不倫の末路にある、あまねく倦怠的な

 ソファの肘掛けはひび割れていた。今までここで何組の男女が粘液を交わし合ったかを思うと、せめて下着くらいはきちんと着るべきだったと後悔した。
「次はいつ会えそう?」
 口紅を塗る前の最後の口付けを交わした後で、女は聞いた。
「年度替わりは何かとね。来月下旬を過ぎれば」
 手持ちの現金を頭に浮かべながら、男は答えた。
「そんなに先?」
「ごめん」
「その辺、多分生理」
 男は何も答えなかった。シャツを着る時、脇の下に痛みを感じた。二回目の性交の際に違えた筋だった。年だな、と男は思った。会社のロゴ入りの社章が上着に付いたままだった。女と会う時は、社章と指輪は外すと決めていたのに、今日はそのどちらも忘れていた。
「無理言っちゃ駄目だよね。分かった。また調整しよ」
「本当にごめんね」
「そんな謝らないで。私だけが凄く我儘言ってるみたいになるから」
 女はバスローブを脱いでブラを着けた。女の下着は、いつも初めて見るものだった。色もデザインも男の好みだったが、鮮度が保たれるのは、会って最初に脱がす瞬間までだった。
 矢鱈に気だるかった。これから電車に乗って帰ることを思うとうんざりした。頭もくらくらしていた。女は無言のまま三面鏡に向かって化粧を進めた。家に帰れば思春期の男の子を二人抱える母親だった。もしこの事実を知ったら、と男は考えて止めた。男の思考はいつもぶつ切りで結論は先に送られた。
「ライン、ちょっとだけいい?」と女はスマホを手に言った。「明日から修学旅行なの」
「もちろん」
 男も自分のスマホを見た。妻と会社から一件ずつ着信が入っていたが、どちらも留守録はなかった。テーブルのゴミを片付け、空き缶を潰し、くしゃくしゃのシーツを伸ばした。女が難しい顔でラインを打っている間、男は手持ち無沙汰だった。ごめんね、と女はスマホを仕舞った。
「お待たせ。ごめんね、文也、本当」
「何が?」
「ううん、色々と」
「謝ることなんて何もないよ」
「せっかく二人だけの時間なのに」
「お互い家庭があるんだから仕方ないよ」
 女は肩の力を抜いて、男に微笑んだ。男は上手く笑顔を返せなかった。とにかく早くこの場から立ち去りたかった。ホテルのキーを掴み、行こうよ、と女に言った。

 濃密な夕暮れが辺りを覆っていた。ホテル街から駅までは少し遠回りの道を選んだ。外に出たらお互い離れて歩くのが暗黙のルールだった。しかし女は、男の側を中々離れようとしなかった。
「手、繋いでもいい?」
 予想外の言葉に、男は息を飲んだ。一緒に歩くだけならまだしも、手を繋いだら言い訳は出来ない。この明るさだと、顔を識別することはまだ充分可能だった。
「ちょっと危険じゃない?」
「ホテルから出たらもう知らん振りなんて寂し過ぎる。大通りに出るまででいいの」
 男の返事を待たずに女は男の手を掴んだ。男は諦めて握り返した。この界隈も会社の営業のテリトリーだった。擦れ違う人々が皆自分達を観察している気がした。
「夢はね、昼間の太陽の下で、普通の恋人同士みたいに手を繋いで町を歩くことなの。でもそれは一生叶わない」
 誰か知り合いに見られたらまずいのはお互い様なのに、男はいつでも手を引く準備は出来ていたが、駅に近付けば近付く程、女の握力は益々強まった。

「また連絡して」
 別れた後の電車で、女からラインが入った。男は直ぐには返信しなかった。潮時という言葉が頭に浮かんだ。別のライン通知は同僚からだった。
「奥さん、変えた?」
 末尾に置かれたアニメの顔文字がにやにや笑っていた。まだ七時なのに、外は深夜の様だった。下腹にひりひりとした痛みを感じた。
 俺だって三人の子供の父親なんだよ。
 吊革に掴まったまま、男の意識は失われつつあった。(了)

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