玉ねぎの神様

 「玉ねぎ」と聞いて思い出す事は、僕がまだ東京という田舎に住んでいた子供の頃の話だ。
 そこでは、町の至る所に玉ねぎが転がっていた。当時は「転がっていた」とか「散乱していた」などと表現する事はタブーであり、町会長に知られたら町会裁判にかけられ村八分になる程の一大事となった。そうした事案は月に一、二度の頻度で起こっていた。
 「人前では、お玉様が鎮座ましましておられる、と言え」と厳格な父は僕を戒めた。「何故それ程玉ねぎが偉いのか」と僕が問いかけても、父は「それがこの町のしきたりだ」と言ったきり口を噤んだ。母も「その話題に触れてはいけない」という風に顔を背けた。「しきたり」に「何故」と問い掛ける事は愚問なのだ、僕はそう学習した。
 下校時、僕は時々、活きのいいお玉様を蹴飛ばしたり、裏山めがけて投げ込んだ。テストの結果が悪かったり、いじめられたりしてむしゃくしゃすると、僕は玉ねぎに八つ当たりした。
 町には、常につんとした匂いが立ち込めており、外出するだけで涙目になった。褐色の皮を被った若々しい物もあれば、芯までむかれた物、既に傷んで変色している物まで様々だった。どのタイプの玉ねぎであっても、玉ねぎである以上、それは神だった。
 一軒家の大半は、塀に並べたり、軒先や自家用車に吊るしていた。町会長の庭には鳥居があり、神棚には見たこともないような巨大なお玉様が常時祀られていた。本気半分、馬鹿馬鹿しさ半分の気持ちで、僕は塀の外から鳥居に向かって柏手を打ち、目を閉じた。当時何を祈っていたのかさすがに忘れたが、転校ばかりで友達のいなかった僕の事だから、一刻も早くこの玉ねぎ臭い町から引っ越したいと願っていたのだろう。
 玉ねぎを食す事は罪だった。ハンバーグにもカレーライスにも、玉ねぎは入っていなかった。オニオンスライスなど論外だった。原材料に玉ねぎが使われているとんかつソースやタルタルソースも禁忌された。そもそもスーパーマーケットにも農協の直売所にも、玉ねぎだけは売っていなかった。皆地域のルールを厳格に守っていた。もっとも、これだけ玉ねぎに囲まれた環境にいると、それほど食べたいという気持ちにはならなかった。一度だけ父は「そんなもの、食べなくても生きていける」と言った。玉ねぎを「そんなもの」と呼んだのを、僕は聞き逃さなかった。
 しかしある時期から、町中の玉ねぎが目に見えて減っていった。そもそも畑に出来る筈の玉ねぎが町の至る場所に最初からある筈はなく、誰かが「あらしめている」とは思っていたが、一体誰がそうしているのか、その正体を見つける事は出来なかった。玉ねぎの減少と合わせて、鮮度の悪いものも多く見受けられるようになった。悪臭も一層鼻に突いた。
 少なくとも自宅アパートの周りだけはと、僕は夜中こっそり家を出て、腐敗した玉ねぎを黒いポリ袋に入れ「可燃ごみ」の日に捨てた。当然誰にも見られてはいけなかった。僕だけの秘め事だった。腐った玉ねぎに家の周りを取り囲まれるのは、子供の僕でさえ耐えられなかった。それでも平然と日常生活を送る両親や町の人達が、僕には信じられなかった。

 隣町のファミレスで町会長を見たのは、そんなある日の事だった。濃くて長く伸びた白髪の眉毛。茶色とも黄土色とも言えないぶかぶかのジャケット。それは間違いなく町会長だった。夫人ではない女性と楽し気に談笑していた。
 町会長はランチスープを啜り、ハンバーグを美味そうに食べていた。僕もランチを食べたので知っていたが、どちらにも玉ねぎはふんだんに使用されていた。
 何だ。町会長だって、玉ねぎを食べるんじゃないか。
 あれほど玉ねぎを崇め、玉ねぎを貶める町民を厳しく断罪する町の長が、隣町では何の躊躇もなく玉ねぎを頬張っているという事実は、僕にとっては衝撃的だった。
 それを、僕は両親に言わなかった。言ってはいけない事なのだと勝手な気を回した。言ったところで、何となく父の言うことは分かっていた。
「偉い人というのは、所詮そんなもんだよ」

 間もなくお約束の転勤があり、僕たち家族は「玉ねぎの町」から離れることになった。それ程遠方でもなかったので「お前たちは残ってもいいぞ」と父は言ったが、母も僕も「ついていく」と即答した。転校云々より、この匂いと涙から一刻も早く解放されたいという気持ちの方が断然勝った。
 そして、父の転勤が決まって初めて、生涯この土地から離れることのないであろう土着の町会長を、いささか不憫にも思った。神を食しながら、若い女性の前で鼻の下を伸ばす彼を、いとおしくさえ思った。
 そうでなければ、僕は生涯、「大人」という奴を信用することなど出来なかった筈だから。(了)

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