畜生

 ケージの扉は開いていた。内側から外す事は、いくら狡猾な動物でも容易い作業ではなかった。今朝、餌をやる時にロックをし忘れたのだと、母は悔いた。
「帰ってきたらいなかったよ、ママ」と息子は言った。「家中探したけど、何処にもいないんだよ。ベランダから落ちたのかな」
「あなたたちで世話するっていうから許してあげたのに、結局面倒見てるの、ママじゃない」
「だってね、タロウの奴、僕が餌あげようとすると噛みついてくるんだよ。飢え死にしそうだったとこ助けてやったのに」
「あたしもねママ、散歩連れてっても逃げようとするし、うんちも何度も何度もするし、他のペットと喧嘩しようとするから嫌い」
 そんなこと言わないの、と母はスーパーの袋を肩から下ろして、ケージの中の餌の残骸を眺めた。外出時にあげたキャベツの芯には、一か所だけ歯型を残して殆ど手を付けていなかった。良い物ばかり与え続けてしまったせいか、最近は食べ物も選り好みをしている様だ。
「もう一度、探してみよ?」
 帰宅直後のハプニングに幾分うんざりしながら、押し入れを開けて布団一枚一枚を下ろしている母を見て、二人の子供も仕方なく自室や台所を探った。もう何度も探した筈だった。手掛かりは全くなかった。
「もういないよ、ママ」最初に音を上げたのは息子だった。それを聞いて、娘もその場にへたり込んだ。飼い主の思うようにならないペットなど、癒しの足しにもならない。「分かったわ。少し放っておきましょう。またひょっこりお腹が空けば出て来るかもしれないから」
 母は諦めて、エプロンを締めた。
「どうしても見つからなかったら、今度はもっとちゃんとしたの買ってあげるから」
「本当?」二人同時に驚きの声を上げた。
「健康できちんとした血筋のやつをね」
「やった。嬉しい。もうタロウなんていい。逃げてくれて良かった、ねえ、ママ」
「こらこら、そんなこと言っちゃ駄目よ、ジョン。タロウのこと、可愛いと思ったから連れてきたんでしょう?」
「弱ってて可哀相だったからだよ。僕もお腹ぺこぺこなのに何も食べられなかったら辛いもん。お慈悲お慈悲」
「お慈悲なんて。そんな言葉何処で覚えたの」
「タロウが涙目で言ってた。でもあいつ、嘘つきだよ。全然泣いてなんてないよ。その時だけそんな顔するんだよ。ねえ、ママお腹空いた」
「直ぐ支度するから待ってて。戸棚にある子牛のあばらでもしゃぶってて」
「やった。ショコラ、DSやろ」
「やる」
 二人はおやつを持って、ばたばたと子供部屋に戻った。母は探し忘れているところが他にないか考えた。
 ベランダ。
 いくら拾ったペットとはいえ、毎日餌やりなどしていると、それでも愛着は湧いてくるのだった。新しいペットの話をしたのは少し早計だったかなと後悔した。包丁を持ったまま、母はダイニングからベランダに通じる扉の鍵に手を掛けた。
 そこに立っていたのは、タロウだった。髪はべったり濡れ、泣いているようにも見えた。何処かほっとした気持ちだった。キャベツなんかではなく、今度はもう少しまともなものを食べさせてあげよう、母は笑顔で扉を開けた。

*

 室外機の側は熱く、初夏の陽気と相まって全身汗だくだった。エアガンで撃たれたり、風呂場で水攻めにされたり、髪の毛を燃やされたり、子供達から受ける謂れのない仕打ちはもう懲り懲りだった。しかし家を飛び出したところで、食える保証はなかった。現世、人は犬に依存しなければ生きていけないのも厳然たる事実だった。
 戸の向こうで、包丁を握りしめている雌犬と目が合った。いよいよ、頼みの綱の母にさえ裏切られる日が来たのだ。溢れ出る涙、そして激しい全身の震えを、タロウは止めることが出来なかった。(了)

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