『湿疹─ステロイドと赤い下着─』

 妻を壊したのは、私だった。彼女がおかしくなったのは、私が失業した辺りからだった。私も壊れていた。壊れた男女からは、壊れた子供しか生まれてこないのは当然だった。従って、娘も壊れていた。この家でまともなのは、電波時計と電子レンジくらいだった。世の中もおかしかった。皆おかしかった。ではいつまともだったのかと言われると、正確に思い出すことは出来ないが、少なくともちょっと前までは、今よりもずっとましなはずだった。

 揺らぐ足取りは、連日の猛暑のせいばかりではなかった。姿勢を保つための大切な梁が欠落していた。疑問符のように湾曲している背骨のお陰で、丘陵に切り開かれたゴルフコースより、乾いた蝶の羽を巣に運ぶ黒蟻の様子が良く見えた。しかし、それは注意深く観察している訳ではなく、一方的に網膜に反応しているだけだった。その証拠に次の瞬間には蝶の羽も黒蟻も、私の使い古したランニングシューズの靴底に消えていた。
 とにかく私は、一刻も早く自らに課せられた責務を全うし、冷たい缶ビールを喉に流し込むことで頭は一杯だった。
 園のドームが視界に入る頃には、前髪やもみあげからぽたぽたと汗が流れ出ていた。昨夜の深酒がまだ抜け切れていないのだ。
 自販機の売上勘定をしている老婆の一瞥を、私は無視した。路上駐車を警察に通報したのは間違いなく彼女だった。
 幹線道路から二本も三本も隔たった静かな住宅街の路地。元来、取り締まりを行うような場所ではない。煙草が三十分売れなかったからといって生活に困ることはないだろうに。人は皆、お互い我慢し合って生きているんだということを微塵も想像できないエゴの老醜。
 日に焼けたアスファルトが、腐食した塩化ビニールのように歪んで見えた。灼熱の太陽から放たれる光の針は容赦なく私の頬を刺した。ハナの柔らかな温もりは湿った掌から小指の第一関節にまで移動し、わずかな衝撃さえあれば簡単に消えて無くなりそうだった。妻から私に託された、責務の履行。
 不意に足元を掬われ、私は道沿いの生垣にどすんと腰を打ちつけた。完璧に油断していた。ハナは驚くでも笑うでもなく、自分の親指をしゃぶりながら「なにしてるの?」とだけ言った。
 私はハナの無表情な顔を見ながら、しばらく立てずにいた。尻の下に固い植物の根が当たっていた。右足は宙に浮き、左足は側溝に転がるインスタントラーメンの容器を踏み潰していた。老婆の姿はもうなかった。空はブルーハワイの原液を流し込んだような青さで地上を脅迫していた。
 入社十年、ようやく一人前として認められつつあった勤務先が、ハナが産まれるのを待っていたかのように倒産した。それは、あまりにも突然の事故であり、結婚当初思い描いていた我々の人生設計は大きな変更を余儀なくされた。幸い、大手広告会社で働く妻のお蔭で、何とか家族三人が食べていけるだけの収入はあった。
 時折、求人チラシに目を通すものの、子供を園に預けている時間帯だけ雇ってくれるような都合のいいところはどこにもなかった。
 かといってフルタイムで働くとなると、ハナを送り迎えすることが出来なくなる。妻は今の幼稚園が気に入っていた。家計は厳しいが、ハナの面倒や家事を私に任せられる今の状況も満更悪くはない、と彼女は判断した。ハナが大きくなるしばらくの間、妻は私が家にいることを望んだ。私は妻の言う通りにした。妻とはこれ以上、自分のことで諍いを起こしたくはなかった。
「ねえ、はやくいこうよ」
 ハナはいつまでもぼうっとしている私のシャツの袖を引いた。私は諦めて起き上がり、尻と掌についた土を払った。親指の先から少し血が流れていたが、それは倒れた時に切ったものなのか、ささくれが裂けているせいなのか分からなかった。
 煉瓦造りの瀟洒な門をくぐると、ハナは私の手を振り解き、教室の入り口に立ちはだかる「トトロの木」に向かって一目散に駆け出した。ドーム型の天井はまるで巨大なビニールハウスのように広い園庭を丸ごと包み込み、厳しい夏の紫外線を和らげていた。
 園には、私よりずっと若い多くの母親達が我が子の手をひいて歩いていた。ここに来る度、私はなぜか人を殺めた指名手配犯のような後ろめたさを感じた。あるいは女装して外出しているような気恥ずかしさを。
 時々、私と同じように送り迎えをする父親もいるが、彼らは大半がスーツか小綺麗なポロシャツを着ていた。その度にTシャツに短パンなどという格好ではなく、もっときちんとした身なりをしてくれば良かったと後悔した。
 「やまゆり幼稚園」の年少クラスにハナを入園させて三ヶ月、園のリズムにも大分慣れてきた。ハナは結婚して八年目にようやくできた子供だった。一人っ子は可愛そうだと思いながらも、妻が唯一の稼ぎ手である現在の状況では、精神的にも経済的にも二人目は難しかった。(→続きはAmazon(Kindle版)で)