小便悲話

 男が帰宅すると、トイレに明かりが点いていた。消し忘れなんて珍しい、取手に手を掛けると鍵も掛かっているようだった。試しに扉を叩くと、こんこん、と中から返事が返ってきたので、男は肝を潰した。
「入ってます」
 若い女の声だった。男は部屋に鞄を置いてから、側にあった長い金属の靴べらを手にとった。
「お前、誰?」
「お前だなんて偉そうに」
 苛立ったように女は答えた。
「何してる」
「何してるって、トイレですることと言えば一つでしょう」
 こいつなめてる、男は力一杯扉を叩くと、鼓膜に爪を立てるような金切り声で「うるさい」と一喝された。その頓狂な声はいつかどこかで聞いたことがあるような気がしたが、直ぐには思い出せなかった。
「ここは俺の家だ」
「あたしの家でもあった筈」
 あたしの家? 良く意味が分らなかった。一日の終わりに難しいことは考えたくないし、面倒なことにも巻き込まれたくなかった。急に気が昂ぶったせいで、尿意も限界に近付いていた。
「トイレ使わせてもらえるかな。もうぎりぎりなんだ」
 男は下手に出て、丁重に懇願してみた。
「それはお互い様。自分だけじゃないのよ。相変わらず自分勝手な人ね」
 女の声はそこでぴたりと止んだ。同時に電気が消え、鍵の開く音が聞こえた。恐る恐る扉を開けると、中には誰もいなかった。水は流された後で、天井の換気扇だけがからから回っていた。
 男はズボンと腰を下ろし、頭を整理しようと努めた。酷く疲れていて、縁起の悪い幻聴でも聞いたのだ。こんな日は早く寝てしまおう、男は素早く用だけ足すと食事も採らずにベッドに寝転がり、そのまま朝まで意識を失った。
 翌朝、今度はトイレの中から出られなくなった。鍵など掛かけてもいないのに。力ずくで扉を押してみるものの、まるでコンクリートの壁のように微動だにしなかった。このくそ忙しい時にトイレに閉じ込められるなんて、余りの馬鹿馬鹿しさに最早笑ってしまいそうだった。
「情けない男」
 何処からか声が聞こえた。昨日の女とはまた違った声色だったが、やはり聞き覚えのある声だった。扉は音もなく自然に開いた。側に人のいる気配はなかった。遅刻するかしないかというぎりぎりの時間だったが、その日は土曜日だったということに、はたと気付いた。自分の頭が少しおかしくなってきているのか、世の中が狂っているのか、男には分からなかった。
 深夜、不倫相手との逢瀬から帰宅すると、男はいよいよ自宅にすら入れなくなった。鍵穴の形状が変えられ、何度チャイムを鳴らしても応答はなかった。アパートの反対側に回ると、部屋に明かりが灯っているのが見えた。数名の人影が食卓を囲んでいるようだった。改めてアパートの名前と部屋番号を確認した。いくら酔っているとはいえ、十年も住んでいる自分の家を間違える筈はなかった。
 男は諦めて、公衆便所のある近所の公園に行き用を足した。大して飲んでもいないのに、小便は切れ目なく続いた。くり抜かれた窓から、満月の光が夜の太陽のように下界を照らしていた。いつの間にか一人の男が隣に立って、男と同じ格好で小便をしていた。
「今まで不義理をしてきた女性の報いだよ」ともう一人の男は言った。顔や体つきは元より、髪型や服装、ネクタイの緩め方まで男と同じだった。もう一人の男は白い顔でチャックを上げると、そのまま黙ってそこを去った。
 幻覚。男はいつまでもそこに突っ立ったまま、混乱と眩暈の際にいた。いっそ一思いにとどめを刺してもらっても良かった。どうせ詰まらぬ人生なのだから。
「もちろん」と複数の女が答えた。
 振り返ると、詰まらぬ男に付き合わされた凡そ十数人の女達が、元妻を先頭に、思い思いの刃物を手に列をなしていた。(了)

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