『かわいいうさぎ』

 うさぎはかわいいばかりではなく、物覚えがよくて、鳴かないのでうるさくないし、におわないし、家族の一員として迎えるのに最適な動物の一つです。しかし、そのうさぎと一緒に暮らすための情報、特に健康を保つための正しい接し方、正しい食生活等の情報が少なく、また誤った情報が横行しています。うさぎにとっての本当の幸せは何だろうということを真剣に考える飼い主さんになってください。 
(さいとうラビットクリニック院長 斉藤久美子著『かわいいうさぎ』より)

 こうなることは、最初から分かっていた。そもそも自分自身のこともろくに出来ない小学生に、日々のペットの世話など勤まるは筈がない。いや実のところ、うさぎを飼おうと言い出したのは、娘じゃなくて妻の方だ。
 いつから「ハムスター」が「うさぎ」に化けてしまったか。娘の誕プレに名を借りて、結局は自分が欲しかっただけではないか。最初にうさぎの本を買ってきたのも、方々のペットショップを渡り歩いたのも、そして最終的に茶色いネザーランドドワーフで決着をつけたのも、妻だった。娘は徹頭徹尾、「ゴールデンハムスターがいい」と言い張っていたのだ。
 しかし今更そんなことを言っても仕方ない。既に我が家では、第二子を諦めた代償とも言うべきやんちゃな小動物が、ダイニングテーブルの脚の周りをぐるぐる駆けずり回っている。時々思いついたように俺の足元にやってきては、汗臭い靴下の上から親指の先をがぶりとやる。その度に俺の身体に電流が走り、手にしたビールグラスを放り出しそうになる。
 ハルといううさぎの名前、正式には「ハルミツ」である。「ハルミツ」とは俺の名前でもある。悪趣味な命名だ。ペットの名前が呼ばれる度に、俺もいちいち反応することになる。何故そんなややこしい名前にしたのか。普通ペットにはもっと可愛らしい名前を付けるものではないのか。
「挙動が何となくあなたに似てたのよ。雄だし」と妻は言う。愛くるしいペットに同じ名前を付けてもらえたのだからもっと光栄に思え、と言わんばかりである。彼女との付き合いも長いが、年々考えていることが分からなくなっている。妻が耄碌し始めているのか、俺の感覚が鈍磨しているのか。
 ちなみに、放り出しそうになるグラスの中身は厳密に言うとビールではない。所謂「発泡酒」とか「第三のビール」とか言う紛い物である。それも皆この凶暴粗悪で憎たらしいうさぎのせいだ。飼育するための床材や消臭剤、牧草、ペレットなどの飼育費用を捻出するために真っ先に削られたのは俺の酒代だった。妻の衝動買いや娘の習い事を自粛する方がよっぽど節約になると思うが、そこは聖域、暇さえあれば「金がない金がない」とぼやいているくせに、自分や娘の自己投資、そして新たにペットを飼うお金はある訳で、女の理屈は良く分からない。
 「黒い衣類」に反応しているようで、俺は靴下を脱ぎハルの顔に被せると、ぶるんと払いのけて、床に転がっている木の切れ端をかりかり齧り始めた。脱いだ靴下には全く興味ない様子。ただ単に、こいつは俺の脚を齧りたいだけなのかもしれない。
 妻と娘は今頃浦安のシェラトンホテルでフランス料理を食べている筈である。今日がランドで明日がシー、いや明日がランドで今日がシーとかいう行程については、俺の知ったことではない。
 商店街のくじ引きで、俺が引き当てた特賞。
「シェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテルで過ごす~二泊三日ディズニーリゾート満喫の旅~ペアでご招待」。
 但し、引き当てた当人は、今こうして自分と同じ名前のうさぎと戯れながら寂しい食事をしているという訳だ。
 うさぎが留守番できるのはせいぜい一泊。二泊では水や餌切れが心配だし、ケージから出られないストレスも溜まる。駄目元で、「ピーターラビットのアトラクションなら同じうさぎ同士だし絵になるのでは」と、ハルも一緒に連れて行くというアイデアを妻に提案したのだが、そんなアトラクションは存在しないし、そもそも「ピーターラビット」はディズニーキャラクターではない、動物の連れ込みも不可である、と即座に一蹴された。
 逆に「その無知さ加減が堪らなく気に入らない」から始まり「貧乏ゆすりが酷過ぎる」「トイレの後が臭い」「携帯代が高いのは浮気でもしているのか」「『今日は晴れる』と言うから傘を持たずに出かけたのに土砂降りの雨に降られた」などと半ば言いがかり的な集中砲火を浴びることになった。俺は浮気なんてする小遣いも貰ってないし、百戦錬磨の気象予報士でもない。
 ともかく、チケットは二枚しかないし、ハルの面倒を誰かが見なくてはいけないということで、明後日まで、俺が留守番をするはめになったという訳だ。(→続きはAmazon(Kindle版)で)