ランドの夜

 園内に留まってから、三日目の夜を迎えていた。
 家の状況がどうなっているのかなんて私には知りたくもなかった。携帯の電源はずっと切っていた。どうせ私なんていなくてもあの家は回っていく。旦那と息子。何不自由なく。

 「トムソーヤ島」の「燃える小屋」の裏手に、私はちょっとした空間を見つけた。ここなら周囲をブッシュが覆っていて、誰にも見つからずに寝そべることが出来る。
 私は昔からここが好きだった。ちょっとした「離れ小島」のようになっていて、比較的人口密度も低く、岩の上でぼんやりしたり、古き良き開拓時代のアメリカの匂いに触れることができた。
 閉園後は、まるで昼間の賑やかさが嘘のように、しんと静まり返っている。時々、夜間警備員のライトが私のすぐそばの木々を照らしにくるが、その時私はじっと息を押し殺して周囲のブッシュと同化する。
 私はまばらに星の散る透き通った夜空を眺めながら、小さい頃からの夢を、四十路を迎えてからようやく叶えることができたというわけだ。
 両親に連れられて何度か訪れたディズニーランドの帰り際は、常に寂しかった。それまで散々遊んだくせに、パレードも花火も満喫し、手に抱えきれない程の沢山のお土産を買ってもらったくせに、やっぱりそれでもゲートから駐車場に向かう足取りは後ろ髪を引かれ、酷く重かった。
 ランドはどこにいっても何一つ抜かりがなかった。おもてなしもサービスも一流だった。自分が本当にシンデレラのように思えた。だから、どれほど疲れていても、閉園時間ぎりぎりまで園内に留まっていたかった。帰宅することは、無理やり眠っている頬を叩かれて起こされるのと同じくらい嫌なことだった。
 それは自身が家族を持つ身となった今でも同じこと。むしろ、年を経た今の方がよりその良さを実感することができた。
 日頃ほとんど家にいない旦那と休日に顔を合わせるのがとても苦痛だった。言うことを聞かない思春期の息子の薄情さにほとほとうんざりしていた。
 いよいよ気持ちもピークに達した私は着の身着のまま、適当なお金とバッグだけを持って家を飛び出した。旦那も息子も私がこんなところで野宿しているなんて想像すらできないはず。二人が好き勝手にしてきたように、今私も好き勝手にさせてもらっている。
 でもさすがに三日目ともなると、正直かなり疲れてきてるのは確か。この先どうなるのか、いや、どうしたいのかなんて分からない。でも、ミッキーやミニーやその他のキャラクターたちの寝息を想像しながら、いつも彼らの側にいるようなこの感覚を独占できているんだと思ったら、そんな不安は大したことじゃない。というより、これは私自身がしたくてしてることなのだから。

「いつまでもここにいてはいけないわ」と、デイジーが言った。
 デイジー?
 私が驚いて上半身を起こすと、隣にデイジーが座っていた。膝を行儀よく折りたたみ、膝頭の辺りを両手で抱え込んでいた。
 幻覚を見ているのかと思って何度も目をこすってみたが、デイジーは間違いなく自分の目の前にいる。警備員ではなく、まさかデイジーに見つかってしまうとは。
「夢はいつか覚めるから夢なのよ。現実が辛ければ辛いだけ、ここは素晴らしい世界だけど、ずっとここにいたら、現実には帰れなくなっちゃう」
 デイジーは一度こちらに顔を向け、それから天を仰いだ。
「別に帰れなくなってもいいけどね」と私は言ってみた。
「ご家族はどうなるの?」とデイジーは聞いた。
「二人なら、私がいなくても何とかなる。ていうか、いない方がいいの」
 敢えて口に出して言ってみると、それはそれでとても悲しい響きを持っていた。
「あたしもそうだった」
 デイジーは表情を変えずに、遠い目をしながら言った。
「あたしもあなたと同じようにここが大好きで、ディズニーキャラクタ―が大好きで、一生このままここから出られなくてもいい、家族なんてどうなってもいいって思ってた。でも、夢の世界だけでしか生きられない、というのも案外窮屈なものよ?」

 こうしてデイジーと普通に会話しているのがとても不思議だった。でもよく考えたら三日間、誰とも口を聞いていなかったし、私を少しでも理解してくれようとする彼女の気持ちが何より嬉しかった。
「そうかなあ。ランドにはいつまでいたとしてもいたりない」
「あたしはこう思う。夢は、それだけでは存在しないんだって。思い通りにはいかないかもしれないけれど、嫌なことがたくさんあるかもしれないけれど、そんな『現実』があるからこそ夢があるんだって。現実が全て満足のいくものなら、夢の世界なんて必要ないもん。ね、そうでしょう?」
 デイジーは私の顔をじっと見つめた。それはそれは大きな瞳だった。こんな間近でキャラクターを見るのは久しぶりだった。私は魅入られたように、こくりと頷いた。デイジーにたしなめられていたら、少しだけ、家族のことが頭に浮かんだ。ついさっきまで、あれほど憎らしかった二人の顔を、落ち着いて思い出すことができた。
 昔、まだ息子が小さい頃、一番最初にランドを訪れた時のことが頭をよぎった。乗れるものがほとんどなくて、「トゥーンタウン」の柔らかい遊具で遊ばせるだけの時間。パレードを見せても食べ物を与えても、ただ泣きじゃくるだけの息子。それでもあの人は、嫌な顔を見せず、肩車したり、買い出しに走って行ってくれた。通り一遍のパパの役目はきちんと果たしていたわけだ。
 そう、あの頃は今ほど時が早く流れてはいなくて、皆の気持ちにもう少し余裕があった気がする。もう少しお互いのことを考えることができた気がする。
「戻るところがある人は、戻らなくてはいけない。あたしは…ここ以外に居場所ないから」
 デイジーの切ない顔を見るのは初めてだった。パレードやエントランスではしゃいでいる彼女とは大違いだった。
「どうして? あなたには帰る場所はないの?」
「うん。もう一年も経ってしまうとね。夢の世界の一年は、現実の世界では十年くらいの長さに匹敵するから。十年も経つとね、日常の記憶からはほとんどなくなってしまう」
「そんなものなのね」
「そんなものよ」
「やっぱり、帰るべきなのかな」
「まだ三日なら、ね」
 空が少しずつ白んできていた。まだ日が昇るには時間がかかりそうだが、海の方からきている風が、度々真っ黒なブッシュの葉の隙間を抜けた。そろそろ旦那は起きるはずの時間だった。
「デイジー、ディズニーランドは好き?」と私は聞いた。
「もちろん大好きよ」
「そう」
「うん。あたしの選んだ道だから」
 デイジーの声に一点の曇りもなかった。それは私の中に浮いていた澱のようなわだかまりをすっと掬い取るような感じだった。
「特別な出口があるのよ。案内してあげるから、もう帰ろ? 満足したでしょ?」

 力が抜けた。緊張がやっとほぐれたと言うか、肩の荷が下りたというか。
 私はデイジーに体を預けて、彼女の導くままに従った。夜通し燃え盛る小屋の部屋には小さなはめ込み式の床板があって、そこを開けると、地下通路に通じていた。洞窟のようにひんやりとした通路をひたすら進み、階段を昇り、重い鉄の扉を開けて外に出ると、そこはランドの駐車場の一番端っこのようだった。
「はい。夢の出口」
 独り言のように、デイジーが呟いた。夢の出口、私も心の中で呟いた。このままデイジーを外に連れ出したい気分だったが、それはきっとデイジー自身が許さないことなんだろうな、と思って止めた。もう、彼女はランドの中でしか生きていけないのだから。
「元気でね。次は家族の皆できて」とデイジーは言った。
「うん、そうする」
 そんな日がまた来るのだろうか。また来たら、それはそれでいいのかも、と私はぼんやりと思った。
「あなただけの為に、始発を少し早めてあげたから。気を付けて」
 舞浜駅には既に電灯が入り、朝の自然な光を一層強めていた。
「ありがとう、デイジー。あなたのおかげで私は」

 振り返ると、デイジーは既に消えていた。たった今昇ってきたばかりの地下に通じる鉄の扉もあるはずのところにはもうなかった。今となっては、デイジーが本当に存在したのかどうかさえ怪しかった。でも、それはどっちでも良かった。少なくとも私の夢は叶い、そして再び現実に戻ってきた、ということだけは事実だった。
 駐車場には、車の一台も止まっていなかった。私は舞浜駅に向かって歩いた。化粧ポーチを取り出して、鏡で顔をチェックした。三日間も野宿をしていた割にはそれほど乱れているということはなかった。ディズニーマジック、と私は思った。
 ランドは一人で訪れるところではなく、夢を分かち合える人とくるところ。
 それは、今の私にとっては、やっぱり「家族」なのだろう。
 近いうちに必ず一度ランドに来よう。そしてデイジーに一言お礼を言わなくちゃ。

 線路の向こうから、オレンジの朝日が射し始めていた。ディズニーランドには、今日もまた世界中の人々が夢の魔法を求めてやってくる。(了)

6件のコメント

  1. 私 まだ 行ったことないの…♪ (^_^)☆ 行ってみたいなぁ… いつか… 大切なあの人と…♪( ´ ▽ ` )ノ その夢は もう 叶わないけれど…ヽ(;▽;)ノ
  2. コメントありがとうございます。 夢が叶わないって…何か切ないです。
  3. 朝から読んでしまえる程の短編なのに、読後感の清々しさが心地好いです。 もう10年以上訪れていないディズニーランドに、無性に行きたくなりました。出来るなら…家族と一緒に♪
  4. oneさん、コメントありがとうございます。お返事が遅くなってしまいました。家族そろっていけたら、いいですね☆
  5. 「いつまでもここにいてはいけないわ」。 読んでいたら、少し泣けてきてしまいました。素敵なお話をありがとうございます。
  6. ミッチェルさん、感想ありがとうございます。ランドから帰る時は、何故かいつも切ない気持ちになります。幻想が現実を追い越すことはないことを、分かっているから。

匿名 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)