「ごめん」と、夫は妻に言った。
「一日に何度謝れば気が済むのよ」
妻は四六時中苛立っているように見えた。理屈や真実はどうであれ、まず最初に詫びておかないと、事態はより悪化するように思えた。
「ごめん」
「馬鹿にしてる? あたしのこと」
「馬鹿になんて」
「ならどうしてあたしの言ったことをちゃんとやってくれないのよ。リモコンの片付け方はいつも雑だし、風呂場の髪の毛も捨ててないし、煙草臭い服にファブリーズしないし、頼んだ郵便物が二日間も鞄に入れっぱなしだなんて」
「本当にごめん」
「ごめんごめんて、謝れば済むと思ってる? 人の顔見ればごめんばかり」
「ごめんばかりってことは」
「今度数えてあげるわよ。一日どれだけごめんて言ってるか」
実年齢より十は老け込んだ妻の顔を見ていると、夫はどこか申し訳ない気持ちで一杯だった。
翌朝、布団から出てトイレに行く際、妻の脚を踏んだ気がして、夫は反射的に「ごめん」と言った。
「一回目」
寝ていると思っていた妻が向こうを向いたまま、布団の中で呟いた。一部屋ごみを回収し忘れた事を妻に指摘された時には既に五回目だった。口に出すまいと意識していても、妻の顔を見ると「ごめん」と言わない訳にはいかなかった。妻の顔にはいつも「一生謝れ」と書いてあるようだった。
一日が終わり、もう途中から数えられなくなったと妻に言われ、夫は口から出かけた例の三文字の言葉を寸前で飲み込んだ。
「それより、今日実家に電話入れてくれた?」
「ごめん、忘れてた」
妻はいい加減うんざりといった感じで布団を被った。ごめん、と夫はもう一度呟いて、卒なくこなせない自身の不甲斐なさを責めた。
トイレットペーパーの三角形が歪だった事への指摘について「ごめん」と夫が詫びると、妻は手にした金属の塊を一度だけぎゅっと握った。
「今度はこれで数えるから」
うさぎへの餌やりが足りない事を指摘された時にも、妻はカウンターを押した。
「九八回。酷いわね」
その日の最後、妻はカウンターの数字を読み上げて言った。妻の手からカウンターは片時も離れることはなかった。スマホよりもカウンターを握っている時間の方が多いくらいだった。
やがて、妻は夫と目が合う度にカウントし始めた。
「謝ってないのに?」
「いらっとした時も数えることにした」と妻は夫を射竦めた。夫にはもはや打つ手はなかった。
妻のカウンターは四六時中増え続けた。眠っている筈の丑三つ時でさえ、かちん、かちん、とカウンターの数字は刻まれた。「夜中でもカウントするんだね」と夫が聞くと、「あなたが夢に出てきたから」と妻は目の下に隈を作って言った。
「夢の中でもいらいらさせてるんだね」
「そうよ」
「ごめんね」
妻は深い溜め息をつきながら、三度、カウンターのボタンを押した。
いよいよ、カウンターはそれ以上数えられなくなった。五桁まで行くと、またゼロに戻るようになっていた。それを機に、妻の興味はカウンターから離れ、夫の言動に一々反応することはなくなっていた。買ったばかりのぴかぴかのカウンターは、乾電池やイヤホンと同じように、キャビネットの小物入れに放置された。
「もう数えるのは止めたんだ」と、恐る恐る夫は聞いた。
「いらいらを数えたって、余計いらいらするだけだから」と妻は答えた。
「逆に、あなたが何かいいことをしてくれた時にカウントしてみるわ」
そう言って、妻は珍しく夫に微笑んだ。穏やかな妻の顔を正視するのは久しぶりだった。わだかまっていた積年の胸のつかえが取れ、ようやく夫婦のあるべき姿に戻れた気がした。
それから半年が経過したが、カウンターは一度も押されることなく、いつしか二人の目に触れる場所から消えて無くなっていた。(了)