『例えば、満月の夜の奇妙な行為、妻の変容と世界平和、そして』

「あなた、ちょっと起きてよ」
 寝入りばなを妻に起こされ、私の意識はしばらく混濁していた。
「こんな時間に、何の音?」
 枕元の時計は午前一時を少し回っていた。大きく伸びをした後で、私は妻の注意する方向に聞き耳を立てた。ぱん、ぱん、という破裂音が、一定の規則性を保って鳴り響いていた。それは布団を叩くような音だった。
 五回鳴って三回分の休符、それからまた五回鳴って再び休符と、そのリズムが淡々と反復していた。日中であれば、この程度の物音など気になることはないのだろうが、さすがに深夜ともなると耳に障る。
 妻はくしゃくしゃの髪の毛を余計に掻き毟りながら、一度携帯をチェックした後で面倒臭そうに腰を上げた。妻が行動を始めたとなれば知らんふりして横になっている訳にもいかず、力の入らぬ体躯をどうにか起こして、私も眼鏡をかけた。
 妻は居間の明かりを消したまま、窓を開けて網戸に耳を付けた。聞こえてくる音のリアルな質量と手ごたえから、我が家とそれほど遠からざる場所に音源があることは、未だ半覚醒状態の私にも理解できた。

 恐る恐るベランダに出た妻は手すりに手を掛けて、隣家を覗いた。深夜とはいえ、乱れ髪のすっぴんに、下着も着けていない薄手のルームウエアという余りにも無防備な妻を、私はひやひやしながら見守っていた。
 やがて妻は何かの確証を得たのか、放り出すように健康サンダルを脱いで網戸とドアを閉め、洗面台の明かりをつけて髪を梳かし始めた。
「何だったの? どうするの?」
 私は酷く胸騒ぎがした。
「文句言いに行くのよ」
 語気の強さから、それが冗談ではないことを察した。
「こんな時間に?」
「こんな時間だからじゃない。あの女、ちょっと頭おかしいのよ」
 妻は明らかに苛立っていた。子供を流産して以降、彼女は何かに付けて身の回りの人や世の中の出来事に文句をつけるようになっていた。自宅で不満を発散させる分には私さえ我慢すればいい話だが、「文句を言いに行く」となると相手のあることであり、逆切れでもされたら更に面倒な事態を招きかねない。
 あの女、という言い方からして、妻は日頃から隣人を良く思っていないようだった。昼間地元にいない私にとって隣人の女性とは、通勤に居合わせる女性やマクドナルドの店員らと同じ類だった。もちろん、顔の印象も記憶もなかった。(→続きはAmazon(Kindle版)で)