【掌編小説】階段

 僕らは階段を昇っていた。確か、どこかの商業施設の階段だった。おかしな話だが、何のために階段を昇っているのか目的を失念していた。目的が分からない故、どこまで昇るべきなのか目標も不明だった。
 妻に確認を求めてみたかったが、とても今は言い出せる状況ではなかった。妻の息は既に上がっていて、一歩踏み出す度膝に手を衝き、苦しそうだった。僕の足もそろそろ限界だった。大腿とふくらはぎはぱんぱんに腫れていた。
 これまでどれだけ階段を昇ってきたのだろう。どうしてエレベーターを使わずに階段なのだろう、そのあたりの「そもそも論」は遠い記憶の彼方に押しやられ、あとわずかな時間が経過すれば、永久に思い出すことも出来なくなりそうだった。
 階段は、昇っても昇っても階段だった。店舗に通じる扉はいつまでも現れなかった。死にそうな顔で階段を昇っている夫婦など、他に誰もいなかった。否、昇り始めてからというもの、僕の記憶が間違っていなければの話だが、誰かとすれ違ったり、誰かに追い抜かされたりすることはなかった。
 途中の踊り場で、小休止をしたかった。一旦歩みを止め、息を整える為に大きな深呼吸をし目を閉じた。妻は僕より半階遅れて、自分のペースで昇っていた。僕は妻が踊り場に到着するまで待っていたが、妻は先を目指して僕には一目もくれず、そのまま通過していった。妻の横顔は、酷く苦痛そうに見えた。もう階段は止めにしたかったが、やめようにも、外に出られないのだがらどうしようもなかった。
 仕方なく、僕は行動を再開し、妻の尻を追った。白いジーンズ素材のパンツだったので、階段を一段上がる度に、ショーツのラインがくっきり見えた。照明によって、色まで分かるくらいだった。しかし僕は何も感じなかった。他人の女性なら、違ったかもしれないが。
「休まないの?」と僕は妻の尻に向かって言葉を投げた。
 妻は何も答えず、ただひたすら上を目指していた。口から定期的に洩れる吐息だけが、妻の回答の全てだった。
 いつからこうなってしまったのだろう。お互いの言葉を無視するようになったら夫婦は終わり、と言っていたのは妻だった筈なのに。
 僕は渾身の力を振り絞り、妻を一気に追い越して、次の踊り場で大げさに倒れ込んだ。「ふり」をしたつもりだったが、正直、もうかなりしんどかった。目標の失われた運動がどれほどきついことか、改めて思い知らされていた。もう惰性だった。これ以上昇らなくてはいけないモチベーションは残されていなかった。
 僕のいる踊り場に追いついた妻は最後に嗚咽のような息を吐き、床に仰向けになって力尽きた。呼吸が整うまで、僕は話し掛けることは出来なかった。自身の呼吸も。妻の呼吸も。
 静かだった。階段を歩く者は、僕ら以外にいなかった。商業施設の筈なのに、物音は何一つ聞こえてこなかった。踊り場の壁には通常あるべきフロアの表示は全くなかった。ただ壁とコーディネートされた暖色の照明だけが、いたずらに明るく点灯していた。ここでちかちか点滅を始めたらホラー映画だな、と思った。
「階段、何かおかしいよね」と僕は言った。今更ながらの質問だったが、何も言わないよりはましだと思った。「何階に行けばいいの?」
「何言ってるのよ。それを聞きたいのはこっちの方よ。私はあなたについてきただけなんだから」 
 これ以上ないうんざりした表情で、妻は答えた。
 そうなんだ、僕の都合だったのか。しかし本当に何一つ思い出せないのだ。疲労でやられた記憶の手掛かりがかけらも浮かんでこないというのは、この年で耄碌が始まったのかと、切ないというより恐怖だった。
「階段を昇っていたら忘れてしまったんだ。最近どうも忘れっぽくなってきたなと思っていたんだけど、これほど酷い忘れ方は初めてだよ」
「ゴルフ用品がどうのこうのと言ってたような気がするけど、私はゴルフなんて分からないから。何であなたが忘れてしまうのよ。ありえない」
 妻の目は虚ろだった。怒る気力もないという感じだった。
 ゴルフ用品、ゴルフ用品、思い当たる節は何もなかった。当面ゴルフに行く予定はなかった。僕はてっきり妻の用事で階段を昇っているものだと思っていたので、この回答は意外だった。仮に、何かゴルフ用品が欲しかったとしても、今となってはどうでも良かった。一刻も早くこの階段地獄から外に出たかった。否、階段から店内に、が正しい言い方だ。
「ごめん」と僕は謝った。恐らく、圧倒的に僕の責任だった。僕が妻をここまでつき合わせてしまったのだ。認めたくはなかったが、僕の記憶がない以上、妻の言ったことに反論する材料は持ち合わせていなかった。仮にゴルフ用品を買うつもりだったとして、妻を同行させる必要はなかった。
「こんな思いをして、どうしてあなたの遊びの買い物に付き合わなければならないのよ」という妻の憤りはもっともだった。僕だって、まさかこんなことになるとは思ってもみなかったが。
「あなたはいつだってそう。いつでもマイペースで自分のことが最優先。結婚してから、あなたに振り回されっぱなし。都合が悪くなると、そうやって謝るだけで。謝ればいいと思ってるのよ」
 いつになく、妻の言葉には棘があった。明らかに苛立っているようだった。
「いや、そんなつもりじゃないよ。本当に忘れてしまったんだよ。どうして階段を昇っているのか、自分でも分からなくなってしまったんだ。僕だって怖い。最近思考がこんな感じで、行動しているのに、目的が分からなくなる時があって。ついさっきまで、僕は君の用事で階段を昇っているのかと思っていたくらいなんだ。どうしてエスカレーターとかエレベーターではなく、階段なのかも分からな」
「あなたはいつだって、そうやってあたかも自分のせいじゃない、自分だって被害者だ、みたいな顔をするの。最後には、悪者は私か子供のせいにして。もう本当にうんざり。本当に嫌」
 妻はそう言って、両手で顔を覆い首を振った。感情がほとばしり始めると、僕にはどうにもならなかった。何を言っても、自分勝手な言い訳になった。そんな時、僕は黙るしかなった。時間が経過する以外、解決手段はなかった。
 僕だって、こんな商業施設の階段の踊り場で、妻を泣かせたくなかった。僕らはただ、限られた週末の限られた時間に、買い物に来ているだけだった。また明日から、厳しい労働がお互い始まるのだ。
 しかしこの雰囲気だと、精神的にも肉体的にも、明日の仕事の効率に影響するのは必至だった。日曜の午後に買い物に出るべきではないのだ。家でじっとしているべきなのだ。月曜日に備えるべきなのだ。こんなところにこなければ、階段を昇ることなんてなかったのだ。未だに何のゴルフ用品かは思い出せないけれど、どうしても今日買わなければならないものではなかった筈だ。僕だけで買いに行けば良かったのだ。妻には心から申し訳ない気持ちで一杯だったが、僕が謝れば謝る程、妻からの信頼は失われていく気配だった。
 少なくとも三十分以上は階段を昇っていた。体力は限界だった。一度腰を下ろしてしまったら、次に持ち上げるのが億劫で仕方なかった。このままここで昼寝したいくらいだった。ひんやりした固い床材は、火照った体をクールダウンさせるのに丁度良かった。
 ニュースやLINEをスマホで確認したかった。最近は休日でも、仕事のLINEが入るようになっていた。しかし今はとてもスマホを取り出す状況ではなかった。スマホが所定の場所に格納されていることをジャケットの上から確認するだけに留め、妻からの言葉を待った。日曜日に喧嘩するほど嫌なことはなかった。その思いを引きずったまま、辛い平日をスタートしなくてはならないのは精神的にもきつかった。どうにか解決して、月曜はすっきりした気持ちで出勤したかった。ただでさえ仕事は逼迫していた。これ以上、自身に負荷がかかるのは耐えられなかった。
「帰る」と妻は言った。何か吹っ切ったようにすっと立ち上がり、階段を一人で降り始めた。
「僕も帰るよ」
「いいわよ。ゴルフ道具、買ってきなさいよ。今日買わないと困るんでしょ。だからここまで来たんじゃない。そうじゃないと、何のためにここにきて、こんなきつい思いをして階段昇らなければならなかったのか分からないじゃない」
「そうだけど」
 ゴルフ用品なんてもうどうでもいい、と今更言えなかった。
「私は晩御飯の材料買わなくちゃいけないから」
 妻は手すりにつかまりながら、昇りの倍の速さで、階段を降り始めた。
「車はどうするの」
「いい。電車で帰るから」
「電車って」
 体を起こして、僕も階段を降りようとすると、妻は振り向いて、僕を睨みつけた。その眼差しには、激しい怒りと、絶望的な諦めが入り混じっていた。こんな妻の顔を見るのは久しぶりだった。もう何年も見ていなかった。最近はうまくやっていると思っていた。しかし、そう思っていたのは、僕だけなのかもしれなかった。
 僕はそれ以上、妻を追えなかった。妻と僕の距離は次第に離れ、やがて妻の頭頂部が視界から消えた。とんとんとんとん、とんとんとんとん、という妻の足音だけになり、最後にはその音も聞こえなくなった。せめて妻だけは、この状況を脱して欲しかった。僕はどうにかなると、たかを括っていた。
 僕はスマホを見た。ネットに繋がらず圏外だった。圏外って、ここは東京だろうに。
 諦めてスマホを仕舞い、これからの身の振る舞い方をどうするべきか、考えた。最低限、ゴルフ用品を何か一つでも買っていく必要があった。それは何でも良かった。とにかく、僕は売り場に行って、ボールでもソックスでも何か一つ買って、その店の袋をぶら下げて帰宅しなければいけなかった。そうでないと、妻と歩んだ本日の労苦が報われないばかりか、妻からは永遠に見限られるような気がした。
 僕は再び上に向かって歩み始めた。こうれまでの経緯からして、どこまで行っても店内に通じる扉など現れてこないだろうという奇妙な自信があった。むしろ現れてくれるな、とさえ思っていた。その先どうなるかなど、僕の知ったことでなかった。
 ただ妻は下へ下へと降りて行って、僕は上へ上へと体力が持つ限り昇り続けるだけだった。妻はもう戻れたのだろうか。妻は現実から切り離されてはいけない存在なのだ。妻という存在は、常に「現実」とはずぶずぶの関係だった。かたや夫はいつも、現実と観念の間を行き来していた。
 そして僕のように、観念から抜け出せなくなる、否、抜け出したくない夫というものが、世の中には一定数以上、確実に存在している。(了)

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