盗難

 終電の改札を抜けて住宅地に入ると、突然人影はなくなった。週始めから飲んだくれている奴など、この町にはいないのだ。路面は今しがたまで降り続いていた雨で濡れ、街路灯の明かりが染みのように反射していた。越してきて間もない男の足取りは、登校拒否や万引きを続ける息子の騒動に、ただでさえ重かった。
 アプローチに一台の見慣れぬ自転車が横倒しにされ、玄関が少しだけ開いていた。見るからに高級そうなロードバイクだった。
 あの馬鹿、またやりやがった。
 自転車泥棒は常習だった。扉を開けると、上がり框を抱きかかえるように少年は眠り込んでいた。心底情けなかった。バッグを置き、男は諦めて自転車を押しながら再び駅に向かった。二日分生きている感じがした。身も心もくたくたな筈なのに、なけなしの道徳心ばかりは辛うじて機能していた。
「ちょっと、すいません」
 振り向くと、背後に背の低い若い警官が立っていた。
「最近自転車の盗難が多くなってましてね。それはあなたの自転車ですか?」
 警官はライトで男の顔から足元、そして自転車のフレームに貼られたシールを照らした。男は答えに窮した。
「確認させてもらいます」
 嘘なんてついたらやっかいな事になる、男は警官の作業を邪魔することなく、腹を括った。
「今正に交番に行こうと思ってたところなんです。実を言いますと、息子が」
「盗難届出てます、これ」
 警官は特殊な通信機のようなものを操作しながら、男の言葉を遮った。
「引き取らせてもらいます」
「いや、事情を説明すると、私がさっき帰宅したら玄関」
「ああ結構ですよ。自転車さえ戻してもらえたら」
「ええ、それで私はどうなりますか」
「別にどうにもならないよ」
 警官は明らかに面倒臭そうだった。罪を認め保護者としての罰は甘んじて受けよう、そう覚悟していたので、この警官の態度は意外だった。
 警官はサドルに跨り、そのまま何も言わずに、駅とは反対の方向に逃げるように遠ざかっていった。一度も振り返ることのない警官の背中を、男は視界から消え去るまでじっと見つめていた。緊張感から解き放たれた自身の食道に不快なものが込み上げてくるのを感じ、車道に唾を吐いた。
 酔いの波は何度も込み上げてきた。余りにも色々な事があり過ぎた一日だった。色々あり過ぎて、記憶の断片は収斂するどころか自分勝手な方角に発散し、やがて記憶そのものからも失われかねない危険を孕んでいた。自分でどうにか出来ることもあれば、どうにもならないこともあった。釈然としない何かを抱えていたが、今はもう考えたくはなかった。一刻も早くスーツを脱ぎ、部屋の布団で横になりたかった。
 坂の途中でいよいよ堪え切れず、男は植え込みに顔を突っ込み嘔吐した。もう何も出てこなかった。それでも胃のむかつきと酩酊はしつこく男に付き纏った。
 玄関は開け放たれ、少年は未だ上がり框に腰掛けて参っていた。床には五百ミリリットルのチューハイの空き缶が転がっていた。
 手間と心配ばかりかけさせる愚息。しかし責任の一旦は父親になりきれない自分にもあった。幼少の頃、二人で行った遊園地でメリーゴーランドにさえ怯え泣きじゃくっていた息子の思い出が突然男の脳裏に浮かんだ。息子を思い切り抱き締めてやるべきだと思ったが、替わりに軽く頭を撫でた。
「お前、誰」と少年は言った。見たこともない少年だった。靴も傘立ても玄関マットも見慣れない物だった。男は慌てて玄関を飛び出し、表札を確認した。全く別の家だった。 
 男は住宅地を闇雲に彷徨い歩いた。しかしどこをどう歩いても、自分の知っている道には中々辿り着かなかった。
そして男はもう一つの異変に気付く。ビジネスバッグを手にしていないことを。(了)

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