Twitterで問いかけられた意見に対する、僕なりの考え方。

 先日、ツイッター上で、Kindleで電子出版(有料)している素人小説家(この“素人”という部分は、今回のテーマになっています)に対し、一つの見識を主張された方がいました。
 その方から直接僕宛てにメッセージを投げられたわけではなく、いわゆる「エアリプ」という形だったのでスルーしても良かったのですが、僕のツイートをリツイートした上での発言であり、明らかに自分に向けられたものでしたので無視する訳にもいかず、また自分の立ち位置を考える、という意味でもいいきっかけになりそうだったので、今回ブログにまとめてみることにしました。(ツイッターの限られた文字数ではとても返信できるものじゃなかったということもあります。またブログなので分けて書いても良かったのですが、「一筆書き」の方が後で見返し易いかなと思いましたので一回で収めます。長文ご容赦ください)

 さて、経緯はともかく、その方の主張のポイントは下記のようなものでした。

①素人小説家は、電子書籍で「販売」すべきではない。顧客からお金を払ってもらえるのはあくまでも「出版社」のお墨付きをもらえている(新人賞受賞者等)の「プロ」だけだ。

②素人が文章を発表できるようになったのは電子書籍というツールのおかげであり、誰も実力を認めたわけではない。編集者の手にも寄らない稚拙な小説を読まされるせいで、プロの小説を読む機会を奪われている。

③誰もが使える文字や言語というツールを使う小説を、芸術や文学の次元で捉える際には、少しでも「良いものを読みたい」という当たり前の要求と、それに対して少しでも「良いものを供給できるという出版者側の体制」とが守られることではないか。

 主張自体はとても良く理解できるものでした。それは、ついこの間までの自身の考え方でもありました。しかし僕が自分の小説を7年程前から、最初は自サイトで、続いてKindleで(Kindle以前に、いくつかの電子書籍サイトで出していますが省略します)出すようになるきっかけというのは、彼の言う③に疑問を覚えた個人的体験がきっかけでした。
 例えば、自身が落選した新人賞受賞作がどれだけのものかと後で読んでみるのですが、明らかに相手の方が舌を巻く程上手で、落選したことが納得できるものであればいいのですが、時に小説を読み続けることが苦痛になるような文章に出会うことが多くなりました。もちろん、それは僕の知識レベルがそこまで達していないのかもしれません。同時に、このような小説を「好き好んで読む人間が、一体今の世の中にどれほどいるのだろう」といった疑問?あるいは好奇心?のようなものが芽生えてきました。

 これは新人賞だけではなく、一般流通している新刊書籍についても同様でした。帯につられて買っても買っても、中々満足できる小説に出会うことが少なくなりました。

 僕自身の読書体験も、それこそ小学生の頃から今日に至るまで数十年という歳月を経ている中で、その時その時に手が伸びる本は随分と変化していることは事実あると思いますが、特に最近、結婚して家庭を持ち、読書時間が学生時代と比べて圧倒的に短くなってしまった今の僕を満足させてくれるのは、昔熱狂した太宰治でも村上春樹でもない「他の誰か」でした。
 しかし既存の出版社から出てくる小説、特に所謂「純文学系」というジャンルの本には辟易させられることも多く、これは新人賞の選考過程に問題があるのではないか、「ジャンルを問わない」と言っておきながら決まったベクトルにバイアスがかけられているのではないかとか、出版の流通形態やマーケティングの問題なのではないかなど、大好きな小説だけに沢山の「?」が生まれてくるようになりました。
 書き手としても、盲目的に信じていた「プロへの登竜門」としての新人賞突破という王道が、何ともハードルが高く、年を重ねるにつれて“焦り”のようなものが生まれてきました。1,000人に一人、あるいは2,000人に一人、しかも半年や一年に、たった一人しかその栄に浴することができない厳しい世界。僕はいくつもの賞にいくつもの小説を応募しますが、最終選考に残ることはこれまで一度もありませんでした。「箸にも棒にも」というなら諦めもつくところですが、時々「いいところ」までは行ったりするものですから、「手応え」がない訳ではない。とはいえ予選落ちだろうが三次選考だろうが落選は落選、魂を込めて子を産み落とすように書いた小説は、ワンオブゼムに埋もれてお蔵入り。
 もちろん、結果「選ばれなかった」のですから、やはりそれは選考する過程において、あるいはその新人賞が求めている小説としては何か足りない、下読みさんを納得させるものではなかった訳で、落選する度に落胆があり、次に何が足りなかったのかを自分なりに考えて、また他の新人賞に応募する、ということを学生時代から延々繰り返してきました。

 正にインターネット時代の今、大抵の情報はネット上にあり、良きにつけ悪しきにつけ目に留まります。実際に新人賞の選考過程を説明しているサイトや「下読み」経験者の個人ブログなどを見るにつけ、子を産み落とした親としては何とも言えない「切なさ」と「やりきれなさ」を感じました。たった1名(ないしは2名程度)の下読みさんにしか読まれないまま「お蔵入り」となるのは、いくら駄目息子とは言え寂しさを感じました。せめて「どこが悪いのか」「何が足りないのか」くらいは知りたいと思いましたが、それは2,000名が応募する新人賞の選考過程で、いちいち落選理由を説明するというのは不可能な話です。(1次選考落選者であっても、複数の審査員のコメントと採点表を入れて郵送で通知を出すという、何とも驚くべき懇切丁寧な賞も実際あるにはありますが…)

 そんなもやもやした気持ちを抱えていた時、仕事の関係でホームページ制作を勉強する機会がありました。今はたくさんの便利ツールがあって、想像していたものよりずっと手間も費用もかけることなく立ちあげられることが分かりました。
 また、多くの小説家志望の方々が、WEBを使って小説を発表し、仲間と情報交換したり、感想コメントをもらったりしていました。文学賞に応募して若干名の下読みさんの目に触れただけで、永遠に日の目を見ることのなかった愛しい小説を、この方法ならいつでも自分の目に触れる場所に留めておくことが出来る、しかも誰かに読んでもらうことができますし、運が良ければ感想までいただける。落選続きでもやもやしていた心の霞が、すっと晴れていくのを実感しました。もっと大袈裟に言うと、これまでの孤独な執筆環境の中では体験したことのない、未来への「希望」を予知するような衝撃でした。

 それから僕は、WEBの情報だけを頼りに、ネットに転がっていたそれっぽいテンプレートを使ってどうにかこうにかこれまで書き溜めてきた小説を片っぱしからアップする作業(当然、落選した小説群ですから、そのままではなく、一編ずつ、リライトは必ず行うようにしました)を進めました。これが7年前、WEB小説を発表する始まりでした。
 「小説家になろう」のような執筆サイトを使って小説を書く、ということもできますから、決してホームページを作ることだけが正解ではありませんが、せっかく作り方も勉強した訳ですし、元来凝り性な性格もあって、自サイトをしこしこ作って、その中で新しい小説も少しずつアップしていきました。もちろん、ここでは無料です。(当時は「電子書籍として販売する」ことを安価にサポートするシステムはありませんでした)
 WEB小説の目的は、「僕の小説を、第三者の方が読んだ時、どのような感想や印象をもたれるのかを知りたい」という単純な動機でした。それまで僕の小説を読む人は、自分以外には数名の、顔の見えない新人賞の下読みさんしかいませんでしたから。僕が小説を書いていること自体は、家族や友人を含め一部の方は理解していますが、作品を読んでもらって感想をもらう、なんていう勇気はありませんでした。(若い頃は妻に見てもらったこともありますが、小説の中身が、実生活の経験に基づいたものや妻が嫌悪する(であろう)表現描写も含まれているため、遠慮が出てくるようになってしまいました)

 ともあれ、ネットで小説を出すようになってからというもの、ダイレクトに「読者の反応」という手応えを得ることができました。ホームページを基軸として、他の色々な小説投稿サイトにアップしたり、リンクを貼ったり、多くの人に見てもらうための努力(所謂SEO対策)をしました。これを説明するだけで、恐らく1冊の本が書けるくらいの努力でした。それは今も続いています。(ここに、WEBで小説を出している人なら誰もが味わう個人としての「限界」を感じることになります。それはまた後ほど)
 感想は様々でした。単純に面白かったと言って頂ける方もいれば、面白い理由を分析していただける方、生きる希望が生まれたとまで言って頂ける方もいました。一方で、小説としての欠陥、錯誤、誤字脱字、オチの好悪、駄目だしも同じ数ほどいただきました。良い評価、悪い評価、それはその時々でありますが、僕にとっては感想の一言一言が身に沁みました。宝物でした。これは新人賞に応募しているだけでは決して味わえないことでした。
 まだ当初は、WEBを使ってデビューしよう、とか、プロを目指そう、というモチベーションはありませんでした。そこはやはり「新人賞を獲ること」でした。あくまでもホームページで小説を発表する動機は、一般の方が僕の書いたものを読んだ時にどのような感想をもたれるのか、の一点でした。

 それから一つ、また一つと小説を書いてはWEBにアップして(同時並行で、各新人賞への応募は継続していました)という作業を積み重ねていくうちに、「次作を楽しみにしているよ」と言って頂ける方が少しずつですが増えていきました。それは大学生くらいの方もいれば、主婦の方もいれば、定年を過ぎた年配の方までも。
 これは一体何なのだろうと思いました。コメント欄でやり取りをしたり、その方のブログなどを拝見すると、純文学を好む方もいれば、ミステリーやラノベ、海外文学など様々でした。過去の著名な文豪の小説を日々読まれている方が、僕のような、いつまでたっても新人賞をクリアできない人間の書くものを「いい」と言ってくれる。日頃忙しくて本など読む時間のない子育て中の主婦の方が、「あなたの書く物は短くて直ぐに読めるし息抜きにちょうどいい」と。
 そうした感想を見るにつけ、僕が小説を書く意義、と言いますが、もちろん、小説は大好きで、書きたくて書く自己満足の世界なのですが、僕の自己満足に付き合って頂ける方がこれほどいるのか、ということに驚くと同時に、僕の小説を気に入ってくれる方がいるのなら、その人たちにとって僕の存在価値は少なからずあるのではないか、と思うようになりました。もちろんお世辞かもしれません。自惚れかもしれません。でも僕の文章を読んで、ささやかではあっても、ストレス発散したり、生きる楽しみが増えたりする人がもし本当にいるとするならば、僕は小説を書いて来て本当に良かったと、そしてこれからももっと満足してもらえる、もっと面白い小説を書いていきたい、と思えるようになりました。

 次第に僕は、新人賞へ応募してプロを目指そう、というモチベーションよりも、日本のどこかで、どこの誰かは分からないけれど、僕の小説を待っていてくれる方に少しでも早く届けてあげよう、というモチベーションが勝っていきました。素人小説家向けのWEBのツールはその間にどんどん進化し、ホームページデザインもぐっとセンスのいいものが選べるようになったり、投稿サイトも増え、電子書籍を個人で制作販売できる仕組みなど、プロではない素人が、リアルな紙書籍での自費出版なども含めて、作品を世に出すシステムが日進月歩で進歩していきました。それが今やAMAZONのKindle作家群となっている訳です。

 横道に逸れているのかどうかも分からなくなっていますが、このままだと僕の半生を語ることになってしまうので、話を戻しますが、いずれにしても僕が新人賞ではなくWEBの世界に足を突っ込んでいった経緯は以上でお分かりになるかと思います。

 さて、話を戻しますが、主張のポイント①について、ここで彼と僕との考えに相違があるのは、「プロ」と「素人」をどう区別するか、という点です。彼の主張ではプロは「新人賞受賞作家など、出版社が主催する賞を受賞した人や、編集者の目を通じて校閲を終えた出版物を出している者に限る」ということです。ここでは、「プロたること」を認める主体は、「出版社」です。出版社にお墨付きを得られないとプロとは言わない、言ってはいけない、自ら「作家」だとか「小説家」と自称すべきではない、ということです。

 正直な話、上記に書いた経緯の通り、僕もWEBに飛び出す以前は、ずっとそう思っていましたし、それが当たり前と思っていました。しかしあまりに自分の嗜好やレベルとかけ離れていく作家の本を読む(お金を払って読ませられる)につれ、果たして「プロ」とは一体何なのだろう、と疑問を抱くことが多くなりました。これがプロの書く文章なのか、ということもありますし、明らかな文法上の誤りや言葉の誤用を時々目にするようにもなっていました。装丁や帯はとても立派なのですが、何とか苦労して最後まで読み終わった後で、結局、何も残らない。出版社の優秀な方々の企画を突破して校閲を経て、単行本1,500円の値札を付けて売られている小説なはずなのに。
 もちろん、全ての本を読破することは不可能ですから、あくまでもごく一部の本だけを捕えた感想で全てを断じることなどできませんし、全てのプロを否定しているわけではありませんが、過去の偉大な小説家の本を沢山出版している出版社なはずなのに、どうしたのだろうと。「プロ」を「プロたらしめている」出版社ではなかったのでしょうか。
 こと、一時期「若い女性」ばかりが新人賞を賑わしたことがありました。その傾向は未だに続いていると思っています。所謂「話題性」で本を売る、ということがかなり露骨に行われている気がしてなりませんでした。考えてみれば出版社も営利企業ですから、小説だろうが雑誌だろうが、「売れてなんぼ」と考えれば当然のことなのですが。しかしここで、まず僕の既存出版社への不信感が生まれてきました。書き手の目線というよりはむしろ読者の視点でした。

 それでは、僕の考える小説家としてのプロとは何か。それはざっくりいってしまうと「小説という商品を販売しそれで飯を食っている人」。所謂職業としての「小説家」を自ら選択し、商品としての「小説」を書いて販売し、その収入で生計を立てている人が、今自分の考える「プロ」像です。「小説を書く」「本を出版する」というアウトプットだけを捕えた「プロ」ではなく、それを読む購買者、消費者を有しているか否か、というところまでを含めて。
 従って、いくら出版社のお墨付きを得て「プロになった」としても、書いた小説を購入してくれる相手がいなければ、プロとは言えないのではないか、と思っています。この場合、「小説を買う」のは一般人だけではありません。出版社はもちろんですが、一般の民間企業、学校、行政などでもいいわけです。もちろん企業の場合は、そのプロの小説を買って自分のところの書籍や商品を売っていかなければならない訳で、それに寄与しない小説は、結局最終消費者であるところの一般人にファンがいるのかいないのか、というところに繋がってきてしまう点については、一般人に売ることと一緒だと思います。
 ただ、今は出版社を通じた出版といっても、自費出版という方法や、セルフパブリッシングでKindleのように自ら電子書籍を作って(自分で作れなくても、代行業者は沢山あります)、SNSなどのコミュニケーションツールを駆使して宣伝し、個人販売できる時代です。「プロ」に限らず、誰もが一般人に自分の書いた小説を売ることが出来る仕組みがあるという時代の中で、「出版社」が認めた者以外「プロではない」とする概念、考え方はやや視野が狭量な気がします。自費出版だろうがKindleだろうが、もしもそれで一定のファンの承認を得、収入を獲得し続けることができるのであれば、それは立派な「プロ」と呼んでいいのではないかと思ってます。つまり、その人がプロの小説家であるかないかは、出版社ではなく、お金を払う「消費者」が決めるのだと。
 これはあくまでも僕自身の「プロ」に対する捉え方ですから、今回意見を主張された方のように、「いや、それはやはり出版社が決めるべきだ」というご意見があってもいいと思います。「プロとは収入のあるなしではなく、精神論やポリシーの問題だ」という主張もありだと思います。
 ただ、今の出版マーケットやamazonがやろうとしているビジネスモデルのこれからを考えていくと、もはや「プロ」とか「素人」の区分けも必要にならなくなってくる(既にそうなっている)気がします。成果物、結果が全ての世界に。
 小説を書く人は、ひとえに「小説家」であって、「いい小説を書く小説家」か「つまらない小説を書く小説家」か、ということだけ。いい小説を書く人の物は放っておいても売れるし、つまらない小説を書く人の本は半永久的に売れない。売れる売れないはあくまでもマーケット側の判断に委ねられます。
 しかしこれは、裏を返せば、消費者自身にも「いい小説」と「つまらない小説」をきちんと見分ける「目利き」が必要になる、ということでもあります。消費者自身も試されることに(必然的に)なります。出版社が出す物を「プロの書いたものだからいい小説のはずだ」と信じ、自らの目利きを出版社に委ねていた時代から、出版社を通さないものまでを含めて、自らの「目利き力」で、お金を出して買うに足る小説を選択しなければならない時代になったのだと思います。
 これだけの有象無象の小説がある中で、一体何が自分にとって必要な本、自分が求めている本なのかを探し出すことは容易なことではありません。その際の一助になるのが「口コミ」というものですが、ここについては今回の話からはズレていってしまうのでこれ以上触れませんが、僕は少なくとも小説を好きな方にとってのこの出版革命、と言いますか電子書籍の流れを代表とするセルフパブリッシングブームは、選択肢の裾野を広げ、これまで触れることのできなかった多くの「いい小説家」に出会うきっかけになるではないかと思います。

 もう一つ、今回の主張の中で、③誰もが使える文字や言語というツールを使う小説を芸術や文学の次元で捉えるには、という表現がありました。一般的に「純文学」という言葉で括られているジャンルを想定したとしますと、僕も昔からこのジャンルの小説が大好物であり、小説家を志そうと思ったのも、また人生の節目節目で、僕のものの見方や考え方、生き方に深くかかわってきたのも、この分野の小説です。従って、思い入れもあるし、今特に若い人が本を読まなくなったとか文学を読まなくなったとか言われると、とても切ない気持ちになります。ただそれは「供給側」に問題はなかったのか、ということもあると思っています。供給側、とはつまりこれまでの出版社、ということです。

 昔はそれほど気にしたことはなかったのですが、最近この文学なり芸術なりという言葉がとてもアカデミックな閉鎖性を想起させ、元来「大衆娯楽」であった小説が「一般化」するのを拒絶させるような印象を持つようになりました。「誰もが使える文字や言語というツール」で書かれているはずの小説が、「分かる奴にしか分からない、分かる奴が分かれば良い」といった「特別な言語芸術の世界」として囲われてきたようにも感じます。
 ツールである以上、言葉も時代に合わせて変化するだろうし、時代が違えば、社会、価値観も変わります。複雑な文章や小難しい言葉や真新しいメタファーを組み合わせたものが「高尚な文学」であって、そうじゃないものには文学性も芸術性もない、という固定観念がいつまでも出版社側にあるような気がしました。「文学とはそういうものだ」という固定観念。
「いや、今はそうではない」と。もっとライトに読めるけれど、深く考えさえられたり、印象に残るいい小説はたくさんあるよと。それは一部ではあるのかもしれませんが、僕から見ると、まだまだ様々な年齢層の様々なニーズにマッチした商材としての「文学」は供給不足ではないのかと思っています。小説を商品として捉えた場合、という意味です。「文学」を商材と捉えること自体に違和感がある、と思われる方もいるかもしれませんが、値札が付いて消費者向けに販売しているということであれば、芸術であれ大衆向けであれ、他の娯楽商品との競争性を伴った立派な「商品」です。

 先程のプロと素人の境界と合わせて、これまでの出版社が出版物を一定のルールに基づいて市場に提供してきた方法が今問われています。著者への印税、価格設定、流通、販売方法。
 小説が一つの形ある「書物」となって書店流通するにあたっては、小説も一定のボリュームが必要になります。僕のように、短編専門で小説を書いている人間が、たった一話だけを本にして出版する、というのは製造コスト、流通コスト、採算性から考えて論外です。どんなに「いい小説」でも、一話だけで出版されることはないでしょう。
 それを可能にしている(短編1冊で売れる売れないは別にして)のは「電子出版」です。リアル出版では様々な理由から出版できなかった書籍やリアル書店の棚割の関係で置くことのできなかった「あまり売れない本」でも、電子出版なら24時間、365日開店しているネット上の「書店」で売り買いすることが出来ます。
 電子で何でも出版ができるようになると、小説は好きだけれど、何らかの諸事情(忙しくてあまり読む時間がない、リアル本に読みたくなるような本がない、経済的にたくさんの本が買えない、など)で小説に触れることの少なくなった人達に、小説を読んでもらうことができる。
 僕がWEBで小説を公開し始めるようになってから感じたことが、正にそういう層がこの世の中には確実に存在する、ということでした。市販の書籍は高くて中々買えない、あまりに忙しくて長編小説は読み切れない、家事や育児の合間のちょっとした息抜きに読みたい、そうしたニーズや不満の声があることを教えていただきました。そして今僕の小説を読んでいただいている方々も、もちろん、既存のリアル書籍を読みながら、同時に無料のWEB小説や有料のKindle小説を読んでいる。出版社の出版する本だけではなく、電子書籍やWEB小説も、「読書」の選択肢として選ばれているのです。
 こうなると、「純文学」などのジャンル分けもあまり必要ないのかもしれません。「口コミ」をベースに、面白い小説か、そうじゃない小説が選別されていくだけです。
 僕のサイトのトップページに「純文学風」と書いているのは、初めて僕のサイトを訪れた人が、「一体この人はどんな小説を書いている人なのだろう」と思った時に、エンタメやミステリー、そうした小説の内容を小説を読まなくても瞬間的に理解いただけるように「純文学」という言葉を使いました。
 この言葉自体も、人によって様々に理解されてしまう言葉だと思いますが、僕の中での理解は、「生きる、ということを考える小説」程度の意味です。それほど深く理解している訳ではありません。読んだ後に、これから自分の人生や生活を考える上で、何らかの示唆や検討をするきっかけやヒントを与えてくれる小説。そんな理解です。もちろんストーリー展開や魅力的なキャラクターも必要ですが、主眼はそこではない。そういう意味で使ってしまっていますが、そうではないだろう、ということであればいつでもその名は下ろします。むしろ、使いたくないくらいです。あくまでも区別するために使っているだけです。
 なので「純文学」とは言い切らずに「風」としてあります。半分皮肉も込めています。むしろ、純文学というこれまでの概念に囚われていると、消費者のニーズからかけ離れた商品を生産することにもなりかねません。プロダクトアウトの発想では、もうモノは売れません。「売れなくてもいい。分かる奴には分かればいい」という独りよがりの痩せ我慢がいつまで続くのか、もう火を見るより明らかです。電子書籍やWEB小説における素人小説家群は、そうした読者の満たされない隙間を上手く埋めているのだと思います。読者の声を聞いて、どんどんリライトも加えますし、ストーリーを変えていきます。ダイレクトに、お金を払って買って頂けるお客様の声を聞きながら小説を書く、こうした執筆方法をこれまでの仕組みの中でプロ作家ができたでしょうか。ダイレクトに読者と繋がっているWEB作家だからこそです。

 僕は気が多い人間なので、じっくり腰を据えた長編小説が書けない人間です。もちろん時間がない、ということもあります。限られた時間に集中して書くという中で、息の長い長編小説を一年かけて書き続けるモチベーションも気力もありません。といいますか、途中できっとプロットも伏線も忘れてしまいます。飽きっぽいのです。だから短編小説専門です。
 しかし世の中には、僕も比較的そうですが、短編ばかりを好んで読む方もいます。最近では「超短編小説」と銘打って、それこそ1~2分で読み切れる小説を専門で書く人もいます。もっとも、そんなものが文学と呼べるか、小説と呼べるか、という意見もあると思いますが、どう呼ぼうが呼ぶまいが、そうした「小話」を好んで読む層が確実にいることは間違いないのです。
 WEB小説以前には、そうした読者に提供される書籍はほとんどありませんでした。満員電車の中では、本を広げることすらできない状況です。でも携帯やスマホなら、吊革につかまって、立ったまま小説を読むことができます。防水タイプのものなら、浴槽の中でも本が読めます。電子化のメリットはいろいろなところにあります。ガジェット側の機能や選択肢が広がってきているのであれば、コンテンツ側の選択肢も広がっていくのは必然の流れです。「雨後のタケノコ」のように増殖し続ける素人小説家の小説は、もちろん自分もその一端を担っている身ではありますが、恐ろしいボリュームがあります。素人投稿サイトや電子書籍サイトが新たに開設されると、あっという間に数万という点数の小説が登録されていきます。
 Kindleも、KDPという仕組みの中で誰もが簡単に出版できるようになってから、途方もない数の小説が新規でアップされています。しかしどれだけ出版点数が増えようが、売れる小説は売れるし、売れないものは売れない、ただその結果があるだけです。
 電子書籍の場合は、売れない書籍でもずっと蔵書として残り続けるため、いい小説に出くわす可能性が相対的に少なくなるということはあるかもしれません。いい小説がゴミのような小説に埋もれてしまう、という懸念。ただ、今は様々な形で「いい小説」が埋もれない仕掛けが考案されています。カスタマーレビューの多さや評価で検索できたり、立ち読み機能として中身の一部を公開していたり。
 当然電子出版側も、いい小説、売れる小説は沢山知らせたいし、売りたいと思っています。消費者も自分に合った小説をどうやったら見つけられるかを考えています。そうしたマッチングをうまくとるための仕組みはこれからも様々に考案され続けると思いますが、最終的には、消費者側の判断となる点については同じです。

 今回のブログは、先のツイートでいただいた意見を受けて、僕の立ち位置を考える、ということで書いてきました。僕はあくまでも小説を読んで頂いている方々に常に寄り添っています。もし、それでもプロと素人を分ける必要はあるということであれば、出版社が決めたプロではなく、消費者が決めるプロになりたい、と思っています。
 そのために、難しい言葉ではなく、理解され易い言葉、読み易い言葉を使うように心がけています。読書の時間をしっかり確保できる方よりは、あまり時間のとれない方に読んで頂けるよう、小説はどんなに長くても、原稿用紙で100枚以下にすると決めています(過去に書いたものにはそうではないものもありますが)。同世代の方々に向けて、自身と似たような生活環境にある方に共感いただけるテーマの小説をこれからも書いていこうと思っています。
 こうした立場、やり方が、文学じゃない、プロじゃないと言われても構いません。また、各種文学新人賞自体の価値やそこをプロの登竜門とする考え方を否定するものでは決してありません。
 ただ、時代に合わせて、もっと違ったデビューの方法があってもいいのではないか、と思うのです。小説家としての身の立て方があってもいいと思うのです。いつか、WEB小説出身の芥川賞作家が生まれたっていいのではないかとさえ思っています。選考の仕組み上、そんなことはありえないのかもしれませんが、かなり本気で想像したりもしますし、もし「芥川賞」がWEB小説までを包含して選考対象にする、ということになれば、これは大革新であり、次世代の賞としてまた違った読者の裾野を広げることができるチャンスです。
 これまでの王道だけではなく、日々進化するインターネットツールを上手く活用しながら、新しい「小説家」のモデルが生まれることを期待したいですし、僕もそこを目指していけたらと思っています。自信があるわけではありません。間違っているかもしれません。でも今の僕が考えうる、できうる最善のことをしていくつもりです。少なくとも、僕の書いたものを「いい」と言って頂ける数少ない、けれども大切な方々のために。

 以上が僕の立ち位置です。こんなに長くなるなんて、思っても見ませんでしたが、これまでの自分の小説に対する考え方、これからの生き方について考えるいいきっかけでしたので、思いのたけを遠慮なく書かせていただきました。異論反論あるかと思いますが、議論する目的で書いたわけではありません。そんな気力もありません。ただこれを読んで何かを感じて頂けたのであればそれでいいです。こんな思いで小説を書いている奴がいるんだなあ程度に思って頂ければ幸いです。

 ついでに、今後ですが、amazonでこの4カ月間、有料販売を行ってきたことについて、僕なりに一つの結論を出しました。それはまたいつか別の日記に書くつもりです。
 以上、拙文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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