超短編小説

名刺奇聞

名刺入れ
『名刺奇聞』

 財布のように見えたそれは、イルビゾンテの名刺入れだった。金色のバックルを外すと、マチ一杯の名刺が差し込まれていた。男がそれを拾ったのはラブホテル「シエスタ」の入り口、休憩と宿泊代金が書かれたサインボードの下だった。
 通勤時間を短縮する為には、どうしてもこのラブホテルの前を通る必要があった。周りには住宅やオフィスが密集する中、そこは息を潜めるように営業していた。朝会社へ向かうタイミングで、ちょうどホテルを後にするカップルに出くわす事はしばしばあった。こちらは仕事だというのにいい気なものだと恨めしく思う一方、愛の余韻を抱えながら仲睦まじく帰路に着く若い男女を、男は羨ましく思った。
 名刺入れは、朝方に止んだ雨の洗礼を免れ、まだ綺麗で艶やかだった。チェックアウトの際にバッグから落ちたのだろうか。名刺には誰もが知っている大手商社の名があった。「細野薫子」という名前の左上には、「リテール企画部ライフリプランナー」と書かれていた。
 高校時代の友人が、その商社に就職していたはずだった。男の能力では逆立ちしても入れない会社だった。世界を相手に様々なプロジェクトを動かすスケールの大きさは憧れだった。単価数円の粗利を維持できるかどうかに頭を悩ませている文房具用品の営業とは大違いだった。
 それほどの一流企業の女性が、華やかさとは程遠い、こんな町外れのラブホテルで情事を重ねているなどと妄想するのはそれなりに興味深かった。企業の住所を調べてみると、電車を使ってもここから一時間以上は離れていた。肩書から、ラブホテルに営業するというのも考えにくい。やはりここはホテルの利用者でうっかり名刺入れを落とした、と考えるのが自然だ。
 昼食後、屋上で煙草を吸いながら、男は改めて名刺を眺めた。普段なら眠気に襲われる正午過ぎの陽だまりの中で、意識は覚醒していた。もちろん名刺入れの事もあるが、最近帰宅が矢鱈と遅かったり、休日出勤がたて込んでいることで、朝から妻と口論したこともあった。仕事のプレッシャーだけではなく、子供への関わり方や給料の少なさについて愚痴を言われるのには、もううんざりしていた。男には、妻以外の女がいつも側にいた。仕事関係や知人の紹介、スナックのアルバイト、中には出会い系サイトやSNSで知り合った女もいた。当然、妻には内緒で。男は抜かりなくこなしてきたつもりだったし、これからもそうするつもりだった。
 名刺には、携帯電話の番号が書かれていた。細野薫子。男は声に出して名前を呼び、その名前に相応しい女性像をイメージした。そもそも、名刺入れを落としたことに気付いているのだろうか。
 男は順序立てて口実を整理した。これは女への関心や下心からではなく、純粋な善意である、と。何度か心で善意、善意と呟きながら、男はスマホのテンキーを丁寧に押した。昼も四〇分を過ぎていれば失礼ということはないだろう。
「もしもし」
 かなり長い時間呼び出し音が鳴った後に電話に出た女の声を確認してから、男は言った。
「もしもし。突然すいません。今お電話大丈夫ですか?」
「はい。どちら様ですか?」
「名刺入れ、落とされてないですか?」
「あ」と言ったきり、女はしばらく黙っていた。
「もしもし?」
「はい」
「あなたの名刺入れを拾った者なのですが」
「ご丁寧にありがとうございます。どちらに落ちてましたか?」
「古宿駅西口のホテルの前に」
「ホテル、ですか」
 女は再び沈黙した。駅のホームなのか、近くでベルが鳴っているのが聞こえた。今にも雑音に消え入りそうなほど弱々しい声だった。
「『シエスタ』というラブホテルのエントランスの辺りです」
 男は敢えて「ラブホテル」と口に出し、女の反応を確かめた。しかし、それに対する女の返答はなかった。途切れ途切れに聞こえてくる背後のざわめきが、いささか耳障りだった。
「どうしたらいいですか?」
 男は少し声のボリュームを上げて言った。
「取りに伺います。そちらはどちらですか?」
「いや、お持ちしますよ」
「それは申し訳ありません。私が落としたのですから」
「彼とはそういう関係なんですか?」
「彼?」
「一緒にいた彼ですよ。浮気は良くないですよ」
 全くの出鱈目だった。何故そんなことを言ったのか男自身も驚いた。
「あなた、どちら様? 知り合いの方?」
 女の反応を見て、男は自分の妄想が満更適当ではないことを確信した。浮気という言葉を、女は否定しなかった。少し慌てている様子が、スマホから伝わってきた。女が浮気をしているのか、男の方なのか分からないが、少なくとも真っ当な恋愛関係ではなさそうだ。
「彼の事は、良く知ってますよ」
 少し自棄になっているのを自覚していた。憧れの気持ちと憎しみの感情が交錯し、共存し、やがて競合した。賢い連中ばかりにうまくしてやられては、世の中全体の心身バランスが崩れるのだ。
「細野薫子」の名刺を握る指に力が入り、周りに折り皺が付いた。適当とはいえ、話の流れをそう仕向けた以上、もう後戻りはできない。
「すいません、名刺入れは返していただけるのでしょうか」
「もちろんです。お持ちしますよ。今日でも明日でも。仕事は何時に終わりますか?」
「5時には退社できます」
「早速ですが、今日は?」
「大丈夫です」
「そうしたら、シエスタの前に6時でどうですか。グレーのスーツに紫のネクタイをしています」
 少し間があった後、女は「分かりました」と答えて電話を切った。スマホをワイシャツの胸ポケットに差してから、男は灰皿に置いた煙草の火を消した。昼の空は、視界に入る限りほぼ晴れ渡っていて、ぼやけた飛行機雲だけが真一文字に引かれていた。男はイルビゾンテの名刺入れの匂いを嗅いだ。そこには女の匂いなどまるでなく、ただ動物の匂いがするだけだった。男は時計で残りの休憩時間を確認し、取り出しかけた煙草を袋に仕舞った。久しぶりの上物。これだけの肩書の女性と出会える機会はそうあるものではない。浮気は良くないですよなんて言った自分の言葉が、余りにも白々しく、馬鹿馬鹿しくて、可笑しかった。寒気とも痒みとも違うぞくぞくする感じが、肩甲骨から背筋にかけて走った。

 午後6時ちょっと前、まだ外は僅かに明るさが残っていた。もう少し遅くても良かったかな、と男は思った。名前と声の感じから、男は細野薫子の容姿を想像していた。身長は一六〇センチ、髪は肩より少し長めのストレート、細身のグレーのパンツスーツ。顔付きは色白で器量の良さそうな、いかにも活動的な雰囲気のキャリアウーマン。どこまでそれが正しい妄想なのかを確かめたかった。
 しかし、現れた女性は想像とはかなりの部分でかけ離れていた。年はイメージよりもずっと若く、身長は一五〇センチ前後、髪は後ろでまとめられて団子になっていた。体型もスレンダーというよりは肉付きが良く、もこもこしたピンクのセーターの盛り上がりがバストの大きさを強調していた。その割に膝から下に見えている脚は異常に細く、アンバランスに思えた。顔も色白よりはむしろ日焼け気味で、眉は薄く、右頬の辺りに小さな泣き黒子が三つ四つ不規則に並んでいた。
「細野さん?」
 男の顔を覗きこむようにして会釈をしながら歩いてくる女に、男は声を掛けた。この時間、ホテルの前で立ち止まり、お互いじっと目を逸らさなければ、意中の人物に間違いなかった。
「はい、細野です」
 見た目同様、太くて低い感じの声だった。電話の調子とはかなり違う印象だった。もっとも、電話は雑音のせいであまり良く聞きとれなかった。
「お会いするの、初めて、ですよね」と女は言った。
「ですね」と男は答えた。
「高杉さんとは、どのようなご関係なんですか?」
「まあ、それはまた後ほど。大分冷え込んでくるようになりましたね」
 女はそれについて何も答えなかった。名刺入れを返してくれればそれでいい、という女の視線に男は気付いていたが、ただ返すだけでは面白くない、名刺を拾った事がきっかけで男女の仲になるなんてそうあることではない。妻には最初から帰宅が遅くなることは伝えてある。早く帰宅したところでがっかりされるのは目に見えている。
 女の姿勢のせいかわざとなのか、やけにバストが強調されているように見えた。当初のイメージ像とは明らかに見劣るが、それはそれ、このシチュエーションをもっと楽しんでやろう、と男は心でほくそ笑んだ。
 薄暗さは次第に増してきていた。女の背後から、ショルダーバッグを肩に掛けた若い女性が、目を合わせないようにしながら、足早に二人の側を通り過ぎて行った。男は一瞬ちらと目で追い、直ぐに目の前の女に目を移した。あまり長時間ここで突っ立っているのはリスクが高い。
「それにしても、高杉があなたのような方とね。ちょっと驚きました」
 女は一度息を飲み込み、次の言葉を詰まらせた。大嘘も、初対面の女を前に言い始めると、案外刺激的だった。体が発熱し始めている事に男自身も気が付いた。矛盾なく、しかし大胆に、男は注意深く言葉を選んだ。
「あの、名刺入れは」
「せっかくですから、ちょっとお話ししませんか。高杉のこともありますし。昨日行ったホテルと同じでは嫌ですか?」
「え、ここでですか?」
「はい」
 女は驚いたように目を見開いて、しばらく口を噤んだ。
「大丈夫。もちろん、名刺入れはちゃんとお返ししますし、当然、彼には内緒にしますから」
「そんな」
 女は俯き、両手をぎゅっと握り締めながら硬直した。俺も随分な悪人だな、と男は自覚した。たまたま名刺を拾っただけの女性を、無理矢理、恋人と寝た同じホテルに引っ張りこもうとしている自身の強引さに。しかし今はただ、この機会丸ごと、女もろとも自身の手の内に引きずり込んで抱き抱えたい、そのことしか頭になかった。
「分かりました」
 意外にも、女は短い時間で観念した。男はしめたとばかり、すかさず女の手を取った。女は抵抗しなかった。男の心臓は高鳴った。こんなパターンで女とホテルにチェックインするなんて初めての経験だった。浮気現場を押さえたという事実、いや実際は嘘であっても、そう思わせておくだけでこれほどの支配権を持つことができるのか。高杉なる男との関係は、余程誰かに知られるとまずい関係なのだ。大した学歴も職歴もない妻とは全く正反対の、有能な女を支配する優越さ。もっともバストの大きさ以外、見た目は全く普通の女なのだが。
 しかしその後の行為自体は、当然ながら、細野薫子からの能動的な求愛行動などまるでなく、四六時中身を強張らせたままだった。高杉の話をちらつかせながら、男はほとんど脅迫するように、女の身体に触れた。バストが大きいのは事実であったが、そのことだけで、全体の満足度が上がることはなかった。欲望のない女はただの肉と骨の塊になり重さが二倍になる、それも男には初めての体験だった。瓶ビール二本というアルコールの力を借りなければ、最後まで到達することはできなかったかもしれなかった。考えてみれば、何の愛情もない女を強引にホテルに引きずり込んだ訳だから、自業自得と言えばその通りだった。
 名刺入れは約束通り返し、高杉なる男との関係も口外しない、ということで一応その日は決着した。残されたのは後味の悪い疲労感と後悔と、既に過去の遺物となった「細野薫子」の軽い名刺一枚だけだった。
 エントランスを出ると、男は別れの挨拶も告げず、もう二度と細野薫子に会うことはないだろうなと確信しながら、駅とは逆方向に向かって歩いた。一緒に歩かれるのは鬱陶しかった。最初の辻を曲がるまで、一度も振り返ることはなかった。

 職場に電話があったのは、その三日後のことだった。
「細野です。先日はどうも」
 まるで別人のような声だった。最初は人違いかと思ったが、女は確かに細野、といった。隣接の同僚に怪しまれない程度に、男はやや声を潜めて言った。
「もう一度、お名前いいですか?」
「細野薫子、もう忘れましたか?」
 女は電話の向こうで静かに笑った。午前十時の業務時間内にかけてよこすとは不遜な女だ。それより、どうやって会社の電話番号を探り当てたのだろう。女には、個人的な情報は一切教えていない筈だった。
「どうしてこの会社だと」
「どうして? ふふ。名刺入れについては、お返しいただきありがとうございました。彼からいただいた大切なものだったので。一枚、名刺無くなってしまいましたけど」
 男の手元に、その一枚はあった。名刺入れ? 男は慌てて、手提げ鞄のポケットに入れてある自分の名刺入れを確認した。黒い革のケースには、何枚か差し込んであった筈の名刺が全て無くなっていた。行為の後、一度だけトイレに行った。やられたとすれば、その時だ。これは全くの油断だった。
「やられたね」
 男は動揺した。受話器を握る手が震えているのが自分でも分かった。女との間にある空気は、男にとって明らかに不利な取引条件を孕んでいた。
「やられたのは、元々こちらですから」と、女は再び笑いながら言った。
「責任取っていただけますか?」
「責任て、何の?」
「私を抱いた責任です。奥さんと別れて、私と結婚してください」
 隣の同僚は書類を手に、コピー機の方に向かって行った。余りにべたな要求だったが、いざリアルで言われると怖いものがあった。
「別れてくださいよ、奥さんと」
「そんなこと無理だよ」
「大して愛してないって言ってたじゃないですか、奥様を」
「それは」
「うまくいってないんでしょう? だから私を抱いたんでしょう? それともただの女たらし?」
 心臓は、ただの鼓動を通り越していた。
「それができないのなら」と、女は一度そこで言葉を切った。「口止め料三〇〇万円」
脅迫されてる、と男は自覚した。これまで妻にもばれず、首尾よくやってきたのに。
「そんな金用意できる訳がない。それから職場に電話掛けるのは止めて欲しい。また後で掛け直すから。これから会議なので」
「会議なんて嘘。彼を知ってると言ったことも、本当は嘘なんでしょう?」
男は静かに受話機を置いた。しかし、数秒後、再び受付から電話が内線で回って来ると、男は諦めて電話を繋いだ。
「いきなり切るのは酷いですよ」
 女は冷静に言った。「写真も残してありますから、私の扱いには気をつけて下さいね」
「写真?」
「あなたとホテルに入るところ。そして出てくるところ。これでおあいこですね。あなたの会社のメールアドレスあてに先程送っておきましたから」
 男はデスクトップのメーラーを開き、送受信を押した。件名に「取り扱い注意」と書かれた添付ファイル付きのメールがあった。発信元は、携帯電話のアドレスだった。男は周囲に誰もいないことを確認してから恐る恐るファイルを開くと、女の言う通り、二人でホテルに入るところと出るところ、はっきりと顔の分かる角度から撮影されていた。こんな写真いつ撮られたのだろう。細野薫子以外に、協力者がいるのだとしたら。もしかしたら先日抱いた女自体、細野薫子ではないのだろうか。
「三〇〇万なんて払える訳がない」
「分割払いでも構いませんよ」
「結婚もできないし、金も払えない」
「それなら」と電話の女は声の調子を落ち着かせて、こう言った。
「またお会いしてもらえませんか? シエスタで」
「悪いけど、そのつもりはないよ。あんただって分かってただろう? ただの遊びじゃないか。相手がいるのに俺と」
「高杉さんは人を脅したり、物を盾に取ったりして女を抱くなんてことはしません」
「忙しいんだ。それに会社の電話はまずい」と言って、男は電話を切った。
 それから名刺に書かれてある会社の電話番号に自身の携帯からかけ直し、「細野薫子」を呼び出そうとしたが、そのような者はおりません、とコンシェルジュは言った。「リテール企画部」なるセクションそのものが存在しないとのことだった。
 切った直後、再び女からの電話を取り次ぐかどうか、受付から回答を求められた。同僚がコピーを終え座席に戻ってきていた。男は「会議中」ということで断るよう受付に伝えた。これ以上、細野薫子とは関わりたくなかった。名刺入れなんてやり過ごせば良かったのだ。あんなものを拾ったばっかりに。否、自身の下司な助平根性と心の弱さを、この時ばかりはさすがに恨んだ。
 細野薫子からは、それ以降会社に連絡はなかった。口止め料なんて用立てることなど到底出来ない。しかし写真を撮られたりこちらのプライベートな情報まで握られてしまったことは失敗だった。あんな写真を会社や家族に回されてしまったら大問題だ。男の頭は、そのことで一杯だった。やはり、もう一度会わない訳にはいかないのだろうか。
 できれば今日は、シエスタの前は通りたくなかった。自分の愚かさを思い知らされるだけだった。しかし回り道をするほどの体力もなかった。ホテルの前に差し掛かった時、小さな紙が散らばっているのが見えた。嫌な予感がした。手前に落ちていた紙を拾い上げ男は愕然とした。それは自分の名刺だった。咄嗟に、足元に散乱している数十枚の名刺を残らず拾った。既に何枚かは人の脚に踏まれ、汚れていた。男は憤りというより、恐ろしさを感じた。酷い女に引っかかってしまったものだ。三百万。男はどうすればそんな金が用立てられるかを、混乱した頭の中で真剣に考えてみたが、今家にどれだけの貯金があるのかも分からず、どれだけ借金ができるのかも分からなかった。住宅ローンはまだ借りたばかりなのだ。

 死に際のような表情で男が自宅に帰ると、妻は料理の手を休めて、珍しく玄関で男を出迎えた。
「ねえ、今日、変な留守電入ってたの」
 まだ鞄を持ったままの男に向かって、訝しげに妻は言った。
「住菱商事の細野って方、知ってる? 日頃あなたと懇意にしてるって」
「ああ」
 男は靴を脱ぎながら、呻き声に近い相槌を打った。
「人生設計をもう一度見直しませんかって。どういうことかしら」
 男の頭は真っ白だった。鞄を玄関マットに投げるように置いた。油断すると、そのまま崩れ落ちてしまいそうだったので、膝と脚の裏になけなしの意識を集中した。
「保険の見直しかな」
「保険ならこの前見直してもらったばかりじゃない」
「また違った第三者の目で見てもらうのも悪くないよ。これからの生活について、細野」
「あ、ごめん、鍋」
 そう言って、妻は小走りに台所に戻って行った。男はスーツを脱ぎ、ネクタイを外し、妻とは顔を合わせずに、そのまま風呂場で裸になって、いきなり湯船に漬かった。入浴剤もまだ入っていないお湯は、矢鱈と熱く感じた。
 細野薫子は自宅の電話番号まで知っている。男は顔を半分湯船に沈めて、これからのことを考えた。弱みを握られている以上、もう彼女に太刀打ちすることはできないように思われた。
 幸い、留守電については、それ以上妻から追求されることはなかった。毎週楽しみにしているテレビドラマが疑念を希釈した。妻は箸を休めて、テレビに見入っていた。小学生の息子は回りの事などお構いなく、黙々と白米を口に放り込んだ。男はひじきの煮物を一つまみご飯に乗せたまま、じっと宙を見つめていた。当たり前のいつもの食卓が、とても珍しく貴重なことのように思えた。平穏な家庭の食卓を潰すには、細野からのたった一本の電話さえあれば十分だった。
 メールの添付ファイルが、いつまでも目に焼き付いていた。寝床に入ってからも、中々寝付けなかった。赤い豆電球にぼんやり灯された天井には、シエスタで抱いた、誰かも分からない女の身体と、イルビゾンテの名刺ケースが浮かんでは消えた。全ては自分の下心と嘘から始まったことだ。細野薫子との電話のやりとりが、いつまでも男の脳裡に木霊していた。

 知らぬ間に眠っていたようだった。目覚ましではなく妻に起こされた。体が重く、起き上がろうとする度に後頭部が痛んだ。妻は既にお弁当の仕上げ段階に入っていた。手際良く、最後にご飯にふりかけを振り、蓋をしてお弁当を包んだ。
「いつも悪いね」と男は言った。
「何よ急に」
 驚いたように、そして少し警戒するように、妻は言った。でも決して嫌そうな感じではなかった。男は無意識だった。気付いたら口から出ていた。感謝の言葉を妻に言ったのは、本当に久しぶりな気がした。
「いや、毎朝お弁当作るの大変だろうなって」
「一人作るのも二人作るのも一緒だから。ねえ、何かあったの?」
「いや、別に」
「調子悪いなら、お休みしたら?」
「いや、大丈夫だよ。今日はそんなに遅くならないと思う」
 男は玄関の扉を閉めた。妻の心配そうな表情が、残像となってしばらく目の奥に焼き付いていた。右手に感じる鞄の重みは、お弁当の重みそのものであり、妻そのものだった。そこには嘘など一つもなく、全てが真実だと思えた。

 それから一週間、細野薫子からの脅迫は止んでいた。会社にも自宅にも、何の音沙汰も無かった。連絡が突然途絶えたことは却って不気味だった。彼女は一体誰なのか、目的は何なのか、男には未だに分からなかったが、もう名前を聞くことも口に出すことも連絡を取ることも嫌だった。あの忌まわしい過去を、あのどうかしていた一日を、早く記憶から消したかった。ぼんやりしている、と言えばぼんやりしていた。現実だと思えば現実だった。せめて、妻と息子だけは、夢ではなく常に現実であって欲しかった。細野薫子は、夢の中の女であったとしても。

 マンションのエントランスに、紫とピンクを基調とした派手な名刺が落ちていた。もう落ちている名刺を拾うのはうんざりだったが、自分が拾わないと、その名刺はいつまでもそこに存在し続ける気がした。男は仕方なく、腰を屈めて文字を読んだ。会社名も肩書もなく、真ん中に大きくこう書かれていた。
 Kaoruko。
 小さな丸ゴシック体で書かれた住所は我が家になっていて、部屋番号まで入っていた。電話番号は、いつかどこかで見た番号だったが、うまく思い出せなかった。男は名刺の電話番号に電話を掛けた。スマホのディスプレイには、妻の名「ひろみ」の文字が表示された。男は慌てて電話を切った。何がどうなっているのか、男には分からなかった。折り返し、携帯が震えた。妻からだった。しかし、男は電話に出る勇気はなかった。やがて留守電に切り替わり、メッセージを残す女の声が、手の平の痒みのように伝わった。
「細野です。もう一度、人生見直しませんか?」
 頭上に照りつける陽射しは、まるで盛夏のようにぎらぎらと街を威嚇した。(了)


2016-07-30 | 超短編小説No Comments » 
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