夜道

 気力、体力共に参っていた。このところ、睡眠時間もほとんどとれていなかった。残業が恒常化しているにも関わらず業績は一向に良くなる気配もなく、従って、給料が増えることもなかった。
 自宅までの帰途、私は住宅地の中を亡霊のように歩いていた。歩きながら眠ってしまいそうなくらい、体がだるく意識は澱んでいた。
 時刻は午後十時を回っていた。空を覆う灰色の雲が、手で触れるくらい低い位置を動いていた。季節外れの蝉の抜け殻が枯れ葉のように足に纏わりついてきたので軽く踏みつけると、ぱりぱりと渇いた音がした。
 焼けつくように暑かった夏が終わり、秋を一つ飛ばして厳しい冬を予感させる冷たい風が吹いていた。この抜け殻の主も、とっくの昔にどこかで干からびているのだろうが、せめて、コンクリートの上で踏みつけられることなく、土に還っていることを願った。

 それぞれの家は、必要最低限の明かりを灯したまま、それぞれの幸福を育んでいた。とりわけ一軒、柔らかな白熱球の明かりが灯る家があった。そこはお風呂場のようで、シャワーの音や桶を床に置く音が外からもはっきりと聞こえた。縦長のガラス窓を時折黒い影が横切った。小さな子供の声と一緒に、大人っぽい女性の嬌声も合わせて聞こえていた。それが姉妹なのか、母親なのか分からなかったが、とても楽しそうなはしゃぎ声だった。
 家の前で歩みを止め、私はしばし風呂場から洩れる明かりを見つめていた。もうすぐ中学生になる娘の小さい頃のことを思い出していた。まだ当時は今ほど仕事も忙しくなかったので、私が娘の体を洗う「お風呂担当」だった。この家のように、大きな声で笑ったり、はしゃいだりしていた。きっと、そんな経験もう一生することはないだろう。妻は娘を産んだ後で、ある病いから子宮をとってしまっていたから。
 ガラス窓に、黒い影が映った。影は窓のほぼ中央付近で止まった。背丈からして、大人の雰囲気だった。会話は一時的に無くなり、シャワーの音だけが聞こえていた。
 私は、次の一歩を踏み出すことが出来ずにいた。家の庭にはたくさんの草花が並べられていた。暗いので花の種類までは分からなかったが、色とりどりの可愛らしいタイプの花がプランターや鉢植え一杯に植えられていることだけは分かった。
 私は母親の姿を想像した。その壁一枚隔てた浴室で、子供とシャワーを浴びている裸の母親の姿を。

 前方から犬を連れた女性が訝しげな顔で私の脇を通り過ぎるのを、すれ違う直前まで気付かずにいた。一瞬、ちらと視線が合うと、私の脚は反射的に動き出した。その女性を私は良く知っているような気がしたが、どこの誰かまでは思い出せなかった。軽く会釈をされたような気もした。何もかもが、「気がした」というだけで確証はなかった。今目に見えているものや、頭の中で考えていること全てが夢のようで、実体を伴わなかった。それほど私の体は疲弊困憊を極めていた。
 インターロッキングが施されたS字の舗道を最初の辻まで進むと、もう先程の家は見えず、浴室の声も当然聞こえてこなくなった。動き出した脚は、どうにか停止することもなく着実に自宅に向かっていた。
 小学校の校門を過ぎる頃、数人の子供が煙草を咥えてたむろしていた。髪を茶色く染め、腰には鎖をぶら下げていた。原付バイクやら自転車やらが乱雑に停められ、バイクに跨っている少年を囲んで、皆笑い合っていた。
 少年たちの陣取る校門側の歩道を通らず、私は反対側の歩道を通ることにした。高級住宅街にはあまり相応しくない景色だった。しかし皆恐らくこの辺りの家の子供たちなのだ。私は目を合わせないように、疲れた会社員を装った。否、事実疲れていた。こんな時間にトラブルに巻き込まれるのは御免だった。今度は意識して、歩行スピードを速めた。

「ただいま」
 到着するなり、私はどうにか音を発した。
「おかえりなさい」
 ダイニングに通じる閉められた扉の向こうで、妻は聞こえるか聞こえないかの小さな声で言った。
「何してたの?」
 妻は裁縫の手を止め、少し怒っている感じで私の顔を見た。
「何してたって、仕事して普通に帰って来ただけだよ。メール入れたよね」
「帰り道で、どこか寄って来た?」
「ん? 寄らないよ。何で?」
 明らかに、妻は何かを疑っていた。私にはその意味が分からなかった。
「まさかね」
 妻の顔色はあまり良くなかった。病気じゃないかと思う程、白かった。顔の色がないと、いくらか痩せたように見えた。
「だから、何。分からないよ」
「薮本さんがさっきメールでね、ううん、まあ、いいわ。ねえ、最近深夜に変質者がうろついているって、あなた知ってる?」
「変質者? どんな」
「露出狂」
「そうなんだ。知らない」
 市からの防犯情報をメールで見ていたので、そういうことは比較的日常なことだと思っていたが、この地域で頻発しているとは思わなかった。
「それから、空き巣とか、覗きもね」
 妻はそう言って、いかにも冷めてしまった感じの湯飲みに口をつけた。妻も、私にも増して疲れた顔をしていた。
「もしかして、何か疑ってる?」と私は言った。妻は何も答えず、私と目を合わせようとはしなかった。怒りと言うよりは、むしろ寂しさや諦めのようなものを感じた。
「こんなに毎日遅くまで仕事させられて、そんなことしてる暇ないよ。馬鹿馬鹿しい」
「あなたを疑ってるなんて言ってないじゃない」
「だって、そんな顔して」
「どうにもならないことだから。仕事忙しいんだもんね。私が我慢しなくちゃ。私には、あなたの帰りを待っていることしかできないから」
「何が言いたいのか、よく分からないって」
「もういいの。ごめん、先にシャワー浴びるんでしょ?」
「うん」
 妻は湯飲みと急須を持って台所に向かった。
露出狂に空き巣。とても今の自分にそんなことをする勇気も気力もあるわけがない。犯罪を犯すにはそれなりに特別な能力と体力がいるのだ。
 私は椅子に座りながら熱いシャワーを浴びた。今日は格別に体が重かった。立ってシャワーを浴びる力がなかった。自分のことが妻には何一つ理解されていないんだな、と思うと寂しかった。いっそのこと、期待通り露出でもしてやろうか、とも思ったが、自棄を起こすほどのエネルギーも今の私には残されていない。食事なんてどうでもいいから、一刻も早く布団に入りたかった。
 ドライヤーを終え浴室から出ると、妻が何やら深刻そうな顔をして誰かと電話していた。
「どうしたの?」と電話を切った妻に言った。
「真麻がまだ帰ってこないの。塾に電話したんだけど、もう三十分も前に出てるって」
「何で行ってるの?」
「いつも自転車よ」
「やっぱり早く携帯を持たせるべきだったな」
「今そんなこと言っても仕方ないでしょう。何処に行ってるのかしら。塾が終わったら絶対寄り道しないで帰ってきなさいって言ってるのに」
 妻はクローゼットから上着を出して着こみ、電動自転車のバッテリーを手に抱えた。
「何処行くの?」
「探しにいくのよ、真麻を」妻の顔は必死だった。
「やめなよ。こんな時間に」
「あなた、心配じゃないの?」
「違うよ。お前まで何かあったらどうするんだよ、そんな格好で」
 妻も既に入浴済みだったので下着も着けない薄っぺらなルームウェア姿だった。
「俺が見てくるから、お前は家にいろよ」
 目の前の布団に飛びこみたい願望を堪え、私はジーパンとトレーナーを着こんだ。まさか風呂に入った後で北風の吹き始めている外に出ることになるとは思ってもみなかったが、娘が塾から帰ってこない、となれば仕方なかった。
 私はふと、小学校の校門前でたむろしていた、先程の煙草を吸った少年たちを思い浮かべた。
 そして、露出狂に、覗きに、空き巣。これでは、一体何のために無理をして高級住宅街に住んでいるのか分からなかった。

 夜の冷気は、帰途の時以上に体から熱を奪った。厚着をしてこなかったことを私は後悔した。最後の力を振り絞って登りつめてきた駅から家までの道を、今度は電動自転車で一息に駆け降りた。手指が切られるように痛かった。
 小学校の前を通過した時、既に少年たちの姿はなかった。入浴中だった家の明かりも消えていた。町は皆眠る支度を整えていた。
 歩道に自転車が倒れているのが見えた。真麻は自転車で塾まで通っていた。砂が綺麗に整備された菖蒲のたくさん植わっている公園の入り口だった。
 私は胸騒ぎを覚えた。自転車の前輪を確認すると、自分の娘の名前がしっかり書かれていた。私は自転車を停めて辺りを見回した。人影はどこにも見えなかった。
 心臓が大きく鼓動しているのが分かった。体中の皮膚が震えているのを自覚した。しかしそれは決して寒さからくるものではないことは間違いなかった。
 声も出せず、かといって、自転車から離れることもできず、しばらく私はその場に立ち尽くしていた。あの煙草をくわえた少年たちに取り囲まれ、裏山で引きずりまわされている我が娘の最悪の姿が何度も頭を過った。私は何もできなかった。それは疲弊しているからではなかった。親としての資質の問題だった。
 公園のトイレから、ふらふらとこちらに近づいてくる人影が見えた。外灯に照らし出された髪型のシルエットと背格好が真麻に似ていた。手を払いながら、ハンカチを探しているような仕草に見えた。

「真麻?」と無意識に私は呼んでいた。
「パパ」
 影は次第に小走りで近づき、やがて大きくなった。真麻の表情は普段と何も変わりなく、むしろにこやかだった。膝の緊張が抜け、その場にすとんと落ちてしまうのではないかというくらい、私はほっとした。
「自転車のチェーンがはずれちゃったの」と白い息を吐いて真麻は言った。自転車を起こすと、後ろのギヤから確かにチェーンがはずれ、切れたファンベルトのようにだらんと垂れさがっていた。
「自分で直そうと思ったんだけど、うまくできなくて。そしたら、おしっこしたくなっちゃって」
 あっけらかんとそう話す娘が、私はいとおしくもあり、気の毒に思えた。
「こんな真っ暗な公園のトイレなんて使うもんじゃないよ」
「どうして?」
「どうしてって、どんな変な人がいるか分からないだろう?」
「だって。漏れそうだったんだもん」
 何も見えない闇の中、紙すらあるのかどうかも分からない薄汚れたトイレで用を足す我が娘。
 手の甲に黒い油が痣のように付いているのが見えた。はずれたチェーンを、自分ではめようと必死だったのだろう。「どうせメールばかりするようになるんだから」と、今まで携帯電話を持たせてこなかった自分たちの選択が、この時ばかりは酷く馬鹿馬鹿しく思えた。
 チェーンはすぐに嵌めることができた。明かりの下で、落ち着いてやれば訳のないことだった。私は妻に電話をし、まずは無事真麻を見つけたことと、自転車のチェーンがはずれてしまって路上で格闘していた顛末だけを伝えた。妻もほっとしていた。電話の向こうで、妻は何度も何度も「良かった」を連呼した。
 寒さへの感覚はとうに飛んでいた。むしろ体中が熱くなっていた。私たちは何故か自転車をこがずに、押しながら並んで歩いていた。娘と二人だけで夜道を歩くなんてもしかしたら初めての経験だった。
「ねえパパ、ちょっと」と言って、真麻は私のすぐ側に立って肩をくっつけて一旦その場に停まった。娘のダウンジャケットが私のジャンパーに触れ、しゃりっとしたナイロンの衣擦れの音がした。
「大きくなったと思わない? ほら」
 真麻はぴんと背筋を伸ばした。背伸びしているのかと足元を見るが、背伸びではなく、本当に身長が伸びていた。頭のてっぺんが私の目線からほとんど見えないくらいになっていた。
「うん、なったね」と私は素直に言った。真麻はちょっとはにかむと、一度鼻を大きく啜って、再び歩き始めた。私も後に続いた。
 それから真麻は何も話さず、ただ俯いて歩き続けた。私も何を話すこともなく、ただ今のこの状況を新鮮な気持ちで受け止めた。子供は知らないところで勝手に大きくなるのだ。親の知らないところで。

 先ほどの家の浴室の電気がまた灯っていた。私はそこには何物も存在していないかのように、気にせずに素通りした。前だけを見て、自転車のハンドルをぎゅっと握りしめた。
 空気は凛としていた。凛とした空気を、我々は同じように浴びていた。暑くもなく寒くもなく、とても心地よい風だった。少なくともこの娘のためには自棄になってはいけない、そう私は思った。(了)

3件のコメント

  1. 見ているようで見てなくて わかっているようでわかっていない。。 ほんとに子供は親の知らないところで大きくなって、大人になってるんですよね。。 大人だけが、いつまでも変わらないでいるん。 毎日の忙しさの中で小さな事にも気づく。余裕を持ちたいものです。。 娘と歩く夜道には、きっと綺麗な月がでてたのかなぁ。。。
  2. Cacoさん、コメントありがとうございます。多忙な毎日、小さな変化に気付くって本当に難しいですよね。人にも細かな気配りのできる余裕、自身も持ちたいと思うのですが、中々手強いです…。
  3. おはようございます。。 ですね。 私も心がけてます。ココロがぎゅうぎゅうにならないように。。

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