指輪

 髪を濯いで顔をあげると、グレーチングを流れる泡にまみれて何かきらりと光るものが見えた。丸くて硬いそれは美鈴の結婚指輪だった。波のような捻りが加えられたイエローゴールドの指輪は、床材の模様の一部に同化していた。
 どうしてこんなところに。気付かぬうちに落ちてしまったのだろうか。
 来週末には、十回目の結婚記念日を迎えようとしていた。日頃自分と二人の子供に振り回されている美鈴に今年こそ感謝の気持ちを表したいと、健治は考えていた。
 スイートテン・ダイヤモンド。ありきたりな発想だが、真っ先に思いついたプレゼントはアクセサリーだった。しかし、それは十年で三度も転職した健治の今の収入ではとても無謀な話だった。
仕事はどれもハードだった。選り好みなど出来る立場ではなかったが、選んだ仕事のどれもが健治の能力と忍耐力を超えていた。うまく仕事をこなせないことは、対人関係もうまくこなせないことと直結していた。そのせいで、健治の頭髪は細り、慢性胃炎になったりもした。
 長続きしない精神力の弱さ、不甲斐なさを恥じた。転職する度に下がっていく給料。それでも美鈴は「体を壊してしまったら何にもならないから」と、健治を労わりこそすれ非難は一切しなかった。しかし健治には、美鈴から優しい言葉を掛けられれば掛けられる程、益々自身の小ささが強調される気がした。結婚指輪をプレゼントした頃の未来予想図には一切書かれていない生活を、二人は強いられていた。
 健治は美鈴の指輪をぎゅっときつく握り締めた。美鈴自身が、手の中で凝縮し硬直して「還らぬ人」となってしまったかのようだった。目頭が一瞬熱くなった。しかし泣いたらこれまでの人生を全否定するような気がしてぎりぎりで堪えた。
 シャワーを水に変え頭から掛けた。あまりの冷たさに全身鳥肌がたった。しかし健治はそのまま浴び続けた。美鈴の指を細くさせたのは自分なのだ。美鈴の体重は、ダイエットをした訳ではないのに、十年前に比べたら別人のようだった。食費を切り詰めるために、自分の食べる分を、健治や二人の子供に回しているからだった。大きめな指輪は、いよいよ美鈴の指を離れ浴室で落ちた。落ちたことにも気付かぬほど、美鈴は疲れ、細り、やつれているのだ。
 ダイヤモンドを買ってやることはできないが、今の自分に精一杯してやれる美鈴への恩返しについて、健治は考えていた。

 指輪がないことに気付いたのは、洗い物をしている時だった。どこかに落とした、ということは瞬間的に分かった。最近益々居心地悪そうに薬指の上で遊んでいたから。
 十年間身に付けたものがない、というのは何となく落ち着かなかった。ピースの欠けたジグソーパズル、あるいは裸でいるかのような気恥かしさを感じた。
 水道を止めて手を拭き、流しと排水口、三角コーナーやキッチンマットなど、コンタクトレンズを探すように、丹念に調べた。それから自分自身の生活導線を辿るように、浴室、トイレ、化粧台、和室やベランダ、ダイニング、ソファ、玄関としらみつぶしに床を這い回った。
 この一ヶ月、体重が更に二キロは痩せた。以前ほど酒も飲めなくなったし、食べ物も作るだけで満足だった。ご飯も茶碗一杯食べられなかった。
 小学校にあがる直前の長男と、年少組に通い始めた次男の活発な運動量に翻弄されていた。苛立ちは子供に対する怒号と制裁に向けられた。母親としての気持ちがうまくコントロールできない自分を腹立たしく、そして情けなく思った。そう思う度、胃がきりきり痛み、偏頭痛にも襲われた。頬がこけ、ただでさえ細い指が更に筋っぽく骨々としていた。
 しかし健治との結婚を後悔したことは一度もなかった。確かに着実にキャリアアップしながらいつか自分で事業を立ち上げよう、という健治のライフプラン通りに進んでいるとはとても思えないが、それでも夢を熱く語る当時の若き健治の姿には、他の若者にはない魅力を感じた。
 そして、軟弱で病弱で臆病で、そのお蔭で多くの人に「迷惑」がられ「足手まとい」になっていた当時の同じ職場の自分を「そんな美鈴が好きなんだ」と救ってくれた健治には、感謝しても感謝しきれなかった。健治が上司に気に入られず、激しく苛められていたことも美鈴は知っていた。そんな自身の状況は差し置いて、いつも自分のことを優先して気に掛けてくれる健治の優しさは、美鈴にとって一生を共に生きていくに足る十分な理由だった。指輪は、そんな健治との忠義と信頼の証だった。
 既に目につく場所は探し尽くした。掃除機の袋の中や靴の中、車や玄関ポストまで。しかし指輪はどこにも見当たらなかった。
 記念日は来週に控えていた。その証が記念日目前にして失われたことが、美鈴にとっては何よりショックだった。

  3

「どうしたの?」
 健治は箸を止めて、美鈴の顔を見つめた。
「ん? 何が?」
 次男の口元についたケチャップを拭いながら、美鈴は答えた。
「何か調子悪そうだったから。昨日から元気ない感じ」
「そう? 別に何もないわよ、大丈夫」
 喉元まで「指輪」という言葉が出かかったが、美鈴はそのことには触れなかった。指輪を失くしたなんてとても言えるものではなかった。当時何店舗もジュエリーショップを見て回って、やっとお互い納得のできる理想の形を見つけたのだ。
 それにしても、元気がないと言われて、美鈴はどきりとした。注意深い健治のことだから、いつか何もしていない左手薬指に気がつくかもしれない。
「そう。それなら良かった。ところでさ、来週の記念日なんだけど、外食もいいかなと思ったけど、やっぱり家でやろうよ。ケーキはいつもの店に頼んでおくから」
「うん、そうね、私もそう思ってた。うちでやるのが一番」
「子供達もいるし、お店だと落ち着かないかな、と思って。美鈴には手をかけさせちゃうけど、俺も手伝うから」
 そう言いながら、健治は嬉しそうにビールを飲んだ。美鈴は笑顔を健治に返したつもりだったが、うまく笑えていたかどうか不安だった。

 翌朝、次男を園の送迎バスに乗せた後で、美鈴は鏡台の引き出しの中から指輪の箱と保証書を探し出して、隣町のジュエリーショップに出向いた。全く同じものがあるのかどうか分からなかったが、失ったままでいることがどうにも耐えられなかった。突発的なことがあった時にと貯めていたお金が少しはあった。自分の不注意のせいでそのお金を使うのはとても気が引けたが。
 物腰の低い柔らかな口調のその男性店員は、十年前にこの場所で発行された保証書を受け取り、美鈴からその顛末と要望を聞いた。
「少々お待ち下さい」
 カウンターに戻り、店員はしばらく台帳のようなものをめくり、キーボードを叩いてモニターを注視していたが、間もなく美鈴の元に戻って言った。
「同じ指輪はございます。しかし、今日注文頂いたとして、出来あがるのは、早くても十六日になりますね」
 十六日。美鈴は溜息をついた。それは記念日の翌日だった。
「どうしても十五日には必要なんです」と美鈴は懇願した。記念日を過ぎてしまっては意味がなかった。健治に申し訳ないというより、自身の気持ちとして許せなかった。失くしたくせに無理を言っている、と自分でも思ったが、そこはどうしても譲れなかった。
 しばらく店員は難しい顔で美鈴と保証書を見比べていたが、やがて口元を固く結び直し、保証書を美鈴に手渡した。
「かしこまりました。何とか十五日には間に合わせましょう。ああ、取りに来られなくても大丈夫ですよ。記念日のお支度でお忙しいでしょうから。当日、必ずご自宅までお届けします。当店からもお祝いさせてください。ささやかですが」
 そう言って、店員は軽く微笑んだ。美鈴の肩から一気に力が抜けた。間に合わせるどころか届けてくれるなんて。あまりのサービスの良さに、美鈴は驚いた。
「でもそこまでしていただいたら、代金は」
「ご心配なく。特別価格でご提供させていただきます」
 店員の目は更に細く、柔和だった。それならと、美鈴の中でどうしてもお願いしたいことがもう一つだけあった。
「全体に傷をつけて、光沢も落としてもらっていいですか?」
「え、なぜ」
「だって、あまりにもぴかぴかだとおかしいでしょ? 失くしたことは知られたくないから」
「ああ、そういうことですね。それがお客様のお望みということであれば、そのように加工しておきます。程度はこちらにお任せをいただくということになりますが」
「無理言ってすいません」
 目に入る全ての店員が頭を下げているのを見届けてから美鈴は店を出た。ここまでしてもらえるとは正直思ってもみなかったので、感動だった。
 そして、記念日が過ぎたら、健治にはきちんと指輪を失くしたという事実を話そう、と。きっと健治は許してくれるはず。そして健治と二人で選んだお店の十年後の素晴らしいサービスのことも。
 空の青さと同じくらい、美鈴は晴れ晴れしい気持ちで一杯だった。

 晩餐の支度は整いつつあった。極上のローストビーフにボルドー産のワイン。マッシュポテトにコンソメスープ。子供たちのために、生クリームとイチゴが全面に塗り込められたホールケーキ。
 エプロンを外しながら、美鈴は時計を見た。既に午後8時を過ぎようとしていたが、約束の指輪はまだ届かなかった。美鈴の中に、あの丁寧な店員の言葉と深く頭を垂れるスタッフの姿が思い出されていた。まさか日にちを間違えてしまったのだろうか。
「どうしたの、ぼうと突っ立って。そろそろ始めようよ」と健治。
「うん、そうね」
 諦めよう、と美鈴は思った。この時間までに準備できていなければ、いつ届いても一緒なのだ。元はと言えば、自分がどこかに落としてしまったのがいけないのだから。お店は何も悪くない。十五日は間に合わない、と最初は言われていたのだから。そう、何もなかった。なかったことにしよう。今日は大切な結婚記念日。せめて健治のために、笑顔で過ごさなくちゃ。
 二人の子の顔を見て、健治と美鈴は微笑み合った。お腹を空かせた子供ががっついて食べる様子はいかにも子供らしくて、行儀のいい悪いはひとまず置いといて愛くるしかった。結婚十年の成果と言われれば、ここにこうして、屈託なくすくすくと育つ二人の子供達そのものだった。
 そのために、これまで美鈴がどれほど自身の自由を束縛し、身を削り、子供達のために手間暇をかけてきたか、を考えると、健治は身を切られる思いだった。時にはうまくいかないのを美鈴や子供達のせいにして、八つ当たりしたことさえあった。子供さえいなかったら、いや、美鈴さえいなかったら、と思うことも正直あった。
 そうした翌朝は、いつも自己嫌悪の嵐だった。結局は自分のせいなのだ。健治にとってのこの十年は、美鈴と子供たちへの謝罪の十年だった。

「そんなに謝らないで」
 健治のグラスにワインボトルの口を近付けながら、美鈴は小さく首を振った。
「転職はしたけど、これまで私たちのために切れ目なく働き続けてくれたじゃない。本意じゃない仕事なのに。それだけで十分」
 健治は美鈴の言葉に、胸が熱くなった。涙が出そうなくらい、嬉しかった。本当はもっと盛大に美鈴への感謝を表してやりたかった。
「美鈴、ちょっとさ、こっちきて」
 食事を続けている子供達を食卓に残して、健治はリビングのソファに腰掛けた。美鈴も椅子を引き、次男の頭を軽く撫でながら、健治の後を追った。
「ねえ、これ」
「何?」
「開けてみて」
 健治はよそよそしく改まって、美鈴に小箱を渡した。美鈴はうまく返事ができないまま、真っ赤な包装紙を白い華奢な指で解いていった。
 せめてもの償い。ささやかな感謝。そして、新たな決意。十年ぶり、二回目のプレゼント。
 健治はその瞬間の美鈴の表情を逃さないように、不思議そうに首を傾げながら頬を赤らめている美鈴の顔ばかりをじっと見つめた。
「あ!」
 深紅の小さなケースに収められていた金色のリングを見て、美鈴は驚いた。失くしたはずの結婚指輪とほとんど同じように見えたからだ。異なるとすれば、それは傷だらけのものではなく、新品そのもののように滑らかな光沢を湛えていることだ。
「これは……」
「美鈴の結婚指輪だよ。美鈴、落としたでしょ?」
「知ってたんだ」
「お風呂場で見つけたんだよ」
 健治の瞳に美鈴を非難する色はなく、いつも以上に優しく潤っていた。
「新しく買ったわけではないのね」
「懐かしかったよ。またあのジュエリーショップにお世話になるなんて思ってもみなかった。十周年なんですといったら、快く引き受けてくれたんだ。本当に、買った当時のままの輝きだよね。まるで新品」
 健治も仕上がりは見ていなかったので、美鈴と同じように目を凝らした。結婚式の日、神父そして大勢の招待客の見ている前で、美鈴の手をとり、生涯の愛を誓い指輪を嵌めてあげた時のことを健治は思い出していた。美鈴も正にそのことを考えているのではないかと想いながら。
「嵌めてみてもいいかな」と健治は言った。
「うん」
 健治は美鈴の手を取り、その薄い黄色のリングを指でつまみ上げ、薬指に嵌めた。一旦第二関節で少し引っかかり、半回転すると、すっと下まで落ちて根元でしっくり止まった。自分と美鈴の顔が僅か5ミリくらいの幅しかない捩じり模様の隙間と隙間に凝縮されて映り込んでいた。
「ねえ、ぴったり! サイズも変えたの?」
「そうだよ。もう二度と落ちないようにするために」
「ごめんなさい」
「ううん、俺にも原因があるから」
 美鈴は俯いて、首を小さく振った。健治の目の前に差し出した美鈴の手は小さく震えていた。健治はその手をそっと両手で包みこみ、自分の指輪と美鈴の指輪が並ぶように指先を揃えた。
「こうして見ると、本当に十年という年月を感じるね。こんなに光沢って落ちていくものなんだね。同じ結婚指輪とは思えないくらい」
「毎日少しずつ、傷ついて衰えていくのね。きっと、自分たちもそれだけ年をとっているってことだよね。一緒にいると気がつかないけど、着実に十年分」
「うん。年はとった。子供達もあれだけ大きくなってるわけだから」
 二人は食卓に座って食器で遊び始めている我が子の元気な姿を見た。大病も怪我もなく、まずはここまで家族平穏で暮らしてこれたことに、誰にということもなく感謝した。
「この紙は」
 指輪を包んでいた包装紙の内側に、小さな手書きのメモが入っているのに健治は気が付いた。メモを広げてみると、教科書のお手本のような綺麗な字で、こんなことが書いてあった。

「特別ご優待 当チケットをご持参の方に限り、今回ご依頼された指輪とペアの指輪のサイズのお直し、新品仕上げ磨きを無料にて承ります。 有効期限:なし」

 これには健治も驚いた。気の利いた演出だ。今回はあくまでも美鈴の指輪のことしか考えていなかった。サプライズは美鈴だけではなく、健治にとっても同じだった。
 美鈴もそのメモ書きを見て、そうか、と心の中で手を叩いた。今日一日、ずっと心の中でもやもやしていたものが霧が晴れるように澄み渡っていくのを感じた。
 まだか、まだか、と思っていた指輪は、しっかりとこうして健治の手から届けられたのだ。ジュエリーショップはすでに自分が相談に言った時には、この健治の計画を知っていたというわけだ。
 美鈴はあの店員の顔をもう一度思い出そうと努めていた。店員はそっと美鈴に向けて、これ以上ない静謐で上品な微笑みを満面に湛えていた。
「世知辛い時代に、なんてお店」
「本当だね」
 食卓から、「ねえママ、牛乳」と下の子の呼ぶ声が聞こえた。美鈴は立ちあがり、健治に目配せをしてキッチンに向かった。美鈴の背中が、今日は少しだけ大きく見えた。
 自分の指輪をくるくる回しながら、健治はこれからの十年について考えていた。結婚二十目は何か呼び名があるのだろうか。しばらく考えていたが、うまく思いつかなかった。少しすると、そんなことはどうでもよくなっていた。二十年、美鈴や子供達と幸せに暮らしている、という事実の方が大切だった。
 健治は指輪を外そうとしたが、中々外れなかった。美鈴とは反対に、指は当時より太くなり、むくんでいた。ここ何年も外したことなどなかったが、いざ外そうとすると、ここまで苦労をするような指になってしまったということなのだ。これじゃ、せっかくの特別優待券なのに使えないな、と健治は独り苦笑いをして外すことを諦めた。
もう一度乾杯しよう。俺たちのために。
 冷蔵庫をばたんと閉める音が、キッチンから聞こえた。その後は、子供が二人もいるとは思えないほどの静寂とあらゆる可能性で、ダイニングの隅々が埋められていった。(了)

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