実家の父親から送られてきたそのタイムカプセルを、晴美は床に転がしながら足の裏で弄んだ。普通の大人であれば、小学生の頃のノスタルジーに心ときめかせるはずが、今の晴美には、まるでどろりとした鉛のプールに浸かっているようだった。
「二十年後の私」に当てた手紙。題目以外、中身は白紙。何も書かなかった、というより書けなかった。二十年後どころか、明日の自分さえ生きているかどうか分からなかったから。
毎日が苦しかった。早く家に帰りたい、学校にいる間そのことだけを願った。学校に行かないという選択肢はなかった。病弱で入院中の母に心配かけさせたくなかった。しかし行けば行ったで、皆からいじめられた。
なぜ、私ばかり。色素が薄く、やや金色がかった強度な癖毛の髪。生まれた時からそうだった。髪質は母からの遺伝だったが、母を恨んだことはなかった。「ガイジン、ガイジン」と、皆が囃し立てた。暴力を振るわれたことも度々あった。髪を引っ張られたり、頭を叩かれたり、鞄をごみ箱へ捨てられたり。しかしやがて、そういったタイプのいじめはなくなった。晴美の体や物に触れること自体タブーになった。
「寂しがりやのお父さん、よろしくね」
晴美が十一歳になった誕生日の翌日、母は息を引き取った。晴美のことを無条件に認め、悲しいことや辛いことがある度、何度もきつく抱き締めてくれた母。自分も死にたいと思った。けれど、その度に踏みとどまった。死んでしまったら、今度は父が孤独になってしまう。大好きだった母の遺言を守る為にも、晴美は何としても生き続けなければならなかった。
あれから二十年。その間、晴美の身の周りでは実に沢山の出来事があった。ただ年を経るごとに、苦しいことばかりではなく、楽しいこと、嬉しいことも少しずつ増えていった。あれ程忌々しかった髪の毛を「素敵だね」と褒めてくれる人が、ぽつりぽつりと現れた。
やがて晴美は大人になり、女になり、結婚相手を見つけ、今こうして都会の郊外に家を構え、平穏に暮らしている。
晴美は意を決して足元のカプセルを手にとり、しばらくその手触りと重みを確かめた後、留め金を外した。二十年前に封印された時の澱が、たちどころに二十年後の現代に溶け出していく。
「二十年後の私」。
筒状に丸まった真っ白な作文用紙の皺を広げ、そっと目を閉じる。とりとめのない記憶の断片がちぎり絵のように浮かんでは消え、涙が次々と目尻を伝い、スカートを濡らす。
これからの、二十年。
五十代になった自身の姿を晴美は想像してみる。そして、お腹に宿した子の未来を。
きっと、今なら書ける。こんな私でも、今までどうにか生きてきたからこそ、愛する人と巡り合い、愛される喜びを知り、愛すべき次の世代の命を育むことができたのだから。
我が子へのメッセージ。一文字一文字気持ちを込めて、晴美はペンを走らせる。原稿用紙は、たちまち小さな丸い文字で埋め尽くされる。自分のことではなく、人のためなら書ける。どんな顔をして生まれてくるのだろう。どんな小学生時代を過ごし、青春を送り、そして成人を迎えていくのだろう。
「まだ見ぬ我が子へ 晴美」。
再び用紙をカプセルに収めて、元通り留め金をかける。購入したてのマイホーム。小さな庭のヤマボウシの木。その根元を掘り下げて、二十年振りに再会したばかりのタイムカプセルを、再び二十年の時空旅行に旅立たせる。
穏やかな陽射し。日曜日の昼下がり。子供の遊び道具にと、時間潰しも兼ねて縫っているフェルト人形の髪の毛は、ふわふわの黄色の毛糸。
「生きてくれてありがとう」。
お腹の子に言葉を掛けたつもりが、お腹の中から自身に投げかけられたように、晴美には感じた。(了)