塗り替え

 その職人が女であることに気付いた時、淳は油断していた。首元の弛んだTシャツにワンサイズ大きなショートパンツの出で立ちでソファに座り、両足を左右に放り出して、浮気相手に投げたお別れメールへの反応を待っているところだった。もっとも返事が来ようが来まいが、淳の中では既に結論の出ている話だった。
 女職人は淳と目が合うと、何かいけないものを見たかのように目を逸らし、腰道具に手をやった。淳も反射的に足を閉じて、何かいけないものを見せてしまったかのように居住まいを正した。
 真夏の炎天下、女はヘルメットを被り、長袖の作業服を着ていた。ヘルメットに収納しきれなかった髪の毛が、こめかみ付近から噴き出した汗にまみれ、浜に打ち上げられた藻屑のように顔に張り付いていた。
 女の顔色は不気味なほど白かった。真夏の作業員は真っ黒に日焼けしているのが当たり前という淳の思い込みを、女は潔く裏切っていた。
 見る限り、自分よりはやや若いかな、と淳は思った。五階建てマンションの足場の上をためらうことなく歩き回り、手際よく塗料の入った缶に刷毛を立てている仕草は堂に入っていた。
 ソファで振動するスマホを無視して、淳はずっと女を眺めていた。女職人の仕事風景をこれほど間近で見る機会など滅多にない。時々、女が刷毛を動かしながら、思い出したように淳に目を向けてくるのが分かった。プロの職人として人のプライバシーを覗き見ることは厳禁なはずであり、従って女のそのような行為は却って人間らしく、淳にとっては刺激的であった。もちろん、妻子が留守であるという今の状況も、淳にささやかな解放感と高揚を与えていた。
 揺らめく陽射しは十字に組まれた足場の鉄パイプに乱反射し、ベランダ一面に灼熱のむしろを覆い被せた。虻の羽音のようなミニバイクの音が、淳の右耳から左耳に抜けていった。
 二回目の振動で仕方なくスマホをタップすると、淳の非を咎める文言で画面は埋め尽くされていた。文末は「口先ばかりの軟弱野郎」という言葉で締め括られていた。仮に一晩であっても、ベッドを共にした相手に「野郎」とは。淳はメールを削除してアドレスを受信拒否に設定した。
 女職人は、どちらかと言えば「地味」に属する部類だった。目鼻も口も当たり障りのない自己主張はしているものの、一週間も経てば忘れてしまう程度の印象だった。とは言え貧相ということではなかった。赤いフレームの眼鏡に頬に二つ並んだ泣き黒子。加えて、この「肌の白さ」を以ってすれば、ある特定の嗜好を持った男性には支持されるかもしれない。
 淳は女の夫を想像し、子供を想像した。それから作業服を脱いだ時の肉の付き方と下着姿を想像したが、直ぐに浮かんだイメージを打ち消した。家計を支えるために必死で働いている世の全ての女性を冒涜している気がした。人として恥ずべきことをしているような気分だった。
 淳は腰を上げ、一旦女職人の視界から外れた。長時間の冷房で冷やされた肌を和ませるのに、どん詰まりのキッチンに囲われた空気は丁度良かった。
 それから氷をわし掴んでグラスに押し込み、アイスコーヒーを二人分注ぎテーブルに置いた。グラス越しに、淳は女の仕事ぶりを眺めた。半身の体から、時折女は顔を覗かせ、淳と目を合わせた。塗料の入った缶に刷毛を差し、首に巻いたタオルで額の汗を拭った。
 妻の紀子からはまだ連絡はなかった。娘とのショッピングに夢中になっているのだろう。淳はいつも二人からはじかれていた。外から金を持ってくるだけのコウノトリだった。忙しさにかまけて、これまで家族をないがしろにしてきたツケと、淳は諦めていた。
 仕事と家族、そして先程終止符を打ったばかりの浮気相手に、淳の意識は支配されていた。優先すべきは思い出なのか義務なのか、あるいは欲望なのか絶望なのか、渾然一体となった捉えどころのない塊をストローでつつきながら、淳はぼんやり時を流した。

 女は淳の向い側に座り、直接グラスに口を付けた。空気ごと飲み込む音が心地よく淳の耳に届いた。女職人の頬には、塗料の一部がはねたような、白い点々としたあばたの模様が付いていた。
 おかしくはなかった。ベランダの鍵は最初から開いていたし、アイスコーヒーも女に飲んでもらおうと用意したものだった。すべからく物事は順調に推移している。
「朝から何も飲んでなかったから」と女は言った。
 想像していた声より、ずっと穏やかで、細かった。誰かの声色に似ている、と淳は思った。それが妻の紀子だと気がつくまで、瞬き三回程度の時間を要した。
「戻らなくちゃ」
 首に巻いた手拭いを押し付けるようにして、女は髪の生え際を中心に拭いた。かっちりとした新品の作業服は見ているだけでも暑そうだった。サウナスーツに等しかった。どうして半袖やメッシュの作業服ではないのか、淳には理解できなかった。服の内側に籠った熱気が、こちらまで臭ってきそうだった。
「工期はいつまでですか?」
「来週一杯よ」
「またいつでも寄ってください。うちは構いませんから」
 冗談ではなく、淳は本気で言っていた。冷えた家族関係を修復するには、全く利害のない第三者の介入も一案だった。もっとも、修復しないまま生涯を閉じたとしても別に構うもんかと思う程、淳は自棄になっていた。
「アタシ、ハズレくじよ?」
「ハズレくじ?」
「そう。後悔するわよ、きっと」
「後悔なんて今更」
 話をしてみると、満更ではなかった。眼鏡の縁をもう二段階細くして、色も赤ではなく薄いピンクを持ってくると、もっと可愛らしくなるのに、と淳は思った。
「分かったわ。それなら遠慮なく」
 最後に女は軽く会釈をし、ベランダとダイニングを仕切る網戸を開け、踵の潰れた運動靴に足を載せた。
「失礼ですが、お名前は」
「そんなの適当でいいんじゃない? ベランダで偶然出くわしたような女に大した意味はないわよ。どうしても名前が必要なら『女職人』とでもしておいて」
「意味がないなんて。少なくとも自分にとって今日あなたと出会えたことは」
 淳の話が終わらないうちに、女は目の前から消えていた。猛烈な熱風が一枚の壁となって淳を襲った。長い時間をかけて冷やした部屋の空気は、たちまち中和された。淳は直ぐに扉を閉めた。女が視界から消えてしまうと、今までのことは、まるで夢の中の出来事のように思えた。夢でもおかしくなかった。これだけ暑ければ、頭が変則的な運動を始めても不思議じゃなかった。しかし、夢であることを証明するには、どこかで「目覚める」という行為が必要だった。
 玄関から賑やかな音が聞こえた。紀子と綾だった。半畳近くもありそうな巨大な紙袋とエコバッグを両肩から下ろして、綾は頬を真っ赤にしながらぐったり伸びていた。紀子は冷たい麦茶を至急二つ持ってくるよう、淳に伝えた。それはリアルな日常だった。夢ではなかった。
 淳は女職人の飲んだグラスを水で濯ぎながら外を眺めた。足場に人影はなかった。休憩時間なのかもしれない、淳は女職人の顔と声を頭の中で今一度なぞった。

 その日の晩、食卓には例の女職人が座っていた。昼間、アイスコーヒーを飲んだのと同じ場所に。さほど驚きはなかった。また寄ってくれ、と言ったのは淳自身だった。ただ、来るなら来ると事前に一言言って欲しかっただけだ。
「早速」と女は言って、冷やし中華の具を麺に絡めた。汗がひいていることを除けば、見た目も格好も昼間と同じだった。
 何故か食事は女職人の分もきちんと用意されていた。三人家族から四人家族になったように、ランチョンマットもきちんと並べられていた。いや、元々四人家族が正解なのかもしれなかった。事前に予定されている、というのはそういうことなのだ。
 紀子は無表情で、黙々と箸を進めていた。当然と言えば当然だが、全く見ず知らずの第三者が夕食を共にするなどということは、長年の結婚生活の中で一度もなかったことだった。
 しかし今の紀子の様子を見るにつけ、彼女も女職人を受け入れていた。何か打算なり、下心があるのかもしれなかったが。
「こんな素敵な奥さん、もっと大事にしなくちゃね」と言って、女職人は喉を鳴らした。淳の心臓は敏感に反応し、鼓動が早まった。淳の秘密を全て知っているかのような口ぶりだった。
 女職人が、実は致命的に我が家を崩壊させる「負」の存在なのではないか、という疑念が淳の脳裏を掠めたが、それは直ぐに否定した。初めて目を合わせた昼間の彼女から感じ受けたものは、決してネガティブな印象ではなかった。ありのまま受け入れる、ということにまだ上手く順応できていないのだ。何故受け入れる必要があるのか、ということについて考えることは不毛だった。淳にとっても、紀子や綾までも、自浄作用の能力は既に超えてしまっていた。ある種力ずくで強引な未知の力が必要であり、それは暗黙の了解として微妙に均衡していた。女職人は既に我が家に組み込まれているのだ。
「いつもこんな美味しい食事で幸せねえ、お嬢ちゃん」
 綾は女の話など眼中になく、一心にフォークを立てていた。綾は中々箸が使えるようにならなかった。
 それ以降、しばらく女は言葉を発することなく、忙しく食べる方の口を動かした。その食べ方は、これまで見たこともないような早さと汚らしさだった。肉食動物が狩りをした獲物にむしゃぶりつくような音を立てていた。冷やし中華のタレが皿の方々に飛び散った。具も麺も、女の口に次々と放り込まれていった。
 紀子の顔には相変わらず色がなかった。感情を意識の出口で握り潰しているかのようだった。綾は女の真似をするように、忙しく口を動かして喉を鳴らした。
 女の存在を、淳はこの時初めて疎ましく思った。この家は、やはり三人が本筋なのだ。正三角形の頂点を一つ増やしたからと言って、正方形になるとは限らない。いびつな四角形は却って不安定なのだ。
 皿を平らげた女職人は、ティッシュで口元を拭った。同じティッシュで食べ散らかした皿の周りも拭いた。それから残っていた麦茶を一息に飲んだ。
「もう一杯お注ぎしますね」
 麦茶の入ったボトルを手に淳がダイニングから戻ると、既に女は食卓からいなくなっていた。

 目まぐるしく意識が働く一日だった。自室のベッドで、淳はアルコールに押し潰されそうになる瞼をどうにか食い止めていた。ここはきちんと整理を付けておかないと、明日目が覚めたら、家も家族も、自分の身も心も木端微塵に消えてなくなっているのではないかと思った。とは言え、どこから手を付けていいものか。
 淳は記憶の針を、ソファに腰掛け女職人を眺めているところまで戻した。光量も輪郭も薄弱な映像が、天井の余白に映し出されていた。女職人は中々登場しなかった。それは淳が意識的に登場させないのかもしれなかった。
 淳は強く瞳を閉じた。自分の体が、まるで周囲の景色に溶け込んでいくように、髪の毛や手指の先や膝頭が細かい砂状の粒子となって気化していく様子をイメージした。気化は腕、足、下半身、胴体、胸と進んで、いよいよ首を伝い顎に差し掛かった時、淳は失いつつある肉体に激しい恐怖を感じ目を開けた。現実の身体は、手も足も胴体も、元通りだった。違和感はなかった。手を握ったり広げたり、大腿の付け根に力を入れて大きく持ち上げたりした。体は自分の意思通りにきちんと動いた。何もおかしなところはなかった。

 女が、立っていた。
 メガネを掛けた色白の女は、暗がりの中、部屋の入り口にじっと立っていた。表情までは良く見えないが、それが女職人であることは、淳には直感で分かった。夕食時と決定的に違うのは、作業服を着ていない点だった。女は裸だった。両手は身体の側面に沿わせて「気をつけ」をするように姿勢を正していた。
「声は出さないから、安心して」
 女の口は動いていなかった。従って、女が言ったかどうかは怪しかった。耳から聞こえてくるというより、心に直接触れてくるような声だった。
「何も怯えることはないわ。あなたの望みを実現させてあげるだけ」
 恥ずかしげもなく、女は揚々と淳の横たわるベッドに近付いていった。紀子と綾は別の部屋で寝ていた。別々に眠るようになって、もう何年も経過していた。当然、夫婦生活はなかった。その話に触れることすらなくなっていた。
「したいようにして。さもないと」と女は言った後、少し間を開けて、淳の手を豊かな胸に押しつけながら言った。「一生後悔するから。もっとも、しなくても後悔するだろうけど」
 服の上から想像していた身体より、ずっと肉付きは良かった。しかし長い時間、女を直視することはできなかった。あの一瞬間だけでも、女を性的対象として眺めたことを、淳は後悔した。女と見れば妄想を広げる癖は、いい加減うんざりだった。それに妄想は妄想している間が楽しいのであって、それが現実となった瞬間から、一気に色褪せていくことを淳は知っていた。浮気は浮気する直前までが一番愉しいのだ。
 淳は女に導かれるまま、機械的に指を動かした。これほど女の胸を愛情もなく触ったのは初めてだった。本来なら、こうした状況で女を抱くことなど拒絶すべきなのだろうが、全てを受け入れると決めた以上、拒む訳にもいかなかった。
 女職人は無音だった。足音も息遣いも、彼女から発せられる音は何一つなかった。「軟弱野郎」と罵った浮気相手との最後のセックスより消極的だった。
 女は動作の緩慢な淳に業を煮やしたかのように跨り、ショートパンツとブリーフを乱暴に下げた。淳は女のなすがままだった。何もかも女に委ねるしかなかった。湿った温もりの感触が下半身に広がった。頭が熱くなるのが分かった。知らぬ間に目を閉じていた。
 淳はこれまで経験した女の中で、一番セックスの上手かった女を想像した。それは昔の彼女でも風俗の女でも浮気相手でもなかった。妄想に浮かんだ女は、紀子だった。それも結婚して綾が生まれる以前の紀子。これには我ながら驚いた。頭に妻を思い浮かべ、今日会ったばかりの名無しの女から愛撫を受けている、ということが何とも奇妙だった。
 準備は整っていた。自己嫌悪や自己憐憫などに耽っている間もなく、淳は女の中に導かれた。女の顔が淳の目先にあるはずなのに、表情を見て取れなかった。表情というより、顔そのものがないようにも思えた。
 女の尻の肉が、腿に規則的に当たった。体の血液がある一極に集中していくのが分かった。女はただ腰を動かした。淳はただ受け入れた。後は自身の肉体の生理現象に任せるしかなかった。今自分が繋がっているものが一体何なのか、淳自身よく分からなかった。ただの物体、有機的な物かもしれなかった。小波はやがて大波となり、最後はもろとも果てなき大海原へ引きずり込まれていった。
 我に返ると、女の姿はなかった。やるせない疲労と倦怠感が、金縛りのように淳をベッドに釘付けた。後処理をする気力もなかった。一つだけ気付いたことがあった。それは過去、いかなる惰性的なセックスでも一度もなかったことだった。行為中、口づけを全くしなかった、ということ。

 それから一週間、女職人は、淳の家庭と寝食を共にした。日中は塗装の仕事を朝早くから日が落ちるまで行い、自分の家には帰らず、淳の家で寝泊まりした。風呂にも入り、歯も磨き、当然トイレも使った。
 着替えは紀子が準備した。女職人は腰道具と作業服以外、何も持ち合わせてはいなかった。パジャマも下着も、紀子のものを身に付けた。作業服は毎日汗をたくさんかくので、仕事が終わると直ぐに紀子は洗濯機を回し、乾燥機に入れ、アイロンをかけた。家の主は、今や淳ではなく、紀子でもなく、女職人だった。
 寝るのは、誰も使っていない和室に布団を敷いた。淳は毎晩、いつ寝室に現れるのかひやひやしていたが、裸の交わりは最初のあの一度だけで、以来、彼女が部屋に現れることはなかった。
 いよいよ足場が外されるという日、女職人は今までの御礼にと、リビングの一室だけ、壁をからし色の塗料で塗り替えた。食器棚や家電製品などで動かせないものは養生シートを敷いた。勝手に賃貸マンションの部屋の壁を塗ってしまっていいものかと淳は思ったが、女職人の好意は絶対であり、受け入れなくてはならなかった。
「短い間だったけれどお世話になりました」
 養生シートを片付けながら、女は淳に向かって言った。
「こちらこそ、何とも言えない一週間だったよ」
 本心だった。日常であってそうではないような、しかしやはり余りにも日常的な。
「アタシはタブーを冒した。なのにあなたはアタシをいとも簡単に受け入れた。無防備なくらいに。でも覚えて置いてね。嫉妬と羨望による復讐は何より怖い」
 紀子は綾の部屋でピアノの指導中だった。たどたどしいブルグミュラーの練習曲が部屋から漏れていた。
「それほど我が家が特別幸せだなんて思ってない。幸せな家庭の人間が、浮気なんてしないよ」
 浮気をすんなり白状したことに、淳は我ながら驚いた。
「安心して浮気できる以上の幸せなんてあると思う? 妻もいて子供もいて。車もあってお金もあって。ない者から見れば、持てる者は皆幸福」
 最後に女職人は、またいつか別な形で会うことになるはずだからと言い残して、五階建てマンションのベランダの桟をひらりと飛び越えていった。

 そもそも最初から真っ当ではなかった。一つ一つ丹念に見つめていけば、おかしなことばかりだった。明らかに狂っていた。こちらが狂っているのか、世界が狂っているのか、我々の家族が狂っているのか、あの女が狂っているのか。
 「外壁塗装が工期通り終了した」という事実だけが、第三者に真っ当を証明できる唯一のことだった。くすみの激しかった築二十五年のマンションが、新築のようにぴかぴかに仕上がった。その一部はあの女職人の手による筈だったが、今となっては、本当にそうなのかどうか怪しかった。
 狂っても良かった。本当は狂いたくてしょうがないはずなのだ。でも結局、その勇気が淳にはなかった。女職人は、自分とは違って日常を全てなげうった。狂っていた。少なくとも、淳にはそう見えた。嫉妬と羨望。世界は、その情念のみで動いているのだとしたら。

 窓の外に見えているのは、遠く奥多摩の森、名も知らぬ山々が夏の陽射しを浴びて、その稜線を曖昧に切り抜いていた。このところ、夏は格別に暑く、冬は格段に寒いという年が続いていた。
 その猛烈な環境変化に、淳の一戸建ての外壁もそろそろ悲鳴を挙げていた。色のくすみや細かいひび割れが、最近やけに目立つようになっていた。ローンも十年以上残り、定年退職になってからと引き伸ばしていたものの、それも屋根の一角に雨漏りが見つかるにつけ、いよいよここが限界と決断した。
 足場もかかり、本格的に塗装が始まった。皮膚を貫くような強い陽射しの中、ヘルメットを被り作業服を着て、腰道具を巻いた職人達が大きな声を掛け合いながら、きびきびと動いていた。
 一人の若者が、淳の目線の先で塗料の入った缶を足元に置き、刷毛を浸していた。色の黒い、痩せた男だった。レースのカーテンをひき忘れていたので、家の中はこちらからも若者からも丸見えだった。
 職人の目つきは鋭かった。黒い顔の中に白い目玉がぎょろりと動いた。険しい顔だった。まだ若い筈なのに、いや若いという根拠は特になく直感で感じているだけであったが、見方によっては酷く年老いても見えた。若き二十代の頃の自分に良く似ている、と淳は思った。背格好も姿勢も、時折鼻頭を手の甲で掻く仕草までも瓜二つだった。
 淳は二つのグラスに氷を積み、アイスコーヒーを入れた。ダイニングテーブルの端と端に並べストローを差した。目の前の若き自分は、黙々と仕事を続けていた。
 かつて、同じような景色を見た気がした。夏の暑い日、同じように足場が組まれた賃貸マンションのベランダの前で。デジャブではなく生々しい記憶として。当時の奇妙な体験は奇妙な体験として、検証されることもなく記憶に埋葬されていた。
 淳は女職人の裸を思い出そうとした。しかしそれは分厚い靄のヴェールに包まれ、一向にその姿を現そうとしなかった。記憶に残っていないのか、思い出すことができないのか。声の印象だけはおぼろげに残されていた。声質が妻の紀子に似ていたおかげで。
 目を閉じ再び開ければ、当時のように何か状況は変化するかもしれない。淳は念じるように瞼を下ろし、そしてゆっくり開けた。目の前に職人の姿はなかった。

 寝苦しい夜。淳の髪は風呂上がりのように濡れていた。新居を構えてから、淳と紀子は再び寝室を共にしていた。紀子はタオルケットを腹に巻き、涼しそうな顔をして眠っていた。冷房も付けずよく熟睡できるものだ、淳は直接シーツとマットの間に足を突っ込み、冷を求めさまよった。
 扉の向こうに、人の声が聞こえた。最初それはどこか近所で立ち話でもしているのかと思ったが、より近くから聞こえてくるようだった。紀子の寝顔をもう一度確認してから、淳はスリッパを履いた。
 物音は、綾の部屋からだった。半開きの扉の奥で、何か白っぽいものが動いているのが見えた。淳は擦り足で近付き、中を覗き込んだ。二つの長い足が天井に向かって伸び、ぐにゃぐにゃ揺れていた。こちらに背中を向けているのは明らかに男の広い背中であり、下半身を激しく動かしていた。
 淳は呼吸することも忘れ硬直した。偶然目の当たりにする光景としては、最悪の部類に属する光景だった。男が何者であるか、ということは確認するまでもなかった。妄想は、そうなるべき、あるいはそうなってほしくないといういずれの感情も取り込むことなく、仕組まれた宿命を眺めていることしかできなかった。
 回復不可能なまでに破綻していた。とどのつまり、破綻を望んでいたということなのだ。そうでも思わないと、淳は今にも狂いそうだった。綾の声の調子からして、それは卑劣な凌辱行為ではなく合意の上での愛情表現だった。

 玄関に立っていたのは、女職人だった。顔を見た途端、葬り去った筈の記憶の欠片がたちどころに甦った。あれから二十年近くが経とうと言うのに彼女は全く老いていなかった。縁の細いピンクフレームの眼鏡に、頬に並んだ泣き黒子。
 隣には若い男の職人、そして綾がいた。綾のお腹が膨らんでいるのは、ワンピースの上からでも良く分かった。誰も言葉を発しなかった。皆、淳を見ていた。言わなくても、淳はその状況から全てを察した。もう何が起きても、何も怖がる必要はなかった。五感を封殺する術を淳は身に付けていた。不可解な世を渡る処世術として、それは必要だった。
 紀子は淳の後ろに立っていた。声を押し殺すのに必死だった。まるで喜劇だった。
「これからは親戚ね」と女職人は当たり前のように言った。淳は何も答えなかった。答える必要もなかった。
「幸せか不幸せかなんて思惑の中でいかようにも転ぶ。頭の中だけで考える幻影」
 三人は靴を揃えることもなく家に上がり込んだ。 御免なさい、ここは駅から遠いから、と紀子は可笑しさを堪え切れないのか声を震わせてそう言い、台所に向かった。淳だけが玄関に残されたまま、中々次の行動に移れなかった。奥のダイニングから、女職人と紀子が楽しげに話す嬌声が聞こえた。
 これからの人生について、淳は考えた。そんなものが存在するのかどうかも怪しかった。ともあれ一番大きな問題は、腹周りに出来た発疹が、異常な広がりを見せつつあるということだった。
 順風満帆に毎日を送っている全ての幸福な人々について、その幸福が持続し続けることを淳は心から願った。そして、同じくらい恨み、憎悪した。塗料のたくさん詰まった爪で、血の滲むくらい脇腹を掻き毟りながら。(了)

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