水漏れ

 三日前からこんな感じなの、と妻は蛇口のレバーをゆっくり上下させながら言った。継ぎ目から、水が漏れていた。操作の仕方によって、じんわり染み出す時もあれば、飛沫が噴き上がる瞬間もあった。
「直せる?」
「パッキンだとは思うけど、部品がないから今は無理だよ」
「じゃあ今夜は? ずっとこれじゃ水道代が」
「今日は飲み会があって」
「明日は?」
「会議で九時過ぎ。駅前のホームセンターは何時までやってるの?」
「八時」
「間に合わないな」
 夫は時計を見た。一つ思い出した仕事があり、一本でも早い電車に乗りたかった。
「クラシアン頼んだら」
「パッキンくらいで簡単に言わないでよ。ただじゃないのよ」
「ごめん、そろそろ行かなくちゃ」
 三日前からの話を何故今このタイミングで言うのだろう、と夫は思った。妻からの大事な話は、決まってゆっくり耳を傾けられる態勢になっていない時だった。
「私じゃどうにも出来ないから相談してるのに」
 妻も苛立っているのが分かった。パッキンと言ってはみたものの、自分で交換した記憶はなく、出来るかは疑問だった。有料でも業者に見てもらうのが一番早いし確実だ。
 水漏れ具合に変化はなかった。妻はどうにか止められないかと、継ぎ目の金属を左右に回したり、指で隙間を塞いでみたりしたが全く効果はなかった。
「業者呼ぼうよ」
「パッキン交換すれば直るんでしょう?」
「それはやってみなくちゃ分からないから」
「やってよ」
「だから、今は時間がないって」
「いつやってくれるのよ」
 妻のけちさ加減にも限度がある。夫は無言でその場を離れ、コートを羽織った。妻はずっと洗面所で格闘しているようだった。後ろ髪はひかれるが、やり忘れていた仕事の事で夫の頭は一杯になっていた。水漏れは放置しても少し水道代が増えるだけだが、仕事の失敗は、お金ではなく精神的ダメージを受ける。
行ってきます、と夫は家を出た。もちろん、妻から折り返しの返答はなかった。

 昼休みに、今夜の飲み会が中止になった旨をメールしたが、妻からの返信はなかった。返信がないということは、緊急事態は免れているのだと夫は勝手に判断した。
 帰宅すると、妻は不在だった。洗面台の蛇口は特に異常なく、漏水は止まっていた。レバーも継ぎ目も、新品のようにぴかぴかだった。それから三十分程して妻は帰宅した。
「飲み会じゃなかったの」と妻は驚いたように言った。
「メールいれたよ」
 夫が履歴を確認すると、メールは未送信フォルダに入っていた。
「たまたま隣の望月さんと駐車場で会ってこの話をしたら、直ぐ飛んで来てくれて全部取り換えてくれたのよ。ねえ、水道工事屋さんで働いてるんだって。偶然でしょ? 本当、助かっちゃった」
「そうなんだ。奥さん凄いね」
「何言ってるのよ、旦那さんの方よ。とても若い旦那さんで超イケメンなの」
とても嬉しそうに、妻は言った。
「いくらだったの?」
「ただ。奥さん綺麗だから代金いらないって」
「ただなんて、それは駄目だよ」
「嘘よ。明後日はね、トイレの水が中々止まらないのも直してもらうの。どこかの人と違って、頼もしい旦那さん」
「明後日、会社休むよ」と夫は言った。胸騒ぎがしてならなかった。
「休む必要ないじゃない。望月さんがやってくれるんだから」
「いや」と言った後で夫は言葉を濁した。若い隣人が昼間の我が家に上がり込み、トイレや風呂場を覗き見ている姿が、それを幸せそうに追っかけている妻の姿が、どうにもいたたまれなかった。
「仕事休めないって、あれ程言ってたくせに」
 妻は夫を一瞥した。予定も確認せず勢いで休むと口走ったのには、夫自身も驚いた。
「たまにはランチでもしようよ」
 その言葉は他人の呟きのように、虚空に消えた。(了)

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