おむすび

 サランラップに包まれたまん丸のおむすびが一つ、路上に落ちていた。朝時間がない中慌てて握ったのか、海苔も巻いていないシンプルなおむすびだった。綺麗な街並みが人気の住宅地なので、道の中心にあるべきものとしては余りにも不似合いだった。
 私は出勤途上の足を止め、何故ここにおむすびが落ちているのかを考えた。もしこれが小さな子供のお昼御飯だったらどれ程悲しい事か。あるいは散歩がてら食べようと思っていた年寄り夫婦の腹の足しとか。
 いくつか想像を巡らせた結果、おにぎりの所有者は子供ではないか、と私は見立てた。友達とふざけ合いながら登校しているうちに、ランドセルから飛び出してしまったのだ。
 おむすびごときで電車一本乗り過ごしてしまうのは、後で考えれば詰まらぬ事だが、その時の私は仕事と家庭のごたごたで気持ちが参っていたせいか、やや感傷的になっていた。
 その間、何台かの車や自転車が目の前を通過したが、おむすびは奇跡的に難を免れた。側を行く同輩や学生も、おむすび、そしてそれに釘付けになっている私には目もくれず、先を急ぐばかりだった。
 であれば尚のこと、私にはそのおむすびの存在が偉大に思えた。世の中全ての母の慈愛そのものだった。現世における神ですらあった。
 いつしか私はおむすびを前に跪き、ひれ伏し、手を合わせていた。そうしなくては収まりが付かなくなっていた。
 最後に柏手と礼拝をし、私は後ろ髪をひかれる思いで、ようやく駅に向かった。曲がり角で見切るまで、何度も振り返りながら、おむすびがいつまでもそこに鎮座している姿を見守った。私の中に、建設的で溌剌とした何かが宿り、くすぶる自嘲と厭世を駆逐した。その一連の思考と行動を馬鹿げていると思うには、私の頭は余りにも疲れていた。

 午前中の仕事はまるで手に付かなかった。あのおむすびはもしかすると、どこかの誰かが私の為に握ってくれた物なのだとさえ思った。そう思うと居ても立ってもいられなかった。私は早退届を出し、他の社員の冷たい視線を感じながら正午で仕事を止め、帰宅の途についた。
 おむすびは、未だ手つかずのまま路上にあった。今しがたみたあの姿形、位置関係もそのままに。私はハンカチでおむすびを丁寧に拾い上げ、鞄にしまい、意気揚々と帰宅した。
 妻は外出しているようだった。おむすびをダイニングテーブルに置き、熱い湯船を張り、これから執り行う儀式について瞑想した。奇跡のおむすび。私は勝手に命名していた。ひょっとすると、このご飯粒の小さな集合体こそが、五十を過ぎた私の不安の霞を吹き飛ばしてくれる救世主なのかもしれない、私は本気でそう思った。
 風呂から上がると、妻がダイニングに腰掛けておむすびを頬張っていた。既に食べ終わる頃で、ラップについたご飯粒を指で摘まんでいた。私はバスタオルを腰に巻いたまま、その場に呆然と立ち尽くした。
「どうしたの?」と、妻は目を丸くした。
「早退してきた」と私は正直に言った。
「調子でも悪いの?」
「いや、そういう訳では」
「おむすび」と妻は最後まで聞かずに言った。「鞄に入れたつもりが忘れちゃったみたい。お昼休憩で一旦帰宅したの」
「お昼休憩?」
「今日からパート始めるって言ったよね?」
 私ははっとした。以前そんなことを言われていたような気がした。
「本当、最低」
 妻はラップをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨て、何も言わずに家を出て行った。あれ程ゆっくり湯船に浸かった筈なのに、私の体は既に湯冷めしていた。
 矢鱈腹が減っていた。余り物のご飯を温めてラップで握り、塩だけまぶして一口齧った。がりとした塊りが奥歯に触れた。これ程不味いおむすびを食べたのは生まれて初めてだった。(了)

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