浴室の壁に、一匹の蜘蛛がいた。それは足も胴体も綿毛のように華奢な、赤くて小さな蜘蛛だった。
俺はシャワーの栓をひねり、蜘蛛にかけた。蜘蛛は水流に乗るように壁を伝い、床を伝い、そのままの姿勢で排水口に吸い込まれていった。
翌日の俺は、シャワーを浴びるのを止めようかと思うくらい酷く酔い、疲弊していた。蜘蛛を見た時、デジャブかと思った。しかしそれはデジャブではなく、つい昨日、全く同じ場所に、全く同じ赤い蜘蛛が張り付いているのを見ていた。
シャワーの湯が熱くなるのを待ってから、俺は蜘蛛の背の方から垂直に湯をぶつけた。蜘蛛は昨日よりも速く、シャワーの水量に弾き飛ばされるように排水口に被せられたプラスチックの蓋の隙間に消えた。
さらに次の日も、やはり赤い蜘蛛はその場所にいた。俺は全くの無関心を装った。髪を洗い、顔を洗い、それから身体の汗をかく部分だけ石鹸で擦った。乾いたバスタオルで身体を拭いている時も、蜘蛛は身動き一つせず、固まったように壁にくっついていた。
夜は更けていた。家族はとうに布団の中だった。毎日酒ばかり飲み歩いてくる俺に嫌気がさしているのだろう。しかしそうでもしないと、家でも職場でも気持ちがもたなかった。精神的にぎりぎりのところにきていた。いい年をして情けなかった。夫としても父親としてもサラリーマンとしても、俺は失格だった。
髪を拭き、手櫛で前髪を後ろに流した。上唇の端っこに、面疔が一つできていた。肌に色味もなく、蝋人形のようだった。
浴室の鏡に映る裸の俺。筋肉質だった昔の面影など全身脂肪にくるまれて見る影もなかった。鏡の隣の赤い蜘蛛は十センチ程左に移動し、ぴたりと止まった。連日目にしているのに、動いているところを見たのは初めてかもしれなかった。
もうシャワーで流すつもりはなかった。台所からティッシュを一枚持ってきて、俺は蜘蛛を掬い取るように包み込み、慎重に丸めた。
俺はそのまま家族が寝ている和室を横切り、ベランダに出た。月は煌々と輝いていた。さすがにこの時間に物音をさせているのは俺だけだった。夜風が陰毛に触れ少しくすぐったかった。
手すりに両肘をつきながら、俺は静かにティッシュを手放した。始めはゆっくり揺れながら、やがて横取りされるように風に浚われ視界から消えた。まさか地上二十メートルの空を飛んでいるとは夢にも思っていないだろう。何の心配もない、と俺は思った。幾度の水難をもくぐりぬけてきた強者なのだから。
星の良く見える夜だった。このまま気持ち良く床に就くには、最低一杯、強めに作ったハイボールが必要だった。
次の日、朝食を食べていると、サイドボード側の壁に奴はいた。もう俺は驚かなかった。結局どこにも行けず、再び舞い戻って来たのだ。
俺が気付くと同時に妻も気付いたようで、しばらくサイドボードに目が釘付けになっていた。それから諦めたように箸を置き、ティッシュを二、三枚手にして席を立った。
逃げろ、と叫びたかったが、何故か声が出なかった。替わりに口の中の食べ物が気管支に入り込み、俺は大きく咳込んだ。
妻はためらいもなくティッシュで蜘蛛を掴むと、指先でぎゅっと押し潰し、そのまま丸めて屑かごに捨てた。それは鼻をかんだり味噌汁を温めるくらい至って日常的な動作だった。
妻は洗面所で一度手を洗い、何も言わずに再び食卓について口を動かした。乾いた砂漠の砂を齧るようだった。食べ物の味が分からないばかりか、まだほとんど胃に何も入れていないのに酷く膨れ上がった感覚があり、次に何かが逆流した。俺は我慢できずにトイレに駆け込んで便器に顔を突っ込んだ。
目が覚めた。
夢だった。
いや、どこからが夢でどこからが現実なのかも分からなかった。ずっと夢だと言われればそうとも思うし、ずっと現実だと言われても合点がいった。俺の人生全体がそんな感じだった。いずれにしても、今俺は導かれるように目を開けたところであり、天井のある一点を見つめていた。
赤い蜘蛛は俺の覚醒を待っていたかのように、ぐるり電灯の根元を一周した。それから糸を垂らし、少しずつ少しずつ降りてきた。尻から紡ぎ出される糸に手足を絡みつけるような感じで忙しく丸まりながら、着実に下降を続けていた。明かりがなくても、何故か蜘蛛がいる部分だけスポットライトを浴びているかのように光が反射して、糸や蜘蛛の様子が手にとるように良く見えた。
蜘蛛の動作は思ったより素早くてどことなくコミカルだった。何故あれだけの細い脚を絡まらせずに複雑に動かせるのか不思議だった。その足だって、あんなに小さな胴体に結節し、胴体は顔を持ち、顔のどこかにこの世界を生き抜くための思考を司る器官を持っているのだ。
自分の体が蜘蛛より小さくなったら、蜘蛛はどのように見えるのだろうかと、俺は想像した。それは昔見た特撮映画の怪獣のようだった。
そうこうしているうち、蜘蛛は着実に地上に近付き、妻に近付いていった。俺はただ、蜘蛛の行く末を見届けるだけだった。
この赤い蜘蛛には何をしても無駄なように思えた。殺生などはもっての他だった。妻の無慈悲をもってしても、こいつを永遠に殺すことなどできないと思った。ただ見守っていることだけが、我々にできる唯一のことだった。
赤い蜘蛛はやがて、横を向いて眠っている妻の乱れた黒髪の中に消えた。俺は息を飲んだ。そのうちどこからか顔を出すのかとしばらくじっと目を凝らしていたが、蜘蛛はそれ以来姿を見せなかった。
妻は一度だけ寝返りを打ち、俺の方に顔を向けた。確かに妻の髪の毛の中に蜘蛛は消えたはずだった。蜘蛛を照らしていたスポットライトの焦点は、今や妻の寝顔だった。昼間、俺に対峙する時の険しい顔とは違って、寝顔は赤子のように穏やかな顔だった。まるで出会った頃の妻だった。もちろん出会った頃は妻ではなく、気になる大学のクラスメイトだった。
もう蜘蛛を探す必要もないし、見つけたところでそれ以上の意味を探る必要はなかった。あいつはすでに一つの解を示唆したわけだから。
目覚めたら目覚めたでも構わないという気持ちで、いやひょっとすると目覚めて欲しいという期待を込めて、俺は産毛のたくさん生えた妻の白い頬に唇を寄せた。
直接妻に触れるのは、実に数年振りのことだった。(了)
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