最後の忘れ物

  近頃、電車に忘れ物をすることが多くなっていた。片道一時間半という通勤電車の中で、必ず一度は熟睡してしまうというのが原因の一つだった。車輛の揺れであったり、冷暖房の効いた車内の温度や静けさが、何とも心地良かった。音楽を聞いたりゲームしたりもするのだが、どのような手を講じても、知らぬ間に睡眠モードのスイッチが入ってしまう。これが座っている時だけではなく、立って吊革に掴まっていてもそうなのだからたちが悪い。どれだけ疲弊しているのだろうと思う。
 しかし不思議なもので、乗り過ごすということはなく、発車のアナウンス中に大抵目が覚めて、そのまま身一つで飛び降り、扉が閉まった頃に網棚に置いた荷物を虚しく見送るというのが毎度のパターンだった。傘や弁当箱はもちろん、ビジネスバッグを丸ごと置き去りにしてしまうことも何度か経験した。後で見つかればいいのだが、見つからないこともあった。

 そして先日、いよいよ体の一部を置き去りにしてしまった。物ならいくらでも替わりはあるが、さすがに手足となると、百貨店やコンビニでは売られていないし、長年慣れ親しんだ物でないと日常生活にも支障をきたす。それにしても手足を忘れてくるなんて、疲れてぼんやりしているにも程がある。身体すら統率しきれない自身が余りにも愚かで情けなく、迷惑をかけっぱなしの妻にも、この時ばかりは何の言い訳のしようもなかった。
 JRの「お忘れ物承り所」に連絡しても、手足の忘れ物は、未だに届けられていない。他人の手足なんて持って帰っても何の使い道もないだろうに。もっとも、そんな大事な物まで忘れるような輩は少し頭がどうかしている、ちょっと懲らしめてやるべきだと、そのまま駅のダストボックスに捨てられてしまったのかも知れない。
 多少の不便は感じるものの、どうしても右手左足がなければ生きていけない、ということでもないので、日常生活も結婚生活もどうにか維持はできている(妻にはほとほと呆れられている)が、これ以上身体を忘れることは生命の危機に瀕する為、それ以来、いくら電車が空いていても座席には決して座らず、片足で立って乗ることにしていたのだが、やはりそれでも私の中の強烈な眠気の魔物は、時ところ構わず襲ってくるのである。

 そして懲りない私は、いよいよ致命的なミスを冒してしまったのだ。閉まる扉の向こう側で、頭部のない片手片足の胴体が吊り革を握りしめたまま立ち続けている様を見た時、私は愕然とし、凍りついた。
 身体そのものを置き去りにしてしまった私は、ホームのベンチで途方に暮れた。さてこれから職場まで行かなければならないというのに、どうやって歩を進めたら良いのか。頭部のない「他人の身体」を借りれないものかとも思ったが、いくら東京広しと言えども、そう都合良く見つかる筈はない。「お忘れ物承り所」に連絡を取ろうにも、電話のボタン一つ押す手段もない。
 駅のホームは、いつも通り人々で溢れていた。側を通る者は、私の存在が忘れ物なのか造形物なのか晒し首なのか理解不能な疑問符を一瞥に含ませながら、あまり関わりたくないという感じに足早に通り過ぎていった。当然だ。皆、私のように先を急いでいるのだから。
 清々しい薫風を浴びながら、私は次の展開がどういう事になるのか想像を巡らせた。時間がくれば、やがて今の場所でもうたた寝を始め、出発のベルにここが電車内だと勘違いした私は、遂に最後の忘れ物をすることになるだろう。ベンチに頭を置き忘れ、私の意識だけが電車に飛び移るのだ。
 悲しい哉、妻や子供の記憶からも、職場の同僚の記憶からも、私という人間の存在自体、綺麗さっぱり忘れ去られることになるだろう。(了)

2件のコメント

  1. 情景を想像すると可笑しいような、恐ろしいような…ですね。現代の疲弊した社会を揶揄しているようでもあり。 楽しく読ませていただきました ^_^
  2. ミッチェルさん、感想ありがとうございます。疲れてるのは間違いないですね。ディテールのところどころはノンフィクションです(笑)

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