若きセールスマンの安息

 今月のノルマまで、もう一息のところまできていた。この仕事が合う合わないというより、当座の生活費を稼ぐ為には必死だった。
「東京都水道局の方から来ました。今無料で水質検査を行っておりまして」
 白髪を油で固めたスウェット姿の老人は、ご苦労さんと男を家に上げ、まるで近所の年寄り仲間を迎え入れるように炬燵を勧めた。座布団は染みだらけで絨毯には糸くずが沢山落ちていた。家中線香の匂いがした。買い立てのスーツでそこに座るのは、まだ勇気が必要だった。
 早速チェックしてみましょう、と男は持参したコップに水道水を注ぎ粉末の試薬を垂らすと、水はたちまちピンク色に変色した。老人の反応などお構いなく、男はマニュアル通り粛々と事を進めた。
「かなり汚れてるみたいですね」と男は一週間の浄水器無料モニターを紹介した。「体の殆どは水ですから。長生きしていただく為にも」
 老人はダイニングの椅子に腰掛けたまま、男の行動を見守っていた。こんなに無防備な年寄りも珍しい、男はレバーを上げ下げして、浄水器がきちんと装着されたか確認した。
 若い奴は何時だって手際がいい、老人は感心して男を眺めた。
 それから老人は突然、自分の事を語り出した。この地域の成り立ち、町会の縮小、自身がネクタイ織物業で一財を築いたこと、そして投資で失敗したこと、家族の離散、心臓の持病、その他諸々。一時間を超えてきた辺りから、男はさすがに貧乏揺すりを抑えることが出来なくなっていたが、老人は更に三十分喋り続けた。
 帰り際、一週間後に再訪する約束を交わすと、老人は押し入れから段ボールを引きずり出し、好きなだけ持っていけと男にネクタイを勧めた。
 ネクタイなどどうでも良かったが、男は適当に二本選んで社交辞令の感謝を返した。裏のタグに「キャン・ドゥ」の文字が見えた。
「頑張れよ若いの。これからの日本をよろしく頼む」
 玄関で見送る老人の瞳は白く濁っていた。陽は既に落ちていた。人の話を黙って聞くのは苦手だった。男は直帰する旨を会社に伝え、生まれたばかりの赤ん坊と鬱傾向にある妻が待つ自宅に帰った。きっと今日も眠れないんだろうなと男は思った。

 一週間後、男は再び老人を訪ねた。首には百均ネクタイのうちの一つがマニュアル通りに締められていた。
「先般伺った岩本ですが」
「ああ、ご苦労さん」
 格好はこの前と全く同じだった。白髪に油も。間違いなく自社の浄水器であることを確認すると、男は水の感想を聞いた。東京の水は昔から旨いよ、と老人は答えた。
「今なら3個セットに更に1個おまけして」
「元気で羨ましい」と白濁した両眼を細めて老人は言った。
「都民の皆様にはいつまでも健康でいていただかないと」
「あんた、結婚はしてるの」
 話は全く噛み合っていなかった。男は苛立っていた。どれだけ線香を焚いているのかと思うくらい、部屋にはその臭いばかりが充満していた。
 それから老人は、この地域の成り立ち、町会の縮小、自身がネクタイ織物業で一財を築いたこと、そして投資で失敗したこと、家族の離散、心臓の持病、その他諸々を一時間に渡り一方的にまくし立ててから、「そんな安っぽいネクタイは駄目だ」と、奥の部屋から段ボールを引きずり出した。男は諦めてネクタイを二本選び、御礼を言った。
 来週も来るのかね、と老人は言った。
 もちろん、と男は答えた。
「頑張れよ若いの。これからの日本をよろしく頼む」

 時刻は午後三時を過ぎていた。これ以上一件も契約は取れない気がした。浄水器など、もうどうでも良かった。
 男はネクタイを外し、丸めて公園のゴミ箱に捨てた。それから浄水器の詰まった鞄を枕替わりにベンチに寝そべり、陽が落ちてもなお死んだように眠った。(了)

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