若い夫婦がベッドの中で話すこと

wakaifuuf

『若い夫婦がベッドの中で話すこと』

 電気もつけず、春人は裸のまま台所に立っていた。妻を愛した後のやる瀬無い気だるさが全身を取り巻いていた。異常な喉の渇きは安いハイボールを飲み過ぎただけではなく、暖房の効かせ過ぎで無駄に発汗したせいもあった。真冬の夜の凛とした静寂の中、柔らかいペットボトルをめりめり押し潰すように、春人はミネラルウォーターを浴びるように喉に流し込んだ。
 寝室以外は、まるで犬のいない犬小屋のように凍りついていた。台所と布団の中の温度差はさすがに全裸の体には応えた。
 部屋に戻る途中でトイレに寄った。壁掛けのカレンダーには、二月十日に生理の始まりを示す星印、排卵予想の二十五日にはハートマークが記されていた。二十五日は得意先との懇親会が組み込まれているはずだった。
 春人は一度大きな身震いをし、もし自分に女の子が生まれたとしたらどんな顔をしてるのだろうとちらり想像した。

「寒い」
 逃げ込むように寝室のドアを閉めて、春人はベッドサイドに腰掛けた。
「本当。雪が降らないのが不思議なくらい。ねえ、海斗、大丈夫かな」
 佳子は掛け布団で胸元を隠しながら心配そうに呟いた。
「もう、とっくに眠ってるよ」
「迷惑じゃなかったのかしら」
「迷惑なんてことあるわけないよ。孫を可愛がることしか楽しみがないんだから」
「そんな言い方は失礼よ。でも初めてのお泊まりだし」
「きっと、遊び疲れてぐっすりだよ」
「気を使って連絡してこないだけなのかもしれないじゃない?」
「そんな遠慮するような親じゃないって」
「海斗のこと、気にならないの?」
「もちろん気になるよ」
「本当に?」
「うん」 
 家族への愛情は十分足りていると思うか、と問われて「十分足りている」と胸を張って即答できる男なんて実際どのくらいいるのだろう。佳子から度々差し挟まれるこうした愛情確認を、春人は半ばうざったく感じる時もあった。
「初めてのことだから。海斗がいない一夜を送るの」
「前から泊まりたがってたし、そろそろそういう経験もいいかなと思ったからさ」
 こんな想像はよくないと思いつつ、妻子どちらに先立たれる方が辛いかを考えると、それは春人にとっては間違いなく「佳子」だった。大学時代、アルバイト先で出会ってからこれまでに共有してきた時間を考えると、海斗と過ごした時間は圧倒的に短かった。
「ばあばのこと大好きだからね。でも、いくら本人が泊まりたいって言ってもその時だけなのよ。眠る時は私がいないと駄目なんだから」
「たまには佳子とゆっくりしたいと思ったし、佳子もそれを望んでいるのかと思ってた」
「もちろんそういう気持ちがなかったわけじゃないわよ? 夜泣きの一番酷い時は、この子さえいなかったら、と正直思ったこともあった。でも今までずっと一緒だったから。海斗のいない夜が、こんなに静かで寂しいものだなんて思わなかった」
 他所で赤ん坊が泣いている。子供の泣き声には二人とも条件反射的に反応してしまう。
「でも私は恵まれてるよね。実家は近いし、春人も早く帰ってきてくれるし。あと欲を言ったら、お給料がもう少し良かったらとは思うけど」
 給料の話は、春人にとって冬の寒さ以上に身に応えた。
「まあ給料が安い替わりに、こうして育児にも参加できるし、休みも多くとれる。たくさんお金を稼ぐには、それ相応の時間と家庭を犠牲にしなきゃいけないと思うよ」と春人は負け惜しみを言ってみる。
「ごめん。分かっていながら、つい。ねえ、布団に入ったら?」
 春人自身、裸のままで話していたことをすっかり忘れていた。
「パンツをどこに脱いだのかな」
「この足元にあるのが、そうかな」
 掛け布団の端から手を忍ばせて、春人は佳子の足元をまさぐる。
「やめてよ、くすぐったい」
「ちょっと手が触れただけだよ」
「油断も隙もない」
「楽しいね」
「馬鹿」
 そう言いながら、佳子の顔は大きく弛んでいる。
「あのさ」と春人。「佳子は今、幸せ?」
「何よ、いきなり」
 佳子は春人の質問の真意を探るように目をじっとみつめながら、もちろん幸せよ、と少し照れながら言った。
「幸せだよね、俺たち。給料安いけど、幸せだよね?」
「どうしたのよ」
 春人の目は真剣だった。佳子には、春人の瞳がちょっとだけ潤んでいるようにも見えた。
「もちろんよ。海斗も健康で元気に育ってくれているし。毎日、とても幸せ」
 跳ねるように布団に潜り込み、春人は佳子に腕枕をした。鼻から漏れる規則正しい呼気。混線する髪から漂うシャンプーの香り。佳子と二人きりでベッドにいる時間というものが、春人にとってはこの上なく贅沢なことのように感じた。
 引き伸ばされた枕元のフォトフレーム。春人と佳子を描いたクレヨン画。実家から誕生日プレゼントでもらった林明子の絵本。寝室は、今ここにいない海斗の思い出で満たされている。もし佳子だったら、先立つとすれば自分と海斗、どちらがより辛いと言うのだろう、と春人は思った。

「ねえ、今の音、何?」と佳子は言った。
「音?」
「瓶の割れるような音。聞こえなかった?」
「聞こえなかったな。外?」
「ベランダの方から聞こえた気がする」
 二人は互いに息の飲んでもう一度耳を澄ましたが、静寂は未だそこに留まったままだった。瓶が割れるほどの音に気がつなかった自分が、春人には不思議だった。
「ちょっと見てきてくれる? 最近、夜に変な人がうろついてるらしいの。空き巣も増えてるみたいだし」
「物騒だね。でもそんな音聞こえなかったよ? 大丈夫だよ」
「根拠のない『大丈夫』ね。いいわよ、私が行くから」
「分かったよ。見てくるよ」
 引き止めてくれることを期待しながら、春人はわざとゆっくり体を寝返らせる。
「カーテン開けたら、ベランダに刃物を持った男が立ってたらどうする?」
 春人の頭に、どこかのドラマで見たようなその光景がありありと浮かび上がる。
「脅かすなってば」
「怖いんでしょ」
「まさか」
 いい年して情けない、と春人は思う。「最愛の家族」だなんていくら格好つけたこと言っても、実際にそういう場面に遭遇した時、危険を省みず妻子を守り抜くことなんてできるのかどうか甚だ怪しい。
「海斗の方がよっぽど度胸あるわ。夜にだって、一人でおトイレ行けるようになったんだから」
「そういえばさっき、何か言いかけたのは何?」
「話をすり替えようとしてるでしょ」
「気になるよ」
「ベランダ見てきてくれたら、教えてあげる」と言って、佳子はほくそ笑む。
「冗談よ。気のせいだったかもしれない」
「で?」
「うん。あのね、ここ、触ってみてくれる?」
 佳子はごつごつした春人の手を自分の右の胸に導く。
「いや、もう少しこっち。ここ、強く押してみて」
「うん。それが何?」
「何かあるの、分かる?」
「分かる。何これ」
 春人の指の間に、捕らえどころのない柔らかな塊りがころころと動いた。
「しこり」
 息を深く溜めてから、佳子は落ち着いて言った。
「しこりって、まさか」
「まさかって、何だと思ってるの?」
 春人は口に出していいものかどうか躊躇した。
「まさか癌だなんて思ったんじゃないでしょうね?」
 図星。春人はベランダで刃物男と鉢合わせするくらいどきっとした。
「医者は行ったの?」
「ううん」
「こんなに大きな塊り、普通じゃないよ」
「しこりがあるからって、何でも『がん』だってわけじゃないのよ。乳腺炎。ほら、私よく海斗に母乳あげてる頃なったでしょ? それからもしこりができるっていうから。ただ最近、ちょっと大きくなってきたような気がするから」
「どうしてそんな大事なこと教えてくれなかったの?」
「話そうと思ったって、いつもあなた先に寝ちゃうじゃない」
 最近、酒と睡魔には本当に弱くなった自分を、春人は情けなく思った。
「医者に診てもらってから話そうと思ったの」
「もし佳子に何かあったら、俺と海斗は途方にくれる」
「私がいなくてもやっていけるわよ」
「無理だよ。料理も作れないし、掃除も洗濯も。ましてや海斗を俺だけで育てていくなんて」
「それだけ?」
 佳子の声は少し寂しげだった。春人はもう一度自分の発言を反芻し、何か間違ったことを言わなかったか、何が足りていないのかを考えたが直ぐには分からなかった。
「それは家政婦さんを雇えばできることよ。実家に協力してもらってもいいんだし。あなたのお母さんの方が、ずっと海斗のこと上手に育ててもらえそう。私の代わりなんて、他にいくらでもいるわ」
「何言ってるんだよ。海斗には佳子がいなくちゃ駄目に決まってるよ。佳子がいなくなるなんてこと考えたくもない」
 鋭い疑いの視線を、春人は感じた。決していい話の流れとは思えなかった。
「佳子とずっと一緒にいたいと思ったから結婚したんじゃないか」
「私のこと、本当に好き?」佳子は真顔で春人に聞いた。きた、と春人は奥歯を噛んだ。
「好きだよ、もちろん」
「最近、その言葉全然聞いてなかった」
 しばらくぶりに、佳子は笑みをこぼす。
「海斗が産まれてからはずっと子供のことで精一杯だったからね。昔みたいにコンサート行ったり、映画観たり、食事に行ったりなんて、全然できなくなっちゃったから。大体、二人きりで夜を過ごすなんていつ以来?」
「思い出せない」
 しばらくお互いに目を合わせるが、どちらも埒があかない感じなので、春人から言葉を繋げた。
「だから今日ってすごく貴重なんだよ。貴重だって思うと、何だかこのまま眠っちゃうのがもったいなくて」
「もうこんな時間なのね」
「いいじゃん。明日は休みなんだし」
 今日だけは、何故か直ぐに眠ってはいけない日のような気がした。酒を飲み、佳子を抱いて体も意識も疲弊しているはずなのに、不思議と睡魔に襲われずに済んでいた。むしろ、気力も体力も佳子と話している中で再び「充電完了」のランプが点灯したようだった。
 鋭く熱い何かが春人の胸ぐらに掴みかかり、半強制的に春人を鼓舞した。今日を逃したら、二人だけで過ごせる夜などもう未来永劫こないように思えた。
 春人は再び喉の渇きを覚えたが、今度は我慢することにした。佳子の側を離れてはいけないような気がした。
「ちょっと出かけない?」と春人は言った。「夜景が綺麗に見える公園があるらしいんだ。ここから二十分もかからないところに」
 少し唐突過ぎたかな、と春人は思ったが、気付いたら先に口に出ていた。
「夜景って、もうじき二時よ? 今から外出?」
 春人の無謀な提案に佳子は一瞬面食らったが、それまでとは少し違う神妙な春人の顔つきに、佳子はただならぬ気配を感じていていた。
「俺の人生これまでとても順調だった。佳子と結婚して海斗が生まれて、そんなに裕福ではないけれど、健康で幸せに暮らしてる。ただもう少し自由に行動できたらって思うんだよね。ほら、若い頃なんてさ、徹夜でお酒飲んでカラオケしたり、ホテル巡りしたりいきなりその日に思い立ってディズニーランドだって行ったりしたよね?」
「それは結婚前はそうだけど、今は海斗がいるし独身時代のようにはいかない」
「うん。だからさ、今日はせっかく海斗もいないし、このまま寝てしまうのがもったいないって思わない? ここで寝ちゃったらすぐに朝が来て、春人を迎えに行けば、またいつもの日常に戻る訳でしょ? こんな時くらい、夜中に突然思い立って夜景を見に行く、なんてことがあってもいいんじゃないかと」
 佳子には春人が冗談で言っているようには思えなかった。眠い訳ではなかったが、アルコールがまだ残っているのではないかということが佳子には気がかりだった。
「佳子ね、俺はいつでも安全地帯にいるんだよ。夜の行動は控えるとか。トラブルの種がありそうなところには近づかないとか。順風満帆の人生って結局、そういうところを避けてるだけなんだって思ってね」
「誰も好き好んでトラブルのありそうなところへいく人なんていないんじゃない?」
「もちろんそうだけど、それで万事オーケーなのか、ということが最近とても気になってて。時には、あえてリスクを背負うことも必要なんじゃないかと。もちろん失敗するかもしれない。でも、そこから得るものはあるだろうし、うまくいけば、今までの自分たちの生活では経験できなかった新しい世界に出会えるかもしれないし」
「私は今の平穏な生活で十分満足してる。平穏な生活を維持するのって難しいことなのよ?」
「今まではそう思ってた。でもそればかりでは味気ない気がしてさ。いや、たかだか夜中に夜景を見に行くだけの話だよ。でも、これまでの俺では決して選択することのない行動なんだ。ちょっとだけ、これまでのパターンをずらしてみたい。他の人にはどうってことのないことでも、俺にとっては途轍もなく勇気のいる大胆な行動なんだよ。この気持ち、分かってもらえるかなあ」
 無茶なことを言っている、と春人も思った。饒舌になっていることも自覚していた。しかし、心の昂ぶりをどうにも抑えられなかった。送り出した血液が、猛烈な速さで体内を巡り、心房を突き破る勢いで呼び戻されていた。裸のまま、今すぐにでも飛び出していきたい気分だった。
「ねえ、毎日つまらない?」
 布団をかけ直しながら、佳子は春人に聞いた。
「そんなことないよ。むしろ充実してるからそう思うのかもしれない」と春人は答えた。
 こんな会話をするのは、佳子にとっても春人と付き合い始めた頃以来の実に久しぶりのことだった。特に海斗が産まれてからは、夫婦の会話はほとんど海斗を介した話題ばかりとなっていた。
 佳子にとっても育児と家事で精一杯だったことは事実だった。未来のお互いの夢の話より、本日現在、紙おむつを少しでも安く買える店を探すことの方が大切だった。
 指の骨を鳴らすように掛け時計が鳴っていた。この瞬間まで、春人はこの部屋に掛け時計があるということをすっかり忘れていた。
 海斗がいない、初めての夜。午前中に迎えに行かなければならないことを考えると、残された時間はあとわずか。
「でも今日は家にいた方がいいんじゃない?」
「遠いところにいく訳じゃないよ。何なら、一人で行ってもいいかな」
 勢いとはいえ「一人でも行く」と言った自分に、春人は正直驚いた。佳子も目を大きく見開いて春人を見た。
「ごめん、一人でなんて行かないよ。佳子が行きたくなければもちろん行かない」
「一人でなんて行かせられる訳ないじゃない。私はアルコールを心配してるのよ」
「もうとっくに抜けちゃったよ。あれだけ汗をかいたからね」
「夜景見に行くだけなんだよね?」
「もちろん」
 佳子は今から支度を整えることが少し億劫だったが、春人の思い通りにさせてあげないと、今日一日を穏便に終了することはできない気がした。胸のしこりのことも、結局はどういう結論になったのか思い出せなかった。春人にはもう少し今の気持ちを理解してもらいたかった。
「分かった。着替えるから、ちょっと時間頂戴」
 佳子は覚悟を決めた。 
「ごめんね、付き合わせちゃって。先に行って車温めておくから」
 春人はネルシャツの袖に腕を通し、髪型を整えた。玄関で片足で立ち、ふらつかないかないかどうか確認した。しかし仮にふらついたとしても、外出を止めるという選択肢は今の春人にはなかった。

   *

 車内の温度計はマイナス一度を指していた。運転席で吐く息は手で掬い取れそうなほどに白く、フロントガラスには無数の氷の結晶がボヘミアングラスの模様のように張り付いていた。
 バイパスと都道の狭間、「百草台住宅」から少し山を登りかけたところにある高台の公園。ここは最近、地域のコミュニティーサイトの書き込みを眺めていて見つけたところだった。
 道が白く見えるのは、街灯のせいなのか霜が降りているのか分からなかった。慢性的な渋滞で普段は数珠繋ぎの踏み切りも一時停止することなく通過できた。真夜中に電車は動いていない、という当たり前のことに、春人は改めて気付いた。新たな世界への認識は、もうこんなところから始まっているのだ。
「そんなにスピード出さないで。お酒飲んでるの忘れないでよ」
「すっかり醒めてるってば」
 全く佳子は心配性だ、照明の影に埋もれる佳子を春人はちら見する。
「八十キロも出てる。三十キロオーバー」
「こんなに空いてるなんてめったにないから。でも、法定速度なんか守って走ってたら逆に危険だよ。周りの車の流れってあるから。法律を頑なに遵守したばっかりに命を落とすなんて本末転倒だと思わない?」
「最近、理屈っぽいわね」
「年のせいかな」
 佳子の顔に刻まれた一つ一つの皺。苦労ばかりかけてる自身の弱さを春人は恥じていた。日々何の目標もなく、誰にでもできるような仕事を、ただ淡々と食うためだけにこなしていく生活。佳子が期待していたのは、こんな自分だったのだろうか。夢を語り、夢を志し、そしていつか夢を叶える、未来の可能性に満ち溢れたバイタリティ漲る男の姿。その期待をいつまで裏切り続けるのだろう。
 そして、裏切りが一つ増えるたびに佳子の皺もまた一つ刻まれるのだ。悲しいかまいたち。
 
「ねえ、赤」と佳子。
「ん?」
 咄嗟に、春人はアクセルから脚を離す。
「今の信号」
「そうだった?」
「ちょっと、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「また、根拠のない『大丈夫』」
 ナビの指示通りに交差点を曲がり、初めて走る生活道路へ。センターラインもない、狭くて暗い道。
 海斗がいないのに黙って童謡聴いてることもないよなと、春人はCDの電源を落とし、暖房の風量レベルを一つ下げた。
「寂しい住宅地ね」と佳子はぽつりと呟いた。同感、と春人も心の中で答えた。最近の新しい宅地は、住む人間の存在を全く感じさせない。もっとも、こんな深夜まで起きてる家はレアな訳だが。
 不規則に点在するそれぞれの家の玄関灯を横目に、ゆっくりと車を進めた。既に星も月明かりも視界から消えていた。それは闇の深さが増したのではなく、空が厚い雪雲に覆われ始めているということだった。天気予報では、夜半から朝方にかけて雪が舞うかもしれない、と注意を促していた。
 おぼろげな外灯を反射した道路の先に、何か白い塊りのようなものが見えた。塊りには二つの小さな光が輝いていて、ヘッドライトにちかちか反射していた。このままいくと、衝突は避けられないように思われた。しかし、その塊りはいつまでも動く気配はなく、今度はじっと運転席の方を見つめていた。
 春人はそのままアクセルを踏み続けた。佳子の胸のしこりを見てもらえる病院はどこが一番いいのかということについて正に考えているところだった。
 早くどけよ。
 わざわざその白い物体を避けるためにハンドルを切り回しブレーキングすることが、今の春人にはとてもヘビーな仕事のように思えた。
 どすん、という音と共に、一瞬何かに乗り上げるような振動がシートに伝わった。
「ちょっと、何?」
 まどろみかけていた佳子は助手席で跳ね起きた。
「くそ」
 春人は車を左に寄せ、ハザードランプを焚いた。ようやく暖房で温まり始めた車内に外の冷気を入れたくなかったが、この状況では止むを得なかった。
「何にぶつかったの?」
「分からない。ちょっと見てくる」
 ドアポケットの小さな懐中電灯を手に、春人は車を降りた。衝撃のおかげで、思い出しかけていた隣町の病院の名前を丸ごと失念した。
 馬鹿猫。
 バンパーには衝撃ほどの目立ったダメージはないように見えた。足回りも特に気になるところはない。とりあえず、車が無傷であったことに内心ほっとした。これ以上、余計は出費はかけられない。バンパーは、この間佳子が狭い銀行の駐車場で柵にぶつけ取り替えたばかりだった。
 塊りは、右側リアタイヤの真後ろにあった。春人は恐る恐るその物体をライトで照らした。照らした瞬間、春人は後悔した。別に見なくても、おおよその顛末は分かっていた。茶色い革の首輪と大きな鈴をつけた白い猫の腹は真っ赤に染まり、ぴくりとも動かなかった。先ほどの鋭い眼光ではなく、真っ黒な瞳と口を半分だけ開けて春人と目を合わせた。家に戻ったらすぐにタイヤ洗わなくちゃ、と春人は思った。本当は今すぐにでも。
 春人は佳子が心配そうに車内で待っていることを確認してから、もう一度バンパーを照らした。唾を飲み込もうと思ったが一滴も唾液が出なかった。慌ててはいけない、夜景を見に来ただけなのだからと自身に言い聞かせた。
「行こう」
 春人は懐中電灯をポケットにしまい、サイドブレーキを解除した。冷静でいたい気持ちとは裏腹に、心臓が壊れそうなくらい激しく鼓動していた。
「何だったの?」
「道端にトースターが落ちてたみたい」
「トースター? まあ」
「ごめん、避け切れなかった」
「車は大丈夫? 傷ついてなかった?」
「思ったほどでもなかったよ。拭けば消えるような小さな傷がちょっとだけ。もうここからすぐだから。雲行きも怪しくなってきたみたいだし、急ごう」
「ねえ、お願いだからゆっくり行って」
「分かってる」

 車は更に住宅地からはずれた山道の傾斜を登っていく。外灯らしい外灯もなく、あるとすれば谷側の枯れ木の間から時々顔を覗かせるぼんやりとした街の明かりくらいだった。乾いた落ち葉や小枝を踏みしめるぱちぱちという音だけが、澄んだ冬の空気に増幅されて春人と佳子の耳に届いた。
 ハンドルを握る春人の頭には、さっき懐中電灯を当てた瞬間の猫の顔がありありと浮かんでいた。その不気味な映像を断ち切るように、春人は小さく頭を振って助手席に座る佳子を見た。佳子は両手を膝の上に乗せて、じっと外の景色を見ていた。春人は佳子が今何を考えているのかを想像した。胸のしこり。海斗の様子。そして、家族の幸せ。家族の未来。
「何を考えているの?」
 春人は自身の想像が正しいかどうか確かめるように聞いた。
「え、何って」 
 佳子は見透かされてるのかと驚いたように、一呼吸間を溜めてから言った。「あなたのことよ」
「俺のこと?」
「うん。春人だけはいつまでも健康でいてねってこと」
 予想は外れたが、自分のことを考えていると言われ春人は内心嬉しかった。
「みんなそうでなければ困るよ」
「春人あっての家族だもん。海斗が産まれてからなかなか春人の望みを聞いてあげられなかったのかなって」
「子供にやきもち妬くなんて、どうしようもない親だよ」
「いつまでも、家族みんな無事でいたい」
 そう言って、佳子は視線を春人に向けた。春人は前方の暗闇に目を凝らしながら、その気配だけを感じていた。
「リスクなんて負わなくていい。裕福じゃなくてもいい。家族が皆健康で幸せに暮らしていけさえすれば。それが今の私の夢」
 佳子はそこで一度言葉を切った。真夜中の夜景見物。ちっぽけなことかもしれないけど、最初で最後のリスクテイクなのかもしれないなと春人は思った。
 しばらく車を走らせると、両サイドのドアミラーに枝や葉が触れてしまうほどの細い道に入った。
「この先に本当にあるの?」と佳子は不安そうに言った。
「設定がおかしかったのかな」
「とてもそんな風には見えないよね」
 道幅はないが、もう少し走れなくもない。ナビの地図では公園付近にいることは間違いない。
「ねえ、戻りましょうよ」
「戻るといってもここじゃ切り返せないよ。もう少し行けば、いきなり開けたりするんだよ、きっと」
「どう見ても迷ってるわ。本当に車でいけるようなところ? 途中で停めて歩いていくとか」
「いや、そんなことはないよ。確かにこの先に駐車場があるはずなんだ。でもほら、ここから駅ビルが見える。こうしてみると、随分高いところにいるんだよ。この辺りなのは間違いない」
「もう気が済んだでしょ。帰りましょうよ。嫌だわ、こんなところ。怖い」
「このナビ古いから直ぐに位置がずれるんだよ。もう一本こっちの道かもしれないね。ほら、ここに一本あるでしょ、道」
「ねえ、雪じゃない?」
 ヘッドライトの周囲を、塵のような細かい雪の粒がふらふらと横切っていた。天気予報なんて都合の悪い時ばかりよく当たる、と春人。
「粒が小さいよ。たいして積もりはしないって」
「何かすごく寒くなってきた。暖房強めてくれる?」
「あれ、ガソリンがない。そうか、ランプついてたんだ。入れよう入れようと思っていて忘れてた」
 メーターの針は限りなく「E」の文字の左側まで触れているように見えた。
「帰れるの? 私たち」
「ランプついたって、まだ数十キロは走れるから」
「前からついてたんでしょ? 今だって十キロ以上は走ってるんじゃない? 自宅から」
「それ以上、走ってるかも」
「どうしてそんな暢気なのよ」
「とりあえずエアコンは切っておいた方がいいかな」
「そんなことしたら凍死しちゃう。こんなところで死にたくない」
「大げさだって。JAFもあるし」
「ねえ、もう帰りたい」
「エンジン止めてもいいかな。ちょっと言っておきたいことがあるんだ」
 寿命を全うした犬が最後の息を引き取るように、二人を乗せた車のエンジンは穏やかに停止した。お互いの呼吸音が聞こえるほど、周りも静かだった。雪の粒は春人の予想とは裏腹に徐々に大きくなり、まだらにガラスの余白を埋めていった。
 佳子はカーディガンの袖をきつく握り締めながら、外に舞う雪の行く末をぼんやり眺めていた。春人は上顎に貼り付けていたガムをティッシュに包みシガレットケースにぐいと押し込んだ。
 一度だけ春人は身震いをしたが佳子はそれに気付かなかった。掌には先の衝撃の余韻がまだかすかに残っていた。
「さっき、トースターとぶつかったって言ったでしょ」と春人は口を開いた。「あれは嘘。実は猫だったんだ」
「猫?」
 佳子は無表情のまま、春人に視線だけを向けた。
「猫がじっとこっちを見てるのに気がついてたんだ。でも俺はブレーキを踏まなかった。確かに道幅が狭いから、ハンドルを切って避けることも難しかったけど、停まる時間は十分あった」
「ならどうして?」
「無理に避けようとしてさ、こっちが万が一、万が一の話だよ? 死んじゃったとしたら、それは悲しいことだと思わない? 動物を避けようとして人が命を落とすなんて馬鹿げてるよ。でも実際にもっとスピードを出して走っている時に、それが原因で亡くなった人って、かなりの割合でいる気がする。事故処理上は『単独事故』って扱いになるんだろうけど」
「でもさっきはそんなにスピード出てなかったじゃない」
「俺はブレーキを踏まなかった。酔っていたからじゃない。ちゃんと自分の意志で踏まなかった。今となっては、どうしてそんなことをしたのか自分でも分からない」
「今日のあなた、やっぱり少しおかしいわよ」
「つまりさ、佳子がどれだけ俺のことを分かっているのか、ということなんだよ」
 話が一度流れ出したら、春人にはもう止めることができなくなっていた。本当に伝えたいことはしかしそういうことではなく、もっと、これからの二人にとって大切なことであるはずだった。
「故意に猫を轢くことがある、ということもひっくるめて、俺だっていうことなんだ」
 果たして今までのこと、そして正に今のこの状況、この空気を考えると、海斗を実家に置いてきたことが本当に良かったのかどうか。つい数時間前まで繋がっていた穏やかな日常生活がまるで遠い昔の記憶のように急速に色褪せていくのを、春人はぼんやりと感じていた。それは「自棄」とか「後悔」という単純な言葉の組み合わせでは一括りにできない複雑な感覚だった。
 顔の筋肉が、中途半端に固まった紙粘土のように強張っているのが、自分でも分かった。
「じゃあ聞くけど」と、佳子は顔を上げずに言う。「あなただって私のこと、どれだけ知ってる?」
「佳子のことは、大体分かってるつもりだよ」
「ううん、きっと何にも分かってない」
「わかってるよ。もう何年も付き合ってるんだから」
 佳子の口調から、これから彼女が口にすることは非常にシリアスな内容を孕むことを春人は感じた。ジーパンのポケットから新しいガムを出そうと思ったが止めた。
「私の男性経験、知ってる?」
「男性経験って、俺が初めての人でしょ、だって」
「うん。私がそう言ったからね」
「違うの?」
「夫婦だって、知らない方がいいこともあるのよ」
 春人の脳裏にぴりぴりしたものが走った。と同時に、交際を始めてからこの十数年間、これまで佳子の言葉を一度も疑ったことがなかった自分に気が付いた。そう、ただの一度だって。
「いや、知りたいね」と春人は言った。言った直後に「知りたくない」と言った方が良かったかな、と少し悔やんだ。
「本当はね、あなたの前に二人の男性とお付き合いしたことがあるの」
 佳子は深呼吸するようにゆっくりと、そして内側から絞り出すように言った。
「ほら、聞かない方が良かったでしょう?」
 どう返答するのがベターなのか、春人に考える余裕はなかった。
「そうなんだ。まあ、佳子だってそれなりに過去はあるだろうって思ってたから」
「本当にそんな風に思える?」
「思ってるよ」
「あなたに処女を捧げたと言ってた女が、二人も経験してたのよ? それであなたは何も感じない?」
「何も感じない訳ないよ。驚いてるし、動揺してる」
「あまりそんな風には見えないけど」
 変化に乏しい春人の表情を見ながら、佳子はやや落胆の眼差しを向けた。正直、春人にはそれが一体自分にとってどういう意味を持つカミングアウトなのかを量りかねていた。
「今まで佳子の言うことは信じてきたから」
「そうなんだ。信頼されてるんだね、私」
 春人はそうだよと言う代わりに、佳子をちらと見た。佳子はぎゅっと手指を握り締めたまま、殺風景なダッシュボード付近をぼんやり見つめていた。どれほど想像を巡らせても、春人には佳子を抱く自分以外の男の顔を想像することができなかった。したくなかったのかもしれなかった。
「本当の事なんて、やっぱり聞かなかった方が良かったと思ってるんじゃない?」
「いや、ちゃんとありのままを話してくれた方がいいよ、どんなことでも。夫婦なんだから」
「話す機会がないじゃない。夜もすぐに寝ちゃうし」
「それはいつも反省してる。お酒、少し減らすよ」
「病院に行くの、本当はすごく怖い。最近、悪い方にばかり考えちゃって」
 佳子の切なそうな横顔は、春人の胸とこめかみを更に痛めた。まるで巨大な万力で締め付けられているようだった。
 海斗のいない夜。深夜のドライブ。胸のしこり。自分以外の男。猫の轢死。ガス欠。
 とにかく今日は色々なことが一度にあり過ぎて、春人の中でうまく整理をつけることができなかった。捕まえようとする言葉もイメージも、まるで小馬鹿にするように意識の狭間からするりと逃げた。
 脳天気に順調だなんて思っていたのは自分だけだった訳か。春人は俯く佳子の膝に手を置いた。佳子の体に力が籠められているのが分かった。それはどこかいつもと違う感触だった。まるで知らない女の足に触れているようだった。
 今日を境に、先の見えないトンネルの入り口に立つことになったことを、春人はおぼろげに自覚していた。その暗闇の向こう側にあるものは、どういう訳か「幸福」と対極に位置するものである気がしてならなかった。
「ねえ、いい加減エアコン入れて。このままじゃ寒くていられない」
 二人の吐く息でガラスは曇っていた。佳子は貧乏揺すりをするように、かたかたと膝を震わせ始めた。
 春人は諦めてキーを捻った。しかしセルの回転が弱く、中々エンジンは始動しなかった。何度かチャレンジしてみるものの、最後はセルすら反応を止め、かちん、かちんという電子音だけがボンネットの奥から空しく響いた。
「ねえ、どういう訳」
「やっぱりJAF呼ぶよ」
 胸ポケットから携帯を開き、春人はアンテナを立てた。
「どうしたの?」
「圏外になってる。佳子の貸して」
「持ってきてないわ、私。慌てて出てきちゃったから」
「困ったな」
 山道と言っても、ここは東京。少し戻れば住宅地もある。春人は落ち着け落ち着けと、呪文のように自身に言い聞かせた。
「凍死するって、冗談じゃなくなってきたのね」
「そんなことないってば。さっきの家があるあたりまで歩いたらどのくらいだろう」
「結構戻るわよ。本当に歩いていくの?」
「途中で電波入ると思うから。それしか方法がない」
「嫌よ、こんな格好で」
「もちろん俺だけ行ってくるから待ってて」
「こんな山の中で、しかもエアコンも効かない車の中で一人で待ってろっていうの? それも怖い」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「わからないわよ。ねえ、こんなところで死にたくない」
「死ぬわけないよ。いずれ夜は明けるんだから。猫を轢いたあたりからおかしくなったんだ」
 さっきの呪文が嘘のように、春人は今にも泣き出したい気持ちで一杯だった。
「海斗に会いたい」と佳子。「ねえ、今すぐ会いたい。会って、あの子をぎゅって抱きしめてあげたい。もしかしたら、実家から連絡がきてるかもしれないわ。むずがって」
「やっぱり連れて帰って来るべきだったかもしれない」
「あ、あの光」
 背後で赤い光が明滅しているのがサイドミラー越しに見えた。それは音もなく少しずつ大きくなって、こちらへ向かってきているようだった。
「パトカーよ! ねえ、私たち、助かった」
 佳子は丈の長いフリースのジャンパーをわし掴んでドアを開け、春人の制止も聞かず赤い光に向かって小走りに駆け出した。
 春人は佳子の後を追う気にはなれなかった。闇の中でみるみる小さくなっていく女の背中は、まるで全然知らない他の男の妻のようだった。
 もう一度、春人は今回のこの選択が正しかったのかどうか検証しようと試みたが、それにはまだ遣り残していることが一つあった。ドライブの本当の目的は猫を轢き殺すことでも妻の告白を聞くことでもなく「夜景見物をすること」のはずだった。
 春人は車を降り、道の更に先に向かって進んだ。 白さを増す地面の冷たさと顔に降りかかる雪の粒が容赦なく春人から熱を奪っていった。
 少しずつ小走りになり、最後は全力疾走になった。途中で一度振り返ったが、パトカーや妻はもちろん、車の姿もとうに見えなくなっていた。時々路面にせり出した小枝が、振り上げる春人の手の甲に微妙な痛みをもたらした。何度も躓きかけながら、それでも春人は何かに取り憑かれたように走り続けた。
 巨大な窪みを一つ飛び越えると、突然目の前の視界が開けた。砂利の敷地に数台の車が止まっているのが見えた。そこだけ木々はぷつりと途切れ、タイルの敷き詰められた半円形の展望台が、杯のように空に迫り出していた。
 春人は激しく息を切らしながら、誰もいないベンチに仁王立ちになった。眼前の景色は遮る物もなく広い視野で見渡すことができたが、夜景を演出するはずの街や家の灯りはほとんど消され、ただ一面に黒い絨毯が敷き詰められている感じだった。街の明かり代わりに視界を跨ぐのは、外灯に反射して舞い落ちる雪の粒だけだった。これがリスクテイクの果てに手に入れた、ただ一つの収穫物。
 春人はしばらく天上を見上げ、海斗の寝顔を思い浮かべた。その顔は今の海斗の顔ではなく、まだ一歳にも満たない頃の小さな彼だった。しかし海斗の顔は間もなくかき消され、白目を剥いた血まみれの猫に差し替わった。猫の顔は酷くやつれていた。まるで印刷し損ねた藁半紙のように。
 明滅する電灯の下に、一台のスポーツカーが停まっていた。全面にスモークフィルムが張られ、バンパーにも手が加えられていた。中の様子は確認できないが、車全体が音もなく、大きく不自然に揺れているのが分かった。
 まだ呼吸の整わない口元に両手を当て、吐き出す息を嗅いだ。息の匂いよりも、息を吐く途中に感じる鼻粘膜の刺激から、まだかなりのアルコールが残っているのを自覚した。
 夫婦だからって、全てを正直に語っているわけじゃない。お互い何でも知っているわけじゃない。俺は他に佳子の何を「知らない」のだろう。
 ベンチの上に突っ立ったまま、春人の視線はいつまでも自分の住んでいる方向ではなく、よその町の夜景にあった。このちんけな寒々しい夜景を見るために支払った大きな代償。  
 佳子、本当に俺たちは助かったのだろうか?
 春人の膝は寒さ以外の別の何かでがくがく震えていた。(了)


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