青虫

aomushi2

『青虫』

 妻の悲鳴が聞こえた時、私は浴槽を磨いていた。その悲鳴を、最初は坂を下る油切れの自転車のブレーキ音と聞き間違えるほど、私の体と五感は酷く疲弊していた。しかし、今日はまだそんな泣き言を言っていられる状況ではなかった。これから、大切なまな息子の三度目の生誕の儀を、妻と三人、粛々と進めなければならなかった。
「どうした?」
 濡れた足をバスマットにこすり付けてから、私は流しの前で立ち尽くす妻の肩に手を置いた。「ひどい」
 ステンレスの流しの中には、大きなレタスの葉が何枚もむきっ放しの状態で散らばっていた。
「これ、よく見てよ」
 汚物に触れるように、妻はその中から一枚の葉を手に取り、私の目の前に置いた。そこには、糸くずほどの小さな青虫が二匹、重なり合うように蠢いていた。うっかりしていたら見逃してしまうほど、青虫の背中は青々としたレタスの色と葉脈に同化していた。
「気持ち悪い」
 妻の血色が悪くなっているのが、私にも分かった。青虫なんて見るのは久しぶりのことだった。思い出したように時々ぐいと頭を持ち上げるその様子が、小さく細い故に尚更不気味に見えた。
「うん、確かに」
「ねえ、それだけじゃないのよ」と言って、妻はまた別の葉を裏返した。
 黒い斑点のようなものが筋に沿って並んでいた。よく見ると内側からではなく、葉の外側に付着したものだった。妻はそれを「青虫の糞ではないか」と私に言った。また他の葉にも、目を凝らして見ると、たくさんのアブラムシがついていた。
「もう、こんなのがっかり」
 妻は出しっぱなしの水を止めて肩を落とした。私は妻をなだめるべき言葉を探した。外見からでは 分からないのだから仕方ない。時にはこういうことだってある。すぐに取替えてもらおう。しかしそのどれも妻の落胆を回復させるには弱い気がした。今日はいつもの夕食とは違う。息子の誕生日なのだ。しかし今の疲れた私の頭にはその程度の言葉しか浮かんでこなかった。
「『有機野菜』なんて書いてあったから、たまにはどうかと思ったの」と妻は言った。
「どこで買ったの?」
「イシイ」
「イシイ?」
「八百屋よ、商店街の。やっぱり普段買わないところで買うもんじゃないわね。ジャスコからの帰り道で買い忘れに気がついて・・・引き返すのが面倒だったから」
 レタスはシーザーズサラダに使うべきものだった。私はもう一度、その青虫の巣食う葉をしげしげと眺めた。
 その形は、昔小学校から持って帰ってきた「蚕」を思い出させた。小さな体のくせに、桑の葉をがつがつ片っぱしから平らげてゆくその様子、その食欲が何とも奇妙に思えた。もっと不思議だったのは、その「蚕」はいつまでも「蚕」ではなくて、いずれ「蛾」となり空を飛ぶ、ということだった。
 このレタスの青虫も、そのうちもっと大きくなって蛹になって、彼らから見れば無限の宇宙ほど広いこの街の大空に、精一杯羽を広げて飛翔していくはずだったに違いない。今日の今日までは。
「有機野菜は『虫がつく』ってよく聞くよ。虫も食べるほど美味しいってことだよ」
 思いつきの慰めとしては上等だ。妻の行為を否定するわけでもなく、咎めるわけでもなく。
「暢気なこと言わないでよ。こんな虫だらけのレタスをあなた食べられるの? 子供の口になんて入れさせられる?」
「それは」
 妻は苛立っていた。楽しいイベントや祝い事のある日の妻は特にぴりぴりしていた。祝い事といっても、肩肘張らずに気楽にすればいいのに、といつも私は思うのだが、妻の考えは違った。一生に一度のイベントなのだから、失敗や抜かりは許されなかった。大好きな最愛の息子の祝い事であればなおのこと、妻だけ変に気負って、それがまた空回りをする。
 時には理不尽な八つ当たりを私に向けることさえあった。それが私には理解できなかった。理解できない故に売り言葉に買い言葉、激しい口論に発展することもしばしばあった。
 しかし、今日はイベントの中でも特に重要な行事であるし、自身明日への活力を残しておくためにも、何とかこの場は穏便にやり過ごす必要があった。
「レタスがなければ、サラダは無理ね」
 そう言って、妻はレジ袋に一枚ずつむしったレタスの葉を入れ始めた。仕方なく、私も手伝った。息子は台所での青虫騒動に何の頓着もなく、居間でテレビを見ていた。料理はサラダを残してほとんど出来上がっていた。チーズの載ったハンバーグ。具沢山のミネストローネ。苺たっぷりのバースデーケーキ。ほどよく冷えたピノ・ノワール。
「どうしようか」と、恐る恐る私は聞いた。
「もちろん交換してもらうわよ、当然でしょ」
 怒りをまな板にぶつけるように妻は言った。狭い台所が再び不穏な空気で満たされた。
「じゃあ、今行ってくるよ」
「あなたが行く必要はないじゃない。持ってこさせればいいわよ」
「商店街の八百屋だよ? 持ってくるかな」
「そんなの当たり前でしょ?」
「それは、ジャスコはそうだろうけど」
「こっちは客よ? こんなひどいものを買わされて、どうしてこっちから出向いていかなければならないのよ。おかしいわよそんなの。向こうから謝りにくるのが常識でしょう。ねえ、早く電話してよ。この状況、ちゃんと伝えて。もう商店街でなんて二度と買わない。『有機野菜』もこりごり」
「分かったよ。電話するよ。レシートある?」
 私は気乗りしなかった。印字のかすれたレシートをしばらく眺め、それから流しで項垂れている妻の背中を見た。頬肘をついて落胆している妻の顔が背中越しでも容易に想像がついた。一度こういう状態になってしまうと、何を言っても返り討ちに合うだけだった。
交際していた当時から、妻は感情の起伏が激しい方だったが、結婚して五年、最近その兆候がますます酷くなっているように思えた。
 番号を押し間違えては、「切」ボタンを押した。そんなことを二、三度繰り返した。文句を言うのは簡単だが、その程度のことで、せっかくの誕生日が台無しになるのが嫌だった。何より文句を言った後の後味の悪さ。
 受話器からは長い間、呼び出し音が流れ続けた。私はまだ間違いなく営業時間内であることをレシートから確認し、一旦電話を切った。そしてもう一度、今度は意識してゆっくりと、一つ一つ丁寧に番号を押した。しかし、呼び出してはいるものの、いつまで待っても相手は出なかった。私は受話器を「モニター」に切り替え、その呼び出し音が妻にも聞こえるようにボリュームを最大限に上げた。
「駄目だね、出ない」
「忙しぶってるのよ」
 妻は振り返らずに言った。
「やっぱり行っちゃった方が早いかも」
 私としても、その方が心理的負担が少なくて済みそうな気がした。
「そんなことすることないわよ、ああ腹立つ」と言って、妻はミネストローネの鍋に火をかけた。呼び出し音はまだ鳴り続いていた。私はそのまま受話器をソファに放り投げた。
 鍋から湯気が立ち上り、いい香りが私の胃を刺激した。面倒臭いことは止めにして、サラダなしの晩餐会をやり過ごして早く眠りにつきたかった。明日はいつもより早めに出社しなければならなかった。
「はい、石井ですが」と受話器は言った。
 私は驚いてソファに駆け寄り、受話器を耳に当てた。
「八百屋のイシイさん?」
「そうですが」
「さっきお宅でレタスを買った者だけど」
 私は一旦そこで間を空けた。しかし相手から何の反応もなかったので、仕方なく話を繋げた。
「虫が・・・何だろう、青虫? うん、青虫が入っててね。それと、葉のいろんなところにアブラムシがびっしりと」
「そうですか」
 私は一瞬耳を疑った。今確かに相手は「そうですか」と言った。「本当ですか?」でも「申し訳ありません」でもなく、「そうですか」と。
「交換してくれないかな。レシートは残ってるから。これとっておくからさ、見てもらえばどれだけ酷いかわか」
 私の言葉を最後まで待たずに、突然電話は切れた。私は手の震えを抑えられずにいた。電話応対としては、これまでの私の人生において最悪のランクに分類されるべきものだった。年配の、いかにも煙草で嗄れたぶっきら棒な声が、しばらく私の耳の奥で鳴り響いていた。いくら衰退の一途をたどる商店街の八百屋とはいえ、とても客に対する対応ではなかった。
「どうしたの?」と妻は包丁を手に、私の側まできて言った。
「勝手に切られた」
「切られた?」
「酷いよ。ねえ、いい年の親父で太ってて脂ぎった奴、いなかった?」「夫婦だけでやってるような感じだったから。レジの人はそんな感じの人だったかも」
「じゃあ、間違いなくそいつだよ、今の電話」
「何て言ってた?」
「ほとんど会話してないよ。とにかく、一方的に切られたんだから。もう一回掛け直してみるけどさ。最低だな、この店」
 リダイヤルボタンを押し、再びモニター状態にすると、私は腕組みをして受話器を睨み付けた。もうさっきのようにはいかせない、と私は腹を括った。これまでに経験したことのない屈辱感が、さすがに普段温和な私の本能にも火を付けた。仕事のことも、誕生日のことも、私はすっかり忘れていた。
「はい」と、今度は直ぐに相手は出た。私は一呼吸飲みこんでから、その男の声に神経を集中した。
「今、電話切った?」
「すいません、ちょっとレジが…ああ、いや、もう大丈夫」
 側にいたら、間違いなく掴みかかっているだろうと思うくらい、その口調は私の怒りを増幅させた。
「さっきのレタスだけど」
「大変失礼をいたしました。直ぐにお届けします。お名前と住所を教えていただけますか?」
 想定外の返答に、私は拍子抜けした。相手の言葉次第では、本気でキレる準備が出来上がっていたが、これには見事に肩透かしを喰わされた。とはいえ、最初の対応の仕方にはまだ納得がいっていなかったので、もう一言、二言言ってやりたい気持ちだった。
 男は、私の住所を聞いた後で、がちゃんと電話を切った。「がちゃん」という音がそのまま聞こえてくるくらいの乱暴な切り方だった。
「むかつく奴」
 私もがちゃんと音を立てて受話器を元に戻した。
「ちょっと乱暴に置かないでよ」と妻は言った。
「ごめん」
 何でも思い通りに事は進まないものだ。
「それで、どうするって?」
「持ってくるって」
「いつ?」
「直ぐ」
「直ぐってどのくらい?」
「分からないよ」
「どっちにしても始めましょう。待っていられないわ」
「そうしようよ。時間もどんどん遅くなっちゃう」
 私の腹の虫は収まりがついていなかった。電話の声の調子からは、相手の真摯な謝意など微塵も感じ取ることはできなかった。むしろ迷惑そうな印象だった。

 商店街は、自宅から五百メートルくらいのところにあった。レタス一個を助手席に乗せて、おんぼろの軽トラックで不貞腐りながら我が家へ向かう店主の姿を私は想像していた。あるいは自転車の前籠に積んでだるそうにペダルを踏む姿。いずれにしてもあの嗄れ声。咥え煙草をしているのは間違いない。
 私はソファに座り、一度大きな伸びをした。そして、これからやってくるであろう中年店主による理に適った言い訳と無礼へのお詫びの言葉を、何度も天井になぞった。
 今日は息子の誕生日、これ以上事を荒立ててしまうのは家族にとっては明らかにマイナスである。時間の経過とともに、妻の苛立ちは少しずつ治まっているようだった。自分さえ我慢すればいい。
 気持ちを落ち着かせるには、のっぺらぼうの天井よりも、蛍光灯から垂れているスイッチに繋がる紐を見ている方が落ち着いた。暖房の風を受けて、紐はゆらゆらとトリッキーな動きを見せていた。
「ねえ、あなた、ちょっと来て」と妻が台所で私を呼んだ。さっきのヒステリックな声とはうって変わって、平静時の妻の声だった。
「ん?」
「ちょっと」
 私は尻の下に生えかけた根を何とか断ち切って台所に向かった。妻の声はやけに甘えた声に聞こえた。いきなり振り向いてキスでもしてくるんじゃないか、と思えるくらい。
「早くお風呂掃除終わってくれないと、お湯入れられないんだけど」
「なるほど」
 現実はそれほど甘くはなかった。私はしぶしぶジーンズの裾をめくった。そして、店主の言った「直ぐ」が、どのくらいの時間なのか、ということを考えていた。

 祝い事はいよいよ佳境を迎えていた。プレゼントの贈呈式が終わり、ケーキもほとんど食べ終わっていた。
「ねえ、それにしても遅くない? もう九時過ぎたわよ」と妻は言った。「食事終わっちゃう」
「二時間以上たってるよ」
「どうせ冷えてはないんだろうし。今からサラダって言ってもね」
「電話してみる?」
 電話するのは癪だった。迷うような道でもないはずだ。「ちょっと見てくるよ」と私は言った。 赤ワインをほとんど一人で飲んでいたせいで、目の奥からじんわり効いてきていた。
「止めなさいよ、寒いわ」
「ちょっと酔い覚まし。いつまでも気にして落ち着かないっていうのも嫌だよ」
 ダウンジャケットを羽織り、私は石畳のアプローチを下って門扉の錠をはずした。
 吐く息すら凍るほどだった。都下の山林を切り崩して造成された住宅地は完膚なきまでに寂としていた。家の灯りの数に反して、住んでいる人の声は何一つ聞こえなかった。道行く人や自動車の往来もなく、落ち葉や煙草の吸殻さえ、この寒さの前では自由に身動きをとることはできなかった。
 これでは酔い覚ましどころか凍え死んじゃう、私は一度大きな身震いをし、ダウンのポケットに差しこんだ両手を更にぎゅっと握り直しながら、いたたまれず家の中に取って返した。
 玄関のチャイムが鳴ったのは、それから更に三十分後のことだった。我々はレタスのことなど、もうどうでもよくなっていた。妻は既に洗い物を終え、居間で寛いでいた。子供も半分だけ閉められた襖の向こうで、小さく丸まって眠っていた。人とコミュニケーションができるという「ロボット犬」のプレゼントを枕元に置いて。
「もう出なくてもいいんじゃない?」と、妻は落ち着いて言った。悪夢を再び呼び起こされるのはたまらない、といった感じに。
 モニターには、門扉を開けっ放しにして突っ立っている帽子を被った男の顔が大写しになっていた。男はカメラの方向に目を合わせながら、じっと固まっていた。
「とことん馬鹿にしてるよ。でもやっぱりこのままじゃ、眠れないからさ」
 体を巡るアルコールが、先程の不愉快な憤りを再活性した。私は「青虫入りレタス」の袋をわし掴んで、勢い勇んで玄関の戸を開けた。
 冴えない男だった。少なくとも、私にはそう見えた。大よそ想像していた通りの中年男だった。あまりにも想像通りだったので、どこかで何度も会っているかのようだった。
 ずんぐりとした体型に幅広な顔。長さもエリアも不均一な不精髭。この寒さの中で額の皺まで染み込んでいる汗。建設現場の労働者のように激しく汚れた前掛け。どれをとってみても生の食材を取り扱う人間として褒められたものではなく、潔癖症な妻が、よくもこのような人間の売る野菜なんて買ってきたもんだ、と私には俄かに信じ難かった。
「遅くなりましたが、レタス、お持ちしました」と男は言った。「こっちは無農薬じゃないです」
 口調はまるでさっきの電話そのままだった。
「お宅の直ぐっていうのは、こんなに何時間もかかるものなの?」
 極めて抑えて言ったつもりだが、最後のセンテンスにかけて声のボリュームと抑揚が増していることに、私自身も気がついていた。
「申し訳ありません。どうしても店を離れられなくて。妻が病気してまして」
「そんな言い訳をしにきたの?」
「言い訳じゃないです」
 店主の体が少し震えているように見えたが、それは自分の体が揺れているだけかもしれなかった。扉を開けっ放しにしているせいで、せっかく暖めた家の中の熱がどんどん外に逃げていった。かといって、店主を家の中には入れたくなかった。彼が背負い込んでいる今の不幸をまるごと委ねられてしまうような気がした。
「それにしても青虫だったり、アブラムシだったり、酷いレタスだったね。こんなこと初めてだよ。ちょっと見る?」
 店主は私の差し出したビニール袋を受け取りはしたものの、中身を見ようとはしなかった。 
「無農薬野菜ってそういうもんなんです。虫がつかないようにって農薬を使うわけですからね。農薬を使わなければ虫がつく。当たり前のことだと思いませんか?」
「喧嘩売ってるようにしか聞こえないね」
 指先に熱い血液が突き抜けていくのを、私は感じた。
「そうじゃなくて、真実を伝えたいだけです。だから、こっちのレタスは虫いませんよ。無農薬ではないから。どうぞ安心してお召し上がりくださいな」
 店主の口調と表情は、私の神経を激しく刺激した。一発手が飛んでいてもおかしくないくらいのところまで、私は怒りを鎮めるのに必死だった。
 しかし、もう眠ってしまっているとはいうものの、息子の誕生日は午後十一時五十九分五十九秒までは続いていた。それに家が急激に冷やされていることも気になった。記念すべき一日の温もりが、不快な第三者の来訪によって失われることは本望ではなかった。ただでさえ明日からの仕事を考えると鬱だというのに。
 向かいの住人が、車庫の前からこちらを見ていた。私は一瞬目が合った気がして、反射的に視線をはずした。大きな声でしゃべっているつもりはないが、これだけ静かな夜では響いてしまうのかもしれない。
 いずれにしても妻の言う通り、こうしている時間自体が不毛であり、ここは自分が折れて、早くこの場を終わりにさせた方が賢明だ。
「もういいよ、分かったから。これから気をつけてよ」
 店主は深々溜め息をついた。息は白ばみ、たちどころに闇に溶けた。それはこちらの思惑通りにはいかせないという隠れた意志の存在を予感させた。
「これはうちのハウスで作っているんだよ。じっくり時間と手間をかけて。妻の面倒を見ながらね。今日収穫したものだから、味はスーパーのレタスなんかより絶対に美味い。美味くないわけがない。青虫やアブラムシは洗い流せばみんな落ちてしまう。ついこの間まで、虫がついているなんて当たり前のことだったんだけどな」
 堰を切ったように、店主は客への敬語を無視してまくし立てた。向かいの住人はいつの間にかいなくなっていた。それでもとにかく、彼には一刻も早くこの場からお引取り願いたかった。
「あの、帰ってもらってもいいかな。子供眠っているもので」
 促すように、私は扉のノブを握り少し手前にひく素振りをしたが、店主は石のようにその場に立ち続けていた。
「若いとはいえ、子供がいて、こんな立派な家に住んでいるんだから、社会の常識というのを知らなくちゃ。もっとも今は誰も教えてはくれないんだろうけど。ちょっと想像すれば分かることなのに、その想像力がない」
 何を言いたいのか、私には理解できなかった。少し酔っ払っているんじゃないか、と思うほどだった。
 不毛、不毛。私は心の中でそう唱えながら、何の感情も芽生えないよう脳へ繋がる大事な神経をクリップで留めた。
 しかし私が扉を閉めようとすればするほど、太った店主の体は意固地に硬直し、扉の重みを容易く跳ね返した。
「あんた方は電話一本文句いれれば、直ぐに替えの物を持って飛んでくると思っているんだろうけど、それは大企業の論理でね。我々みたいな小規模零細の八百屋に求められても無理な話だよ。体の悪い夫婦で経営している八百屋がいちいちそんなことに対応してたらどんなことになると思う? クレームの九十パーセントは、こっちに落ち度のないものなんだよ。残りの十パーセントのために、私は全てのクレームに対応しなくちゃならない。寛容な時代はとっくに終わってしまった」
 店主の声はそれほど荒々しいものではなく、むしろ抑制されていた。言葉を捉えればその節々に感情の迸りもあったが、支離滅裂ということでもなかった。
 体が悪い、というのはこの店主にも当てはまることなのだろう、顔色は不自然なまでに黒ずんでいた。それにほとんど瞬きというものをせず、じっと私の目を見ながら、原稿を読むように滔々としゃべり続けた。それがまた一層、私に不快な印象を与えた。
「でも、いくら大企業が大型店を増やし続けても、商店街の八百屋はなくならない。なぜか。電車にも自動車にも乗れないお年寄りはたくさんいる。家族のいない一人身の老人もこれからどんどん増えていく。そういう人たちはどこで野菜を買えばいい? インターネットで買い物なんて馬鹿を言っちゃいけない。電話もろくに使えないのに。そういうお年寄りは、あんた方が思っているほど少なくないんだよ。だから、私は仕事を止めるわけにはいかない。私の店じゃなければ野菜を買えない人たちがいる限り。ずっとそう思って今日まで続けてきたんだ。けれども妻の症状がここ数日酷くてね。もう一緒に仕事できないかもしれない」
 心配に思った妻がスウェットの上下にボアのベストを羽織って、私の肩越しから「どうしたの」とこちらを覗いた。スリッパも履いていない足元が酷く寒々しかった。
 店主の視線が妻の姿態を捉えるや、今まで無表情に近かった顔の一部が一瞬緩んだのを私は見逃さなかった。
「寒いから戻ってていいよ、もう終わったから」
 あまりにも無防備な妻の格好を、こんな非常識な男に見せるのは途轍もなく嫌だった。
「ああ、あんた、覚えてるよ。嫌な思いさせたみたいだね」
「あ、いえ」
 答える必要なんてないよ、と口元まで出かかったが、次の店主の言葉に遮られた。
「子供さん、いくつなの?」
「今日で三歳になりました」と妻は正直に答えた。私は妻を突っついて目配せをしたが、妻にはその意味が全然分からないようだった。
「今日でってことは、今日、誕生日かね」
「ええ」
「そう」と言って店主は少し視線を下に向けた。何か考えているようにも見えるし、ただ単にくたびれているようにも見えた。もっとも顔が黒いので、いつも疲れたように見えるのかもしれないが。
「サラダが好きなんです。特にレタスが。でも、もういいです」
「ということだから、はい、ここまで。ねえ、もういいから帰ってよ」
「ちょっと、そんな言い方」
 妻は私と店主を見比べるように顔を振った。もうこれ以上、店主と口を聞きたくなかった。寒さも限界だった。これからまだ風呂にも入らなくてはいけないし、歯も磨かなくてはいけないし、そして床に就いたら、場合によっては妻を抱かなくてはいけなくなるかもしれなかった。第二子誕生の可能性に向けて。私は今一度、明日の起床時間の確認がしたかった。
「自分にも子供がいたけど、三歳になったばかりの時に病気で亡くしてね。仕事にかまけて病院に連れて行くのがあまりにも遅過ぎた。後悔してるよ今でも。子供の命に比べれば、店を一日、二日休むなんてどうってことはない。あの頃はそうは思えなかった。何せ、店を開けていれば物が売れる時代だったからね」
 店主はそう言いながら、何度も小さく頷いた。当時の記憶を呼び起こしているようだった。三歳で子供を亡くした、という話は気の毒かも知れなかったが、今ここでこの男の身の上話など聞いている暇などない。
 それから店主は妻の足元を見、少しずつ視線を上げて、最後に妻の胸元辺りで視線を止めた。少なくとも私からは胸元を見ているように見えたが、本当はその先にあるラッセンのジグソーパズルの額縁なのかもしれなかった。少なくともベストを着てきたのは正解だった。家の中では、妻はほとんどブラジャーはしなかった。
 視線が固定されてからは、突然スイッチが切れた人形のようにぴたりと店主は動かなくなった。口を真一文字に閉じ、眠たげに瞼を半分下ろしていた。たった数秒の間に、一気に老け込んでしまったかのように思えた。八百屋はなくならない、という彼の声が、私の頭の中で霊魂のように立ち上がり木霊していた。
「実は・・・もう、いいね。子供は大切にして。あんた方、まだ若いし、とても仲良さそうだから。夜分、失礼したね」
 ラップに包んだレタスの入った紙袋を上がり框に置いて、店主は最後の最後でやっと頭を深く下げながら、そっと扉を閉めた。
 私は覗き穴から彼の姿が完全に消えるまで見届けた。自動車のエンジン音は聞こえてこなかったので、徒歩か自転車だったのだろうが、どちらだったのかは確認できなかった。別に確認しなくてはいけないものでもなかった。予測のはずれた点があるとしたら一点、咥え煙草だ。店主の着ている物からも喋っている口の息からも、煙草の匂いは皆無だった。
 私は扉に二重にロックをかけた。胸周りの筋肉に寒さを凌ごうとする無駄な力が入っていた。家の中にいるのに寒さに身を強張らせているなんて、全くナンセンスな話だった。
「やっと帰ったよ」
 私はほっとして妻の顔を見た。店主と妻と息子の声とがまとまりなく脳裏に反響していた。残された時間を有効に使う理想的な次のアクションを考えてみたかったが、その反響のせいで意識を集中できなかった。
 妻は立ったまま、何か考え事をしているようだった。私には何となく彼女の考えていることが分かっていた。
「ねえ、あなた」と妻は言った。
「何?」と私は答えた。
「ううん、何でもない。お風呂、もう一度、沸かし直してくるね」
「何だよ、気になるよ」
「別に何でもないわよ。ただちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっと…気の毒だって思っただけ。あの人」
 正に予想通りだった。
「同情することなんてないよ。さっきまでの勢いはどこにいったの?」
「ねえ、想像してみてよ、三歳で子供を亡くすっていうことを。とても我が身のこととして考えたくない。そんなことあってはならない」
 妻は虚ろな表情で、床板の一点を見つめていた。確かにそれほど小さい子を病気で亡くす、というのは悲しいことだろう。 しかし、先程の態度や口調を思い返すと、男の身に実際に起こった出来事としてうまく繋がらなかった。言葉だけが、屑箱に放り損ねた鼻紙のように転がっているだけだった。妻はともかく、少なくとも自分にはそう思えた。
「風呂の準備してくる」と私は妻に言った。
「あ、うん」
 ようやく、妻は視線を上げた。唇にあの忌まわしい口内炎ができていることに私は気が付いた。体調が悪い時や不規則な生活が続いた時に、唇の端っこから始まって次第に大きくなっていく、あの例のやつだ。一度大きくなると、薬を塗っていてもなかなか小さくならないし、何しろ物を口に入れる度に当たるので、食事が美味しくなくなるらしい。口内炎は、妻を苛立たせる要因の筆頭株だった。
「何よ、今頃…もう三日前からよ」
「そうだったんだ」
「私に興味ない証拠ね」
「またそういう言い方する。そんなことないって」
「追い炊きするから、少し待ってて」
「うん」
 妻は店主の置き土産である紙袋の中身を確認してから、奥に消えていった。スウェットパンツのお尻の部分がやけに下に垂れていた。特に伸びているのはウエストのゴムだ。もう何年も、ずっとパジャマとして着ているものだった。次の誕生日プレゼントはパジャマにしよう、と私は心に決めた。しかし、その時になったらまた違うことを考えるんだろうな、と思いながら。

   *

 夫婦二人の遺体が発見されたのは、その五日後のことだった。定休日以外連続して休んだことのない八百屋のシャッターが、何の張り紙もなく突然閉鎖されたことを不審に思った常連客の通報で発覚した。店頭の野菜は綺麗に段ボールに収納され、ざるや籠だけが整然と並んでいた。その奥の居間のこたつの中で、二人は手を取り合い寄り添うように横たわっていた。
 妻は絞殺、夫は農薬の大量摂取による無理心中ということだった。この心中は、寂れた商店街の悲劇としてNHKやその他民放のニュースでも取り上げられた。これまであまり一般的に知られていなかった静かな街の名前がこんな形で有名になるとはと多くの住人は動揺した。しかも我々夫婦は、その店主と亡くなる直前に話をしているのだ。
 妻の様子が何となくおかしくなったのは、その日からだった。妻の元へは、友人からのメールや立ち話を通じて二人に関する様々な情報が寄せられた。それは聞こうとする意志がなくても、道端で遊んでいる子供の笑い声くらい自然に流れてくる話だった。
 後継者が誰もいなかったこと。大型店の出店以来売り上げが激減していたこと。親類への連帯保証があり大きな借金を背負っていたこと。妻のアルツハイマーが進行し酷く悩んでいたこと。店主も最近癌の告知を受けていたこと。実は朝鮮人だったこと、など。
 八百屋夫婦に関する話を聞くたびに、妻の心は痛んだ。八百屋に電話しろと私に言ったことを、妻は激しく後悔した。自分があんなことを言い出さなければ心中などせずに済んだのではないか、と。
 しかし妻とは裏腹に、私の心は静謐だった。それは、どこか遠い場所で起きた出来事のように思えた。妻や街が動揺すればするほど、私の感情は生気と勢いを失いながら、より暗くより深い場所へと潜行していった。 あの日、初めて店主の顔を見た時に感じた、絶望の顔色。不幸の匂い。それは「死相」であって、すでに最期の時期を見定めていたのだ、と。我々が心中の引き金になったとは、思いたくなかったのかもしれない。

 我々の夫婦生活は、それまで至極順調だった。人よりも感情の起伏が大きい妻ではあるが、それでも致命的な事件もトラブルもなく、子供も順調に育っており、私たちの家庭は上手く回っていると思っていた。
「少しは食べないと体に良くないよ」
「面倒臭がらずに、私がジャスコまで戻れば良かったのよ。ううん、サラダなんて別になくたって」
 妻は 一度上げた箸を再び下ろしながら言った。何度も同じ動作をしている気がした。
「もういい加減よそうよ。そんなこと今更言っても仕方ないよ。無農薬だって、今はこまめに手入れをすれば虫はつかない。奴の商売のやり方は今の時代に合っていなかった、それだけの話だよ」
「奴だなんて…亡くなった人に対してそんな言い方、酷いわ」
 妻は箸を置き、両手で顔を覆った。泣いているわけではないようだが、いきなり泣き始めてもおかしくないくらい、妻の声は震えていた。
「ごめん」と私は言った。
「どうしていいのか分からない」
 どうすることもできないよ、と私は言いかけたが、またそれに対して「非情だ」「いい加減だ」と反論されそうだったので困ったような顔をするだけにした。たかが百円かそこらのレタス一個のせいで、我々の生活が、夫婦の関係がおかしくなるなんて馬鹿馬鹿しいことだったが、話は、その日のベッドの中でも続いた。
「あなたはいつか死ぬ。あの子ももしかしたら、私たちより先に逝ってしまうかもしれない。そんなこと絶対に考えたくない。でももしかしたらそんな日が来るかもしれないと思うと、とても寂しいし、とても辛い。あなたはそう思わない?」
 妻は私に背を向けていた。布団を首まで持ち上げて。私は蓄積した疲労とアルコールによる容赦のない睡魔と闘っていた。その後妻の言ったいくつかの言葉を頭の中で反芻しようと試みたが、言葉としての存在理由を放棄するように、それはただ記号としてのみそこに存在していた。意識が途切れていたと思う間、時の感覚も呼応するように切断されていた。
「今、寝てたでしょう」
 いつの間にか私の方を向いている妻は、私の目をしっかりと見てそう言った。
「寝てないよ」と私は反射的に嘘をついた。
「じゃあ、私が今何て言ったか答えて」
「幸福であることが不満」
「不満だなんて言ってない。怖いって言っただけよ。あなた、何も聞いてない。こんなに近くで人が話をしているのに眠ってしまうような人なのよ」
「ごめん」と私は素直に詫びた。
「あなたの気持ちが私たちから離れていってしまっているのが分かる。昔はもっと優しかったし、気遣いがあった。でも今は私が話しかけなければ会話はないし、子供のことも何も聞いてこないし、夜は直ぐに眠ってしまうし。もう興味なくなってしまったのね、私たちのことなんて」
「そんなことないって。少し疲れてるんだ、本当にごめん」
「子供産まれてから、あなた変わった。私には分かるのよ」
「気にしすぎだよ。ねえ、今までの生活に戻そうよ。おかしいよ、最近」
「そんなに私、必要ない?」
「必要ないだなんて思ったことないよ? 自分で自分を卑下するのはもうお終い」
 一度小さく深呼吸をしてから、妻は静かに目を閉じて言った。「私のこと、本当に愛してる?」
「当然だよ」
「本当にそう言い切れる?」
「もちろん、言い切れるよ」
「その愛が本物かどうか試してもいい?」
「試すって?」
「いいの、お休みなさい」
 掛け布団の稜線が小刻みに揺れているのが分かった。きっと妻は声を殺して泣いていた。しかしすぐに規則的な呼吸に変わっていった。私は目を閉じて明日の朝食について考えた。きっと妻は明日起きられない。米を炊くべきか、食パンで済まそうか。
 そんな瑣末なことを、今この泣いて眠った妻の傍らで悩んでいる自分が、とても冷徹な男のようにも思えた。もちろん、妻の言っていることも全く自覚していないわけではない。会話が減り、気遣いが少なくなった、というのは確かに事実だと思う。
 しかしそれは金属疲労のように、長く結婚生活を送っている夫婦であれば皆当たり前のことだ。結婚し子供もできれば、家庭的にも社会的にも、新たな義務と負荷が増えていくのだから、必然的に振り向けられる愛情の度合いが少なくなっていくのはある程度止むを得ないのではないか。
 床に就いてからの考察には際限がなかった。先程までの睡魔はまるで嘘のようにどこかに飛んでいた。
 私は頭の中を一度真っ白にすることを試みた。次の日は午前中に三件のアポが入っているはずだった。二件は思い浮かんだが、最後の一件がどうしても思い出せなかった。和室の洋服ダンスが時折、かちん、かちん、と軋んだ。頭の中を真っ白にするということは中々難しいことだった。

 朝方、息子のむずかる声で目が覚めた。知らぬ間に眠ってしまっていたようだ。時計をみると、予定の時刻より少し早いくらいだったのでほっとした。しかし、私と息子の間にいるはずの妻の姿がなかった。こんもりした布団の中は脱皮した蛇の抜け殻のように空洞だった。
 家中を見渡したものの、妻の姿はどこにもなかった。激しい胸騒ぎがした。鼻をしっかりかませてあげたら、息子は再び眠りについた。
 昨晩は中途半端な状態で終わった。おおよそ火種を翌日に持ち越すといいことはなかった。その日に解決してしまうのが、我々の中での暗黙のルールだった。私は潔癖な妻の性格をよく分かっていた。
 玄関を見ると、常時出しっぱなしにしてあるはずのサンダル替わりのミュールがなかった。この寒さの中、まさか外出したというのだろうか。
 気を落ち着かせるために小便をしたが、むしろ小便をしている間に余計に気が急いた。外の状況を想像しただけでも鳥肌が立った。霜が降り、家の屋根も車のガラスも真っ白に粉が吹いているはずだ。
 こんな時間に妻の行きそうな場所と言われても、私の頭の中には何一つ浮かんでこなかった。ひとまず靴下を履き、ベンチコートとマフラーを着込み、もう一度布団で眠っている息子の様子だけ確認してから、家の鍵をそっと閉めた。

 厳冬の二月とはいえ、外は予想を上回る寒さだった。外気に触れた瞬間から、顔全体にダーツを浴びせられたような痛みが走った。生垣や植え込みは雪が積もったように白く、植物の種類を判別することすら危うかった。アプローチの表面も細かい氷の粒で覆われていて、何度も足をとられそうになった。
 カーポートにあるワンボックスのボンネットが見えた。自動車を使っていない、ということが逆に私の不安を増殖させた。嫌な妄想が頭をよぎった。 ミュールが脱げ、路上で行き倒れるようにうずくまる妻の姿。あるいはたちの悪い複数の若者に取り囲まれ、着ているものを全て剥ぎ取られ、最後には首に手を掛けられて、川べりに全裸で放り出される、我が最愛の妻。
 門扉とカーポートの間に、何か大きな塊のようなものが見えた。それは最初ゴミ袋のように見えたが、よく見ると、体を丸めてうずくまる妻の姿だった。膝を抱え、傍に近づこうとする私の顔を強張った白い表情で見上げた。
「徘徊するってこういうことなのよ」と妻はゆっくり確かめるように言った。
「こうして、いきなり真夜中に外に出て行ってしまうの。あなたはとても深く眠っていた。眠ってしまった後のことなんて分からない。私が深夜テレビを見て、台所で野菜を切ってからここでこうしてあなたが気付くかを待っていたことなんて」
 この時ばかりは、自分の寝の深さというものを恨めしく思った。耳の奥で、きん、という耳鳴りが何度かした。
「ごめん、全く分からなかった」
 口元が固まり、うまく言葉が出てこなかった。妻にちゃんと届いているのかも不明だった。
「眠るのは当然よ。人間だもの」
 妻は立ち上がって、首に巻いたマフラーを一度しっかり締め直した。それから長い髪をかき上げ、でもね、と言葉を付け足した。
「眠っていてさえ相手のことを思いやることが、本物の愛」
 私はどう返事をしていいのか分からなかった。そんな無茶なこと、とも思えたし、ある特殊な関係においては、それもまたありえるのかもしれないとも思えた。
「私が認知症になって毎晩徘徊するようになったら、こんな状態がずっと続いていくのよ。年をとって体が動かなくなるまでね。耐えられる? ベッドに括りつけておけばいい、と考えるかもしれない。でも愛する人をベッドに括りつけておく、ということを真剣に考えてみて」
 私は何も言えなかった。妻の言葉を黙って聞いていることしかできなかった。
「あの事があって、将来について考えていたら、とても心配になったの。私が病気になっても、あなたはちゃんと面倒を見てくれるのだろうかって。面倒臭くなって捨てられちゃうんじゃないかって。最近のあなたを見ていたら、とても不安で不安で眠れなかったのよ、毎日」
 どう返答していいのか私は考えていた。何を言っても正確には伝わらない気がしたが、何かを言わなければ更に誤解を生む気がした。たとえとってつけたような綺麗事であっても。
「結婚した以上、恵子とは一生一緒にいるって決めたんだ。認知症だろうが、寝たきりだろうが、お互いの面倒を見るなんて夫婦なら当然のことだよ」
「その言葉、本当に本当に信じていい?」
「うん、信じて」
 妻はしばらく私の目を見て黙っていた。私も妻の目を見つめていた。逸らしてはいけない、と私は思った。妻の頬が少し緩むのを確認してから、私も肩の力を抜いた。どうにか気持ちは伝わったようだった。そう信じたかった。
 もちろん本当に妻が毎晩徘徊したり、寝たきりになって下の世話をするようになった時のことなんて、到底想像できることではなかった。実際にそうした日々が死ぬまで続くなどということは、私の想像力を遥かに超えていた。だからといって、妻に「その時になってみないと分からない」とは言えなかった。現段階では、そう答えることで精一杯だった。
 そして、私はふとあの八百屋のことを考えた。どす黒い店主の顔。嗄れ声。ビニール袋に詰められたレタスの葉。二匹の青虫。こたつの中で手を繋ぎ合って死んでいった、夫婦の無念。彼らの人生はどれだけ幸せだったのだろう。そしてどれだけ苦しかったのだろう。
「世話のやける女だよね。ごめんね」と妻は言った。
「謝ることなんてない。自分も反省するところあるから」
「愛してる?」と妻は真顔で聞いた。
「愛してるよ」と私も真剣に答えた。
「あなたの口からその言葉を聞くの、本当に久しぶりな気がする」
 妻は嬉しそうに、私の手を握った。妻の細くて短い指はアイスキャンディーのように冷たかった。
「サラダ食べない? 早く食べないと傷んじゃうの」

 家に戻って暖房をつけても、体はまだ震えていた。妻は冷蔵庫からボウルを出してきて取り皿にレタスを取り分け、ドレッシングを振った。こんな早朝にサラダを食べる夫婦なんて少し変っているかもしれないが、それは我々がこの先ずっと平和で幸せに暮らしていくための通過儀礼のように思えた。
「結局、無農薬のレタスは一回も味を見ないまま、終わっちゃったね」と妻は盛られたレタスを前に、軽く手を合わせた。私も妻に合わせて同じ動きをした。今は亡き店主の最後の仕事。レタスの葉の淵はまるで巨大なチコリの葉のように小気味よく割れていた。
 ぱりぱりと音を立てながら、妻はレタスを頬張った。
「美味しい」
 久しぶりに妻のにこやかな顔を見て、私は心底ほっとした。一つの壁を越えたのだ。
 私もレタスを口に運んだ。みずみずしくて驚くほど甘みがあった。あの夜から一週間近くが経過しているのに、部屋の寒さも指先の冷たさも忘れてしまうくらい、美味いレタスだった。
「こんな真冬の時期に、これほど青々としたレタスが収穫できるなんて不思議。農薬を使ったり、ハウス栽培だからだろうけど」
 フォークに刺したレタスの一片をしげしげと見つめながら、妻は言った。私は底の方に沈んだレタスをかき混ぜながら、適当なものを二つ三つ選り分け、付着したドレッシングを落としたり、粉チーズをからめたり、裏返しにしたりした。
 それから私も妻と同じように、レタスをフォークに刺して目の前にかざしてみた。色といい、艶といい、実に見事なレタスだった。
 しかし、私は妻には言わなかったが、一つだけ確信を得たことがあった。それは想像を巡らせば巡らすほど、かなりの確度とリアリティを持って私に迫った。このレタスも、あの店主の手によって、無農薬栽培で作られたのだ、ということを。 
 いよいよ口に運ぼうとしたその一片のレタスに、フォークの襲撃を奇跡的に避けた一匹の大きな青虫が、シーザーズドレッシングの白い液の中で、息を潜めて眠っていたのだ。(了)

 


コメント1件

 Caco | 2015.06.09 23:00

自分の感覚、自分の物差し。。 誰からも強制されたくないし、してもいけない。思い込みは怖いね。。 ちょっとしたことで見えてなかったものが見えてくるん。。 気付いてよかった。と思えることは幸せ。 ただ、自分の正しさに気を付けくちゃ。正しさで人を傷つけることも、裁くこともできないん。。 色々と考えてしまいましたん。。
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