チチガシラ

 洋司の出勤を待っていたかのように、電話は直ぐに掛かってきた。夜を共にした翌朝は、いつもラインを使う筈だった。
「おはよう。昨日は」
「ねえ、ないの」
「何が?」
「チチガシラ。たぶんホテルに忘れてきたんだと思う」
 憔悴した雪江の声に、洋司はただならぬ気配を感じた。
「連絡はしたの?」
「落とし物はなかったって。でもどう考えても、ホテルしかない」
 雪江は既に涙声だった。雪江のチチガシラが他人の手に渡るのは洋司にとっても辛かった。彼女のそれは、洋司が今までに出会った女性の中では指折りの部類に属していた。
「今日、もう一度行ってもらえる?」
「何とかしてみる。7時過ぎには」
「一人じゃ行き辛いから」
 電話は一方的に切れた。昨日弄んだ雪江のチチガシラの感触を、洋司は改めて思い返していた。

 昨夜の部屋は空いていた。入室するや二人はシーツと枕を真っ先にどけて、ベッドの下、照明パネル、ソファの隙間、洗面所、トイレ、冷蔵庫と目に付く所を片っぱしから探した。激しく抱き合い体を重ねたことがつい昨日の事だとはとても思えなかった。全く違った部屋にいるようだった。しかしどこを探しても、雪江のチチガシラは見つからなかった。
「困ったね」と洋司。多分、と雪江は言った。「このままもし見つからなかったら、きっと洋司、私の事嫌いになる」
 そんなこと、と洋司は否定したものの、チチガシラのない雪江というものを全く想像できなかった。
「ありえないから」
 洋司が身を寄せ、雪江に唇を近付けようとすると、雪江は身体を強張らせて顔を背けた。
「今は無理」
 ぎこちない空気が流れた。場違いの呑気なBGMがそれに拍車をかけた。雪江はその場にへたり込み肩を震わせた。大丈夫、絶対に見つかるから、慰めた筈の洋司の一言が、雪江の感情の箍を外した。背中をさすってあげることしか、今の洋司には出来なかった。

 洗濯槽の底に何か落ちているのを、女は見つけた。それはこれまでに見たことのない立派な形をしたチチガシラだった。
 女は時を忘れ、しばし掌で弄んだ後、おもむろに上着を脱ぎ自身の胸に宛がって、鏡の中のそれをうっとり眺めた。別の誰かの体のような不思議な感覚だった。手入れを怠っている髪の毛と下半身が一層強調された。前回いつ美容室に行ったのか、思い出せなかった。
 ひとしきり満足すると服を着て、洗濯かごをベランダに移した。本当は誰それ構わず見せびらかしたいくらいだった。女は胸に手を当て、それがきちんと体の一部として同化しているのを確かめた。新たな可能性のようなものを、女は予感した。

 一月ぶりの誘惑を洋司は拒まなかった。妻からの求めにはいかなる時でも受け入れるのは鉄則だった。暗闇で事を行うのは味気なかったが、愛撫を始めると、逆に自ら妻を求めた。いつもとは何かが違った。結局それが何なのか最後まで分からなかったが、昨日三度も雪江を抱いた事を考えると、体力的にも信じられなかった。
「一つ聞いてもいい?」
 妻は息を調えながら、洋司をじっと見つめて言った。
「浮気とかしてない?」
「何だよいきなり。する訳ないだろう」
 即座に否定したら余計怪しい感じだな、と洋司は答えた後で後悔した。
「今とても幸せだから。壊したくないの」
 妻は洋司の手を握った。洋司も手を握り返した。妻がそれ以上何を言うのかと、洋司はひやひやしていた。
「出張はいつ?」
「来週末。大阪に三泊」
「そう。寂しい。でもいいの。今日があったから」
「ごめん」
 自宅で落ち込んでいるだろう雪江の顔が、ふと思い浮かんだ。
「仕事じゃ仕方ないから」体の向きを変えて、妻は目を閉じた。
 チャンス。
 洋司と戯れたばかりのチチガシラに自ら触れながら、妻はにやりと笑った。(了)

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