恩師たちの記憶 その③

高橋熱です。こん○○は。
学生時代に知り合った恩師のエピソードその③です。

僕が小説家を志す為にお世話になった恩師たち

③M先生(国語・中学)

M先生は、中学1年の時の担任でした。
担任としては1年だけのお付き合いでしたが、当時の荒れた学校をどうにかして建て直そうと、「金八先生」のドラマを地で行く、とても熱い先生でした。

事実、僕の通っていた市立中学校は、酷く荒んでいました。
煙草の吸殻や酒瓶は日常的に校舎内に落ちていましたし、体育の授業中の校庭を改造バイクが疾走して、何度も授業を中断していました。
近隣の学校の生徒が大挙して校門で待ち伏せしていたり、シンナーで酩酊した先輩が校舎の三階から転落したけれど腕の骨折だけで済んだ奇跡が美談として語られたり、鑑別所に入っていた先輩がいよいよ戻って来ることにどう対策するかの職員会議が開かれるような、それはもうまともに授業に集中できる環境ではありませんでした。

そんな学校にあって、「学年主任」であったM先生は、己の心の弱さの克服やら、イジメの撲滅やら、ステレオタイプからの脱却やら、当時の僕らには少し難しい言葉も駆使しながら、自身の思いと主張を籠めた藁半紙を週に一度必ず配り、国語の授業で訥々と語りかけました。その藁半紙の文頭は、必ず「諸君!」という呼びかけから始まるのが印象的でした。

放課後

今の時代では少し暑苦しい、前近代的な教師かもしれませんが、クラスメイトが放課後の文化祭の準備をサボって、地元のゲーセンに遊びに行っているのを許さず、クラスメイト全員に作業を中断させ、近隣を捜索させることを率先してやらせるような教師など中々いない昨今(今じゃできないですね)を考えると、とても貴重な先生だったと思います。

従って、国語の授業といっても、半分は先生の藁半紙に書いてあることの解説やら最近の社会現象への雑感で費やされ、教科書を開くのはわずかな残りの時間、形式的なものでした。

しかし、僕はそんな知的で熱いM先生の話や藁半紙をとても楽しみにしていて、先生のしゃべった(書いた)言葉で分からない単語は、直ぐにその場で辞書を引いて調べていました。

そうした姿勢を見てくれていたのかどうかは分かりませんが、僕に対して先生は、いつもコーヒー風味の口臭を漂わせながら、「高橋は手が掛からない」とそればかり言うのでした。僕も所詮子供ですから、たまには「手を掛けて欲しいのになあ」と思わない訳ではないのですが、それでもM先生に「認めてもらえている」と思うのは、嬉しいことでした。

そんなM先生から、ある日提出した「読書感想文」について、こんなやりとりがありました。
「中身を読まずにここまで書けたら大したもんだ。高橋には文才があるな」
そう言って、先生はにっこり笑いながら感想文を返却してくれました。

僕はどきどきしました。中身を読んでないことを、どうして先生は知っているのだ?
正に言う通りでした。どんな本だったかは忘れてしまいましたが、僕はその本について全く読んでいませんでした。
巻末の「あとがき」(解説?)だけを読んで、大まかなあらすじと印象を把握し、自分なりの言葉に翻訳して、あたかも中学生の「読書感想文」っぽく書いたことを、先生は見事に見抜いていたのでした。

丸裸にされたような気恥かしさはありましたが、この時先生に言われた「文才がある」という言葉が、いつまでも自分の中に残りました。

また、高校受験が終わった後、いよいよ卒業するという直前、M先生に教わった生徒の何人かが自宅に招待されたことがありました。

その時、M先生は冗談半分(だったと信じていますが)に、「最近、高橋が随分と色気づいている。女性を見る視線が、ナンパな目をしている」なんてことを皆の前で言いました。一緒にいた同級生の男子達は笑い、女子達からは妙な目で見られました。

当時の僕は、どういう訳か、クラスではいやらしい部類、俗に言う「スケベ」なレッテルを貼られていました。
全くスケベなことは、したことないのに。
本名の「ひろ○○」という言葉は、「えろ○○」という言葉に差し替えられ、それがあだ名となっていました。
もっとも、僕自身、そう呼ばれることに関しては、イジメとか、嫌だとか、あまり態度に表明しなかったこともあって(いちいち反応して相手が「面白がる」のが面倒だったので)すっかりその呼び名が定着していて、先生もそれは知っているようでした。

それから、20年後の将来、どのような仕事をしているか、ということをM先生が一人ずつ進言していくことになりました。いよいよ僕の番になり、何を言われるのかと思ったら、「高橋は、きっと物書きが向いてるよ。えろ○○だけに、官能小説家なんて良いんじゃないか?」と言って、皆を笑わせました。

皆、「官能小説」の意味を分かって笑ったのかどうかは分かりませんが、僕は意味を知っていたので(やっぱり「えろ○○」だったのかな)、軽くショックを受けました。尊敬していた先生に、「官能小説家」なんて言われたのですから。

とはいえ、将来の仕事を「物書き」とか「小説家」と先生に言われたことは、自分にはそういう仕事が向いているのかなと、おぼろげながら、将来の仕事観の萌芽を示唆してもらったと今では思っています。

感想文しかり、官能小説家しかり、いずれにしても大好きだったM先生から、「書くこと」について褒められた経験は、その後益々僕の読書量を増やすことになりました。
当時は、まだそれほど強く「小説を書こう」というモチベーションはありませんでしたが、文章をまとめたり、作者の意を咀嚼して表現したり、ラブレターを書いたりという「文章作成」に関する作業は全く苦にしなくなりました。
元々好きだったことを、尊敬する先生に「お墨付き」を貰えたことで、より自信と励みになりました。

そして僕はいつか、本当に小説を書いて本にできたら、最初の1冊に「M先生に捧ぐ」とサインを入れて、M先生の自宅に届けようというのが、一つの夢であり目標になりました。

書籍

しかし、残念ながら、20代も終わる頃、M先生が胃がんで亡くなったことを卒業生の連絡網で知りました。
ただでさえ痩せていたM先生ですが、胃の大半を切除した後では、更に細くなっていたようでした。あれだけ行動的な先生でしたから、ストレスも相当なものだったことは容易に推測できます。加えて、煙草も大好き、コーヒーもお酒も、とくれば。

結局、僕の小説を先生に読んでもらうという夢は、叶いませんでした。
仕事の都合もあって、葬儀にも参列することはできませんでした。
最後の挨拶ができなかったことは、今でも心残りになっています。

中学生の僕に大きな自信と示唆を与えてもらえたM先生は、今でも僕の中にいますし、もしもこの先、本を出版できたのなら、第1号を先生のご自宅にお持ちして、天国で読んでもらいたい、そして天国から批評をしてもらいたいと本気で思っています。

「何だ、やっぱり官能小説家になったのか」と。

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