『形而上の女、予定調和な男』

1.『きのこ奇譚』 

 私の頬に「しめじ」が生え始めたのは、おそらく一昨日あたりのことだった。マーブルチョコのような傘といい、石づきから伸びる白い茎の感じといい、図鑑で調べた中では「釈迦しめじ」という種類が一番それに近かった。隙間なく凛と群生する居住まいは、なるほど、釈迦の螺髪によく似ている。
 顔から「しめじ」が生えるという現象は、極めて非現実的な気もするが、実はこの一か月の間にかなりの頻度で夢に見ており、湿った日陰のような人生を歩んできた自身の半生を振り返れば、満更ありえない話でもなかった。血脈のように体内に張り巡らされた謎の菌糸体、今正にその姿を現す要件が整ったという訳だ。

「次長、顔に何かついてますよ」
 給湯室脇の喫煙所で一服している私を見て、経理部の峯尾佳代は言った。会社は家庭用調理器具の販売を行っていた。一時は株式上場を目指していた時代もあったが、長引く不況とアジアからの安価な輸入品のせいで売り上げはじり貧、営業拠点も縮小していた。いつ首を切られるか分からない暗黙の圧力の元、お互いの顔色を窺いながら、薄氷を踏むように個々の仕事を黙々とこなす職場の空気は殺伐としていて、呼吸するのも苦しくなる時があった。
 そうした中、器量と愛嬌を兼ね備えた佳代の存在は、私にとって一服の清涼剤であった。経理部の彼女と営業職の私では部署は違うが、まめに動くし気遣いもしてくれるので、役職定年が近い五十半ばの妻子持ちである身をわきまえず、自身の部下以上の好意を寄せていた。
「顔?」
 髭の剃り具合をチェックするように頬を撫でると、いびつな凹凸があるのを指の腹に感じた。
「ちょっと失礼」
 男子トイレで鏡を覗き込むと、右頬がおたふくのように赤く隆起し、その盛り上がりの中心部分に、直径五ミリ程のぶつぶつした突起物がいくつか散らばっているのが見えた。今朝、髭を剃っている時には全く気付かなかったが。
近頃は髭を剃っていても、顔などろくに見ていない。身だしなみは寝癖やふけさえなければいい。シャツもスーツも、箪笥の端から順繰り着回しているだけだ。年齢を重ねれば重ねる程、自身への関心は薄らいでいた。(→続きはAmazon(Kindle版)で)