『サイレント・ベル』

 飾り気のない窮屈なその部屋は、つい今しがたまで別の愛の形が営まれていた痕跡に満ちていた。香水や煙草や弁当の臭いが複雑に入り混じり、一昔前の歌謡曲が忘れていた古傷を思い出させるように鳴っていた。
 ホテルのロゴがプリントされた掛け布団。肘掛け部分が擦れたアイボリーのソファ。手垢だらけのガラスのテーブル。カバーが壊れたテレビのリモコンに耐火金庫のような冷蔵庫。そのどれをとっても、耀司には前近代的で不衛生に見えたが、繁華街から外れ人通りの少ない一角に位置するこのホテルは、人目を避けるという意味ではうってつけだった。
「ラブホって本当に久しぶり」
 新築祝いに訪れた友人の家を見るように、シオリはトイレや浴室やアメニティグッズを点検して回った。
「滑り込みセーフだったね。さすが金曜日」
 このホテルは、曜日に関係なくいつも最後の一つしか空いていない気がした。ひょっとすると、高い部屋から順番に埋めているのではないかと疑いたくもなったが、先のメリットを考えると仕方がなかった。
 ソファに腰を沈め、コンビニで調達した缶ビールのプルタブを引き、耀司は口を付けた。早いところ酔っぱらってしまいたかった。
「浮気とか不倫してる人って、実際どのくらいいるんだろうね」
 シオリは独り言のようにそう言って、耀司の隣に腰を下ろした。
「本当はもっと若い女の子が良かったって思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。シオリとこうなること、ずっと望んでたんだから」
「また上手いこと言って。他の人にも同じこと言ってるんじゃない? 慣れてる感じするもん。本当は何人目の女? 私」
「慣れてなんかないよ。俺だって結婚以来初めてだってば」
 嘘だった。つい二ヶ月前も別の女とここに来ていた。その女には、耀司はもう二度と会いたいとは思わなかった。させてやるのだから男は当然奉仕すべきだという高飛車な態度と、これから貢がせようとする魂胆が見え透いて、鼻持ちならなかった。
 真意を探るべく、耀司とシオリはお互い顔を見合わせた。先に目線を切ったのは耀司の方だった。
 半年前の写真でごめん、という枕詞と共に送られてきた写メと比較すると、実物のシオリはずっと太めだった。それに顔の皺や髪質も年齢以上に老けて見えた。少なく見積もっても写真より十年は経過していると思った。屋外ではそれ程目立たなかったが、室内の照明を通して見れば見るほど、バーチャルで想像していたシオリ像とは余りにかけ離れているのを、耀司は自覚した。
「本当に会えたんだね」とシオリは頬を上気させて言った。
「会えたね」と耀司は無機質に答えた。「後悔してない?」
「コウキさんこそ、愛する奥様とお子さんがいるのに」
「家族の話はよそうよ。今は現実逃避の時間なんだから」
「だって、後悔してないなんて聞くんだもん。後悔するくらいなら最初から会わない。後悔してるのは、コウキさんの方なんじゃ」
 目を閉じると眩暈がするので、耀司は急いで目を開けた。テンションが上がらないもう一つの理由に、息子が学校で怪我をしたというの妻からのメールのせいもあった。
 一瞬、どこかで自分の名前を呼ばれたような気がして天を仰いだ。「どうしたの?」とシオリは言った。「ううん、気のせい」と耀司は肩を竦めた。
「奥さんのこと考えてるんでしょう」
「まさか」
 見透かされたようでどきりとした。奥さん、という言葉が重く腑に沈んだ。
「ごめん、現実逃避だったね」
 申し訳なさそうに、シオリは頭を垂れた。
 シオリは自称三十五歳。見た目はもっとずっと上に見えた。小柄のシオリを、座高の高い耀司は上から見下ろす形になった。頭頂部にかなりの白髪が密集しているのが見えた。近くに寄れば寄るほど、シオリのあらが見えるような気がして嫌だったが、辛うじて香水だけは好きなタイプの匂いだった。しかしその唯一つの優位性も、一度抱いてしまえば、たちまち失われてしまうことは容易に推察出来た。
「ビール飲む?」
 一気飲みに近い形で空にした缶をテーブルに倒して、耀司はシオリに今更ながら聞いた。
「私は飲めないって言ったでしょう。顔真っ赤になっちゃうし、腰が抜けちゃう。介抱してくれるなら」
「もう一本飲んでもいい?」
 シオリの返事も待たず、部屋の冷蔵庫から耀司はビールを一本抜いた。大嫌いなサントリーだったが、今は銘柄などどうでも良かった。いちいち失望する前に、とにかく早く酔ってしまいたかった。少しずつ脈が上がっているのが分かった。
 手持ち無沙汰にスマホを手にしたが、間もなくまた同じ場所に置いた。待ち受け画面は夏に撮影したはっぴ姿の息子の写真だった。「家族第一」と思わせる妻への対策的な意味もあった。しかし今だけは他の画像に替えておくべきだったと後悔した。息子は百人中百人が「母親似だね」と答えるほど、まるで妻そのものだった。
「出会い系なんかする人には見えないよね、シオリは」と耀司は言った。問いかけというより、沈黙の隙間を埋めるために取りあえず言ってみたという感じだった。
「だって初めてだもん、本当に」
 シオリの膝はぴたりと閉じられ、両手は太股の下に挟み込まれていた。シオリの身が緊張で強張っていることは、耀司にも伝わってきた。
「旦那さんには何て言ってきたの?」
「昔の友達に会って来るって。うちは自由なの。お互い干渉もしないし。無関心っていうのかな。私が何をしようと、あの人には関係ないのよ。私も気にしてないし。夜だってほとんど家にはいないから。母子家庭はもう慣れちゃった」
 シオリの表情は明るくもなく暗くもなく中庸だった。
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