『愛のミステリーツアー』

 今回の旅行は最初から気乗りがしなかった。そもそも「ミステリーツアー」など時代遅れな感じがしたし、妻から誘われたのがつい三日前のことで、心の準備が何も出来ていなかった。いくらネットで見つけた格安ツアーとはいえ、出不精の私を引っ張り出すには、もう少し事前の根回しというものが必要だったのではないか。
 とはいえ、自身、長年勤め上げた会社を定年退職したばかりで柄にもなく感傷的になっていて、季節は紅葉の最盛期、たまには妻を旅行にでも誘ってやろうかと思っていたこともあり、かえって妻からの提案であれば渡りに船と同意した。もっとも私の場合は思っていただけであって、具体案は何もなかった訳だが。
 ツアーの参加者は我々ともう一組、同世代の熟年夫婦だけだった。経営に疎い素人でも、このツアーが赤字なのは一目瞭然だった。贅沢なハイデッカーバス。宿泊費と食事代。往復のガソリン代に交通費。運転手と添乗員の人件費。とても四人の参加者だけでカバーできる経費ではない。「最少催行人数」というものがあるだろうに。
「これで全員?」
 出発時間前であったが、既にバスの乗降口を閉め切り、最前列に腰掛けて書類をチェックしていた若い添乗員に私は聞いた。
「平日ですからね。もっとも、参加者が一組でもやりますけどね」
 特段困っている様子もなく、添乗員は答えた。一組では団体旅行と言わないのではないかと思うが。
「愛のミステリーツアー~奇想天外な秋の味覚と天然温泉」というのが、このツアーのキャッチフレーズだった。「愛」とは、随分大仰で気恥かしい冠をつけたものだ。「奇想天外」という言葉も時代錯誤で古臭く、最近余り使われない気がした。旅行のコンセプトがいまいち私には伝わってこない。
 ミステリーツアーという性格上、目的地は到着するまで分からない仕掛けだった。車窓は厚いカーテンで閉ざされ、運転席と客席との間も簡易なパーテーションで仕切られていて、外の景色は極力見せないという徹底ぶりだった。
「どこに連れて行かれるのかしら」
 日頃は何事も手堅く慎重に進める妻が、不確実要素の多いミステリーツアーなんてものに申し込むとは意外だったが、むしろそれを楽しんでいるといった表情で、妻は私に聞いた。
 バスは、特に出発合図もなく移動を始めた。間もなく、添乗員から主催者としての挨拶と、今後の予定について説明があった。順調にいっても到着は午後三時頃になると彼は言った。五時間以上バスに乗る計算だ。
 一泊二日の旅行なのに移動時間が長いというのは、いささかもったいない。道中では目的地が推測されるので休憩場所には一切立ち寄らないとのこと。トイレ付きバスなのでそちらの心配はないが、到着までバスから出られず景色も見れずというのは鬱々とする。
 エンジンの回転音と床下の振動から、バスは高速道路に乗ったようだった。昨夜から降り始めた雨がしぶとく残り、ツアーは出鼻から挫かれていた。日頃の行いが良くないのよ、と妻は嫌味を言ったが、私には返す言葉がなかった。
 我々と一緒に参加している後列の夫婦は、控え目な感じの二人だった。男は私と同じくらいかやや若く、女の方はずっと老け込んでいた。
 出発を待っている間に男とは何度か視線があった。身なりのきちんとした背の高い紳士的な男で、こちらを幾分気にしているようだった。格安のミステリーツアーではなく、ヨーロッパ周遊旅行の方が似合いそうな雰囲気だった。しかし二人の表情からは、この旅行を楽しもうという様子はなく、出発前から疲弊している感じだった。
 景色の見えないバスツアーというものは、想像以上に退屈だった。雨天とはいえ、遠方の紅葉すら眺められないのはストレスだった。長時間、薄暗い車内だけで過ごすには、強靭な忍耐力と想像力が必要だった。
 やがて私も妻も会話に詰まり、いつの間にか眠ってしまっていた。ふと目覚めると、車内のデジタル時計は既に午後二時半だった。車でこれほど熟睡してしまうのは珍しかった。隣の妻は椅子を半分程度まで倒し、窓側にもたれかかるようにして眠っていた。私は変な姿勢でいたせいか、首の筋がつったように疼いた。(→続きはAmazon(
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