熟睡

 何時まで寝てるのよ、と頭越しに妻は怒鳴り、玄関にごみ袋を放り投げた。代休なのに朝寝坊も出来やしない。混線した寝癖を水で撫で付け、ダウンコートを羽織った。一日出し忘れたからといってどうだというのだ。トイレの汚物をドラッグストアの色付きのビニールに入れ、袋の奥深くにねじ込んだ。

 既に冬至を過ぎ、向かいの家の屋根には霜が降りていた。素足にサンダルはさすがに冷たかった。側面から竹串が突き出ていて、袋が裂けていることに気付いたが、見なかった事にした。破けるなら、派手に破けてしまえばいい。
 今年もあと僅か、状況が劇的に、いや緩やかでも好転する見込みがあるのなら、指折り数えて年越しを迎えようとも思うが、何一つそうした材料はなかった。むしろ年明け早々、子供の受験やら母親の手術やら仕事の配置替えやら懸案は山積みで、考えるだけでも気が重かった。

 妻の要求は日々堪えた。しかし原因は自身の不甲斐なさにあると言い聞かせた。妻と結婚する時に思い描いていた未来の経済水準には、いつまでたっても辿り着けずにいた。

 マンションの階段は、断崖のようだった。号泣できれば少しは気も晴れるのだろうが、泣き方を忘れていた。ごみ置き場までの道程が、途方もない苦役に思えた。

 ようやく目的地に着いた頃、既に息は上がっていた。俺は破けずに堪えたごみ袋をネットの中に入れた。

 反対側の不燃ごみ置き場に、木製のベッドが道路にはみ出して捨てられているのが見えた。「粗大ごみ」の札は付いておらず、くしゃくしゃの掛け布団と毛布、枕も載ったまま、まるで誰かの寝室からそのまま運び出したようだった。
 駱駝色をした毛布が実に温かそうだったので、俺は片足を突っ込んだ。まだ誰かの温もりが微かに残っていた。羽毛布団の膨らみが豊満な遊女に見えた。誘惑に抗うことは出来なかった。気付いたら、首まですっぽり布団に収まっていた。そのまま眠りこんでしまうことは、粗方覚悟していた。
 俺が家にいなくても、家族も世の中も問題なく回るのだ、そう思うと、身体から力が抜けた。涙が零れ、こめかみを濡らした。泣く方法などないのだ。勝手に泣けてくるというだけなのだ。

 それから俺はどれだけ眠り込んでしまったのだろう。少なくとも、季節が一巡していることは間違いなかった。
 途中、二度目が覚めた。一度目は春だった。桜の花びらが青い空を舞っていた。満開の桜の木をこの目で見たいと思ったが、どうにも身体が言うことを聞かず、再び眠りに就く他なかった。

 そして二度目は晩夏の頃。余りの日中の暑さに毛布はもちろん、着ているものを脱いでも凌げなかった。ごみ置き場のベッドに半裸でいてさえ、声を掛けたり、助けようとする者はいなかった。それでも夜は急激に冷え込み、さすがに裸では涼しかった。布団を被り、再び温もりを取り戻した頃、猛烈な睡魔に襲われた。

 次に目覚めた時、俺は普段着で外出先から帰宅したところだった。格好からすると恐らく、ごみを捨てに行ってから一年振りの帰宅だった。
 おかえりなさい、と妻は珍しく玄関まで出向いていた。

「誕生日でしょう? 前から欲しがってた物よ」

 四畳半の部屋一杯に、木製のベッドが置いてあった。ヘッドボードも枕もくしゃくしゃの掛け布団も、実に良く知っていた。まるで誰かの寝室からそのまま運び入れたようだった。

「睡眠不足とか、もう言わないで」

 妻の顔は、漂白した砂鉄のようだった。子供部屋の扉には大きな穴が開いていた。パソコン机の脇に、母親の写真が置いてあった。懸案はより致命的な地点にまで深刻化しているのを、俺は即座に感じ取った。せめてベッドだけは、俺以外の誰かの体温で温められていることを切に願った。(了)

2件のコメント

  1. 何かが破れそうで破れずにギリギリの危うい均衡を保っている感じね。いつか破れる日がくるのかしら
  2. カウさん、いつもありがとうございます。 ぎりぎりの均衡はモチーフですが、じきに弾けてしまうかもしれません。 そうしたら、是非破片の回収お手伝いしてください。

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