆辞めていった。男にとって、それが最初の失業体験だった。
 その後、いくつかの職を転々とした後、飲食チェーン店のアルバイト先で今の妻を見つけ、気が付けば、妻はお腹に子供を宿していた。間違いなく避妊した筈だった。予定外のことではあったが、男は動じなかった。予定外のことなど生きていればいくらでもあるということを、男は身をもって経験していた。子供が出来た喜びを共有する儀式は二人にはなかった。事実を認めることへの諦めと、将来への不安だけが二人を取り巻いていた。間もなく、二人は籍を入れた。

 その日も、いつものように赤ん坊は泣き止まなかった。夕方、妻が仕事から帰ってくるまでは、赤ん坊の世話も含め男が家事をこなした。洗濯物を干し、掃除機をかけ、哺乳瓶を湯煎した。赤ん坊がいるせいで、外出することもままならなかった。眠っている隙に、近所のコンビニまで原付バイクで買い出しにいく程度だった。少し油断して、雑誌や漫画を立ち読みしてから戻って来ると、ほぼ間違いなく赤ん坊は泣いていた。抱いても寝かせても、どうしようもなかった。赤ん坊の泣き声は、男の癇癪に爪を立てた。涙と鼻水を垂れ流し、この世の終わりの如く泣き叫ぶ赤ん坊に、男は心底うんざりした。どの角度から見ても、自身の要素を何一つ持ち合わせていなかった。本当に自分の子供なんだろうかと、赤ん坊が生まれてから男は何度も疑った。事実、結婚前までの妻には男友達が沢山いたのだ。その関係が結婚してからも途切れていないことは、日頃の電話やメールのやり取りから、薄々男も勘付いていた。
 泣き方が余りに酷いので、和室の襖を塞ぎ、バスタオルを赤ん坊の頭から被せた。こうすることで、どうにか正気を持ち堪えることができた。流行りのネットゲームをやり、ユーチューブで好きな音楽の動画を漁り、それにも飽きると膝掛けを布団替わりにしてソファに横たわった。和室からは何の物音も聞こえてこなかった。ようやく眠ってくれたようだった。男も次第に襲われる睡魔に身を委ねた。仕事を探さなければどうにもならないことは分かっていたが、今の時代、このような経歴で雇ってもらえる会社は極めて限られていた。選り好みなどしている状況でないのは頭では理解していても、いざ肉体労働となると気が萎えた。とにかく今は妻が仕事から帰って来るまでの時間、自身に託された宿題を黙々とこなしていく以外なかった。
 エコバッグをぶら下げたまま、赤ん坊の顔にバスタオルが被せてあることを責め立てる妻の罵声を浴びるまで、男は海岸に打ち上げられた巨木のように眠り込んでいた。夜も、そのことで再び口論になった。話は赤ん坊だけには止まらず、男の無収入への批判と逼迫する家計の現状に及んだ。口を開けばお金の話しかしない妻に、男は心底幻滅していた。分かっていることをいちいち言われるのが鬱陶しかった。全く怠惰な訳ではないはず、家事や育児の最低限のノルマはこなしているし、自分が赤ん坊を見ているからこそ、妻は安心して仕事に出ていけるのだと開き直った。
 男は焼酎をちびちびやりながら話を聞いていたが、やがて妻はテレビを強制的に消し「いい加減にして」と怒鳴った。
「仕事もしないで、酒も煙草も……。一体あたしはいくら稼げばいいのよ!」
 妻はダイニングテーブルに打っ伏して鼻を啜った。きつく握り締めた拳の腹で、どんどんと何度も机を打ちつけた。
「馬鹿みたい、あたし」
 仕事もしないで、の妻の一語にはさすがの男もかちんときて、どう言い返してやろうかと言葉を探したが、すんでのところで飲み込んだ。今の妻には何を言っても火に油を注ぐだけだ。男と似て、一度感情的になると妻も手がつけられなかった。結果として、外で稼いでいない現状では、何を言っても言い訳になるだけだった。赤ん坊の世話をしたり家事をやっているのは積極的にそうしているのではなく、ただの結果だった。家計に負担のかかる酒も煙草も辞める訳ではなかった。否、それだけは意地でも辞めたくはなかった。
 馬鹿みたい、という妻の言葉が男の頭に染みのようにこびりつき、やがて出血を止められない絆創膏のように滲んでいった。家にはもう飲む酒がなかった。酒どころか煙草も最後の一本だった。今のこの苛立ちを鎮めるのに、煙草一本で足りる筈はなかった。
「ちょっと、買い物してくる」
 妻の返事はお構いなく、男は家を飛び出し、原付バイクに跨りキーを捻った。頭上に広がるまばらな星空は一度ぐるりと回転し、また元の位置に収まった。半月よりやや細めの月は、キセノンランプのように青白く輝いていた。足元に五円玉が落ちていた。五円玉は最早金銭ではなく、無価値な鉄くずに見えた。金。金。金。金のことばかり言いやがって。男は五円玉を蹴飛ばし、真っ黒なフルフェイスのヘルメットを被りエンジンをかけた。
 バイクはコンビニを通り越し、県道を横切り、隣町の住宅地をあてもなく彷徨った。庭の付いた立派な家ばかりが立ち並び、殆どの家のリビングには明かりが灯っていた。直ぐ家に戻りたくはなかった。かといって、目的のある旅でもなかった。ただガソリンと時間だけを消費していた。自棄になっているのは分かっていた。次に見つけたコンビニで、男はバイクを止めるつもりだった。
 前方の歩道に、自転車を漕ぐ女性の姿が見えた。それはスローモーションのようにゆっくり、というより既に止まっているかのような速度だった。漕ぎ疲れていることを、細くて華奢な背中が物語っていた。男の位置から、前かごにショルダーバッグが収まっているのが見えた。人影がないことを確認すると、男はバイクを歩道に乗り上げ、一気にスロットルを回した。女が振り返る間もなく、男の手はハンドバッグの持ち手を捉え見事に掬い上げた。瞬く間の出来事だった。自転車は、人もろとも左の柵にぶつかり、直ぐに反対に弾かれて激しく転倒するのがバックミラー越しに見えた。
 成功!
 男は無我夢中でアクセルを吹かし、最短コースで自宅アパートの駐輪場まで戻った。煙草はもうどうでも良かった。それよりもっと大きな収穫を得ることができたのだ。
 心臓が大きく鼓動しているのが分かった。全く抜かりはなかった。バッグには見たことのあるブランドの模様が入っていた。人の物品を無理矢理奪うようなことは、男にとって初めての経験だった。嘗て、従業員に工場のお金を持ち逃げされることはあったとしても。
 酔った勢いとはいえ、今起きた事は本当に自分のしたことなのだろうか。ひょっとしたら夢かもしれなかった。夢であって欲しいとも思った。しかし間違いなく自転車と女性は倒れ、彼女のバッグは手元にあった。家に入ると、男はそのままそれを押し入れに仕舞った。妻はダイニングテーブルに伏した先程の姿勢のまま、既に寝息を立てていた。
 男は布団を敷き、靴下を脱いで、そのまま横たわった。心臓はまだ落ち着かなかった。押し入れに仕舞ったバッグを思い返し、それから転げ落ちた女のことを思った。短めな髪。ラフな服装。少なくとも四十は超えていそうだった。今頃、警察が呼ばれ、現場検証が始まり、夜の巡回が厳重になっているかもしれない。
 眠ろう、と男は思った。さっきの出来事のことはもう考えずに。今こそアルコールの力を借りたいと思ったが、どれだけ飲めば眠くなるのか分からなかったので止めた。男は数え切れない程の寝返りを打ち、嫌な汗を首筋にかいた。うとうとする度、枕元の置き時計を見たが、三十分も経過していなかった。考えまいとする意識が、尚更考えることを増長させた。その状態は、いよいよ早朝、赤ん坊の泣き声に我慢できずに起き上がるまで続いた。

 翌日、妻は男と会話することも視線を合わせることもなく、いつもと変わらず忙しく家を出て行った。赤ん坊も朝から泣きじゃくっていた。実に良く泣く赤ん坊だ。世の中の全ての赤ん坊がこんなに泣くものだとしたら、どれだけの人間がノイローゼになっていることだろう、男は洗濯ハンガーに掛けられていたバスタオルを外し、例の処遇を施した。案の定、効果覿面だった。リビングの窓から一瞥した外界は、分厚くて黒い雨雲が空一面を覆い、既に夕刻のようだった。
 喉がからからに乾いていた。やわなペットボトルから注いだ水が勢い良く飛び出してキッチンマットを濡らした。男は舌打ちをして面倒臭そうに足で擦った。テレビのワイドショーには芸能界の男性アイドルが入籍したというニュースが流れていた。当たり前のことをするだけで金になる世界が、男には羨ましくて仕方なかった。年は大して違わないのに。
 それからスマホでニュースを見た。地域版にも目ぼしい話題はなかった。自転車かごからバッグをひったくる程度では、地域のニュースにもならないのだ。
 部屋の電気をつけ、昨晩奪ったバッグの中身をひっくり返した。ベルトの糸は解れ、財布の角は擦れてグレーの下地が見えていた。グッチと思い込んでいたバッグも長財布も、良く見るとデザインを似せた偽物だった。化粧道具。ナプキン。ハンドタオル。ウェットティッシュ。コンドーム。三文判と預金通帳。
 男は長財布の留め具を外して、札入れを覗いた。二千円。バッグの内側のチャックも開けてみたが、そこには何も入っていなかった。預金通帳は、当初二百万円近い残高があった月もあるが、徐々に引き出され、昨日の引き出しを以ってあと四千円程になっていた。
 これほどツキに見放されている自身の運命というものを、男は本気で呪いたくなった。男は財布を思い切り壁に投げつけた。診察券やらクレジットカードやらがばらばらと床に散らばった。もう一つ、チェーンの先にプラスチック板が取り付けられたネックレスのようなものがあるのに気が付いた。裏には、小さな顔写真と一緒に、名前と住所、携帯番号、生年月日などが刻印されている。
 十本柳くるみ。
 その写真と名前には、思い当たることがあった。書棚から中学校の卒業アルバムを引っ張り出しページをめくると、教職員の集合写真にその名はあった。当時より幾分年はとったようで、それは髪の毛のボリュームと目元の皺から伝わってきた。定年間近だった筈で、それから十年ともなればもうそれなりの年齢である。「十本柳」という苗字も珍しく、また名である「くるみ」がその年齢に相応しくない感じがして、不自然だったことも印象深かった。
 彼女は、男のこれまでの担任では一番の理解者だった。工場が汚いことをクラスメイトから馬鹿にされた時も、掃除などしている暇もないくらい、世の中に必要とされているものづくりをしているのだから胸を張っていなさい、とかばってくれた。母親がいなくなった時にも親身になって話を聞いてくれたのは、この先生だった。
「頭の螺子の一つや二つ外れる時はあるけれど、あなたには幾らでもスペアがある」。
「あなたが頭の良い人に負けないことは、螺子を漢字で書けること」。
 当時の記憶の中で覚えている言葉が、他にもいくつかあった。冗談なのか皮肉なのか怪しいものもあったが、そんな言葉を掛けてくれるのは、親でも友達でもなく十本柳先生だった。まさか転倒した自転車の女性が本人だったのだろうか。そんな年齢には見えない気がしたが。
 男はアルバムを仕舞い、散らかったバッグの中身を丁寧に戻した。コンドームだけがどうしても先生とは結びつかなかった。最後にもう一度プレートを確認した。名前、生年月日、住所。それから財布にカードと診察券を戻して、口を革の紐で閉めた。
 大した量もないのに洗濯機を回した。歯を磨き、洗い物を片付けた。いつもならソファで横になる時間だったが、今日はどうにも胸はざわついて、じっと座ってはいられなかった。スマホの地図アプリに、アルバムにある住所を打ちこんでみた。昨日、バッグを奪った場所から直ぐ先の一軒家にマーカーは刺さった。中学校までは歩いて十五分くらいの場所だ。
 男はバッグをヘルメットホルダーに入れた。先生が矢鱈と気になった。中学時代の他の記憶は殆ど抜け落ちているのに、先生の顔と言葉は、優しいノスタルジーを纏いながら男の重い体躯を動かした。
 気付くと、男は昨夜と同じ道順で走っていた。但し、スピードは極力抑えて。昨晩の幻のような景色とは違い、構築物の壁面の質感までが手に取るように分かった。バッグについては、道に落ちていたのを拾ったことにすればいい。
 百メートル手前の空き地にバイクを止め、男はバッグと入れ替えにヘルメットを仕舞った。盗んだのではない。落ちていたのを拾ったのだ。男は自身に何度も言い聞かせた。中を見たら、とても懐かしい名前があったので、これは届けてあげなければいけないと思ったと。
 目的の家から、人が出て来るのが見えた。背の低い女性が車椅子を押していた。その女性の手首と手の甲には包帯が巻かれていた。男は咄嗟にバッグをバイクの後輪の脇に隠した。車椅子はこちらに向かって進んでいた。椅子に座っているのも女性だった。髪はその殆どが白髪だった。やや猫背気味に前屈みとなって、視線は赤をベースとしたギンガムチェックの膝掛けをしている足元に落ちていた。
 男はバイクから離れ、二人に近付いていった。半分くらい距離を縮めた辺りで、男は確信した。十本柳先生に間違いなかった。顔立ちも雰囲気も、当時の面影を残していた。記憶と異なるのは、にこやかで晴れ晴れしい笑顔ではなく、瞬きもしない蝋人形のような表情であることだ。
 男がじっと見ているのを、車椅子を押す女性は訝しげに眺めていた。男にはそれが伝わった。ここまできて、声を掛けない方が不自然だった。
「こんにちは。あの、十本柳先生ですよね」と男は切り出した。
「はい、そうですが」と歩いている方の女性は言った。
「すいません、村井と言います。十年前、第二中学校でお世話になりました」
「ああ」
 女性は少しほっとしたように、視線はそのままで頬を緩めた。包帯の先から伸びた指の何本かが赤黒く変色していた。高く盛りあがった頬に掠り傷のようなものがあることにも男は気付いていた。
 車椅子の先生は二人の会話に反応し、ちらと男の顔に目を向けたが、直ぐにまた元の姿勢に戻った。
「お元気でしたか?」
「体力がかなり落ちてしまって。認知症も進んでるんです」
「先生」と、男は車椅子の上から声を掛けた。返事はなかった。今度は自身もしゃがんで目の高さを合わせてから「先生」と言うと、先生は男の顔をじっと見つめ、何度も瞬きをした。近くで見れば、余計に十本柳先生なのは間違いなかった。しかし何かが違った。目に生気はなく義眼のようだった。人心を見抜いてやろうとする野心は皆無だった。男も見返した。口は一文字に閉じられたまま、先生は何も言葉を発することはなかった。しかし、手だけは左右丁寧に畳まれて膝の上に置かれ、それだけが、人としての生気を感じることのできる唯一の仕草だった。
「ごめんなさい。最近では教師であったことさえ忘れてきてるみたいで」
 女性は車輪にロックを掛けながら、寂しげに言った。
「失礼ですが、娘さんですか?」
「ええ」
「第二中学校で担任をしてもらった村井です。覚えてませんか」
 先生は瞬きをした後、首を曲げて男の方を凝視した。認知症。何度も頭の中でその言葉を繰り返してみるものの、やはりあの当時の姿とは結び付けられなかった。無言だった。二人の期待は、車椅子に注がれていた。旅客機が頭上を通過し、青空に一筋の細い雲をたなびかせた。目の前の家のアプローチから、軽自動車が一台発車した。排気音が遠ざかると、再び静寂が訪れた。
「鬱病も」と娘は独り言のように言った。「これから病院へ行くところなんです」
「すいません、お邪魔してしまって」
「いえ、卒業生の方が訪ねてこられることはとても珍しいことなので、私は嬉しいです。私自身、昨日とても嫌なことがあって、ちょっと精神的に参ってしまっていて」
 全体的に化粧気のない、しかし口紅だけははっきりと色の付いたものを引いて自己主張をしている娘は、やつれた顔の筋肉をようやく動かしているといった感じだった。目の下に酷い隈ができていた。喉仏の辺りにも、紫色の痣のようなものがあるのが見えた。
 車椅子の後ろには、別のバッグがぶら下がっていた。前のバッグとは一回りも二回りも小さなキルティングのバッグだった。
「螺子」と、先生は言った。
 螺子。男の耳には、はっきりとそう聞こえた。先生の視線は、今度は明らかな意思を伴って、男の目を捕えていた。
「螺子」と先生はもう一度繰り返した。
 男はどう反応して良いのか分からなかった。しかし三度目のその言葉は、最早疑う余地はなかった。
「そうです、螺子の村井です。思い出してくれました? もう工場はなくなってしまいましたが」
 その言葉を理解できたのかどうか、先生はゆっくりと右手を挙げて男の温もりを求めた。男は導かれるように手をとり、両手でそっと握った。握り返してくる力はほとんどなかった。手の甲と手の平で随分と温度が違った。男が少し強く握ると、先生の目は一瞬大きく見開き、直ぐに元に戻った。それは潤んでいるようにも見えた。顔の染みも目尻の皺も、あの頃には存在しないものだった。十年という時間は、間違いなく先生の中を通過していた。いい年をして何の進歩もしていない自分を、男は情けなく思った。
「村井さんは元気?」と細い声で先生は聞いた。
「村井さん?」
「あなたのお父さん」
 先生の視線は遠くを見ていた。何か思い出しているようだった。
「はい、父は、三年前病気で亡くなりました」
 静かな死だった。何の前兆もなく、朝起きたら冷たくなっていた。遺体は半年近く、建て替え直前の県営団地の一室に放置されていた。
「そう。それはお気の毒に」と言った後で、「天罰」と付け足した。先生は急に饒舌だった。
「本当に、汚い工場だったねえ」
 憎々しく顔を歪めて、先生は呟いた。男は耳を疑った。汚い工場、と今確かに。「油まみれの工具やら失敗した螺子やら切り屑が散らかって」
 先生は男の手を離し、両手で顔を覆った。
「その汚れた工場で、あなたの父親は、父親はねえ」
 声の抑揚が今までと違っていた。まだまだ溢れ出て来る言葉を、必死に飲みこもうとしているようだった。手の震えが顔に伝わり、更に身体中に伝播した。
 前に崩れかけようとする身体を、娘は抱きかかえるように支えた。男は一体何が起きたのか分からず、その場に立ち尽くしていた。
「ごめんなさいね、ちょっと気持ちが高ぶってしまったみたいで。気にしないでください」
 娘は先生の背中をさすりながら言った。慌てる感じではなかったので、日常的なことなのだと男は思ったが、男にとってはいささかショックだった。しばらく娘が密着していると、少しずつ落ち着いてきたのか、体の震えは止まった。まるで母親と子供が逆転したようだった。親が子を宥めるように、娘は先生の背中をぽんぽんと叩き続けた。それから、涙と鼻水を拭った。泣いた後の目は酷く虚ろだった。感情を抑えつけることで、体力の殆どを消耗してしまったようだった。
 それから先生が口を再び開くことはなかった。男も次の言葉を紡ぐことができなかった。先生と会えたら話そうと思っていたことの殆どを忘れてしまっていた。ごみ回収車が側で作業を開始しようとするのを潮に、男は車椅子から少し離れ二人にお辞儀をした。
「お出かけのところ失礼しました」
「いえ、こちらこそ驚かせてすいませんでした。急に何かを思い出すみたいで、昔の事。良い事も、悪い事も。ただ、いろんな方にお会いするのは刺激になりますから、本当に、また寄ってくださいね。週の半分は家におりますので」
 そう言って、娘はバッグから小さなメモを取り出し、携帯番号を記した紙きれを男に手渡した。「今度来られる時は電話ください」
「すいません」
 メモを受け取る手が少し震えているのが、自分でも分かった。否定的な言葉だけが切り取られ、宙に浮いていた。柄にもなく郷愁の赴くまま行動したのは失敗だったのではないかとさえ思った。そもそもバッグを届けに来た筈なのに。
「ところで、螺子とか工場とかって」
「実家が螺子を作る工場だったんです。富士見町にありましたが、火事で焼けてしまいました」
「そうでしたか」
 娘はしばらくじっと考え込んでいた。十年分の歩みを仔細に話すには、とても住宅地の歩道での立ち話では無理だった。
「失礼ですけど、あなた、独身?」と唐突に娘は聞いた。
「いや、結婚してます。子供も一人」
「今日はお仕事、お休みなの?」
「ええ、まあ」
 正直には、答えられなかった。
「ねえ本当に、また来てね。二人だけでずっと一緒にいると煮詰まってしまうから」
 車椅子のロックを外し、娘は深く頭を下げた。丸首シャツの胸元から白い下着が覗いて見えた。名残惜しそうに、娘はしばらく男を見つめてから、坂を下り、最初の辻を曲がった。男はバイクに戻り、草むらのハンドバッグを先生の家の門扉の内側に、そっと隠すように置いた。庭木や雑草は全く手入れをされていないようだった。油断していると、空き家のようにも見えた。「十本柳」という表札の文字が水垢のようなもので汚れ、一部が割れていた。

 自宅に戻ると、赤ん坊は火が付いていた。空腹と下半身の不快をないまぜにして訴えていた。男はもう数え切れないくらい繰り返しているルーチンワークを手際良く無感情に進めた。おしめを替え、哺乳瓶を咥えさせると、真っ赤だった赤ん坊の顔色は、次第にいつもの落ち着いた肌の色に戻っていった。瞼に付いた目やにと涙を男は拭った。見ようによっては――ある特定の角度から眺めると――不貞腐った時の自分の顔付きに似ていなくもないな、と男は思った。
 日曜日に投函されていた求人チラシがキャビネットに無造作に置かれていた。まだちゃんと見ていないものだった。「共和螺子製作所株式会社」という言葉が男の視線を捕えた。給与面や勤務地はまずまずだった。自宅からバイクで十分程度の場所だった。こんな近所に螺子工場があったなんて。「業務拡張の為」とは景気のいい話だ。一点、「高卒以上」という条件だけが難題だった。
 工場の機械と油の匂いが懐かしく男の鼻先に甦った。と同時に、先程の先生の言葉も。途切れた言葉の続きを想像しては、直ぐに打ち消した。それは現実にあってはならない類いの想像だった。しかし男の頭の中に浮かんでくるのは、力ずくで女性の体を押し倒そうとする哀れな父親の姿だった。
「すいません、求人広告を見たのですが、中卒では駄目でしょうか」
 気が付くと、男は電話を掛けていた。喧嘩腰なのは自覚していた。求人企業に連絡を取ることは、実に久しぶりのことだった。
「大変申し訳ございませんが、既に求人は締め切りました」
 電話口の受付の女性は、つっけんどんにそう言った。
「そうなんですか。チラシ、まだ届いたばかりな筈なのに」
「月曜の午前中までに、沢山の方からお申込みをいただきまして。大変申し訳ありません」
「実家が、以前螺子工場をやっていたんです。私は経験者です。螺子を作る工程は最初から最後まで理解しているつもりです」
「少々お待ち下さい」と保留音がしばらく流れた後、「早速ですが、明日から来れますか?」と女性は通話を再開した。「直ぐに来ていただけるようでしたら検討します」
 受付は常に上から目線だった。男は今すぐ電話を切りたい衝動をぐっと堪えていた。
「赤ん坊がいますので、まずは預かってもらえる所を探す必要がありまして。今日の明日っていうのは、さすがにちょっと」
「そうですか。残念ですね。今とても忙しくて、直ぐに来て頂ける方を優先しているんです。それに」
 一呼吸置いてから女性は言った。「中卒の方は申し訳ないのですが」
 螺子工場で螺子を作るのに、どのように学歴が関係するのか問い詰めても良かったが、いずれにしても直ぐに勤めに出るという条件をクリアすることは、そもそも無理だった。
「分かりました」
「せっかくお電話いただいたのに、すいません」
 男が電話を切るよりも早く、がちゃりという回線の切断音が受話器から洩れた。男は広告を力一杯くしゃくしゃに丸めてごみ箱めがけて投げつけた。即席の紙ボールはおよそ見当違いの方向へ流れ、変色した畳の上に落ちた。受付の冷たい言葉が、しばらく鼓膜の中で木霊していた。良質ではない胸騒ぎを覚えた。
 鏡台の椅子の下に、手帳が落ちていた。朝の支度で慌てていたのだろうか。男は無意識に今月のページを開いた。大半の日に、「出」の文字が記されていた。一週間のうち、六日間はそれが付されていた。「出勤日」を意味するものだろう、と男は推測した。今日の欄には、「出」ではなくハートマークになっていた。今月は三つ程あった。前々回は月初、前回は十日前だった。男は静かに手帳を閉じて、鏡台の引き出しに仕舞った。
 男の体は震えていた。抑えようと思ってもどうにもならなかった。インフルエンザを発症した時の感じに似ていた。違うのは、寒気ではなく燃えるような熱を感じていることだった。

 その日の晩、妻は中々戻ってこなかった。男にも意地があった。時計は既に九時を回っていた。赤ん坊は心地よく眠っていた。これまで男には見せたこともない笑みを湛えて。こいつ、夢を見て笑ってやがる。
 換気扇に向けて煙草を吸った。昨晩、吸わずに残しておいた最後の一本を。もったいぶる程でもなかった。湿気てると思うくらい不味かった。工場の場所は、何となく分かっていた。未だ妻からは何の連絡がないことを確認すると、男は新聞の束と半端なバイク用オイルを持って靴を履いた。いつもなら直ぐにかかるエンジンが中々かからなかった。男は一旦諦めて空を仰いだ。月は何処にも見えなかった。途方もなく深くて暗い泥の海底を歩いているようだった。一筋縄では攻略できない、悪意のある仕掛けを随所に凝らした障害物で四方を塞がれている気分だった。
 バイクの前輪の側に、小さな金属が外灯に反射していた。頭部が台形で上面が丸い「バインド」という種類の螺子だった。男は螺子を拾い上げ、しばらく手の平で弄んでいた。かつては幾度となく触れていたはずなのに、どこかよそよそしく、異世界の物質のようだった。
 螺子を植え込みに放り、まず優先すべきは何なのかについて、男は考えを巡らせた。頭に浮かんだのは、取り乱し必死の形相で抵抗する十本柳先生の顔、それから娘の真っ赤な口紅だった。最早、頭の中の螺子がどれほど外れているのか、検討もつかなかった。スペアの螺子の手持ちは、とうの昔に無くなっていた。いかなる最新設備でも作り出すことが不可能に思われる程、螺子の形状は複雑怪奇に歪んでいた。
 赤ん坊の泣き声がアパートの駐輪場まで響いていた。イントネーションも声質も聞き慣れない感じだった。他の家の赤ん坊かもしれなかったが、どこにどれだけの赤ん坊がいるのか、近所付き合いのない男には分からなかった。男はバイクから降りキーを抜いた。同じタイミングでメールが鳴った。妻からだった。今日は帰らないという旨のメールだった。理由は特に書いてなかった。男はありったけの力で、バイクのシートに拳を打ちつけた。
 空気は凛と澄んでいた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。男はメモに書かれている、その走り書きの電話番号を上手く定まらない指で押した。ポケットの中のコンドームの存在を意識しながら。(了)

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